●先日フォークナーの「響きと怒り」について書いたが、そこで思い出したのがイ・チャンドン監督の映画「バーニング 劇場版」。近年見た映画では出色の出来だと思ったが、映画のなかでたびたびフォークナーが言及されるのが気になっていた。主人公はフォークナーを読んでいる。これについてもっともシンプルな説明は以下のようなものだ。映画「バーニング 劇場版」の原作は村上春樹の短篇「納屋を焼く」。そしてフォークナーにも「納屋を焼く」という短篇がある(Barn Burningというダジャレみたいな原題)。村上春樹短篇とフォークナー短篇の関係性は脇に置くとして、イ・チャンドンはそこになんらかの意味を読みとって、映画のなかでフォークナーに焦点を当てた。
●実際、主人公ジョンスの境遇はフォークナー作品で描かれるアメリカ南部と一脈通じるところがある。ジョンスは北朝鮮との境界線近くの寂れた土地で牛の世話をして暮らしており、母親は家出をし、父親は暴力沙汰で裁判にかけられている。この主人公と奇妙な三角関係になるのが謎めいた青年ベン。ベンはソウルの高級住宅地に住み、なにも仕事をせずに派手に遊んで暮らしている。ベンの趣味はときどきビニールハウスを焼くこと(納屋ではなくビニールハウスという設定になっている)。ベンはジョンスのすぐ近くでビニールハウスを焼くと宣言する。ジョンスは近所を探すが、どこにも燃えたビニールハウスは見当たらない。一方、同郷の幼なじみだった恋人は忽然と姿を消し、その行方は杳として知れない。
●で、ここから映画の結末部分について少しだけ触れてしまうが(ネタバレというほどではないが、最初の新鮮な驚きを大切にしたい人はここまで)、フォークナー「響きと怒り」とは叙述のスタイルという点で共通点がある。「響きと怒り」では第1章も第2章も語り手にやや特殊な人物を設定して、どこまで記述が信用できるのか疑問を抱かせる構成になっていた。映画「バーニング 劇場版」でも最後の場面で「あれ?」と観る人に思わせる仕掛けがある。そこに至るまでも微妙に現実認識が人によってずれていたりして、落ち着かない気分にさせる物語なのだが、最後の場面でこれは現実に起きたことなのか、それとも虚構なのかと戸惑うことになる。自分にとってごく自然に思われる解釈は、終盤で主人公がせっせと小説を書きだすところまでが現実、その先の描写は主人公が書いた小説内の出来事という解釈。でもまあ、全部が現実だという解釈だって成立する。「響きと怒り」にあった暗く抑圧的な土地の雰囲気と叙述スタイルのパズル的な巧緻さが作り出すコントラストが、この映画にもあったのだと気づく。
August 30, 2021