●若い頃、ワタシは音楽雑誌の編集部で働いていた。そのときに同僚と話題にあがったのが「コピー機のなかった時代に、いったいどうやって雑誌を作っていたのか」。あらゆる編集作業にコピー機は欠かせなかったが、あきらかにコピー機のない時代から雑誌が刊行されている。これは謎すぎる謎。が、今にして思えば、当時はPCがなかった。PCなしで雑誌を作っていたことのほうがよっぽど謎かもしれない。
●そんな石器時代に、手書き文字を大量に書くのは大変だったので、ワタシは家から私用のワープロ専用機(というものが存在した)を持参して、これをカタカタと打っていた。そのほうが入力が楽だし、誤植も圧倒的に減る(まだデータ入稿ではなく、プリントアウトを入稿していたアナログ時代)。タッチタイピングはしっかり練習してあったので、高速で入力できた。
●が、あるとき、ベテラン編集者にこんなことを言われたんである。「飯尾くんね、それは日本じゃ普及しないと思うよ」。は? なんで。そんなわけないじゃん、と一瞬思った。が、「欧米ではもともとタイプライター文化があったでしょ。だからみんながそうやってキーボードを打てる。でも普通の日本人が一からそんな技術、身につけるわけないじゃないの」。ムッとしたけど、内心ではその指摘は一理あると思った。痛いところを突かれたなと。
●それが今やGIGAスクール構想で、小学生がランドセルにChromebookを入れて登校するようになり、みんな当たり前のようにローマ字入力している。時代は変わる。
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●新連載のご案内。ONTOMOで「おとぎの国のクラシック」第1回を公開中。「リトル・マーメイド」が話題を呼んでいるので、テーマは人魚姫。ご笑覧ください。
2023年6月アーカイブ
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アレクサンダー・ソディ指揮読響、反田恭平のロシア音楽プログラム
●28日はサントリーホールでアレクサンダー・ソディ指揮読響。プログラムはラフマニノフのピアノ協奏曲第3番(反田恭平)とチャイコフスキーの交響曲第4番。客席はぎっしり。ソディは初めて聴く指揮者。イギリス出身で、マンハイム国立劇場音楽総監督などオペラで実績を積んでいる模様。前半のラフマニノフは反田恭平の独壇場。輝かしい音色でパワフル、ダイナミクスの幅を十分にとって鮮やか。終楽章で熱く大きなドラマを作り上げた。アンコールはお得意のショパンのラルゴ。以前も反田さんのアンコールで聴いたと思うが、不思議な曲。
●後半のチャイコフスキーの交響曲第4番は勇壮。金管セクションを中心によく鳴るが、決して力ずくにならない。木管首席陣の思い切りのよい妙技が聴きどころ。ところどころハッとするような強弱の変化などはあったが、奇を衒ったところはない。初めて聴く指揮者なのでふだんどうなのかわからないけど、やろうとしていることをもう一段階、煮つめられたんじゃないかなという気も。幕切れは盛大で、客席から大きなブラボーの声。
●開演前、少し時間があったので、新宿御苑に寄って園内で軽食を食べた。少し蒸しているが、夕方ならまだ気持ちよい。これ以上暑くなると快適ではない。公園の一角に、巨大なルンバみたいな機械を発見。「ロボット芝刈り機 閉園時に運用中」と記されており、夜間に動いているのだそう。動いているところを見たい。
「台所をひらく」(白央篤司著/大和書房)と「おいしいものでできている」(稲田俊輔著/リトル・モア)
●最近読んだ食に関する本を2冊。どちらも秀逸。
●まずは「台所をひらく~料理の『こうあるべき』から自分をほどくヒント集」(白央篤司著/大和書房)。フードライターの著者が日々の炊事について記すエッセイ&レシピ集。というか、エッセイが主で、レシピは従。このエッセイ部分が本当に共感しかない。料理の本であるにもかかわらず、基本姿勢として「料理は好きだけど、でもやっぱりしんどい日も多いよね」といううっすらとした倦んだ気分が随所に漂っていて、そのリアリティが最高だと思った。そう、日々の生活のための料理とはそんなもの。レシピでいいなと思ったのは、目玉焼き丼。なんでこれを気づかなかったのか。なんというか、料理以前の「名もなき料理」みたいなのが、仕事の合間にささっと作る食事の基本だと思う。そこには「手抜き」と「超手抜き」以外のメニューに居場所はない。あと、「作る」より「片付ける」なんすよね、手をかけたくないのは。特に昼時は仕事に戻る前に労働をあまりしたくないので。
●もう一冊は「おいしいものでできている」(稲田俊輔著/リトル・モア)。料理人であり飲食店プロデューサーである著者の名は、よくSNSでも見かける。インドカレーなど、レシピ集も評判。この一冊は食についてのエッセイ集で、どれもこれも実におもしろい。文が巧み。薄いサンドイッチ、缶詰のホワイトアスパラガス、嫌いなカツカレー、本物のコンソメスープなど、話題は多岐にわたる。同じ著者の別のレシピ本にもあったが、著者はしばしばミニマリスト的な視点から、料理を簡潔化して、その本質がどこにあるかを探ろうとする。この本では「麻婆豆腐の本質」がそれ。ルーツに遡ったミニマル麻婆豆腐のレシピには、豆板醤も甜麺醤も出てこない。水溶き片栗粉も花椒も使われていない。味付けは一味唐辛子と黒胡椒、醤油、ニンニク、塩のみ。それは本当に麻婆豆腐なのかと思うけど、簡単でおいしければそれでいい。
オペラ対訳×分析ハンドブック リヒャルト・シュトラウス 楽劇 エレクトラ(広瀬大介訳・著/アルテスパブリッシング)
●先月、ジョナサン・ノット指揮東京交響楽団の「エレクトラ」を聴いた際、会場で飛ぶように売れていたのがこの一冊。「オペラ対訳×分析ハンドブック リヒャルト・シュトラウス 楽劇 エレクトラ」(広瀬大介訳・著/アルテスパブリッシング)。前作「サロメ」に続くシリーズ第2弾がめでたく発売。オペラの対訳と分析が一体となったハンドブックで、見開きの左ページが対訳、右ページが音楽面の解説という構成になっている。そして、前作は絶望的なほど文字が小さかったが(←老眼)、今作は少し大きくなっている。それでも小さいけど。でもこの一歩は大きな違い。ありがたし。
●この本のすばらしいところは、オペラの対訳として実用性があって、なおかつ研究書として専門性があって、それに加えて本としておもしろく読める、っていう「一粒で三度おいしい」ところ。広瀬さんの解説はいろんな角度からためになると思うけど、慣習的なカットの問題ひとつとっても有益。この部分があるとないとじゃ、ずいぶん物語の印象が違ってくるなということが腑に落ちる(カットにはきっと実演上の切実な理由があるにせよ)。
