●一昨年、ついにあのラテンアメリカ文学の大傑作が文庫化された。バルガス・リョサの「都会と犬ども」が! と言いたいところだが、光文社古典新訳文庫の表記ではバルガス・ジョサの「街と犬たち」なんである。えっ、なんか違和感あるんすけど。バルガス・リョサがバルガス・ジョサになるのはまだいいとして、「都会と犬ども」が「街と犬たち」なんて。なんだかカッコよくないぞ。そこで、旧訳の「都会と犬ども」(杉山晃訳)と「街と犬たち」(寺尾隆吉訳)の訳文を比べてみようかななどと思いつつ、新訳を読みはじめてみたら、これが大変すばらしいのだ。もう最高に読みやすいし、作品世界に没頭できる。旧訳での「ヤセッポチ」(犬の名前)は新訳では「マルパペアーダ」に、「詩人」(アルベルトの愛称)は「文屋」に、「巻き毛」は「ルロス」になっている。全般に今の時代に即した訳文だと感じる。しかも翻訳がよいだけではなく、組版もいい。新潮社の旧訳より文字が大きくて、ストレスがない。しおりが付いていて、そこに登場人物紹介が載っているのも親切。迷わず新訳を読めばいいと思う。
●小説の舞台となるのはペルーのレオンシオ・プラド軍人学校。軍人学校らしい厳格な規律があるけれど、生徒たちはみな隠れて煙草を吸ったり酒を飲んだりしている。暴力行為も横行するなかで、少年たちは連帯し、特殊な環境のなかで自分たちの青春を生きる。この軍人学校というのは士官学校ではあるのだが、卒業しても軍人になる者は少数派で、多くの子供たちは親にむりやり入れさせられている。本当のエリート養成機関ではなく、手の付けられないガキの性根を叩き直すための全寮制学校といった感じだ。化学のテストで少年グループがカンニングをする場面から物語がはじまり、次第に登場人物たちのそれぞれまったく異なる背景が見えてくる。淡いロマンスもあって青春小説であり成長小説でもあるのだが、重要な背景としてあるのが、少年たちの属する社会階層の違い。作者の投影でもあるアルベルトはクラスにふたりしかいない白人のひとりで、軍人学校では少数派だ。喧嘩は強くないが、文才で一目置かれ、手紙の代筆屋などをしている。軍人学校ではリーダー格のジャガーのように喧嘩の強い少年がヒエラルキーの頂点に立つ。一方で、学校から一歩外に出れば、アルベルトは裕福な白人家庭の子供であり、家庭内に問題を抱えてはいても、経済力が未来の選択肢を保証する。そんなアルベルトが、親に捨てられたような子供もいるメスティーソ(混血)やインディオたちからなる軍人学校のなかで必死に築き上げた自分の居場所というものが、学校の外部ではなんの用もなさないという「世界ががらりと違って見える瞬間」が、この小説の醍醐味のひとつだろう。それが端的にあらわれているのが、貧しい家の少女テレサとの恋。
●アルベルトは「奴隷」と呼ばれる友人の代わりに、テレサのもとを訪れる。奴隷はスクールカーストの最下層にいて、友人はアルベルトしかいない。奴隷はテレサとデートの約束をしていたのだが、外出禁止になってしまったため、アルベルトがそれを伝えようとテレサの家を訪れたのだ。初めてテレサを見たアルベルトは「やっぱりブスだ」と思う。これは一目ぼれの瞬間を描いているわけだ(すごくない?)。アルベルトは奴隷に代わってテレサと映画に出かけて、その後もデートを重ねるのだが、その事実を奴隷に伝えることができない。エピローグの場面で、卒業したアルベルトとつき合っている裕福な白人の女の子が、わざわざ貧しい地区に住むテレサに会いに行ったと話す。テレサについての感想は「不細工よね」。この一言がアルベルトが初めてテレサと会ったときの「やっぱりブスだ」とまったく違ったニュアンスで重なっていて、実に巧緻。
●この小説は章によって三人称や一人称が使い分けられている。で、一人称なのに「僕」がだれかわからない章がある。この「僕」のストーリーが軍人学校のストーリーとは別に進んでいき、最後のほうで「僕」とは何者かがわかる仕掛けになっている。旧訳では訳者解説でその種明かしがされていてどうかと思うのだが、新訳ではそんなことはない。ともあれ、解説より本編を先に読むことを強くオススメ。実はこの新訳の訳者解説にはとてもおもしろいエピソードが紹介されているのだが、その話題はまた改めて。(→つづく)
2024年3月アーカイブ
「街と犬たち」(バルガス・ジョサ/寺尾隆吉訳/光文社古典新訳文庫)=「都会と犬ども」の新訳
東京・春・音楽祭2024 ワーグナー「トリスタンとイゾルデ」演奏会形式
●27日は東京文化会館で東京・春・音楽祭2024の目玉公演、ワーグナー「トリスタンとイゾルデ」演奏会形式。たまたま新国立劇場で演目が重なっているため、2週連続して水曜日にこの大作を聴くことに。ウェンズデー・トリスタン。なかには連日という方もいるだろうし、複数回足を運ぶ方もいるわけで、東京では「トリスタンとイゾルデ」旋風が吹いている。道行く人々がみんなワーグナーの話しかしていない(ウソ)。
●キャストが豪華。今回もマレク・ヤノフスキ指揮NHK交響楽団がビシッと引きしまった演奏で、5時間の長丁場ながらまったくだれない。85歳のマエストロの棒のもと、音楽が前へ前へと進む。ピットからではなく、ステージ上でしっかりと鳴るオーケストラを聴けるのが演奏会形式の楽しみ。タイトだが、重厚さも十分。ゲスト・コンサートマスターにMETのベンジャミン・ボウマン。歌手陣も充実。一番人気はトリスタンのスチュアート・スケルトンで、美声だけど恰幅の良さに応じて超パワフル。舞台上でどんどん演技をする派。イゾルデはビルギッテ・クリステンセン。ムラはあったけど、まろやかな声で気品のあるイゾルデ像を築く。演技はせずに楽譜を見る派。マルケ王にフランツ=ヨゼフ・ゼーリヒ、ブランゲーネにルクサンドラ・ドノーセ、メロートに甲斐栄次郎、クルヴェナールにマルクス・アイヒェ。クルヴェナールが真に立派。
●本日のハイライト。秘薬を飲む場面でペットボトルの水を飲んだトリスタン。2階席から歌うブランゲーネ。ステージ上手で吹くイングリッシュ・ホルン。全幕を終えて、フライングではないのだが少し気の早い拍手がパラパラと起きてしまった……と思ったら、マエストロが両手を斜め下方向にピンと伸ばして拍手を制止した! 余韻を損なう拍手を指揮者が止める。新様式の誕生だ。
