●「ラドゥ・ルプーは語らない。──沈黙のピアニストをたどる20の素描」(板垣千佳子編/アルテスパブリッシング)を読んだ。決してインタビューを引き受けないピアニスト、ルプーの本がまさか刊行されるとは! 書名にある通りルプー自身はなにも語らないのだが、その代わり、ルプーの近くにいた大勢の音楽家や関係者がルプーについて語っているのがこの一冊。シフやマイスキー、バレンボイム、ウェルザー=メスト、イッサーリスなど、20人のインタビューまたは寄稿が収録されている。もちろん、おもしろい。他人が語るっていう形式が成功している。いろんな人がそれぞれに持っているルプー伝説を披露する持ち寄りパーティーみたいなところがあって、意外と小さなエピソードにぐっと来たりする。
●早々とレコーディング活動を止めてしまった人ではあるけど、自分はやっぱりレコーディング関係の逸話がどれも興味深かった。ルプーはレコーディング嫌いなんだけど、やるとなったら完璧を目指す。チョン・キョンファによると、レコーディングができたのはデッカの名プロデューサー、クリストファー・レイバーンのおかげ。彼のもとで、同じデッカのアーティストであるチョン・キョンファとルプーは一緒にレコーディングをすることになった。で、フランクとドビュッシーを録音したわけだけど、ふたりとも出来ばえに納得できず、リリースを拒否してしまう。まあ、それだけでもびっくりなんだけど、3年経ってから、あるときレイバーンがふたりをスタジオに呼び出して、黙ってこの録音を聴かせる。で、ふたりにどう思うかを尋ねたら、悪くないねということになって、お蔵入りを免れたそう。もうひとつ見逃せないのは、デッカのディディエ・ド・コッティニーの話で、ルプーを説得していくつかのレコーディングを実現したんだけど、シューベルトのソナタ2曲(第17番D850と中期のどれか)だけは本人が気に入らなくて世に出なかった。で、ルプーはデッカにレコーディング・セッションの経費をぜんぶ払って権利を買い取ったって言うんすよ! いやー、すごい話だ。そして、今とは違ってレコード産業が絶大な力を持っていた時代ならではのエピソードだとも感じる。
●あと、なにがスゴいって、この本は翻訳書じゃないんすよ。編者の板垣千佳子さんが20人の証言を集めた日本オリジナル。英語圏の人が読めなくて、日本語圏の人が読めるルプー本がある! 板垣さんはかつてKAJIMOTOで長年にわたりルプーの担当マネージャーを務めた方。ルプーに心酔し、もちろんルプー本人の許諾をとってこの本の出版にこぎつけた。これはよほどの熱意がないとできないこと。