●あと、音楽抜きで純粋に台本だけを読んでいると、エレクトラの怪女っぷりが一段と強烈に感じる。現実のオペラ歌手より、もっと汚く醜いイメージが浮かび上がる。一方、「結婚して子供を産みたい」と場違いなほど平凡な願いを抱く妹クリソテミスのキャラも際立っている。終盤、オレストが死んだという誤報を受け取って、わたしたちが事を成就しなければとエレクトラが懸命にクリソテミスを説得する場面がなんとも味わい深い。妹よ、いっしょにあいつらをやればきっと結婚できるよ~みたいな姉妹の会話。尋常じゃないけど、実はどこにでもあるホームドラマなのかも。
戦時チャイコフスキー国際コンクール
●この話題は結果が出た後だと書きづらくなるかもしれないから、今のうちに。といっても、もうコンクールは開幕しており、だいぶ予選が進んでいるのだが。信じられないことに、現在、ロシアでチャイコフスキー国際コンクールが開催されている。言葉にすることもためらわれるような凄惨な戦闘がウクライナで続く一方で、戦争当事国であるロシアで国際音楽コンクールが開かれている。そんなことがありうるのだ。ロシアによるウクライナ侵攻を受け、国際音楽コンクール世界連盟はチャイコフスキー国際コンクールを除名したが、だからといってコンクールが開けなくなるわけではない。ロシア連邦政府とロシア連邦文化省によるこのコンクールの公式サイトにはプーチンやゲルギエフが顔写真入りでメッセージを寄せている(リンクは張らない)。
●当初、戦時チャイコフスキー国際コンクールにはロシアおよびベラルーシや中国など親ロシア国の出場者ばかりが集まるのだろうと思っていた。特に西側諸国から潜在的な敵国であるロシアに入国するとなれば、滞在中になにが起きるかわからないし、仮に優勝したところで「戦時大会の優勝者」「プーチンのプロパガンダに協力した音楽家」というレッテルが付いてしまい、西側で活躍の場が与えられない恐れがあるのだから、出場を取りやめようと判断するのではないかと思っていた。だが、その予想はまったく甘かった。ふたを開けてみれば23か国から参加者が集まり、数は少ないがフランス、イギリス、ドイツ、アメリカ、カナダ、日本からの参加者もいるようだ。戦時に国際コンクールを開催したところで国際的な孤立が浮き彫りになるだろうと思っていたら、むしろ逆にロシアは孤立していないことを示す結果になってしまった。
●世界にはいろんな価値観がある。参加者には国籍は西側であっても、ルーツがロシアや親ロシア国にある人もいるだろう。また、グローバルサウスの国々にはロシアに対して中立的な姿勢をとる国も多い。西側にだって少数派ながら現在の戦争をプーチン寄りの視点で解している人もいるにちがいない。ひとつの出来事を人々はまったく違った認識でとらえている。それを音楽の世界で目の当たりにしたのが今回の戦時チャイコフスキー国際コンクールだと思う。
ラデク・バボラーク指揮山形交響楽団「さくらんぼコンサート2023」
●22日は東京オペラシティでラデク・バボラーク指揮山形交響楽団。先日、サントリーホールのチェンバーミュージックガーデンでも演奏していたバボラークをふたたび。山響ではかつて首席客演指揮者を務めており、現在は「ミュージック・パートナー」という肩書。プログラムは前半にスメタナの連作交響詩「わが祖国」第6曲「ブラニーク」、モーツァルトのホルン協奏曲第3番、ドニゼッティのホルン協奏曲、後半にドヴォルザークの交響曲第8番。バボラークにとってのお国ものであるチェコ音楽を指揮しつつ、協奏曲で自らの妙技も披露するという構成。客席はほとんど埋まっている。プログラムノートに「当たり」シールがついていると、山形の名産品さくらんぼがプレゼントされる趣向。さらにオペラシティのロビーが「山形物産展」になっていて、おいしそうなものがずらりと並んでいる。大賑わい。プレコンサート・トークで、バボラークが法被姿であらわれて山形推し。
●演奏会の最初がスメタナ「ブラニーク」。なんというか、いきなり連続ドラマの最終回で始まったみたいな趣。でも「わが祖国」は「モルダウ」以外も単独で演奏されるべきだと思っているので大歓迎。これにモーツァルトのホルン協奏曲第3番が続くのだが、管楽器がクラリネットとファゴットのみのやや珍しい編成なので、クラリネットによるチューニングが聴ける。バボラークはリラックスして自在のソロ。譜面台を前ではなく右において、しばしば半身になって吹く。ドニゼッティのホルン協奏曲は5分ほどの小品で、いわば予告されたアンコールみたいなもの。曲調はまるっきりドニゼッティのオペラ・アリア。これを歌うかのようにホルンで吹くのがバボラーク。「楽器を操作している」という感じがしない。おしまいのドヴォルザークは音楽の流れがしなやか。スペクタクルというよりは、ゆったりした部分の情感豊かさに味わい。バボラークの棒も堂に入ったもの。やっぱりホルンへのキュー多め。アンコールはスラヴ舞曲第2集第7番。バボラークは終始上機嫌で、オーケストラのメンバーをねぎらう姿も印象的。
●帰り際におみやげとして全員にシベールのラスクとでん六の「味のこだわり」の小袋が渡される。どちらも山形の企業。地元スポンサーの熱心な応援ぶりが伝わってくる。帰宅してすぐラスクを食べる。おいしい。
ジャナンドレア・ノセダ指揮NHK交響楽団のレスピーギ、ラフマニノフ
●21日はサントリーホールでジャナンドレア・ノセダ指揮N響。プログラムはバッハ(レスピーギ編)3つのコラール、レスピーギのグレゴリオ風協奏曲(庄司紗矢香)、ラフマニノフの交響曲第1番。いつもノセダが振るとN響の音が熱を帯びる。今回も最初のバッハからすでに励起状態に。珍しい作品が並んだお得なプログラムだが、なかでも庄司紗矢香の独奏によるグレゴリオ風協奏曲は貴重。レスピーギなりの古楽趣味が協奏曲の形に結実した作品ではあるが、アルカイックというよりは幻想的で典麗。アンコールにバッハの無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第2番よりサラバンド。これで前半がバッハ~レスピーギ~バッハとシンメトリックな形で整った。
●後半のラフマニノフの交響曲第1番は圧巻。初演の際の失敗のエピソードが有名な作品だが、ノセダとN響の気迫みなぎる演奏を聴いていると、作品の弱さなどまったく感じない。むしろ交響曲の最初の一歩からこれだけ書けてしまう交響曲作曲家としてのラフマニノフの偉才を再認識。この曲、ライブでは初めて、と思っていたのだが、聴きはじめて気がついた。前にも聴いてる、尾高忠明指揮N響で。で、そのときも思ったけど、この曲って最晩年の交響的舞曲のプロトタイプだな、と。第1楽章の主題が交響的舞曲でも出てくるし、「怒りの日」の引用もそうだし、フィナーレでの衝撃的な銅鑼の一撃もそう。どうしても忘れられない若き日の作品を45年後にリメイクしたと思うと、初演の失敗をどんだけ根に持ってたのよ……と想像する。