●マルケ王が「ほう・れん・そう」を欠いたばかりに第3幕で誤解から犠牲者が続出してしまった……って話は、先週も書いたからもういいか。
●「トリスタンとイゾルデ」第3幕で、瀕死のトリスタンが海からイゾルデを乗せた船がやってくる様子に興奮する。こういう陸から海を見て船の到来に歓喜するというシーンはオペラのひとつの定型だろう。ヴェルディ「オテロ」冒頭の将軍の凱旋、プッチーニの「蝶々夫人」でピンカートンを乗せた船が帰ってくる場面、ワーグナー「さまよえるオランダ人」の幽霊船。古くはヘンデル「ジュリオ・チェーザレ」でクレオパトラが歌う「嵐で難破した船が」もその一種か。オペラではないがメンデルスゾーンの序曲「静かな海と楽しい航海」でも、船が難破しかけるけど無事に着いて喜びのファンファーレが奏でられる。名付けるなら「海から船がやってきて嬉しいシーン」。これの逆ベクトルに相当するのが「海に人が向かっていって悲しいシーン」で、ベルクの「ヴォツェック」とブリテンの「ピーター・グライムズ」の痛ましい結末が双璧だと思う。
フェスタサマーミューザKAWASAKI 2024 記者発表会
●26日、ミューザ川崎でフェスタサマーミューザKAWASAKI 2024の記者発表会が開催された。今年も福田紀彦川崎市長をはじめ、ホールアドバイザーであるピアニストの小川典子、オルガニストの松居直美、ピアニストで作編曲家の宮本貴奈の各氏らが登壇(チーフ・ホールアドバイザーの秋山和慶さんは風邪でお休み)。2005年にスタートした同音楽祭も今回で20回目。「夏音!ブラボー20周年」を合言葉に7月27日から8月12日にかけて、ミューザ川崎シンフォニーホールで17公演、昭和音楽大学テアトロ・ジーリオ・ショウワで2公演を開催する。
●首都圏9つのオーケストラの競演がこの音楽祭の中心だが、今回はゲストに佐渡裕指揮の兵庫芸術文化センター管弦楽団(通称PACオケ)も招かれる。プログラムはシェーンベルクの交響詩「ペレアスとメリザンド」他。このプログラムは兵庫での定期公演と同じなんだけど、PACオケって同一プログラムを3日間開催しているんすよ(すごい集客力)。で、川崎に持ってくるのが4日目。シェーンベルクで同一プロ4日間を達成するとは。あと、ゲスト勢としては吹奏楽で浜松国際管楽器アカデミー&フェスティヴァル ワールドドリーム・ウインドオーケストラも登場。指揮は原田慶太楼。
●ホストオーケストラとも言うべき東京交響楽団は、今年もオープニングコンサートを音楽監督のジョナサン・ノットが、フィナーレコンサートを正指揮者の原田慶太楼が指揮。ノットは昨年に続いて他ではほとんど振らないチャイコフスキー・プロで、交響曲第2番「小ロシア」&第6番「悲愴」。原田慶太楼は吉松隆「アトム・ハーツ・クラブ」組曲第2番、伊福部昭のヴァイオリンと管弦楽のための協奏風狂詩曲(川久保賜紀)といった邦人作品と有名曲の組合せで、ガーシュウィン「ラプソディー・イン・ブルー」ではソリストを「バーチャルピアニスト」が務めると発表された。いったいこれがなにを指しているのか、質疑応答の過半の時間が占められることになった。ワタシの理解では、ちゃんと人間のピアニストがオーケストラと共演するんだけど、ステージ上には大型LEDが設置されていて、そこにモーションキャプチャーを用いて、おそらくアニメ調の絵柄としてピアニストの姿が再現される。で、その中の人はすでにオーディションで選ばれている。KADOKAWAとドワンゴと東京交響楽団が協力した「ポルタメタ」というプロジェクトの一環。
●あと、すごいなと思ったのは、テアトロ・ジーリオ・ショウワの公演で、若手ピアニストの田久保萌夏が秋山和慶指揮東響とグリーグのピアノ協奏曲で共演する。小川典子さんが大感激しながら話してくれたんだけど、この田久保さんは子どもの頃に小川典子「イッツ・ア・ピアノワールド」を最前列で聴いてピアニストになろうと思ったそうで、その後、昭和音楽大学に学んでいる。川崎生まれで川崎で学んだ若者がサマーミューザに出演者として登場する形で、音楽祭の20年間の歩みが結実することになった。田久保さんは以前、テレビ朝日「題名のない音楽会」(ワタシもかかわっている)で、視聴者参加企画「夢響」に視聴者として出演していたので名前に覚えがある。その点でも喜ばしいこと。
●そのほか、公演一覧はこちらに。あと、これは余談なんだけど、記者席に水のペットボトルのほかに、どら焼き、スウィートまーめいど、うなぎパイがひとり一個ずつ置いてあったんすよ! これは意味があって、どら焼きは新岩城菓子舗のミューザ20周年どら焼き、スウィートまーめいどはPACオケの出演にちなんで兵庫の高山堂のお菓子、うなぎパイは浜松国際管楽器アカデミー&フェスティヴァル ワールドドリーム・ウインドオーケストラの出演にちなんで浜松・春華堂のお菓子。気の利いたホスピタリティに感心してしまった(コーヒーもあった)。ワタシは甘党なので、始まる前から遠慮なくパクパク食べたが、そんな人はあまりいなかったかもしれない……。ぜんぶ、おいしい。お菓子最高。
川瀬賢太郎指揮名古屋フィルのレスピーギ「ローマ三部作」
●25日は東京オペラシティで川瀬賢太郎指揮名古屋フィル。2023年4月に川瀬賢太郎が名フィル音楽監督に就任して最初の東京公演。プログラムはレスピーギの「ローマ三部作」。客席はしっかり埋まっていた。18時30分から開演前のロビーコンサートがあり、なんとヴィオラだけのアンサンブル。本編に合わせてレスピーギ、ヴェルディを。開演前にロビーで聴く室内楽は久々の体験。ヴィオラならではの深みのある音色。
