●さて、イェンス=ダニエル・ヘルツォーク演出による新国立劇場のワーグナー「ニュルンベルクのマイスタージンガー」だが、あと一公演を残すところとなったので、そろそろ結末部分について書いておこう。これから楽日をご覧になる方はここまで。
●といっても、大した話ではないのだ。いや、でもこのオペラの根幹にかかわることだから、大事な話なのかな……。まず「ニュルンベルクのマイスタージンガー」というオペラは、伝統的な演出のままでも現代人が鑑賞可能な物語として成立しうるのか、という問題がある。音楽は神の領域だが、ストーリーには難がある。なにせ歌合戦の賞品が花嫁(と財産)なんである。女に生まれたばかりに、エーファは賞品として男たちの前に差し出される。ポーグナーのような成功者のもとに生まれてすら、このような扱いを受けるとは。なんという屈辱。そこで、「これは歴史劇なのだから、しょうがない」とする受け止め方がある。大河ドラマを観て女性の人権についてブツクサ言ってどうする、みたいな感じだ。だが、ヘルツォーク演出は舞台を現代に置き換えているので、今回はそのような見方はできない。だから、どうするんだろうな……と思って観ていた(ゲネプロだったけど。でも本番もきっと同じだったはず)。一応、伏線はいくつか張ってあって、たとえば飾ってあったマイスターたちの肖像がみんな鼻の穴バッチリの下からのアングルで、やたらと傲慢そうなのだ。これはなにかの狙いがあるんだろうとは感じた。
●それでも意外と普通のままに話は進んで、事が起きるのは本当に最後の最後。エーファは肖像を破り捨てて、ヴァルターの手を取って親方たちのもとを去る。ただそれだけなんだけど、話の筋としてはこれ以外にないという結末ではある。だって、この街(演出上は「劇場」)は本当に終わっている。女は所有物として扱われるし、親方たちは全員男ばかり、しかもそのなかでいちばん理性的に見えるオッサンが最後に自国の文化はいいけど外国文化はろくでもないとか説教していて、どう考えてもここには未来がない。エーファでなくても、女ならこの街からどうやって脱出するかを考えるだろう。あるいはこうも思った。この結末がポーグナーの真の狙いだったのかな、と。娘をこの蟻地獄みたいな場所から救い出してやるために、よそ者であるヴァルターに賭けたのかもしれない。演出としての新規性はともかく、エーファにとって希望の持てる結末はこれしかないと思う。
●だから筋だけ追えば納得のエンディングなのだが、そこで厄介なのは音楽との乖離。どう考えたって、ワーグナーの音楽はニュルンベルクを讃えているし、ザックスは立派な人物だし、最後はみんながハッピーエンドを迎えたとしか聞こえない。これと同じようなことはままあって、近年の新国立劇場の演目で言えば、カタリーナ・ワーグナー演出の「フィデリオ」バッドエンド版でも、アレックス・オリエ演出の「トゥーランドット」バッドエンド版でも、最後で話が音楽と噛み合わなくなる。「フィデリオ」でベートーヴェンの音楽は「正義が勝つ」って言ってるのに、演出では「悪が勝つ」。それっておかしくね?ってことなんだけど。
●でももしかしたら、それは音楽の聴き方を固定しているから齟齬が生じているだけなのかもしれない。「ハッピーエンドの音楽」だと思い込んで聴いているけど、これを「ハッピーエンドのパロディの音楽」として聴くべきなのでは?という問いはありうる。でも、これだけ偉大な音楽をそこまでシニカルに聴けるかな。
November 30, 2021