●27日は東京オペラシティでバッハ・コレギウム・ジャパン(BCJ)の定期演奏会。曲はバッハのミサ曲ロ短調。指揮は鈴木雅明。ソプラノに松井亜希、マリアンネ・ベアーテ・キーラント、アルトにアレクサンダー・チャンス、テノールに櫻田亮、バスに加耒徹。やはりロ短調ミサはよい。旧作の転用を多く含み複雑な成立の経緯をたどっているにもかかわらず、冒頭からおしまいまで一本の力強いドラマで貫かれているように、いつも感じる。「マタイ受難曲」や「ヨハネ受難曲」と違ってアウェイ感に苛まれずに済むのも大きい。鳥肌ポイントはいくつもある。冒頭のキリエの身の引き締まるような峻厳さ、上機嫌のクレドの開始部分。少しひなびた調子のバスのアリア(コルノ・ダ・カッチャのオブリガートは福川伸陽)から一転して快速のCum Sancto Spirituの合唱に突入する部分の鮮烈さは、この曲のハイライト。めちゃくちゃカッコいい。BCJはいつものように熱くエネルギッシュで、一段とキレがあったようにも。合唱の純度の高さも見事。ここで猛烈に盛り上がった後、「クレド」でふわっと温かい雰囲気になるのも好き。
●「アニュス・デイ」のアルト独唱は極上の美しさ。カウンターテナーのアレクサンダー・チャンスは、あのマイケル・チャンスの息子さんなのだとか。マイケル・チャンスはフランス・ブリュッヘン指揮18世紀オーケストラのロ短調ミサで歌っていて、自分がこの曲に魅了されるきっかけとなった録音。記憶だけで比較すると、アレクサンダーの声はお父さんほど甘くなく、より清澄でくっきりした印象。でも記憶だから実際に聴いたら違うかも。
2024年9月アーカイブ
バッハ・コレギウム・ジャパン第163回定期演奏会 バッハ ロ短調ミサ
アントニオ・パッパーノ指揮ロンドン交響楽団のサン=サーンス
●26日はサントリーホールでアントニオ・パッパーノ指揮ロンドン交響楽団。前回の来日ではサイモン・ラトルに率いられてやってきたロンドン交響楽団だが、今回は新しい首席指揮者であるパッパーノとともに来日。パッパーノはサンタ・チェチーリア管弦楽団やロイヤル・オペラとの来日公演の印象が強いけど、ロンドン交響楽団のシェフになるとは。もっともイギリス出身なので、ラトルと同様、「里帰り」を果たしたことになるわけだ。
●プログラムはベルリオーズの序曲「ローマの謝肉祭」、ラフマニノフのピアノ協奏曲第1番(ユジャ・ワン)、サン=サーンスの交響曲第3番「オルガン付」(オルガン:リチャード・ゴーワーズ)。来日オーケストラのソリストとして聴く機会の多いユジャ・ワンだけど、自分が前回聴いたのは5年前のLAフィルとのジョン・アダムズなので久々。今回はラフマニノフの作品1であるピアノ協奏曲第1番。アスリート的な俊敏さはまだまだ健在で、洗練された鮮やかなラフマニノフ。成熟したけど、流儀は変わっていない。歩きづらそうなハイヒールもミニスカートも左右非対称の高速お辞儀も以前と同じ。ただ、あの高速お辞儀、以前とまったく同じではないと思うんすよね。だれにも等しく時は流れている。ソリストアンコールとして、グルック~ズガンバーティ編の「精霊の踊り」を弾いて、曲が終わったらそのまま続けて、シューベルト~リスト編の「糸を紡ぐグレートヒェン」へ。こんなふうに2曲弾く手があったとは。カーテンコールの時間を省略できてお得!……ってのは違うか。どちらもしっとりとして情感豊か。