●「ローマ三部作」は前半に交響詩「ローマの噴水」と「ローマの松」、後半に「ローマの祭」。「噴水」の第1曲から精妙で、しっかりと練り上げられている様子が伝わってきた。明快でくっきりしたサウンド。「ローマの松」はバンダを左右中央に配置して、立体音響(鳥も)による一大スペクタクル。オーケストラは鳴りに鳴って、オペラシティの空間には収まりきらないほど。休憩後の「ローマの祭」も華やか。「主顕祭」のおしまいの乱痴気騒ぎは爆速。史上最速(自分比)の高速フィナーレだったが、荒っぽくならず、むしろアスリート的。これもふだんこのホールで耳にすることのないレベルの大音響で、強烈だった。客席の喝采の後、川瀬がマイクを持って登場し、この日で退団のコンサートマスター日比浩一へのメッセージを述べ、花束贈呈と挨拶。アンコールにイタリア音楽つながりでマスカーニの「カヴァレリア・ルスティカーナ」間奏曲。弦楽器の潤いのある質感が見事。現在の名フィルの演奏水準の高さを改めて実感した一夜。
●プログラムノートが今でもB5サイズなのは珍しい。文字が大きいのはありがたいが、半分に折らないと小さなカバンには収まらない。全曲全パートについての出演者一覧を記した紙が挟んであって、これはうれしい。あと、名フィルは地元では18時45分開演みたいだけど(広響もそうだっけ?)、東京では19時開演だった。そりゃそうか。でも18時45分開演って少しうらやましい。特にコロナ以降だけど、なるべく夜遅くに出歩きたくないと感じるようになってきたので……。
●3月後半に入って、オーケストラ・アンサンブル金沢、九州交響楽団、群馬交響楽団、名古屋フィルと各地のオーケストラの東京公演が続いたんだけど、この時期に集中する理由はなにかあるのだろうか。全国オーケストラ音楽祭が自然発生している。
ニッポンvs北朝鮮@ワールドカップ2026 アジア2次予選
●21日、ワールドカップ予選のニッポンvs北朝鮮が国立競技場で開催。完売だったそう。テレビ中継で観戦(DAZNは中継がないので地上波のみ)。ニッポンは三苫、冨安、伊東といった主力が招集外、大黒柱の遠藤航はコンディションを考慮してかベンチスタート、調子が下向きなのか久保建英もベンチ。それでもけっこうな豪華メンバーがそろうのが今のニッポン。GK:鈴木彩艶-DF:菅原由勢(→橋岡大樹)、板倉、町田、伊藤洋輝-MF:守田(→遠藤航)、田中碧-堂安(→谷口彰悟)、南野(→浅野)、前田大然-FW:上田綺世(→小川航基)。
●開始直後のニッポンの攻撃はスペクタクル。前半2分にあっという間に先制点を奪った。堂安の折り返しを南野がシュート、こぼれたボールをふたたび堂安がマイナス方向に折り返して、走り込んだ田中碧がきれいに合わせてゴール。田中碧はまたしても代表でゴール。こんなに活躍しているのに、いまだドイツ2部のデュッセルドルフでプレイしている謎。前半はそのままニッポンのペースが続いたが、追加点を決めきれず、次第に失速。すると後半は北朝鮮ペースに。足元の技術ではニッポンに及ばないが、フィジカルの強さを生かしたダイナミックなプレイでニッポンのゴールを脅かす。危険なラフプレイもなんどかあり、ひやひやする(VARはない)。ニッポンの選手たちは消極的になり、攻撃の形を作れない。パワー勝負のロングスローやロングボールがかなり嫌な感じで、序盤の攻勢がウソのよう。これは失点は時間の問題と思ったが、後半29分、森保監督は3枚替えで、谷口を投入して3バックに。かなり5バック気味になったが、谷口がディフェンスラインを押し上げて試合を落ち着かせた。3バックが効いたのか、北朝鮮の勢いがなくなったのか、ともあれピンチもチャンスも減って、1対0で辛勝。
●前田大然がよかった。サイドだと同じポジションにタレントが豊富すぎてなかなか前田の出る幕はないのだが、いざ出てみると前線からのプレスの激しさは大きな武器。トップに上田のような体を張るタイプを使うのなら、前田の居場所はサイドということになる。中央でも機能するとは思うが。途中出場の橋岡もよい。田中碧のゴールは見事。今回、37歳の長友が招集された。出場機会はなかったが、タフなアウェイ戦も考えればこういう選手が必要なのは納得。北朝鮮代表にはJ3岐阜の文仁柱(ムン・インジュ)が呼ばれ、途中出場を果たした。この試合に出場した唯一のJリーガーということになる。
●試合終了後、北朝鮮は26日ピョンヤンでの試合を開催できないと言ってきた。理由ははっきりしない。日本からの感染症の持ち込みを嫌ったという報道もあるが、意味がわからない。そんな急に言われても代わりの開催地を用意できるはずもなく、ひとまず試合の中止が決まり、代表チームは予定より早く解散した。ピョンヤンで試合をしなくて済むのはありがたいが(なにが起きるかわからない)、一方的に試合を放棄できる正当な理由があるとも思えないし、今の過密なサッカーカレンダーに空きはない。没収試合になるのだろう。
新国立劇場 ワーグナー「トリスタンとイゾルデ」(デイヴィッド・マクヴィカー演出)
●20日は新国立劇場でワーグナーの楽劇「トリスタンとイゾルデ」。2010/2011シーズンに初演されたデイヴィッド・マクヴィカー演出が帰ってきた。指揮は当時と同じく大野和士だが、ピットには都響が入った。主役ふたりは当初発表から変更があり、トリスタン役がゾルターン・ニャリ、イゾルデ役がリエネ・キンチャに。マルケ王はヴィルヘルム・シュヴィングハマー、ブランゲーネは藤村実穂子、クルヴェナールはエギルス・シリンス、メロートは秋谷直之。演出はストレートで、夜の情景を比較的シンプルな舞台装置であらわす。空に昇る大きな月が赤や白に色を変えて、動く。読み替えはなく、スタイリッシで、音楽を妨げない。
●全3幕、45分の休憩を2回はさんで計5時間半の長丁場。長いといえば長いが、きびきびしていてむしろこれでも長くない。ピットの都響がすばらしい。重厚というよりは澄明なワーグナー。クリアで粘らない。大野和士の自在のドライブから起伏に富んだドラマが生み出される。再演ものでこれだけ精妙なオーケストラを聴けるのはうれしい。都響のサウンドが全体の印象を決定づけた感あり。ニャリのトリスタンは強靭というよりはスマート。脇を固める歌手陣が充実していて、客席からもっとも喝采を受けていたのは藤村実穂子のブランゲーネだった。シュヴィングハマーのマルケ王は威厳も声量もある。