●客席は盛大にわき、ノセダのソロ・カーテンコールへ。ラフマニノフの交響曲第1番でこれだけ盛り上がるとは。ちなみに本日もノセダ指揮N響が同じプログラムを演奏するのだが(チケットは完売)、今月は東フィル定期でも尾高忠明指揮でラフマニノフの交響曲第1番が演奏される(23日以降の3公演、いずれもチケットは予定枚数終了。亀井聖矢が協奏曲を弾く)。ラフマニノフの交響曲第1番が都内で一週間に5回演奏されるという事態が出来。
ニッポンvsペルー代表 キリンチャレンジカップ2023
●代表ウィークの第2戦は、パナソニック・スタジアムでニッポンvsペルー代表。先日のエルサルバドル戦は開始早々に相手に退場者が出て、テストにならなかったが、今回はとても強度の高い好ゲーム。相手のクォリティも大違い。ペルーはFIFAランキングも日本とほぼ同格で、鍛えられたチームという印象。にもかかわらず、ニッポンが4対1で大勝できてしまった。すべてがうまく回ったゲームで、特によかったのは守備。前線からの守備の連動性が高く、狙ったところでボールを狩って、そこからチャンスにつなげる形が頻出。相手も激しいのだが、ニッポンがそれを上回っていて、完全に欧州基準のチームになっている。時代は変わった。「Jリーグっぽいサッカー」(←堂安の表現)ではなく、ハイテンポ、ハイテンションでノンストップで戦う。試合を観て、ほとんどニッポンがゲームを支配していたような印象があったが、ボール支配率は41%しかなかった模様。後ろでパスを回してボールを持っている、みたいな時間がない。
●森保監督は前の試合と同様、4バックでアンカーを置く布陣を敷いた。大まかにいえば4-3-3、細かく言えば4-1-4-1の形。メンバーはがらりと変更。GKはポルトガルのポルティモネンセで守護神の座を勝ち取った中村航輔。ハイレベルな安定感あり。柏時代とはすっかり風貌が変わって、日本人に見えない。所属チームの試合映像をチラッと見たとき、中村航輔が出場しているはずなのに、どちらのチームのゴールキーパーも日本人に見えなくて「どういうこと?」と混乱したほど(今よりさらに髭がワイルドだった)。ディフェンスラインは菅原由勢(→相馬勇紀)、谷口、板倉、伊藤洋輝。アンカーに遠藤航(→瀬古歩夢)、その前に鎌田(→久保)と旗手(→守田)、右ウィングに伊東(→堂安)、左ウィングに三笘、トップに古橋(→前田)。
●やはりアンカーを置くと、その前に鎌田のような攻撃的な選手も置けるし、中盤の選手選択がフレキシブルになる。その代わり、トップ下というポジションがなくなる。今のメンバーだとそれでもあまり困らない。南野が君臨していた頃だと困ったかもしれないけど、彼はこのまま呼ばれなくなるのか、復活があるのか……。左右ウィングは選択肢が豊富だが、左の三笘、右の伊東が圧倒的に武器になっているので、久保や堂安は中央が基本か。古橋はパスの出し手と息が合わないとなかなか真価が発揮できない。伊東からのいいクロスがあったが、惜しくもゴールならず。得点は伊藤洋輝(強烈なミドル)、三笘、伊東、前田大然。
●驚きだったのは途中交代で相馬が右サイドバックに入ったこと。前の試合でも同じ展開があったが、あれは相手がひとり少なくなったから、守備を一枚減らすという意味だと思っていたら、この試合でも右サイドバックに入った。一瞬、伊藤洋輝をセンターバックにして3バックを敷くのかと思ったら、そうじゃなくて本当に4バックのひとり。これは新しいなー。どうなんでしょ。ラインに入って守るという面では慣れていない分、アキレス腱になりそうな気もするのだが、ビルドアップでは利点があるかもしれない。相手がボールを狩りに来るところで、相馬なら一枚剥がして有利な局面を作れる……といっても、ミスると即座に大ピンチだが。やるなら所属チームでしてほしいというのが正直なところ。
「辮髪のシャーロック・ホームズ 神探福邇の事件簿」(莫理斯=トレヴァー・モリス著/文藝春秋)
●最近読んだ小説で秀逸だなと思ったのが、莫理斯(トレヴァー・モリス)の「辮髪のシャーロック・ホームズ 神探福邇の事件簿」(舩山むつみ訳/文藝春秋) 。シャーロック・ホームズのパスティーシュなのだが、舞台が香港なのだ。時代は原作そのまま。大英帝国の東の果ての植民地で、ホームズ役の福邇(フー・アル)とワトソン役の華笙(ホア・ション)がさまざまな事件に向き合う。移動は馬車ではなく、人力車だ。福邇はアヘンを吸う、ホームズと同じように。物語を通して伝わってくる当時の香港の様子がおもしろい。西洋人もいれば中国人もいて、英語、北京官話、広東語などいくつもの言語が飛び交っている。実在の人物も登場し、歴史小説的な味わいもある。
●で、全6話が収められており、それぞれが原作の「ボヘミアの醜聞」「ギリシャ語通訳」「赤毛連盟」だったりを下敷きにしているのだが、どれも原作から一ひねりしてあって新味がある。舞台が香港であることがうまく生かされている。
●ところで原作のホームズはヴァイオリンの名手であり、ストラディヴァリウスを所有していることになっているのだが(参照:シャーロック・ホームズの音楽帳その1)、こちらの福邇はヴァイオリンではなく胡琴を弾く。で、福邇が胡琴で一曲披露する場面があって、曲は「3、40年前にドイツのある有名な作曲家がヴァイオリンのために書いた曲」であり、「ほかの楽器と合奏する部分もあるが、そこは省略した」という。曲名も作曲者も明言されていないものの、物語の舞台は1880年代前半となっていることから、訳者はこの曲をメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲と推定している。演奏を聴いた華笙が「その旋律は行く雲、流れる水のようによどみなく、ときには泣くが如く、恨むが如く、人の心を震わせる」と言っているので、なるほど、それはメンデルスゾーンしか思いつかない。
METライブビューイング テレンス・ブランチャード「チャンピオン」MET初演
