●最近読んだ小説で秀逸だなと思ったのが、莫理斯(トレヴァー・モリス)の「辮髪のシャーロック・ホームズ 神探福邇の事件簿」(舩山むつみ訳/文藝春秋) 。シャーロック・ホームズのパスティーシュなのだが、舞台が香港なのだ。時代は原作そのまま。大英帝国の東の果ての植民地で、ホームズ役の福邇(フー・アル)とワトソン役の華笙(ホア・ション)がさまざまな事件に向き合う。移動は馬車ではなく、人力車だ。福邇はアヘンを吸う、ホームズと同じように。物語を通して伝わってくる当時の香港の様子がおもしろい。西洋人もいれば中国人もいて、英語、北京官話、広東語などいくつもの言語が飛び交っている。実在の人物も登場し、歴史小説的な味わいもある。
●で、全6話が収められており、それぞれが原作の「ボヘミアの醜聞」「ギリシャ語通訳」「赤毛連盟」だったりを下敷きにしているのだが、どれも原作から一ひねりしてあって新味がある。舞台が香港であることがうまく生かされている。
●ところで原作のホームズはヴァイオリンの名手であり、ストラディヴァリウスを所有していることになっているのだが(参照:シャーロック・ホームズの音楽帳その1)、こちらの福邇はヴァイオリンではなく胡琴を弾く。で、福邇が胡琴で一曲披露する場面があって、曲は「3、40年前にドイツのある有名な作曲家がヴァイオリンのために書いた曲」であり、「ほかの楽器と合奏する部分もあるが、そこは省略した」という。曲名も作曲者も明言されていないものの、物語の舞台は1880年代前半となっていることから、訳者はこの曲をメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲と推定している。演奏を聴いた華笙が「その旋律は行く雲、流れる水のようによどみなく、ときには泣くが如く、恨むが如く、人の心を震わせる」と言っているので、なるほど、それはメンデルスゾーンしか思いつかない。
June 20, 2023