●ワーグナーのオペラ、なにせ長いので聴く前は滝に打たれる覚悟で臨むんだけど、聴き終わると元気がわいてくる。第1幕、第2幕……と進むにつれて、気分があがってきた。
●このオペラって、終幕で人が無駄死にするんすよね。誤解から死人が出たことをマルケ王が嘆く。だが、そもそもの誤解の原因はお前さんが大軍勢を引き連れてきたからであって、まずは用件を書いた手紙を持たせた使者でも送れば、このような殺し合いは起きなかった。大事なのは「ほう・れん・そう」。オペラの登場人物たちはどこまでも「報告、連絡、相談」が苦手だ。
●以前に読んだサイモン・シンの科学ノンフィクション「代替医療解剖」では、科学的な根拠のない代替医療の多くがプラセボ効果を利用していることが明らかにされていた。プラセボ効果は一般に思われるよりもずっと強力で、たとえばホメオパシーのように事実上ただの水でしかない薬であっても、その効能を期待する人には痛みが消えるなど、明白な効果が出てしまうというのだ。そこで、思い出したのは、ブランゲーネの秘薬だ。ブランゲーネはイゾルデに毒薬を与えるのではなく、媚薬を渡してしまったことから、トリスタンとイゾルデの悲劇がはじまった。しかし、ブランゲーネの薬は、実際にはすべてがただのワインなのではないか。同じワインがときには毒薬として、ときには媚薬として機能しているのはないかと思い当たった。
-----------
●W杯予選、ニッポン対北朝鮮についてはまた改めて。
●宣伝を。ONTOMOに特集「家族と音楽」 家族のために書かれた名曲5選を寄稿。ご笑覧ください。
東京・春・音楽祭2024 ルドルフ・ブッフビンダー ベートーヴェン ピアノ・ソナタ全曲演奏会IV
●東京・春・音楽祭2024が3月15日に開幕。この音楽祭もこれで第20回。もうそんなになるとは。今回、ルドルフ・ブッフビンダーがベートーヴェンのピアノ・ソナタ全曲演奏会を開いている。全7回のシリーズ。19日の第4回に足を運ぶ。プログラムは前半にソナタ第6番へ長調、第24番嬰ヘ長調「テレーゼ」、第16番ト長調、後半に第29番変ロ長調「ハンマークラヴィーア」。
●ブッフビンダーはこれまでにベートーヴェンのソナタ全曲演奏会を60回以上も行っているのだとか。そんな人はほかにいないだろう。で、32曲のソナタを全7回にどう割り振るかは、何十年もかけて全曲演奏会をくりかえしているうちに固まってきたのだそう。この日の組合せは、前半はユーモアの要素の強い作品、後半は超大作というコントラストを際立たせたプログラム。まったく自然体でピアノに向かい、気負いなくどんどん弾く。テンポは終始速め、あるいは猛烈に速い。飄々とした雰囲気は、特に第16番の終楽章で効果的で、茶目っ気のあるコーダに客席から笑いが漏れた。
●さすがに「ハンマークラヴィーア」はじっくり攻めるだろうと思いきや、これまた猛烈なテンポで始まったのにはびっくり。これが77歳のピアニストの弾くベートーヴェンとは。年輪を重ねたからといってテンポが遅くなることもなく、深遠さを気どることもない。もちろんキレッキレとはいかないが、作品がすっかり手の内に入っており、停滞することがない。で、「ハンマークラヴィーア」の後にアンコールはないだろうなと思ったら、普通にあった。こういうところもブッフビンダーらしい感じ。ソナタ第18番の終楽章だったかな。
●おしまいのカーテンコールのみ、撮影が解禁されていた。ありがたい。ブッフビンダーについては東京・春・音楽祭のサイトに取材記事を書いている。これは単独インタビューではなく、リモートでの共同記者会見をまとめたもの(自分はプロモーション用インタビューの仕事は基本的にしないんだけど、記者会見なら可能なかぎり出る)。ブッフビンダーはどんな質問に対しても実際的な答えを返す人で、思わせぶりな物言いをしないところが立派だと思った。
マルク・ミンコフスキ指揮オーケストラ・アンサンブル金沢の東京定期
●18日はサントリーホールでオーケストラ・アンサンブル金沢(OEK)の東京定期。マルク・ミンコフスキ指揮によるベートーヴェンの交響曲第6番「田園」と第5番「運命」というプログラム。本来であればミンコフスキがOEK芸術監督を務めていた2020年のベートーヴェン・イヤーに行われるはずだったベートーヴェン交響曲全曲シリーズが、コロナ禍により大幅に遅れ、つい先週、金沢での「第九」でようやく完結した。その特別編として、東京でも一公演のみ開かれることに。客席はぎっしり。
●OEKは室内オーケストラなので、編成はコンパクト。弦は10型で対向配置。ただしコントラバスは最後列に3名横並びになる方式。後半の「運命」ではコントラバスの隣にコントラファゴット。コンサートマスターはアビゲイル・ヤング。その隣に客員コンサートマスターを務めている元東響コンサートマスターの水谷晃。ミンコフスキのベートーヴェンはHIPなスタイルというよりは、OEKのスタイルをベースにさまざまなデザインを施しながら、熱風を巻き起こす。前半の「田園」はダンサブル。「運命」では指揮台にあがるやいなや棒を振り下ろして、運命の動機を激しく刻み込む。第1楽章、オーボエのカデンツァはぐっとテンポを落としてたっぷり朗々と。第3楽章からは怒涛の勢い。第4楽章では、冒頭の3音をぐっとタメてから猛然と畳みかける。提示部リピートありも吉(この曲でいちばんカッコいい場所だと思う)。燃焼度がきわめて高く、一回性を重んじた「荒ぶるベートーヴェン」で、客席はわいた。
●カーテンコールをなんどか繰り返した後、ミンコフスキから英語でメッセージがあり、能登地震の犠牲者に捧げるバッハ「G線上のアリア」。さらにその後、拍手が止まず、ミンコフスキのソロ・カーテンコールも。
●この日の開演時間は18時30分だった。前回のOEK東京定期もそうだったと思う。北陸新幹線の終電にぎりぎり間に合うということなのかな。うっかりまちがえやすいけど、終演が遅くならないのは正直ありがたい。帰り道の気分がぜんぜんちがう。気持ちに余裕ができるというか。