●METライブビューイングでテレンス・ブランチャード作曲「チャンピオン」を観た。ワタシはテレンス・ブランチャードについてなにも知らず、ジャズ界での大御所だということだけ耳に入れて、半分期待し、半分あまり期待せずに足を運んだ。で、結論としてはずばり、これは観るに値する傑作であり、正真正銘の現代オペラ。「オペラ・イン・ジャズ」と謳われており、ジャズ的な要素もあるが、それでもアリアがあったり、重唱があったりして、20世紀オペラの伝統を現代に受け継ぐ作品だと納得。台本も演出もとてもよくできているが、主役は音楽だ。
●題材となっているのは1950年代後半に頭角を現した実在のボクサー、エミール・グリフィス。対戦相手からゲイであることをからかわれ、試合で相手の命を奪ってしまう。このボクサーの青年時代を演じたバスバリトンはライアン・スピード・グリーン。上の予告編でもわかるように、全身筋肉ムキムキに鍛えており、どう見てもボクサーそのもの。こんな肉体のオペラ歌手、見たことない。この役のために30キロも減量したというのだが、減量という以上に筋肉の鎧がすごすぎる。
●同じボクサーの老年期を演じるのは、おなじみ、エリック・オーウェンズ。強靭な肉体を誇った青年期とは対照的に、認知症と罪の意識に苦しむ弱者として描かれる。多くの場面で老年期の主役と青年期の主役が舞台で同時に立っており、ときには同時に歌う。つまり、老いた主役が青年期を回想している。贖罪が作品テーマのひとつ。このオーウェンズの役柄により、万人が共感可能なオペラになっている。
●指揮はヤニック・ネゼ=セガン。最初のピットに姿を見せただけで大声援。ここで彼はヒーローなのだ。第2幕ではリングガウンを着て指揮台に登場して、客席から大喝采を浴びる。演出はジェイムズ・ロビンソン。場面転換ごとにリングアナウンサー(ボクシングの)が出てきてコールするという趣向が秀逸。主役の歌手も対戦相手の歌手も本当にヘビー級のボクサーに見えるので、対戦シーンも迫力がある。もちろん、本当に殴り合うわけではなく、オペラの演技として様式化されているのだが。
●幕間のインタビュー等で「プッチーニのような」という形容句がなんどか出てきたけど、むしろ連想したのはブリテン「ピーター・グライムズ」かな。いろんな点で共通点があると思った。
ニッポンvsエルサルバドル代表 キリンチャレンジカップ2023
●ワールドカップ終了後、2度目のインタナショナルマッチウィーク。ニッポンはエルサルバドル、ペルーとの中南米2連戦で、まずは豊田スタジアムでエルサルバドル戦。試合は開始1分でフリーキックに谷口が頭で合わせて先制点を奪ったと思ったら、その直後にエルサルバドルのロドリゲスが悪質なタックルでPKを与えるばかりかレッドカードをもらって退場。あっという間に試合が壊れてしまった。せっかくのマッチメイクがこれでは……。ここで森保監督が相手チームの監督に「今のノーカンね、もう一回、やり直しましょう!」と爽やかに宣言して、ご破算にしてほしかった(ムリ)。
●森保監督の本来のテーマは、4バックでアンカーを置く布陣。大まかにいえば4-3-3だが、細かく言えば4-1-4-1の形。GKには大迫敬介、4バックは菅原由勢、板倉、谷口、森下龍矢(名古屋所属、地元で代表デビュー)。その前にアンカーとして守田が陣取る。で、セントラルミッドフィルダーに堂安と旗手、前線は右に久保、左に三笘、トップに上田綺世。アンカーを置くことで、その分、前のほうは攻撃寄りの選手を使える。ただ、開始早々に相手がひとり減ってしまったので、これでは新布陣のテストにならず。ほとんどの時間帯でニッポンがゲームを支配して6得点のゴールラッシュ。得点は谷口、上田(PK)、久保、堂安、中村敬斗、古橋。
●相手がひとり減ったので、後半からは右サイドバックを菅原から相馬勇紀に交代。相馬が高いポジションでウィング調のプレイ。三笘→中村敬斗、堂安→川辺駿、久保→浅野、上田→古橋と交代。プレイ内容はみんなよかった。ずっと代表で人材不足の左サイドバックに森下龍矢という新しいタレントがデビューしたのは吉。旗手もこれから代表に定着するのでは。オーストリアのリンツで活躍する中村敬斗もクォリティが高い。ポルトガルに渡った相馬は体を絞って強度を上げてきた。スイスのグラスホッパーで主力の川辺駿もレギュラー候補だろう。そして、スペインのレアル・ソシエダードでキャリア最高のシーズンを送った久保は一皮むけた感じ。こうして眺めると人材の宝庫なんだけど、とにかく相手がひとり少ないうえにテンションだだ下がりだったので、すべては追い風参考記録か。
シルク・ドゥ・ソレイユの「アレグリア」
●近年、オペラの演出家のプロフィールでたびたび「シルク・ドゥ・ソレイユ」の文字を目にするが、実はどんなものなのか、ぜんぜん知らなかった、昨日までは。14日、お台場ビッグトップでシルク・ドゥ・ソレイユの「アレグリア」。シルク・ドゥ・ソレイユ、名前を日本語にすれば「太陽のサーカス」。本拠地はカナダのモントリオールということでフランス語の名前が付いている模様。サーカスといっても、自分が子どもの頃に見たサーカスとはぜんぜん違っている。動物は出てこない。ぜんぶ人間が演じる。なので、アクロバットが中心的な演目になるのだが、衣装や舞台装置、音楽、世界観などが非常に洗練されており、総合的なエンタテインメントに進化している。サーカスという言葉の響きが持つ猥雑さはなくて、とことん美しくて、スマートなんすよね。
●で、「アレグリア」というのが演目名。過去の来日公演(って言うのかな?)でも同演目がなんどか上演されているけど、衣装が一新されるなど、バージョンアップされているっぽい。物語性があるということに驚き。王を失った王国で旧世代と新世代の間に勢力争いが起き、道化が王位を継承したかのようにふるまうが、やがて若い力が調和をもたらす……といった世界観。そのなかでファイヤージャグリングとかトランポリンとか空中ブランコの妙技がくりひろげられる。
●会場は約2800席ほど。席数の割には舞台が近く感じる。2時間15分のショーで、途中に30分の休憩が入る。平日でも11時30分と15時30分の一日2公演が開かれているのだが、平日昼だからといって年配層が多いとかそんなことは一切なく、老若男女関係なく来場していて大盛況。会場内はかなり冷房が効いているので(出演者が汗でスリップするのを防ぐため)、上着は必須。
●細かいけど感心したポイントを。最初に撮影禁止や喫煙禁止などの注意事項がアナウンスされるのだが、そこも演出が入っていてショーの一部になっている(フィナーレのみ撮影可)。あと、途中で紙吹雪が大量に舞う場面があるのだが、その後、舞台上に落ちた紙吹雪を掃除する行為がやはりショーのなかの一章としてコミカルに演出されている。つまり、普通だったらお客にとって楽しい時間ではない注意のアナウンスや舞台転換までも、楽しめるものにショーアップしようという発想があって、このあたりのホスピタリティはさすがだと思った。
