●映画「TAR/ター」(トッド・フィールド監督)を試写で拝見。これはふだんからクラシック音楽に親しんでいる人ほど楽しめる映画だと思う。とてもよくできている。主役のリディア・ター(ケイト・ブランシェット)は、ベルリン・フィルの首席指揮者に就任した初の女性。才能はあるけど強権的で打算的な指揮者という役柄で、しかもベルリン・フィルの女性コンサートマスターが自分のプライベートなパートナーでもあって、ふたりの間には養女までいるという設定。音楽映画にありがちな荒唐無稽なところが少なく(あるんだけどストーリー展開上ぎりぎり受け入れられる)、オーケストラのリハーサル・シーンなどもていねいに作ってある(ただし指揮シーンは意外と少ない)。音楽面では指揮者のジョン・マウチェリが監修している。さすがにベルリンのフィルハーモニーは使えなかったようで、代わりにドレスデン・フィルの本拠地を撮影に使っている。著名な音楽家の名前やドイツ・グラモフォンだとかCAMIなどが実名で出てくる。
●で、問題はこの映画がなんの映画か、ってことなんすよね。並の発想だと、昨今の女性指揮者たちの活躍を反映して、才能ある女性がいろんな障壁を打ち破ってベルリン・フィルのシェフという世界トップの座にのぼりつめる成功譚になると思う。でも、監督・脚本のトッド・フィールドの発想は逆。この映画はスタート時点で女性指揮者ターは頂点に立っている。だから、あとは危機が訪れるばかり。夢をかなえた才能が悪夢を体験するという構図になっていて、そこがおもしろい。じゃあ、これがサスペンスかというと、そうともいえるような、そうでもないような……。むしろ「いじわるな笑い」が肝かも。少なくとも、アクの強い映画ではある。終盤でターが自分の原点を見つめ直そうと、古いVHSでバーンスタインの「ヤング・ピープルズ・コンサート」を再生している場面があるんだけど、ここから後の展開が予想外すぎて仰天。
●話の本筋をばらさない範囲で、いくつか大ウケしたポイントを。まず、指揮者としてはぱっとしないけど資産家という設定でカプランという人物が登場する。これは露骨にマーラー「復活」専門の指揮者になった実業家ギルバート・キャプランがモデルになっている。このカプランがターに「この前のマーラーの演奏聴いたけど、あそこの部分の音はどうやって出したの、教えて~」みたいなことを言ってきて爆笑。まあ、モデルにされたキャプランはすでに鬼籍に入っているので訴えられたりはしないとは思うが。
●あと、ターが試用期間中の若いロシア人女性チェリストを気に入って、エルガーのチェロ協奏曲のソリストに抜擢して問題を起こすという展開があるんだけど(かつてのザビーネ・マイヤー事件を思い出さずにはいられない)、ターとこのチェリストとの会話シーンが傑作。ターが「やっぱりあなたのアイドルはロストロポーヴィチかしら?」と尋ねると「デュ・プレ」と答える。それでターが納得して「そうよねー、デュ・プレとバレンボイム指揮ロンドン・フィルのエルガーのチェロ協奏曲は最高の名盤よね」みたいなことをいうと、「YouTubeで聴いた。指揮者はだれか知らない~」とか答えられてしまう。笑。このジェネレーション・ギャップ、すごいリアリティ。デュ・プレとバレンボイムの関係も若い世代にはなんのこと?みたいな感じか。
●あ、あと映画内で現代の代表的な作曲家の名前として、ジェニファー・ヒグドンとかキャロライン・ショウの名前が挙がるんすよ。このあたりが強烈にアメリカ映画。ヨーロッパや日本じゃまず出てこないグラミー賞的な人選だなあと感心してしまった。
●5月12日公開。159分。
April 21, 2023