東京文化会館2024年度主催事業ラインアップ記者発表会
●15日は東京文化会館2024年度主催事業ラインアップ記者発表会へ。会場は東京文化会館大会議室で、同館音楽監督の野平一郎(写真)、副館長の猪俣聖人、事業企画課長の梶奈生子の各氏が登壇。多彩な主催事業ラインアップが発表された。シューベルトの歌曲集をオペラに仕立てた歌劇「シューベルト 水車屋の美しい娘」、東京音楽コンクール(弦楽・金管・声楽の3部門)、「夏休み子ども音楽会」「シアター・デビュー・プログラム」等々、盛りだくさんの企画が並んだが、目玉となるのは11月下旬から12月にかけての野平一郎プロデュース「フェスティヴァル・ランタンポレル」(ランタンポレル=時代を超えて)。フランスのニームで開催されるレ・ヴォルク音楽祭、およびIRCAMと連携して、現代音楽も古典も楽しめる公演が同館小ホールで開催される。狙いとしては、現代音楽ファンのためだけの企画とはせずに、一般の人にも興味を持ってもらえるようなものを目指すという。
●で、今回はベートーヴェン&フィリップ・マヌリ、シューベルト&ラッヘンマンという組合せで、それぞれピアノ・リサイタルと室内楽公演が開催される。ピアノ・リサイタルは阪田知樹がベートーヴェン&マヌリ、務川慧悟がシューベルト&ラッヘンマンを演奏する。ベートーヴェンとシューベルトはフォルテピアノで演奏するのだとか。室内楽ではレ・ヴォルク弦楽三重奏団他が出演。このベートーヴェン&フィリップ・マヌリ、シューベルト&ラッヘンマンといったように古典と現代を組合わせるアイディアはレ・ヴォルク音楽祭に由来するそう。同音楽祭のプレジデントはレ・シエクルの創設者ロトで、芸術監督はその夫人のキャロル・ロト・ドファン(レ・シエクルのヴィオラ奏者)。
●IRCAMとの連携で行われるのはIRCAMシネマ「狂った一日」~ポンピドゥーセンターと歴史的無声映画のコラボレーション~。衣笠貞之助監督の無声映画をIRCAMと平野真由による電子音楽とともに上映する。
●各公演の詳細は東京文化会館情報誌「音脈」(PDF)を参照。
●余談だけど、シューベルトの歌曲集をオペラ仕立てにするという歌劇「水車屋の美しい娘」なんだけど、この題名は明示的に「美しいのは娘である」と言っている。一般的な訳題の「美しい水車屋の娘」だと、「美しいのは水車屋なのか娘なのか」問題が発生するわけで、修行の旅に出た若者がせっかく水車屋にたどり着いてみたら美しいのは水車屋であって、娘のことではなかったというアクシデントに直面する可能性がある。そうなった場合、旅人も気の毒だし、娘のほうも気まずい。その点、「水車屋の美しい娘」であれば、まちがいは起きない。美しいのは娘だ。安心である。
オメル・メイール・ヴェルバー指揮ウィーン交響楽団のベートーヴェン
●14日はサントリーホールでオメル・メイール・ヴェルバー指揮ウィーン交響楽団。売り出し中の指揮者、ヴェルバーを初めて聴く。長身痩躯で全身を使ったダイナミックな指揮ぶり。プログラムはベートーヴェンの交響曲第8番と第7番という、ど真ん中のストレート。ウィーン交響楽団は温かみのある大らかなサウンドで、懐かしさを覚える。シャープではなく、柔らかい。20世紀の伝統に即したベートーヴェンをベースとして、そこにヴェルバーが強弱やテンポの変化をもたらして細部に意匠をこらす。前へ前へと猛進するベートーヴェンで、とくに第7番は精力的。意表を突かれたのは第1楽章がおわって、そのままアタッカで第2楽章につなげた場面。これは珍しいパターン。他の楽章では普通に間を取っていた。
●かなり短いプログラムだったが、アンコールが2曲も。まずはヨハン・シュトラウス2世&ヨーゼフ・シュトラウス合作の「ピッツィカート・ポルカ」、続いてトロンボーン奏者たちが袖から出てきてブラームスのハンガリー舞曲第5番。どちらも緩急自在、開放的な気分でしめくくった。
●客席には大勢の小学生から高校生の姿。詳細は知らないのだが、若者向け鑑賞プログラムの対象になっていたようで、かつてないほど客席の平均年齢が若かった。開演前、もしかしたら客席がざわつくかなと思ったが、実際にはその逆で完璧に静か。みんなびっくりするほど行儀がよく、曲が終わると大喝采。拍手の立ち上がりに十代ならではのキレを感じる。気のせいだろうか。
------
●宣伝を。ONTOMOの連載「おとぎの国のクラシック」第9話「乙女戦争」が公開中。今回はスメタナの連作交響詩「わが祖国」の「シャールカ」について。交響詩「シャールカ」がどんな場面を描写しているかは曲目解説などで目にすると思うが、その前後の物語、なぜ女と男が戦争をすることになったのか、そしてこの戦争はどう決着したのかを書いている。ご笑覧ください。
アンドレア・バッティストーニ指揮東京フィルの「カルミナ・ブラーナ」
●13日は東京オペラシティでアンドレア・バッティストーニ指揮東京フィル。前半にレスピーギの「リュートのための古風な舞曲とアリア」第2組曲、後半にオルフの「カルミナ・ブラーナ」(ソプラノにヴィットリアーナ・デ・アミーチス、カウンターテナーに彌勒忠史、バリトンにミケーレ・パッティ、新国立劇場合唱団、世田谷ジュニア合唱団)。レスピーギとオルフによる20世紀の温故知新プロだが、両曲ともに歴史的関心以上にエンタテインメント色が強いのが吉。前半のレスピーギは第3組曲が有名だが、第2組曲を聴けたのは貴重。管楽器も含む編成で華やか。
●後半の「カルミナ・ブラーナ」はスペクタクル。どう考えてもバッティストーニにぴったりの作品で熱血名演は必至。事実熱い演奏ではあったのだが、少し予想とは方向性が違っていて、マッシブというよりはシャープ、重厚というよりは鋭敏な「カルミナ・ブラーナ」。合唱はバルコニー席中央に児童合唱が並び、左右のサイドにそれぞれ女声と男声を配置。児童合唱の出番は少ないので、もっぱら合唱は左右に偏って聞こえる形に。量で押すのではなく、機動性のある合唱。春風に乗って左右に体を揺らす演出も。独唱陣は三者三様の味わい。彌勒さんは「白鳥丸焼きソング」で隠し持った白鳥のぬいぐるみを取り出してきて、表情豊かに歌う。この白鳥は何年か前にも見たことがあるんだけど、やっぱりおもしろいし、こういうノリが似合う作品だと思う。ソプラノは可憐。バッティストーニのエネルギッシュな指揮のもと、「ブランツィフロールとヘレナ」で壮麗なクライマックスが築かれ、最後に「おお、運命の女神よ」が戻ってくる。この瞬間はやはり鳥肌もの。
