December 1, 2022

ロナルド・ブラウティハムのベートーヴェン&シューベルト

ロナルド・ブラウティハム トッパンホール公演
●ワールドカップはグループステージ第3戦で一日4試合も開催されているのだが、ハイシーズンだけに聴きたい演奏会もいっぱいある。やっぱり秋にワールドカップを開催するのはおかしいんじゃね? 真夏のカタールでやればよかったじゃん。灼熱の砂漠で、みんな水筒を背負って随時水分補給しながら20分ハーフで決着をつける草サッカーみたいなワールドカップでも、ワタシは許せたよ、この時期にやるくらいだったら。FIFAよ、考え直せ、今からでも遅くない!(遅いです)。
●というわけで、16日はトッパンホールでロナルド・ブラウティハムのフォルテピアノを聴いた。プログラムは前半がベートーヴェンの「エロイカの主題による変奏曲とフーガ」とピアノ・ソナタ第23番「熱情」、後半がシューベルトのピアノ・ソナタ第21番。ステージ上には2台のフォルテピアノが置かれており、ベートーヴェンではポール・マクナルティ(2002年作)によるアントン・ワルター・モデル(1800年頃)を、シューベルトではハン・ゲオルク・グレーバーのオリジナル(ウィーン式/1820年製)を使用。
●こうして当時の楽器で聴くと、演奏行為が楽器製作というクラフトマンシップと不可分な関係にあると改めて感じる。特にベートーヴェンはある種の超越性にとりつかれているかのようで、与えられた環境の境界条件を探ろうとする音楽を書いている。音域やダイナミクス、形式など、矢印がいつも外側に向いている感じだ。もしベートーヴェンがモダンピアノを手にしていたら、きっとモダンピアノの限界に挑むような作品を書いていたにちがいない。それに比べると、後半に聴くシューベルトはずっと矢印が内向き。しかし、それによって音楽が小さくなるかといえばそうはならず、むしろこの最後のソナタともなると豊穣なるインナースペースへの探索によってベートーヴェン以上のスケールの大きな音楽を作り出している。
●ピリオド奏法はあり得ても、ピリオド聴法は困難だとよく感じる。ギトギトのロマン主義に侵された脳は、ついつい「えっ、そこはもっとタメないの」とか条件反射的に思ってしまったり。いや、タメなくていいんすけど。一種の認知的不協和というべきか。アンコールはシューベルトの「楽興の時」第3番、ベートーヴェンの「エリーゼのために」。
●ところで、明日の午前4時からニッポン対スペイン戦が始まるわけで、いったいこれはどうしたものか。ライブで観てしまうとその日の予定がガタガタになってしまいそうだが、かといって普通に起床してから録画を観るなどと悠長なことを考えていると、光速で結果バレしそうである。そこで、もろもろバランスを考慮して、まだ試合が終わっていない午前5時半から追っかけ再生で観る作戦がよいのではないかと思いついた。どうかな。