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March 6, 2024

「トーキョー・シンコペーション 音楽表現の現在」(沼野雄司著/音楽之友社)

●ああ、こういう本が必要だったんだよな、現代音楽の世界には。と思ったのが、「トーキョー・シンコペーション 音楽表現の現在」(沼野雄司著/音楽之友社)。休刊した「レコード芸術」誌での連載が書籍化された一冊で、雑誌連載時より大幅に加筆されているそう。音楽に留まらず美術や小説など多ジャンルの話題もふんだんに盛り込まれ、文章のタッチは軽快なのだが、テーマそのものはまったく本質的で、著者ならではの率直な語り口が痛快。みんながもしかしたらうっすら感じているけどあまり口にしないようなことも、明快に言語化してザクザクと切り込んでくる。
●自分が特におもしろいと思ったのは第3章「複雑性と吃逆」と第9章「カノンと1ミリ」。「複雑性と吃逆」の章はブライアン・ファーニホウの「あたらしい複雑性」の話題で始まり、複雑さとはなにかという問いを発する。カッコいいなと思ったのはこのくだり。

 一般に、「現代音楽」は複雑ゆえに難解だと論じられたりもする。しかし、事態はむしろ逆ではないかと思う。
 ほとんどの現代音楽は、単純すぎるからつまらないのだ。
 少なからぬ数の音楽家が勘違いしている気がするのだが、多くの音楽ファンは複雑さゆえではなく、その単純さゆえに現代音楽から距離を置いている。いくら音がゴチャゴチャしていても、平板なコンテクストしか持たない作品は退屈に決まっている。たとえばドビュッシー作品における旋法と和声の狭間をゆれうごく多義的な響き、あるいはマーラーの交響曲の頭陀袋のような隠喩の集積にくらべてみれば、現代作品のコンテクスト操作はいかにも単純に感じられないだろうか?

そして、話題は近藤譲作品の複雑さへと転じる。
●第9章「カノンと1ミリ」のカノンとは、パッヘルベルのほうではなく「規範・正典」のほうのカノン。クラシック音楽の世界で支配的な「名曲」とか「名盤」といった権威付けを解体しようぜ、という話なのだが、おもしろいのはこれがまさしくカノンの総本山ともいうべき雑誌「レコード芸術」に連載されていたという点だろう。毎月発売される新譜を一点一点吟味して「特選」「推薦」「準推薦」「無印」とランク付けし、さらには「名曲名盤」のような企画で「決定盤」を選ぶのが「レコ芸」の文化だった。これは編集部がそういった権威付けを好んでいたわけではなく(むしろ個々人には逆の方向性があるように見える)、どうしてもカノンを強化せずにはいられない力学がクラシック音楽の世界には働いているからだと思う。
●本のトーンとして「機嫌がいい」のも吉。好きな音楽について話すときは機嫌よく話さないと、絶対に伝わらないので。

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