●字幕はなく対訳配布。客席ではぎりぎり読めるかどうかの照度だけど、若い人なら難なく読めるかも。逐一は読まないにせよ、あると助かる。
●客席が若い。もちろんベテランも多いのだが、十代、二十代がぜんぜん珍しくない。東フィルだからなのか、オペラシティだからなのか。全般に客席がシャキッとしている。
ここまでのマリノス、JリーグとACLで合計5試合
●さて、Jリーグは第3節が終了したところだが、アジアチャンピオンズリーグ(ACL)も並行して戦うマリノスはすでに今季5試合を戦っている。ここまでを振り返って感じるのは、なにより選手層の薄さ、そしてハリー・キューウェル新監督の指導力が未知数だということ。Jリーグでは開幕戦こそ昇格組のヴェルディに勝利したが、続く福岡戦はホームで負けてしまった。現状ではとてもJ1で上位を狙えそうにない感じ。この2、3年でマリノスから抜けた選手たちを集めたら、すごい強豪チームを作れそう。
●で、一週間前、ACLで山東泰山 1-2 マリノスという試合があったのだが、これが本当にひどかった。いや、マリノスは奮闘したのだが、山東泰山の選手たちがラフプレイを連発。レッドカードが一枚も出なかったのが信じられない。それなのに試合後、山東泰山の監督は主審の判定を痛烈に非難していたのだからたまらない。「アジアの戦い」は代表もクラブチームも同じ。今晩、マリノスはホームで山東泰山と第2戦を行って決着をつけるのだが、どうなることやら。
●ところで先日書店でとてつもない本を見かけた。「ジダン研究」(陣野俊史著/カンゼン)という一冊なのだが、なんと、816ページもある鈍器本なのだ。ジダンについて、これだけ書けるのか。重量だけでまずはなにかを語っている。ひとりの天才について綴った鈍器本という意味で、「わが友、シューベルト」(堀朋平著/アルテスパブリッシング、648ページ)と並べてみたい誘惑にかられる。
The Real Chopin × 18世紀オーケストラ
●11日は東京オペラシティで18世紀オーケストラ。「The Real Chopin × 18世紀オーケストラ」と銘打ち、ユリアンナ・アヴデーエワ、トマシュ・リッテル、川口成彦の3人がフォルテピアノでショパンを演奏する。アヴデーエワは2010年のショパン・コンクール優勝者、トマシュ・リッテルと川口成彦は2018年の第1回ショパン国際ピリオド楽器コンクールの1位と2位。楽器はプレイエル(1843)。昨日と本日の2日間にわたって開催されるが、初日のみ足を運ぶことに。
●プログラムは前半にモーツァルトの交響曲第40番、藤倉大のBridging Realms for fortepiano(川口成彦)、ショパンの「ポーランドの歌による幻想曲」(川口成彦)、演奏会用ロンド「クラコヴィアク」(リッテル)、後半にピアノ協奏曲第1番(アヴデーエワ)。最初に交響曲が入っている分、長めの大盛りプログラム。モーツァルトは立奏。指揮者は置かず。ピアノはオーケストラに囲まれて客席にまっすぐ顔を向ける方向で配置。要所でコンサートマスター、ときにはソリストが拍子を取る。同じ楽器であるが三者三様のショパン。前半の初期作品はモダン楽器でもほとんど聴くチャンスがなく、貴重な体験。こうして聴くと、ピアノ協奏曲に至る飛躍の大きさを感じずにはいられない。ふたりのフォルテピアノ奏者の演奏をもっと聴きたくなる。藤倉大のBridging Realmsは第2回ショパン国際ピリオド楽器コンクールとKajimotoの共同委嘱作品で、今回が日本初演。たゆたうような反復的なパッセージから清爽な詩情が立ち昇る。続くショパンへの前奏としてもスムーズに機能する。川口さんにぴったりの曲だなとも感じる。
●アヴデーエワによるショパンのピアノ協奏曲第1番を聴くのはたぶんこれが3度目。最初はコンクール優勝直後のN響と、次はブリュッヘン指揮の18世紀オーケストラと。なので新味はないかと思いきや、堂々たる貫禄のショパンですこぶる雄弁。今まででいちばん好印象。最初に聴いたときはまるで学生みたいで頼りなげだったけど、いまやすっかり確信を持った弾きぶりで主導権を握る。ピリオド楽器で聴く協奏曲は、色彩感豊かで、なんの不足もなく自然。これが The Real Chopin だと言われたら、その通りなんだろうと思う。
●「本当のショパン」があるとすると、「ニセのショパン」もあるのだろうか。あるいはショパン本人が弾いたものだけが本物とか。いや、タイムトラベルしたショパン本人が弾いてくれても、現代のピアニストの演奏のほうがいいな、となる可能性もあるのか。
METライブビューイング ビゼー「カルメン」新演出
●8日は東劇のMETライブビューイングでビゼー「カルメン」。キャリー・クラックネルの新演出。舞台を現代アメリカに設定し、闘牛はロデオに、たばこ工場は軍需工場に置き換えられる。ロデオ・チャンピオンのエスカミーリョが登場すると、みんなスマホを手に寄ってきて一緒に自撮りする。読み替えは珍しいものではないが、細部で工夫が凝らされていて随所に感心させられた。たとえば第2幕冒頭。通常なら酒場の場面だけど、ここでは大型トラックの荷台のなかで、ホットパンツのカルメンたちが女たちだけで踊り出す。仕事の合間に退屈した女たちが自分たちの楽しみのために自然と踊り出した、みたいな雰囲気がよく出ている。クラブで踊ってる感じ。
●あとは第3幕、密輸団のいる山中にミカエラが登場する場面。ここで忽然とミカエラが現れると神出鬼没すぎて笑ってしまうのだが、このミカエラは手引きする男に連れられてやってきて、男にカネを渡す。だよなあ、そうじゃなきゃおかしいもの。4幕もいい。競技場の場面で、ちゃんとスタンドが組まれている。回り舞台を効果的に用いて、競技場の内側と外側を見せる。最後、ホセとカルメンの修羅場でヤバい雰囲気が高まってきたところで、一瞬、音楽の調子が変わったところで警備員が通りかかり、ふたりはなんでもないふりを装うところもいい。