田原綾子(ヴィオラ) 東京オペラシティ B→C バッハからコンテンポラリーへ
●13日は演奏会特異日で、平日にもかかわらず行きたい公演が4つも重なってしまった。経験上、だいたいこういう日は結局どれも聴けないというのがよくあるパターンなのだが、東京オペラシティB→Cの田原綾子(ヴィオラ)公演を聴くことに。聴く機会の少ない曲がたくさんあるのと、以前に田原さんの取材記事を書いたことがあるので。チケットは完売。プログラムは前半に西村朗のヴィオラのための「アムリタ」(2021)、武満徹の「鳥が道に降りてきた」(1994)、ヴュータンのヴィオラ・ソナタ変ロ長調、梅本佑利の「電波ちゃんは死なない♡」(2022〜23、田原綾子委嘱作品、世界初演)、後半にバッハのヴィオラ・ダ・ガンバとチェンバロのためのソナタ第1番、ガース・ノックスの無伴奏ヴィオラのための「フーガ・リブレ」(2008)、森円花の「フレンズ ─ ヴィオラとピアノのために」(2022~23、田原綾子委嘱作品、世界初演)、ヒンデミットのヴィオラ・ソナタop.11-4。共演は實川風(ピアノ、バッハのみチェンバロ)。B→Cシリーズでは多くの奏者が全力投球でチャレンジングなプログラムを用意してくるけど、この日もまさに。多彩で重量級、超越的。パンチがきいている、ずしりと。
●冒頭の西村朗作品は昨年の東京国際ヴィオラ・コンクールの課題曲。「アムリタ」はヒンズー教の神話に登場する不老不死の霊薬なのだとか。幻想味豊かな異世界への旅。梅本佑利の「電波ちゃんは死なない♡」は秋葉原オタク・カルチャーに由来するハイコンテクストな作品。いわゆる「電波ソング」が題材となっているのだが、元ネタがぜんぜんわからないなりに楽しむ。作曲者は2000年代から父に連れられて秋葉原の電気街で幼少と思春期を過ごしたという。おそらくワタシは彼の父と同様にパソコンショップの街としての秋葉原に魅了された者であり、萌え化した秋葉原に縁がない。ガース・ノックスの「フーガ・リブレ」は「もしも21世紀にバッハが無伴奏ヴィオラのためにフーガを書いたら……」みたいな曲で、この日の白眉か。くりかえし聴きたくなる曲。一瞬「阿波踊り」が乱入してる気がする。笑。森円花「フレンズ」はヴィオラという楽器のキャラクターが生かされた作品で、真摯で深い祈りの中から感情の奔流がどっと流れ出すといった趣。この流れで聴くと、最後のヒンデミットに予想外の強いロマン性を感じて新鮮。かなりもりだくさんのプログラムだったが、奏者のあいさつの後、アンコールとして岡野貞一(實川風編)の「朧月夜」。ヴィオラならではの深く豊かな音色が響き渡る。
[配信] ラデク・バボラークの個展'23~若き音楽仲間とともに サントリーホール チェンバーミュージック・ガーデン
●11日はサントリーホールのチェンバーミュージック・ガーデン「ラデク・バボラークの個展'23~若き音楽仲間とともに」をオンライン配信で。非常に魅力的な公演なのに外出の都合がつかない日だったので、ありがたく文明の利器に頼る。ライブ&リピート配信あり(→デジタルサントリーホール)。
●ホルンのラデク・バボラークを中心にフルートの瀧本実里、オーボエの荒木奏美、クラリネットのコハーン・イシュトヴァーン、ファゴットのミハエラ・シュパチュコヴァー、それにサントリーホール室内楽アカデミー選抜フェローによる弦楽合奏が加わった強力メンバーによる室内楽。ライヒャの木管五重奏曲ニ長調作品91-3、モーツァルトのホルン五重奏曲変ホ長調、タファネルの木管五重奏曲ト短調、パガニーニのコンチェルティーノ(ファゴット、ホルンと弦楽合奏による)、モーツァルトのアダージョ ハ長調K.Anh.94 (580a)、ドニゼッティ(ルロワール編曲)のオーボエ・ソナタ へ長調(ホルンと室内アンサンブル版)。バボラークはまろやかな音色で、まるで歌うようにホルンを吹く。そして、とにかく楽しそう。弦楽合奏が加わる後半では指揮も兼ねる。オーボエやフルートもすばらしいが、なにしろこれは「バボラークの個展」なのだから主役はホルン。これだけ吹きっぱなしで安定しているのもすごい。そして、喜びにあふれたバボラークの姿を見ていると、この充足感はどんなすばらしいオーケストラで吹いても味わえないものだろうと察する。
●モーツァルトのアダージョ ハ長調は珍しい曲。オーボエ奏者のレパートリーかと思ったら、バボラークはレコーディングもしているのだった。リラックスして聴ける作品がほとんどだったが、この曲は神々しい。
●配信で観ると、情報量の多さにギクリとすることがある。奏者の息づかいまで聞こえるような生々しい音。あるいは「近い音」というべきか。映像も会場では見えないところまで見せてくれる。個人的にはモニターはなんでもいいけど、よいヘッドフォンは必須だと思う(よいヘッドフォン=好みの音のヘッドフォン)。
第2回ショパン国際ピリオド楽器コンクール記者会見
●9日はムジカーザで第2回ショパン国際ピリオド楽器コンクールの記者会見。2023年10月にワルシャワで開催される同コンクールに先立って、主催者の国立ショパン研究所(NIFC)からアルトゥル・シュクレネル所長、ヨアンナ・ボクシチャニンNIFCコンクール担当チーフ、アデリーナ・クモー広報チーフが登壇。さらに2018年に開催された第1回コンクールの第1位トマシュ・リッテル、同第2位の川口成彦の各氏も参加し、演奏も披露してくれるという手厚い会見だった。
●主催者は本家ショパン・コンクールと同じ国立ショパン研究所(NIFC)。ショパンの音楽は当時の楽器と分かちがたく結びついているという前提のもと、ピリオド楽器によるコンクールを始めたのが2018年。NIFCはピリオド楽器の収集にも力を入れており、これらを用いたレコーディングも行っている。今回のコンクールでは、NIFC所蔵のヒストリカル・ピアノ(エラール、プレイエル、ブロードウッド)とそのレプリカ、さらに欧州内の提携コレクションより提供を受けた楽器が使用される。
●コンクールの審査は3段階に分かれている。もちろん各ステージでショパンの作品から課題曲が選ばれているのだが、第1ステージではバッハ、モーツァルト、クルピンスキ、エルスネルらの作品も課題曲に含まれる。ファイナルはオーケストラとの共演で、2つのピアノ協奏曲のどちらか、あるいは「ドン・ジョヴァンニ」の「お手をどうぞ」変奏曲、ポーランドの歌による幻想曲、ロンド・ア・ラ・クラコヴィアクのなかから2曲を選ぶ。
●ちなみに今回、応募者でいちばん多いのは日本からの23名なのだとか。次いでポーランドから15名。映像審査を経て、7月に本選の参加者が発表される。
