●先日、チョン・ミョンフン指揮東京フィルのヴェルディ「オテロ」(演奏会形式)を聴いたので原作を新訳で。「新訳 オセロー」(シェイクスピア著/河合祥一郎訳/角川文庫) 。ヴェルディの「オテロ」(台本を書いたのはボーイト)が、オペラ化にあたって原作からなにをそぎ落とし、なにを残しているのか。基本的にオペラ化は「削ること」。「オテロ」では、シェイクスピアの「オセロー」第1幕がごっそり削られ、それに伴ってデズデモーナの父ブラバンショーという登場人物をひとり省くことに成功している。
●原作の第1幕でのイアーゴーとブラバンショーの会話は実におもしろい。ブラバンショーにとって娘デズデモーナがムーア人のオセローと結婚するなどということは到底受け入れられないこと。しかも肌の色だけでなく、年の差もかなり開いている。イアーゴーはロダリーゴーとともに真夜中にブラバンショーの家に行き、「泥棒だ、泥棒だ!」と叫ぶ。騒ぎを聞きつけたブラバンショーに、イアーゴーはこう言い放つ。
たった今、まさに今、老いた黒羊があんたの白い雌羊にまたがってる。起きろ、起きろ、いびきかいてる街の連中を鐘撞いて叩き起こせ。さもなきゃ悪魔の孫が生まれちまうぜ。
オセローが「老いた黒羊」と表現されているが、彼が年をとっていることはたびたび言及される。さらにこんなセリフも続く。
娘さんがアフリカ産の馬にやられていてもかまわないんですね。まごまごしていると孫がヒヒンと鳴いて、馬の親戚ができちまいますよ!
ブラバンショーは娘が「ヴェニスの裕福な巻毛の美男子たちの縁談を断り」、ムーア人と結婚して世間の物笑いの種になるのだと嘆き悲しむ。
●イアーゴーはセリフで自分が28歳であると述べる。本書の注釈では、初演時にイアーゴーを演じた役者の年齢に合わせたのだろうと推察されている。オペラでは「純粋なる悪」のようなイアーゴーであるが、原作の第1幕では彼が人間の意志と理性を尊ぶ人物であることが以下のように描かれている。オセローのような激情家とは正反対なのだ。
性格だと? くだらん! 自分がどういう人間か決めるのは、自分次第だ。俺たちの肉体は、俺たちの意志が種を蒔く庭みたいなもんで、イラクサを植えようと、レタスを蒔こうと、ハーブを育てようと、タイムを引っこ抜こうと(中略)それを思い通りにする力は俺たちの意志にある。人生っていう天秤にはな、本能が載った皿と釣り合ってもう一方の皿に理性が載ってなきゃ、くだらん肉欲のせいでとんでもないことになっちまう。だが、人には理性があって、猛り狂う衝動や性欲や奔放な情欲を抑えるんだ。
●人間の理性をとことん信奉するイアーゴー。そんな男がなぜ悪事に走るのか。第1幕、イアーゴーにはこんな独白がある。
俺はムーアが憎い。世間じゃ、やつが俺の女房の布団にもぐりこみ、俺の代わりを務めたという。本当かどうか知らんが、こういうことにかけちゃ、俺は単なる疑いでも許しちゃおかない。
えっ、そうなんだ。さらに、第2幕ではこんなことも言っている。
キャシオーも俺の寝巻きを着たらしいからな。
つまり、イヤーゴーはオセローにもキャシオーにも妻エミーリアを寝取られている(と少なくとも本人は思っている)。イヤーゴーは理性の信奉者なのに、周りの人間は奔放な人間ばかり。最後の場面で、エミーリアがイヤーゴーの悪事を明るみに出すと、イヤーゴーはエミーリアを刺す。オセローとイヤーゴーはともにそれぞれの妻を殺し、また妻を寝取られたと思っている。これは理性の男と激情の男がまったく同じ運命をたどる話なのだ。
(つづく)