●で、ここからはネタバレ気味なんだけど、演出上、大切なことなので書いておくけど、ホセが凶行に及ぶ場面。ナイフを取り出すと思うじゃないっすか。でも違うんすよ。あれはバットなんじゃないかな。カルメンが自分の身を守ろうとして、そこにあったバットを一本取り出して持つ。アメリカだったら、そこにバットがあってもおかしくないのかもしれない(知らんけど)。で、ホセがそれを奪う。で、カッとなって振り回して、バコンと音がして、カルメンが倒れ、絶命する。ホセは凶器を持参していなくて、衝動的に事に及んだわけだ。ワタシはこう思った。「そうそう、Jリーグでもそうだけど、いまどきのスタジアムはナイフや銃を持っていたら、入場口のセキュリティチェックを通過できない」。
●歌手陣について。カルメン役のアイグル・アクメトチナが見事。27歳だが若さが売りなのではなく、歌がいい。太くて豊かな声はまさにカルメン。ミカエラ役のエンジェル・ブルーも秀逸。ふつうならイラっとさせられる役柄なのだが、このミカエラは強くて元気なのが吉。それにしても名前が「エンジェル・ブルー」って、ミカエラを歌うために生まれてきたかのようだ。あと、3幕のカルタの歌がすごいと思った。フラスキータ(シドニー・マンカソーラ)とメルセデス(プリアナ・ハンター)にこれだけ歌える歌手が出てくる層の厚さに舌を巻く。女声陣に比べると、ピョートル・ベチャワのホセは成熟しすぎていて、カルメンといっしょにいると「娘に手を焼いているお父さん」感あるいは「パパ活」感が漂う。エスカミーリョ役はカイル・ケテルセン。指揮は東響などにも客演しているダニエレ・ルスティオーニ。切れ味鋭く明快、隅々まで光が当てられて健康的なサウンドを引き出す。
東京オペラシティアートギャラリー ガラスの器と静物画 山野アンダーソン陽子と18人の画家
●東京オペラシティで演奏会があるときは、少し早めに行くと同じフロアのアートギャラリーに立ち寄ることができる。現在開催しているのは「ガラスの器と静物画 山野アンダーソン陽子と18人の画家」(1/17~3/24)。実際に足を運んだのはだいぶ前なんだけど、2回も見たのでメモっておく。
●これはガラス作家の山野アンダーソン陽子によるアートブックを制作するプロジェクトで、山野が18人の画家に「描きたいと思うガラス」を言葉で提案してもらって、それに応じてガラスの器を制作する。で、そのガラスを画家が描き、さらに写真家が撮影し、デザイナーがアートブックにする。そんな多段階プロセスを展覧会にしている。最初、予備知識がなくいきなり見たので、なにをやっているのかわからず混乱してしまったのだが、意味がわかるとすごくおもしろい。「一粒で二度おいしい」というか「三度も四度もおいしい」というか。
●たとえば、こんな感じにガラスが絵の題材になっている。ガラスっていうか、ネコとか、ほかにいっぱいいろいろあって情報量が多いが、絵のなかのガラスの実物がそこに展示してあるという立体感が吉。
●ガラスが主役になっている作品もあれば、そうでもないものもある。これはどっちだ。なんだか魅かれる。
●これはガラスを作ってもらわなくても描けたのでは? と、つい思いたくなってしまうが、きっとガラスがなかったらぜんぜん別の絵になっていたにちがいない。
ミレドちゃん
●みんな、「コアラのマーチ」が大好きだと思う。ワタシも好きだ。サクサクッとした食感とチョコの甘さが絶妙のバランスで調和している。かわいいコアラの名前はマーチくん。一個一個にマーチくんのいろんな姿が描かれていて、ほんわかした雰囲気が好ましい……。
●と雑に思っていたら、実はキャラクターはマーチくんだけではなく、おともだちが3体もいたことを知った。マーチくん、ワルツちゃん、ドレミくん、ミレドちゃん。気になるのはミレドちゃんだ。微妙に邪悪な笑みを浮かべており、コアラたちのなかでも若干、浮いている。「ミレド!」なのか、「ミーレードー」なのか。そこはかとなくブルックナー感が漂う。
●AI画伯 DreamStudioさん作、Anton Bruckner with Koala's March。コアラたちがやってくる。
「トーキョー・シンコペーション 音楽表現の現在」(沼野雄司著/音楽之友社)
●ああ、こういう本が必要だったんだよな、現代音楽の世界には。と思ったのが、「トーキョー・シンコペーション 音楽表現の現在」(沼野雄司著/音楽之友社)。休刊した「レコード芸術」誌での連載が書籍化された一冊で、雑誌連載時より大幅に加筆されているそう。音楽に留まらず美術や小説など多ジャンルの話題もふんだんに盛り込まれ、文章のタッチは軽快なのだが、テーマそのものはまったく本質的で、著者ならではの率直な語り口が痛快。みんながもしかしたらうっすら感じているけどあまり口にしないようなことも、明快に言語化してザクザクと切り込んでくる。
●自分が特におもしろいと思ったのは第3章「複雑性と吃逆」と第9章「カノンと1ミリ」。「複雑性と吃逆」の章はブライアン・ファーニホウの「あたらしい複雑性」の話題で始まり、複雑さとはなにかという問いを発する。カッコいいなと思ったのはこのくだり。
一般に、「現代音楽」は複雑ゆえに難解だと論じられたりもする。しかし、事態はむしろ逆ではないかと思う。
ほとんどの現代音楽は、単純すぎるからつまらないのだ。
少なからぬ数の音楽家が勘違いしている気がするのだが、多くの音楽ファンは複雑さゆえではなく、その単純さゆえに現代音楽から距離を置いている。いくら音がゴチャゴチャしていても、平板なコンテクストしか持たない作品は退屈に決まっている。たとえばドビュッシー作品における旋法と和声の狭間をゆれうごく多義的な響き、あるいはマーラーの交響曲の頭陀袋のような隠喩の集積にくらべてみれば、現代作品のコンテクスト操作はいかにも単純に感じられないだろうか?
