July 7, 2022

新国立劇場 ドビュッシー「ペレアスとメリザンド」(新制作)

新国立劇場「ペレアスとメリザンド」
●6日は新国立劇場でドビュッシー「ペレアスとメリザンド」(新制作)。ケイティ・ミッチェル演出で2016年エクサンプロヴァンス音楽祭で初演されたプロダクション。このオペラ、演奏会形式とかセミステージ形式ではなんどか接する機会があったが、こうして完全な形で劇場で上演されるのを観たのはたぶん初めて。そしてそれがいきなり大胆な演出だったわけだが、これが驚きのおもしろさ、手際のよさ。大野和士指揮東京フィル、カレン・ヴルシュのメリザンド、ベルナール・リヒターのペレアス、ロラン・ナウリのゴロー、妻屋秀和のアルケル、浜田理恵のジュヌヴィエーヴ他。休憩30分をはさんで二部構成。
●冒頭の場面、本来であれば森のなかで道に迷ったゴローが、ひとり泣いているメリザンドを見つけるところから始まるわけだが、この演出ではホテルの一室が舞台。花嫁衣裳らしきものを着たメリザンドが登場して、ベッドに入る。どこかから逃げてきたのだろうか。森もなければ泉もない。そこにゴローがあらわれて物語が始まる。そこからはメリザンドの夢の世界なのだ。メリザンドは多くの場面でふたりいる(歌手と役者)。あたかも幽体離脱したがごとく、メリザンドは自分自身の姿を眺めている。ときにはどちらが実体なのかもわからなくなる。そして、しばしば夢がそうであるように、その場面にいるはずのない人物がいたり、時系列が混乱していたりする。そこにあるのは城ではなくゴローら一家が住む邸宅であり、ペレアスとメリザンドが逢引をする泉はプールだ。
●で、「夢だった」演出というと嫌な予感がする人が多そうだけど、これは決して安易な設定ではないと思う。なぜ夢にしているかといえば、それは演出家がこのオペラをメリザンドの物語として再構築しているから。謎めいた美女が男を破滅に導くというストーリーは古くから「水の精」ものとして定型があると思うが(人魚姫も「ルサルカ」も)、そこで女性の視点が描かれることは稀。しかし女の視点を描こうにも、男から見た謎めいた美女でしかない者にどうやって実体を与えるか。その解決策が夢。「この物語を夢見る私」という形にすることで、「メリザンドの一人称視点」が強制的に生成される。これは秀逸。そしてリアリズムの制約から逃れることで、一段とモダンかつ幻想的な語り口が出現する。いないはずの人がいたり、時系列の混乱などは、ラテンアメリカ文学的なマジックリアリズムのようでもあるし、現代的なファンタジーの作法とも受け取れる。
●では、そうやって獲得したメリザンド視点から何が浮き彫りになっているかといえば、ずばり、「メリザンドの嫁入り」。この話って、嫁いだ先の一家が描かれているんすよ! 他人の家庭に嫁いでみればそこは空も見えない鬱蒼とした息苦しい場所で、一家の男たちはみなヤバい奴らばかりでキモさ大爆発。あらゆる人間関係が不穏。しかもまちがった相手を結婚相手に選んでしまったことに早々と気づく。この一家は目の前で起きていることもろくに見ようとせず、現実認識の違いに絶望するばかりのメリザンド。でもこれって、大なり小なりどこの家でもそんなものだよなー、現代でも。はなはだ尖鋭で刺激的なホームドラマとしての「ペレアスとメリザンド」。
●歌手陣は非常に高水準で、特にゴロー役ロラン・ナウリが印象的。苦悩をにじませた深い声がすばらしい。イニョルド役に変更があり、急遽カバーの前川依子が代役を務めたが、なんの不足も感じさせない見事な歌唱。オーケストラは明快で透明感のあるサウンド。それにしても、これだけ演出とドラマが雄弁であっても、ドビュッシーの音楽は決して後景に退くことはないわけで、やっぱりドビュッシーって天才だなと思った。えっ、そりゃそうだって?

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