●METライブビューイングでモーツァルト「ドン・ジョヴァンニ」を観た。イヴォ・ヴァン・ホーヴェによる新演出。舞台は現代で貴族たちはスーツ姿、庶民たちは無地のシャツにパンツという衣装。ヴァン・ホーヴェの演出は純然たる喜劇とも悲劇ともいいがたいこの作品から、コミカルな要素をそぎ落として、作品のダークサイドを前面に押し出したもの。現代的価値観からすれば、ドン・ジョヴァンニは性犯罪者であり殺人者でしかない。題名役にペーター・マッテイ、レポレッロにアダム・プラヘトカ、ドンナ・アンナにフェデリカ・ロンバルディ、ドンナ・エルヴィーラにアナ・マリア・マルティネス、ツェルリーナにイン・ファン、マゼットにベン・ブリス、騎士長にアレクサンダー・ツィムバリュク。エッシャーをヒントにしたという舞台装置は、彩度も明度も低く、重苦しい迷宮のような趣がある。
●こういう演出だと、コミカルな役柄のツェルリーナは背景に一歩退き、シリアスなドンナ・エルヴィーラの存在感が際立ってくる。ドンナ・エルヴィーラの物語といってもよいほど。なるほどと思ったのはマゼット。おおむね非力な役柄として描かれるマゼットが、ここでは腕っぷしの強そうな巨漢の黒人歌手により演じられ、ドン・ジョヴァンニへの対抗心をあらわにする。ピストルだって持つのだ。だまって権力に従うつもりはさらさらない。
●が、第2幕以降、リアルでダークな演出と本来の作品のテイストに隙間が生まれてくる。服装を交換してドン・ジョヴァンニとレポレッロがまちがえられるという喜劇的展開は奇妙に見えるし、ドン・ジョヴァンニに暴力を振るわれて流血しているマゼットに、ツェルリーナが「薬屋の歌」をうたうのもあまりに牧歌的。が、こういった齟齬まで含めて、「ドン・ジョヴァンニ」という作品が成立しているのかも。どうやってもなにかが落ち着かない作品というか。METデビューとなったナタリー・シュトゥッツマンの指揮は堂々たるもので、演出に応じてなのか、かなり重くて粘るモーツァルト。
●演奏の質が高ければだいたいそうなるのだが、モーツァルトのオペラでは、途中から音楽が演出もストーリーも置き去りにして「自走する」ような感覚がある。今回もそんなふうに感じた。
July 3, 2023