そして、話題は近藤譲作品の複雑さへと転じる。
●第9章「カノンと1ミリ」のカノンとは、パッヘルベルのほうではなく「規範・正典」のほうのカノン。クラシック音楽の世界で支配的な「名曲」とか「名盤」といった権威付けを解体しようぜ、という話なのだが、おもしろいのはこれがまさしくカノンの総本山ともいうべき雑誌「レコード芸術」に連載されていたという点だろう。毎月発売される新譜を一点一点吟味して「特選」「推薦」「準推薦」「無印」とランク付けし、さらには「名曲名盤」のような企画で「決定盤」を選ぶのが「レコ芸」の文化だった。これは編集部がそういった権威付けを好んでいたわけではなく(むしろ個々人には逆の方向性があるように見える)、どうしてもカノンを強化せずにはいられない力学がクラシック音楽の世界には働いているからだと思う。
●本のトーンとして「機嫌がいい」のも吉。好きな音楽について話すときは機嫌よく話さないと、絶対に伝わらないので。
SOMPO美術館 FACE展2024
●今年も新宿のSOMPO美術館の「FACE展2024」(2/17~3/10)に足を運んだ。年齢や所属を問わない新進作家の登竜門として開催される公募コンクールで、1184名の出品から選ばれた78点が入選作品として展示され、そのなかからグランプリ等の受賞作品が定められている。けっこうな倍率。この展覧会、作品がすごく多様なのと、混雑しないのが魅力。同美術館の「ゴッホと静物画」の混雑ぶりに閉口して思ったけど、混雑してると美術館の楽しみは半減、いや、それ以上に減るかも。
●ここは「オーディエンス賞」が設定されているのが吉。自分の一票をどれに入れるか迷いながら鑑賞できる。以下、今年の展示でいいなと思った3作。
●「絡みつき、纏わりつく、」(春日佳歩)。すごいインパクト。生きることは食べること。このスパゲッティ、どんなシチュエーションならこういう食べ方になるのかわからないが、トマトソースの赤が効いている。よく見ると頬にアリが2匹、這っていて、アリもまた生きている。右下に蹄のある動物。
●「CYCLE」(巽明理)。この小さな画像ではぜんぜん伝わらないけど、体毛や葉のきらきらとした色彩に見とれる。動物も植物も含めてのCYCLE。いずれ土に還る。
●「静けし」(清水英子)。自分にとってはノスタルジーを刺激される原風景のような一枚。これも近づいて見ないとわからないのだが、雪の質感に魅了される。どさりと積もった後、人が何人か通って道ができているところを歩く。ザクッ、ザクッという音が聞こえてきそう。
森山開次の「春の祭典 2024」
●2日は渋谷区文化総合センター大和田さくらホールで森山開次の「春の祭典 2024」。森山開次のダンスと實川風と三浦謙司の2台ピアノによるストラヴィンスキーのバレエ音楽「春の祭典」。森山開次の演出・振付・出演による「春の祭典」は2018年に初演されており、今回ふたたび上演されることになった。
●前後半に分かれた構成で、前半は實川風と三浦謙司の2名がそれぞれソロで小曲を演奏。バッハ~バウアーの「主よ人の望みの喜びよ」や平均律クラヴィーア曲集第1巻の前奏曲とフーガ ハ長調、ジャン・イヴ・ダニエル・ルシュールの「天国にて」(以上實川)や、セルゲイ・ボルトキエヴィチの「エレジー」、前奏曲変ニ長調、ラフマニノフの前奏曲ロ短調(以上三浦)など。全体としては祈りや哀悼の音楽が中心の構成。
●後半がストラヴィンスキーの「春の祭典」。踊るのは森山開次ひとり。ステージ上には2台のピアノが置かれており、ダンサーのためのスペースは決して広くはない。最初はピアノより手前のコンパクトなエリアのみを使ったダンスだったが、やがてピアノの間やピアノの下の空間(!)、舞台奥に設置された一段高くなったエリアなども用いて、限られた空間をフル活用する。観る前は「春の祭典」全曲をひとりで踊るとなればある程度の単調さは免れないのではないかと案じたが、これは杞憂で、身体表現のバリエーションがすさまじい。しかも「春の祭典」なのだ。激しい動きが連続することは避けられない。静かな部分が一定程度続くのは第2部の序盤くらいで、ダンサーが息を整える場所が少ないだろうと思ったが、驚異的な強靭さで激烈な変拍子の連続をものともしない。自在の表現を実現するには並外れた心肺機能が必要なのだと知る。實川風と三浦謙司のピアノはキレもあり重量感もあって、極限的なダンスと並走するにふさわしい。
●約700席規模のホールで、チケットは完売。實川風と三浦謙司のデュオだけでも十分に魅力的だが、お客さんの過半は森山開次目当てだったのだろう。ふだんのクラシックの公演とはちがった雰囲気のお客さんが多かった。なんというかな、モードな感じがあるというか。クラシックのお客さんはやっぱりクラシカルな感じだし。
調布国際音楽祭2024 記者会見
●29日は調布国際音楽祭2024の記者会見。会場は調布市グリーンホールだったが、オンラインでも参加できるということなので、ありがたくZOOMで参加。エグゼクティブ・プロデューサーの鈴木優人をはじめ、アソシエイト・プロデューサーの森下唯、監修の鈴木雅明の各氏が登壇。すっかり調布に定着した同音楽祭は今年で12回目。今年のテーマとして MUSIC WITHOUT BORDERS を掲げて、6月15日から6月23日まで、多彩な公演が用意される。
●注目公演をいくつか挙げると、まず鈴木雅明指揮フェスティバル・オーケストラはベルリオーズの「幻想交響曲」に挑む。「まさか私が幻想交響曲を指揮することになろうとは」(雅明氏談)。さらにベートーヴェンの阪田知樹の独奏によるピアノ協奏曲第4番、ヴィヴァルディ「調和の霊感」より4本の弦楽器のための協奏曲というプログラム。コンサートマスターの白井圭らトップレベルのプレーヤーたちと、オーディションで選ばれた若手演奏家たちが一体となって演奏する。「お互いに意見をぶつけ合いながら新しい道を探る。リハーサル中にディスカッションタイムがあって、若いメンバーが先生たちに質問をぶつけて、先生が右往左往する場面が毎年ある」(雅明氏談)
●鈴木優人指揮N響の公演ではイザベル・ファウストがソリストとして登場、ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲を演奏する。ほかにバッハ~ウェーベルン編の「リチェルカータ」、シューベルトの交響曲第5番。これは6月のN響定期Bプロと同じ出演者で曲目もほぼ重なっているのだが、イザベル・ファウストがN響定期ではシェーンベルクのヴァイオリン協奏曲を弾くのに対して、調布ではベートーヴェンを弾く。ベートーヴェンも聴きたい人は調布へGO。
●異彩を放っていたのは「将棋×音楽 スペシャルコラボイベント 駒音に耳をすませて」と題された公演で、クラシック音楽に造詣の深い佐藤天彦らの棋士が、鈴木優人、森下唯、廣津留すみれ他とともに出演するというのだが、はたしてどういうコラボになるのか。「盤面によって展開の変わる生演奏をバックに行われる緊迫の早指し対局」などがあるというのだが、かなり謎。
●記者会見の冒頭、いきなり鈴木優人と森下唯の2台ピアノで「ゲゲゲの鬼太郎による変奏曲」(森下唯編曲)が演奏されて、度肝を抜かれた。調布はゲゲゲの鬼太郎の聖地なんすよね。深大寺に行くと鬼太郎茶屋があったりする。