amazon
September 7, 2022

「マリス・ヤンソンス すべては音楽のために」(マルクス・ティール著/小山田豊訳/春秋社)

●ヤンソンスが卓越した指揮者であることはまちがいない。でもエゴを押し出すタイプの人ではないし、あちこちで物議をかもす人でもない。だから、ヤンソンスの音楽はともかく、ヤンソンスの評伝はそんなにおもしろくはならないんじゃないか……と先入観を持ちながら読みはじめたら、これがずいぶんとおもしろいんである。「マリス・ヤンソンス すべては音楽のために」(春秋社)はマルクス・ティールというドイツの音楽ジャーナリストが書いた評伝で、生前のヤンソンス本人から承諾を得ているそう。この本のおもしろさはかなりのところ著者の驚異的な取材力と筆力に拠っている(それと滑らかな訳文も)。
●この本の前半は知られざるヤンソンス、後半はみんなが知っているヤンソンス。よりおもしろいのは前半。レニングラード・フィルの話とか、オスロ・フィルとの初期の関係、それと意外だったのはBBCウェールズ交響楽団との強い結びつき。毎年4週間の客演を4年間という契約だったそうだけど、特にタイトルはなかったのかな……。このオーケストラでのチャイコフスキーの交響曲全集の録音が、ヤンソンスのキャリアにおけるもっとも重要な企画のひとつになったという。さらにベートーヴェンの交響曲全曲の映像を収録して注目を浴び、ロンドンに活躍の場を広げる。BBCウェールズ交響楽団とはソ連の各都市を巡るツアーにも出かけるんだけど、レニングラード公演だけは首席指揮者の尾高忠明が指揮台に立った。なぜかというと、ヤンソンスはレニングラードに住居があり、ソ連当局の規定で自分の街で外国のオーケストラを指揮するのは禁じられていたから。尾高忠明がヤンソンスの家に泊めてもらったという話も載っている。
●ピッツバーグ交響楽団の首席指揮者時代の話も知らないことばかり。ヤンソンスはその後のバイエルン放送交響楽団とロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団の兼任時代の印象が強すぎて、彼にピッツバーグ時代があったことを忘れがち。で、偶然ではあるけど、ヤンソンスはピッツバーグでもバイエルン放送交響楽団でもマゼールの後を継いだことになるんすよね。マゼールとヤンソンスはまったく対照的なキャラなので、この本ではどうしてもマゼールは悪役に描かれてしまう(才能はすごいけどエゴが……みたいなトーン)。ヤンソンスは楽員と信頼関係を結び、敬愛される。ワタシはマゼールの音楽のほうがずっと好きなんだけど、その通りだろうなあと頷きながら読んでしまった。
●後半ではベルリン・フィルのシェフ選びの話題も出てくる。著者が新しいシェフの選任をコンクラーベにたとえているのが、日本のファンと同じでおかしい。ヤンソンス側の視点からすると、自分がOKすればベルリン・フィルはすぐに受け入れてくれただろうけど、バイエルン放送交響楽団を見捨てることはできなかったという話。このあたりも興味深い話がいくつも記されている。