●トマシュ・リッテル、川口成彦のおふたりがプレイエル(1843)を用いてそれぞれソロでショパンを2曲ずつ、さらにシューベルトで連弾も弾いてくれた(2つの性格的行進曲D886の第1番、だったかな?)。色彩感豊かで、コンパクトな空間で近距離で聴けたのでダイナミクスも十分。ぜいたくな環境で堪能。それぞれ会見では前回のコンクールの思い出なども語ってくれた。リッテル「コンクールは特別な思い出。それまでに出場してきたコンクールとは異なる未知の雰囲気を感じた。難しかったのは楽器選択。各楽器が固有の色を持っており、楽器を選んだ時点で音楽性が決まってしまうようなところがあった」。川口「前回コンクールは楽しい思い出。その前から古楽器のコンクールをいくつか受けており、主にモーツァルトら古典派の音楽にフォーカスしていたが、ロマン派に集中して取り組む人生のターニングポイントになった」
●コンクールはすべてライブ&アーカイブ配信あり。
HIPであること、「LAフード・ダイアリー」(三浦哲哉著/講談社)
●クラシック音楽の世界でHIPといえば、Historically Informed Performanceの略。作曲当時の楽器や奏法を研究し尊重することで、古楽を20世紀以降の演奏慣習から解き放ち、作品を本来あるべき姿でとらえ直そうとする。「オーセンティックな」という主張の強い言い方に比べると、客観的で謙虚さが感じられる表現だと思う。だれが最初にこの言い方を始めたのかは知らないのだが、もちろんこの略号には言葉本来の意味で「hip」である、つまり「カッコいい」「流行の」というニュアンスを含んでいるのだろう。そこにはこれらピリオド・スタイルの演奏はおおむね斬新で刺激的だという含意があったはず。もしかすると先に「hip」という言葉があって、そこにHistorically Informed Performanceという言葉をあてはめたのかもしれない……。
●というのが、つい先日までの自分の漠然とした理解だった。が、アメリカの食文化について書かれた本を読んでいて、目から鱗が落ちたので、以下に記しておく。読んだのは「LAフード・ダイアリー」(三浦哲哉著/講談社)。まずこれが本としてめっぽうおもしろい。映画研究者で食文化に造詣の深い著者がLAに住み、最初はその異次元の食文化に衝撃を受けるが、恐ろしく多様性に富んだ現地のレストランで食べ歩きを敢行することで、LAにおける美食の価値観への理解を深めてゆく。そんな食のエッセイでもあり、都市文化論でもある。
●で、目をみはったのは、「ヴェニスの『ヒップな』食」と小見出しが打たれた一節。ヴェニスというのはイタリアではなくLAの一地区の名なのだが、ヘルシー&オーガニック志向の店が並ぶ通りにあるジェリーナという人気レストランを訪れるくだりがある。このお店を訪れると、店内がおしゃれであるばかりか、客も「ファッション・ピープル風」の率が異様に高い。料理の味と客のかっこよさがどう関係しているのか。そこで、著者はジョン・リーランド著「ヒップ──アメリカにおけるかっこよさの系譜学」を思い起こし、こう述べる。
リーランドは、アメリカにおけるポップカルチャー、とりわけカウンターカルチャーにおいて、「ヒップ」(=かっこよさ)と呼ばれる価値の内実がどのようなものかを系譜学的に辿りつつ解き明かす。まず指摘されるのは、「ヒップ」の語が、もともと西アフリカのウォロフ語において「見る」を意味する言葉「へピ(hepi)」ないし「目を開く」を意味する「ヒピ(hipi)」だった事実である。「ヒップ」は、「見る」こと、さらに敷衍して「知ること」、「知識を持つこと」をも意味した。あえて英語の外の、謎めいた響きを持つ語が用いられていることがポイントだ。「ヒップ」はそれ自体、隠語である。つまり「ヒップ」であることとは、ただ単に知識を持つということではなく、隠された秘密の知識を持つことを指す。それが、かっこいいのだ。
なんだか音楽の世界に近い話になってるぞ、と思う。ヒップ、それは隠された秘密の知識を持つこと。そして、高級レストランはヒップには該当せず、エスタブリッシュメント層にはわからない猥雑なメニューをそろえる店こそヒップだという。ヒップの語源が西アフリカというのも驚き。
●さらに著者は高級オーガニック・スーパーで「ほとんど疑似科学というかオカルトめいた、あやしい健康食品」をせっせと買い込む高感度そうな買い物客たちについても、リーランドのヒップ論が理解を助けると指摘する。
規格化された合理的大量生産品の行き渡るアメリカン・ウェイ・オブ・ライフを当然視する世の風潮に抗って、自分たちだけが、忘れられた太古の言語を学び直している──そのスタンスこそが「ヒップ」である。もちろん極めてまっとうな科学的知見にもとづいて食をめぐる実践に身を投じる方も多くいるだろうが、しかし、オーガニック・ライフスタイルが、しばしば秘教的なものといともたやすく結びついてしまうのは偶然ではないのだ。
●忘れられたいにしえの言語を学び直すのがヒップ。わわ、本当にHistorically Informed Performanceの話をしているみたいではないの。ドキドキしながら読んでしまった。規格化された大量生産品に抗うという姿勢もどこか一脈通じている。
●ちなみに本書には著者の公開レクチャーを掲載した「映画と牛の関係について」という章があって、これがまためちゃくちゃおもしろい。映画と食の関係について「牛」をキーワードに論ずるのだが、あまりに展開が鮮やかで感嘆せずにはいられない。
エリアス弦楽四重奏団 ベートーヴェン・サイクル III ~ サントリーホール チェンバーミュージック・ガーデン
●7日はサントリーホールのブルーローズでエリアス弦楽四重奏団のベートーヴェン・サイクル。5日に続いての同シリーズだが、ワタシはこの2公演のみ。もし全日聴けていたら最高の体験だった。プログラムは弦楽四重奏曲第5番イ長調、弦楽四重奏曲第9番ハ長調「ラズモフスキー第3番」、弦楽四重奏曲第14番嬰ハ短調。少し長めのプログラム。終演は21時20分頃。全体として演奏の感触は先日の公演と同様で、エキサイティングかつ調和のとれた最上級のベートーヴェンを聴いたという満足感が残る。
●弦楽四重奏曲第5番、ハイドン&モーツァルト風味があるけど、冒頭は(調は違うが)モーツァルトの第17番「狩」を連想する。第2楽章がメヌエットで第3楽章が緩徐楽章という逆順の楽章構成が特徴的。この緩徐楽章が味わい深い。「ラズモフスキー第3番」は速めのテンポによるスリリングな演奏。第1楽章も速いと思ったが、終楽章はもっと速い。同じ中期作品で比較すると、先日の「セリオーソ」よりもぐっとコーナーギリギリを攻めた感。中期交響曲と遜色のない作品の巨大さに圧倒される。フィナーレの終わりそうで終わらない執拗さに「運命」味も。曲が終わる数小節前からワーッと拍手が出そうな白熱した演奏だと思ったが、今日の演奏会場でそんなことは起きるはずがない。
