●先日話題にした「本当の翻訳の話をしよう 増補版」(村上春樹、柴田元幸著/新潮文庫)の影響で読んだ本が、ひとつはジョン・チーヴァー「巨大なラジオ / 泳ぐ人」、もうひとつが「アリバイ・アイク ラードナー傑作選」(リング・ラードナー著/加島祥造訳/新潮文庫)。これは品切のうえに電子書籍もなく、入手困難なので図書館から借りた。文学作品というような堅苦しいものではなく、気の利いた小噺みたいな短篇が並んでいて、大半は可笑しく、一部は暗いトーンを持ち、心をざわつかせる。野球を題材とした話が多めで、古き良き時代のアメリカ野球みたいなムードを醸し出している。語り口のおもしろさが抜群で、一篇を選ぶなら表題作の「アリバイ・アイク」かな。なにを話すにも言いわけを添えないと気が済まない野球選手の話。やはり野球物で「相部屋の男」もパンチが効いてるんだけど、少しダークサイドに傾きすぎているか。
●で、あとがきに村上春樹と柴田元幸の対談が載っていて(同じものが「本当の翻訳の話をしよう 増補版」にも収録されていたと思う)、特におもしろいなと思ったのが以下のくだり。ラードナーとカーヴァーのタイトルのつけ方が似ているという話から、カーヴァーは少年時代に読んだスポーツ雑誌からある種の文体みたいなものを身に付けたのではないかと村上春樹が推測する。
村上 スポーツに限らず、アメリカの雑誌にはそれぞれに独特の書き方、個性がありますよね。文体が機能している。日本の雑誌や新聞って、はっきりいって個性的な文体がない。文体がなければ文章はこしらえられないはずなんだけれども、でも、ないんですよ。存在しない。
柴田 日本では、括弧つきではありますけれども「客観的」「中立的」な文体が新聞の文章ということになるんでしょうね。だからなのか、新聞で文章の芸を磨いて、そこから作家になるという人が少ない。
●アメリカの雑誌を読まないので(読めない)、それら独特の文体については知りようもないが、日本に各紙共通の新聞文体があることはよくわかる。雑誌でも編集サイドが個性的な文体を持つことはまれで、むしろ無色透明感が求められている感じ。