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October 7, 2021

新国立劇場 ロッシーニ「チェネレントラ」新制作

●6日は新国立劇場でロッシーニの「チェネレントラ」新制作。新シーズン開幕を飾る華やかなプロダクション。歌手陣は脇園彩(アンジェリーナ)、ルネ・バルベラ(ドン・ラミーロ)、上江隼人(ダンディーニ)、アレッサンドロ・コルベッリ(ドン・マニフィコ)、ガブリエーレ・サゴーナ(アリドーロ)、高橋薫子(クロリンダ)、齊藤純子(ティーズベ)。城谷正博指揮東京フィル、粟國淳演出、美術・衣裳はアレッサンドロ・チャンマルーギ。
●「チェネレントラ」は傑出したアンジェリーナ役が前提のオペラだと実感する。他の歌手がどんなにそろっていても、アンジェリーナに魅力が乏しかったらまったく成立しない。その点で、脇園彩のアンジェリーナは理想の配役。空想的な役柄でしかないアンジェリーナに人間としてのリアリティを歌で吹き込める稀有な存在。女中にもシンデレラにもなれる。歌手陣は充実していて、随所に置かれた重唱も小気味よい。賛否あると思うけど、ドン・ラミーロのアリアにアンコールあり。
●で、演出。ワタシはよく理解できなかったのでまちがえているかもしれないが、舞台は古き良き時代の映画撮影所に置き換えられている。序曲の間に芝居があって、登場人物たちは映画人であると伝えられる。アンジェリーナは映画スター志望の女の子、アリドーロが映画監督、ドン・ラミーロはプロデューサーの息子、ということらしい。ワタシはここで「なるほど、現実の花嫁を募集するのではなく、シンデレラ役のオーディションをするという読み替えなのか!」と早合点してしまい、外側に映画を撮るという現実があり、内側にシンデレラの物語という劇中劇があるというメタフィクション的な仕掛けを期待した。ときどきカメラクルーが登場して撮影しているので、舞台上にカメラクルーがいるときは映画内の出来事、いないときは現実の出来事みたいな「文法」があるのではと思ったが、これは誤解だったみたい。字幕でも映画撮影だという前提で言葉が変更されているのだが、どう辻褄が合わされているのか見えないまま最後まで来てしまった。わかった人に教えてほしいんだけど、結局この演出ではアンジェリーナは結婚するの? それともただ結婚するシーンを撮影しただけなの? 衣装と舞台はゴージャス。アンジェリーナはまさにさなぎから蝶への変身ぶり。オーケストラは軽快というよりは、筆圧強めで重めのタッチ。
●で、この演出はうまく消化できなかったのになんだが、「チェネレントラ」という作品そのものが大胆な演出を必要としていることは共感できる。というのも台本が弱すぎるから。ロッシーニの音楽の才気が10だとすると、台本の力強さは1しかなくて、つりあっていない。だってこんなおかしな話があるだろうか。数ある「灰かぶり姫」のストーリーとしても毒が抜けて、女のび太の都合のよい白昼夢みたいな話になっている。単に血筋だけで富と権力を得た王子が、富に惑わされない心の清らかな女性を妻にするなどというファンタジーの卑屈さを受け入れるのは難しい。あーあ、領主をおちょくっていた「フィガロの結婚」の時代からどれだけ後退したことか。
●「チェネレントラ」の結末でイラッとするのはアンジェリーナの説教臭さだ。王子と結婚してもわたしはこれまでの家族に対して寛大ですと宣言する。でも本当の物語はその先にあると思う。人間はそんなものではない。実際に権力と富を手にしたとたん、アンジェリーナは豹変するにちがいない。恨みつらみがよみがえってきて、やっぱり継父や義姉たちは許せないとなる。王子もそう思う。だから3人まとめて打ち首にしてしまえ。そして継父と義姉の首がテヴェレ川の河原に晒される。これを見た民衆は怒り狂う。暴君を倒せ! 王子とアンジェリーナは焼き討ちに会い、王家は滅ぶ……という民主化ストーリーを想像したが、それはもはや「灰かぶり姫」でもなんでもない。