●後半の第14番に先立って、この日も第1ヴァイオリンのサラ・ビトロックがマイクを持って簡潔な作品紹介。かつてないさまざまな感情表現を実現するために後期四重奏曲は多楽章化しており第14番は7つのが楽章があることや、各楽章の性格と全体の大まかな流れを紹介。こういった短いトークは大歓迎で、後半頭に入れる方式はもっとまねされてもよいのでは(トークに前置きとかまとめを入れないで、本題だけ話すところがいい)。そして長い曲だが長さを感じさせないフレッシュな演奏。
●ベートーヴェンの弦楽四重奏曲だと客席の平均年齢と男性率が高くなるという説を小耳にはさんだ。
●本当は「ラズモフスキー第3番」という曲名はどうかと思う。フルに曲名を書くと、弦楽四重奏曲第9番ハ長調「ラズモフスキー第3番」作品59-3。同じ曲に「第9番」と「第3番」というふたつの番号が混在しているのが落ち着かないし、「作品59-3」の「3」の情報が「第3番」と本質的に重複しているのも気になる。データとして「正規化」したくなる。でも、今さらできない。
●AIに描いてもらったベートーヴェン、ふたたび(EdgeのImage Creator/DALL-E)。ポップ・アート風に。
SOMPO美術館 ブルターニュの光と風 画家たちを魅了したフランス〈辺境の地〉
●SOMPO美術館の「ブルターニュの光と風」展に行った。軽く混乱したのだが、同時期に国立西洋美術館では「憧憬の地 ブルターニュ」展が開催中。期間はどちらも6月11日まで。門外漢だからよくわからないのだが、この「ブルターニュかぶり」って、わざと? それとも偶然? クラシック音楽界でも似たようなことはよくあるわけで、今月めったに演奏されないラフマニノフの交響曲第1番がノセダ指揮N響と尾高忠明指揮東フィルでかぶってるみたいなものか。あるいは過去にはシェーンベルク「グレの歌」三連発ということもあったっけ。
●ブルターニュ地方は半島なので海を題材とした絵がたくさん。それも荒涼とした海。たとえば、テオドール・ギュダン「ベル=イル沿岸の暴風雨」(1851)。ぱっと見、これは日本海だと思った。ブルターニュ半島というか能登半島くらいのイメージの荒波(いや、ベル=イルは島か)。ザパーン!と波が岩を打ち付ける音が聞こえてきそう。
●こちらはアンリ・ジャン・ギヨーム・マルタンの「ブルターニュの海」(1900)。同じブルターニュの海でも印象派の洗礼を受けると、こんなにもキラキラして、こじゃれた感じになるのか。
●楽しいのはアルフレッド・ギユの「コンカルノーの鰯加工場で働く娘たち」(1896頃)。女子たちが腕を組んで横に並んで歩くというのは、一種の仲良し表現なのか。若い船乗りの男がそこにやってきて、イワシでいっぱいの籠を見せびらかす。ひとりの女がたまらず籠に手を出し、みんなに向かっていう。「うひょ!見て見て、このイワシ、大漁~~!」。浮足立つ女子たち。口中に広がる仮想的なイワシの蒲焼の味わい。ゴクリと唾をのむ音が聞こえてくる。イワシでナンパする男の次の一言はいかに。「おねえさんたち、イワシ一貫、握りましょうか」(んなわけない)。
●海を主題にしていると、付随的に「労働」というテーマが浮かび上がってくる。これはピエール・ド・プレ「コンカルノーの港」(1927)。写真ではわかりづらいが、絵具が厚塗りで力強く、重労働ぶりが伝わってくる。男たちの寡黙さとともに。
エリアス弦楽四重奏団 ベートーヴェン・サイクル II ~ サントリーホール チェンバーミュージック・ガーデン
●5日はサントリーホールのブルーローズでエリアス弦楽四重奏団のベートーヴェン・サイクル。ベートーヴェンの弦楽四重奏曲全曲をシリーズで演奏するチェンバーミュージック・ガーデンの名物企画。今年はイギリスを拠点とするエリアス弦楽四重奏団が登場。初めて聴く団体だけど実績は豊富で、ウィグモアホール・ライブ・レーベルからベートーヴェン全集他がリリース済み。
●この日はシリーズ二日目にあたる公演で、プログラムは弦楽四重奏曲第2番、同第11番「セリオーソ」、同第13番(フィナーレは短いアレグロ)。このシリーズ、16曲の弦楽四重奏曲をどう振り分けるかが問題だけど、エリアス弦楽四重奏団は各公演に初期・中期・後期作品を分散させる方式。で、第13番はフィナーレに「大フーガ」と短いアレグロの2バージョンが考えられるわけだが、両方を演奏する。この日は短いアレグロで終わる第13番。
●演奏は非常にバランスがとれていて、練り上げられたベートーヴェン。このシリーズ、毎年必ず聴いているわけではないけど、自分がこれまでに聴いた中では屈指の好感度。4人が同じ絵を描くためにぴたりとひとつになっているけど、個が埋没していない。切れ味の鋭さは必要十分で、キレッキレのエクストリーム・ベートーヴェンで驚かせようという方向性ではなく、無理のない音楽。なおかつ、詩情豊かで、目立たないフレーズでもみずみずしい。25年もいっしょに演奏していてこんなにフレッシュさを保てるものかと感心(メンバーは途中でふたり交代しているみたい)。妙に衒学的な空気もないし、ユーモアもあり、全体としてポジティブなエネルギーにあふれているのが吉。
●白眉はやはり第13番か。後半の頭で第1ヴァイオリンのサラ・ビトロックがマイクを持って、簡潔に作品解説をしてくれた。全6楽章がそれぞれまったく違った性格の音楽からできており、楽章の長さもまちまちだけれど、メロディにはつながりがあって、第2楽章以降の各楽章のおしまいの音が次の楽章のはじまりの音になっている、またフィナーレにはふたつのバージョンがあり、大フーガ付きのバージョンは後日の公演で演奏することなどが述べられた(やさしい英語でゆっくりしゃべってくれた)。まあ、両方のフィナーレを聴ければ理想的なんだけど、残念ながら「大フーガ」の14日は都合がつかず、この日の短いアレグロを選んだのだった。できれば「大フーガ」を聴きたかった……という思いもあったのだが、この日の演奏を聴いて、短いアレグロにあるいくぶんクレイジー風味の痛快さに気づく。単なる「プランB」ではないなと実感。
●おまけ。AIに描いてもらったベートーヴェン(EdgeのImage Creator/DALL-E)。「リキテンスタイン風に」と指示したのではなく、シンプルに「ポップ・アート風に」と依頼したらこうなった。
