●バーンスタインの「キャンディード」を初めて観たとき、正直なところ、これはわかりづらい話だなと思った記憶がある。「ウエスト・サイド・ストーリー」とは別世界。風刺であることはわかるんだけど、なにを(というか、どこまでを)風刺しているのかがよくわからなかった。最後にやってくる「僕らの畑を耕そう」はマジなの?それともここもギャグ?みたいな戸惑い。原作であるヴォルテールの「カンディード」を読めばすっきりするんだけど、先に舞台を観ると、風刺対象となっているパングロスの度を越した最善説(オプティミズム)がピンと来ない。そんな説、今の世の中でなんの力も持っていないので。
●パングロスは「この世はすべて最善となるように整えられている」と主張する。一見どんな悲惨に思えるようなことが起きていても、神が創造したこの世界においてはそこに必然的な理由があるのであって、最終的には最善に落ち着くようになっているというのだ。この物語では登場人物たちが戦乱に巻き込まれたり、大地震に遭ったり、火あぶりにされたり、首をくくられたり、凌辱されたり、次々と悲惨な目にあうのに、それでもパングロスは最善説を唱え続ける。
●ヴォルテールの「カンディード」(斉藤悦則著/光文社古典新訳文庫)を読むと、話の順序や細かいところの出来事は微妙にバーンスタインの「キャンディード」とは違っている。でも大筋は同じで、死んだはずの登場人物がろくな説明もなく生き返ったりする。カンディードはヒロインのクネゴンデと再会するために世界中を旅をして、最後にとうとう巡り合うんだけど、美しかったはずのクネゴンデはすっかり醜くなっている。クネゴンデに結婚しろと迫られて「心の底では、クネゴンデと結婚したいなどとは少しも思っていなかった」のに、しょうがなくプロポーズする。クネゴンデは「日ごとにますます醜くなり、いつもガミガミうるさく、耐えがたいほどなった」。そのうえで、カンディードは「自分の畑を耕そう」と言って物語を終えるわけだ。
●第25章で出てくるヴェネツィアの貴族、ポコクランテとカンディードたちとの対話シーンが抱腹絶倒。このへそ曲がりな金持ちはどんなすばらしいものに対しても批判せずにはいられない。カンディードが屋敷の使用人の若い美女たちをほめたたえると、「ええ、まあまあの娘たちです。ときどきベッドに入れて夜の相手をさせます。でもこのごろはひどく退屈な存在になりかけてますけどね」と答える。飾られているラファエロの絵をほめると、「ずいぶん高い値段でしたが見栄で買いました。イタリアでいちばんと評判ですが、まったくつまらない。色は暗すぎるし、人物は立体感にかけ、迫力もない」と批評する。ホメロスの豪華本をほめると「死ぬほど退屈な本」とけなし、ミルトンの本について尋ねると「古代ギリシャ人の下手くそな模倣者」と切り捨てる。神学の本の蔵書に感心すれば「こんな分厚い本、開けてみたこともない。だれだってそうでしょう」と答え、庭を美しいと賞賛すれば「これほど悪趣味なものはない」と言う。なんとも腹立たしい野郎なのだ。が、音楽について述べた場面にはドキッとする。カンディードが食事前に奏でられた合奏協奏曲をすてきだというと、こんな返事が返ってくるのだ。
「聴いているひとは、口にこそ出しませんが、みんながうんざりしてしまいます。このごろの音楽は、難しい演奏の技術を披露してみせるものにすぎません。しかし、難しいだけのものはけっして長くは楽しめないものです。また、オペラもつまらない。いまでは、私の胸をムカムカさせるような奇怪なものにわざわざ変えられている。そんな改造がなされなかったならば、私は現代の音楽よりもオペラのほうがまだしも好きになれたでしょう。ただ女優ののどを聞かせるために、どの場面にも筋に関係なくナンセンスな歌が二つ三つ挿入される。(中略)私は、そんなくだらないものとは、ずっと以前に縁を切った。ところが、そんなくだらないものが今日ではイタリアの栄誉とされていますし、そんなものに各国の君主たちは大金を払っているのです」