●17日は新国立劇場でムソルグスキーのオペラ「ボリス・ゴドゥノフ」。ポーランド国立歌劇場との共同制作で、同劇場芸術監督のマリウシュ・トレリンスキによる新演出。大野和士指揮都響がピットに入った。問題作ではあるが、「ボリス・ゴドゥノフ」という偉大な傑作を野心的な演出で観ることができたのがうれしい。なお、この演出は現在のロシアによる野蛮な戦争とは無関係で、時局に便乗したものではない。版の問題とも絡むのだが、思い切った読み替え演出が施されており、登場人物の多くは現代的な服装をしており、舞台装置も抽象的で、豪華な宮殿などは出てこない。映像も巧みに駆使。
●ボリス・ゴドゥノフのストーリーを超簡単に紹介しておくと、史実が題材になっていて、ボリス・ゴドゥノフがロシアの皇帝に即位するんだけど、先帝の息子である幼いドミトリー皇子を暗殺して権力を手にしたのではないかと疑われている。で、破戒僧グレゴリーが「オレは皇子ドミトリーだ」と僭称し、ポーランド・リトアニアやカトリック教会を味方につけてモスクワに進軍する。ボリスは死に、息子が後を継ぐが、偽ドミトリーが皇位を奪う。というのが大枠。で、ムソルグスキーの「ボリス・ゴドゥノフ」には原典版と改訂版があって、おもしろいのは断然、改訂版。改訂版はボリスのみならず偽ドミトリーにも焦点が当てており、大河ドラマ的なスケールの大きさがある。ただ、長すぎるんすよね。なかなか上演できない。一方、原典版はもっぱらボリス個人の苦悩を描いていて、コンパクトなんだけど、私見ではぜんぜん物足りない。そこで、今回のプロダクションで使用されたのは折衷版。ざっくり言うとポーランドの場面をカットしている(それでも休憩込み3時間半を超える)。だからグレゴリーの結婚相手マリーナは登場しない。男だらけのオペラ。グレゴリーが宿屋から逃げる場面の行き先は本来はリトアニアだが、この演出ではクレムリンに変更されている。原典版と違って、ちゃんと最後に偽ドミトリーが帰ってくる場面があるのは吉。そう来なくては。
●で、この折衷版以上に大胆なアイディアがトレリンスキの演出で、なんと、ボリスの息子フョードルを重度の障害者に設定し、黙役として役者に演じさせている。歌の部分はほかの歌手に割り当てている。しかも息子フョードルと聖愚者を同一人物として設定しているのだ! これにはびっくり……というか事前に知っていたからよかったけど、知らずに観たら混乱していた。幼いドミトリー皇子を殺したボリスの罪を、息子が背負って生まれてきた、と考えればいいのだろうか。刺激的なアイディアである一方、ストーリーの整合性は犠牲になっているので、そこをどうとらえるか。あと、年代記を記している修行僧ピーメンの役柄にも変更があり、グレゴリーの僭称をそそのかした首謀者として描かれる。
●「ボリス・ゴドゥノフ」って、ボリスの苦悩以上に、一介の破戒僧が僭称者となって皇位に就くという暗黒のシンデレラストーリーが魅力だと思うんすよね。トレリンスキ演出はそのダークサイドの部分をより強烈に描いていて、「悪が滅びたときにさらなる悪がやってくる」というはなはだペシミスティックな話になっている。あと、この演出から離れるけど、自分はボリスを「本当はドミトリーを殺していないのに、やってしまったという強迫観念にとりつかれた男」として観るのが好き。
●と、長々と演出面について記してしまったが、もちろんオペラである以上、主役はムソルグスキーの独創的な音楽。誰にも似ていない音楽、話し言葉のような歌はたまらなく魅力的。ピットの都響は雄弁でニュアンスに富んだサウンド。ピットに入るオーケストラをその楽団の音楽監督が指揮しているというシチュエーションは貴重。歌手陣はボリス・ゴドゥノフにギド・イェンティンス、シュイスキー公にアーノルド・ベズイエン、ピーメンにゴデルジ・ジャネリーゼ、グリゴリー(偽ドミトリー)に工藤和真。ピーメン役のジャネリーゼが格調高く立派。イェンティンスのボリスは内なる弱さを好演。黙役のフョードル&聖愚者を演じたのはユスティナ・ヴァシレフスカ。そこにいるだけで舞台が引き締まる存在感。
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●宣伝を。今年も「東京・春・音楽祭」のサイトで短期集中連載コラムを書いている。まずは「ヴヴヴのヴェルディ」第1回「名作オペラ殺人事件」を。もうひとつ宣伝。ONTOMOの連載「心の主役を探せ! オペラ・キャラ別共感度ランキング」第6回はヴェルディ「ファルスタッフ」。キャラ視点によるオペラガイド。
November 18, 2022