FC東京vsマリノス VARがあってもレッドカードは難問 J1リーグ第16節
●週末は線状降水帯が発生して、広範囲で大雨になった。東海道新幹線は運転を見合わせに。神戸vs川崎戦は選手の移動ができず、中止になった。首位の神戸の消化試合が一試合少なくなったので、そのつもりで順位表を見なければ(ACLで試合が少ない浦和も同様)。J2の藤枝vs栃木戦はキックオフ時刻が14時から17時に変更。遠征組は大変。
●で、DAZNでFC東京対マリノスを観戦。キックオフ直後にマリノスが先制し、前半の間で逆転され、後半にさらに再逆転して東京2-3マリノス。スリリングなシーソーゲーム。見ごたえのある一対一の攻防が多く、激しさと技術の高さを両立させた好ゲームだったのだが、後半24分に東京の松木玖生に出たレッドカードが勝敗を分けてしまった。マルコス・ジュニオールとの一体一の奪い合いで、松木の肘がマルコス・ジュニオールの顔にヒットした。
●この場面、リアルタイムではレッドカードに見えなかった。VAR(ビデオ判定)のある今日、マルコス・ジュニオールの過剰なアピールは時代遅れじゃないかと思ったほど。が、スロー再生で見ると、松木は肘を振っているし、肘が顔面をとらえている。そこだけ切り取ればレッドカードに見える、というか、これを見てレッドカードを出さなかったら厳しく糾弾されることは必至。でも、前後の流れも含めて見ると「お互いにバチバチにやりあった結果、肘が入ったけど、これぞフットボールの醍醐味」という場面でもあったのだ。人の目は文脈に左右されるので、VARがなければ多くの主審はレッドを出さないのでは? でもビデオを見てしまったら、出さずに済ませるのは難しい。で、レッドを出した主審は大ブーイングを浴びる。出しても非難されるし、出さなくても非難される。
●こういうとき、審判という仕事が十分に報われていないと感じる。VARが導入されても、やっぱり主審は守られていない。もう、だったら草サッカーみたいにセルフジャッジで試合をしたらどうか。そう思うこともある。主審は度重なる抗議に嫌気が差したら、ポケットからホワイトカードを出して掲げる。その時点で審判団は試合から離脱。そこから先はセルフジャッジだ。判定で揉めたら声の大きいほうが勝ち。
●というのは冗談だが、レッドカードとかハンドとか、人によって見方の分かれる場面は、今後はAIに判定させようっていう流れになるんじゃないだろうか。こういった経験知の世界は、はっきりいってAI向き。学習用に過去の映像データを大量に用意するのも容易。人間を介在させるから揉めるのであって、テクノロジーで解決したい。
●関係ないけど、ひとついい話だなと思ったこと。ベルギーのサークル・ブルージュで活躍する上田綺世が22ゴールを挙げて、得点ランキング2位でシーズンを終えた。あと少しで得点王。チームメイトからは「プレイステーション」と呼ばれてるのだとか。ゲームみたいに、打てば入るというニュアンスか。日本人にもそんな選手が出てきた。
パスカル・ヴェロ指揮仙台フィルのフランス音楽プログラム
●1日はサントリーホールで「アイリスオーヤマ クラシックスペシャル2023 パスカル・ヴェロ×仙台フィル」。満員。桂冠指揮者のパスカル・ヴェロによるフランス音楽プログラムで、前半にプーランクの演奏会用組曲「牝鹿」、オルガン、弦楽とティンパニのための協奏曲(オルガンに今井奈緒子、ティンパニに竹内将也)、後半にベルリオーズの「幻想交響曲」。仙台フィル、首都圏でも聴く機会はそこそこあったはずなんだけど、今までタイミングが合わず、もしかすると今回が初めてかも。フランス音楽プロということもあってか、磨かれた澄明なサウンド。重くなく、粘らず、華やか。前半、「牝鹿」はプーランクの洒脱さが魅力だとは思うが、作品としては断然オルガン協奏曲がおもしろい。軽妙であり真摯でもある作曲家の二面性が最高の形で昇華されている。オルガンの響きがサントリーホールの空間いっぱいに満たされる。この日の白眉。後半のベルリオーズは爽快。ドロドロした情念にフォーカスするのではなく、華麗なオーケストレーションを堪能させるスマートな音の饗宴。場内は喝采、拍手に温かみを感じる。長めのプログラムだったので、アンコールなし。
●公演の主催はアイリスオーヤマ。「幻想交響曲」はアイリスオーヤマの大山会長がパスカル・ヴェロにリクエストした曲なのだとか。この日もご臨席でスタンディングオベーション。本当にお好きな模様。ふだんの公演とはちがって、客席には若いビジネスマン風の方が大勢いたのだが、マナーがよくて感心してしまった。どういう縁であれ、若いうちにこんなふうに生のオーケストラのサウンドを体験してもらえるのはありがたいこと。なんといっても最初の1回のハードルがいちばん高いので。これを機に新たな道楽を発見する人もいくらかはいるはずだし、この道楽はいくらでも楽しめる底なし沼だ。
上岡敏之指揮読響のシベリウス、ニールセン他
●31日はサントリーホールで上岡敏之指揮読響。プログラムはシベリウスの交響詩「エン・サガ」、シューマンのピアノ協奏曲(エリソ・ヴィルサラーゼ)、ニールセンの交響曲第5番。指揮者とオーケストラの相性はバッチリ。他の読響指揮者陣とは違ったキャラクターの音が出てくる。鋭いアクセントを伴うくっきりとしたサウンドでありつつ、抒情的な部分はたっぷりと。表現のコントラストが鮮やか。きらびやかな最強奏から繊細な弱音まで、ダイナミクスも十分。ヴィルサラーゼは闊達、貫禄のソロ。
●シベリウスの「エン・サガ」(伝説)は謎の曲。こんなにストレートな曲名が付いているのに、肝心のサガ(サーガ)がなんなのか、明らかにされていないというもどかしさ。曲調からすると、きっと具体的な登場人物なり場面なりが曲想と紐づいていると思うんだけど……。
●圧巻はやはりニールセンの交響曲第5番。軍隊調の小太鼓が示すように、この曲は戦争交響曲。時節柄、現実の戦争を意識せざるをえないだろうと覚悟して聴いたけど、むしろ感じ入ったのは圧倒的な壮麗さであり、力強い希望の音楽であるということ。1920年代のモダンさは、今にしてみればレトロフューチャー調のカッコよさ。コーダの輝かしさは尋常ではない。こういう快演を聴くと、この曲がもっと演奏されないのが不思議になってくるけど、オーケストラの高機能性は大前提か。終演後、上岡敏之のソロカーテンコールとスタンディングオベーション。
●おまけ。カール・ニールセンの肖像2点。
●いずれもMicrosoft EdgeのAI画像生成機能Image Creator(DALL-E搭載)作。交響曲第5番に寄った雰囲気のものを描いてもらったつもり。