●サン=サーンスの「オルガン付」ではオーケストラの澄明なサウンドを堪能。オーケストラの基本的なキャラクターは前回の来日公演と同様の印象で、解像度が高く、透明感があるのに密度が濃い。パッパーノがサンタ・チェチーリア管弦楽団を指揮したときのような原色のカラフルさではなく、パステルカラーのようなエレガントな色彩感があって、すっきりとスマート。白眉は第1楽章後半の瞑想的なアダージョ部分で、磨き上げられたサウンドは驚異的。ここまでできるのは最高峰のオーケストラだけ。終盤は勢いが勝った感もあったが、随所にパッパーノのカラーも。アンコールはフォーレの「パヴァーヌ」。すごい完成度。これは前回の来日時にラトルの指揮でもアンコールで聴いた曲。弦は対向配置、コントラバスは上手。
●開演時の楽員の入場がアメリカのオーケストラと同じ方式で、みんなばらばらに入ってきて、いつの間にか全員そろっている。で、コンサートマスターが登場するよりも前にチューニングをする(トップサイドの奏者が立って合図を送る)。チューニング後、コンサートマスターが入場して、拍手。いろんなやり方があるものだな、と。
東京国立近代美術館 所蔵作品展 MOMATコレクション 芥川(間所)紗織 生誕100年
●東京国立近代美術館の所蔵作品展MOMATコレクションの一角に、生誕100年を記念して芥川(間所)紗織の作品がいくつか集められていた。今年は各地の美術館で足並みをそろえて芥川作品が展示されているようで、横須賀美術館、高松市美術館、東京都現代美術館など、全国10館でそれぞれの収蔵作品を展示してきた模様。芥川(間所)紗織は東京音楽学校(現在の東京芸大)本科声楽部を卒業後、作曲家の芥川也寸志と結婚。結婚後、家では歌をうたえないと声楽の道をあきらめて、絵画に転向したという異色の経歴の持ち主。間所は再婚後の姓。
●上は「女(B)」(1955)。ポップでユーモラスなんだけど、うっすら怖い。
●こちらは「神話 神々の誕生」(1956)。中ボスクラスのドラゴンに勇者が伝説の剣で会心の一撃をヒットさせたみたいなRPG感。
●「スフィンクス」(1964)。渡米して作風を一変させた後の抽象画。この作品の翌年、41歳で妊娠中毒症により早世している。
●東京国立近代美術館、10月1日から企画展「ハニワと土偶の近代」がスタートして、もちろんそちらも魅力的なんだけど、空いているのは所蔵作品展しかやってない今。快適度が高い。
「死はすぐそばに」(アンソニー・ホロヴィッツ)
●アンソニー・ホロヴィッツ著の最新刊、「死はすぐそばに」(山田蘭訳/創元推理文庫)を読む。ホーソーン&ホロヴィッツ・シリーズの第5弾だが、抜群のおもしろさ。よくも毎回、これだけ新味のある趣向を盛り込めるものだと感心するばかり。このシリーズ、探偵役のホーソーンと助手役で記録役でもあるホロヴィッツ(著者自身)がコンビを組むというホームズ&ワトソン以来の古典的なミステリの枠組みを借りながらも、小説としては一種のメタフィクションになっていて、そこが新しい。著者本人が物語の登場人物であるということに加えて、ミステリについてのミステリになっているという二重の自己言及性が肝。今回は高級住宅地でヘッジファンドマネージャーが殺されるのだが、隣人たち全員が被害者を嫌っており、すべての住民に殺人の動機があるという設定。さて犯人はだれかと捜査を進めるのだが、設定自体がアガサ・クリスティーの超名作を想起させる。もちろん同じ結末にはならないはず、と思いながら読み進めてゆくと……。
●軽い驚きは、小説内でいわゆる密室ミステリ的な状況が訪れたところで、著者が密室ミステリ論を述べる場面。
近年になってわたしは、最高の密室ミステリは日本から生まれていると考えるようになった。島田荘司の『斜め屋敷の犯罪』、あるいはこの分野の名手であり、八十編近くもの作品を書いている横溝正史の『本陣殺人事件』をぜひ読んでみてほしい。どちらもすばらしく精緻で鮮やかな作品だ。
まさかアンソニー・ホロヴィッツのミステリを読んでいて、島田荘司や横溝正史が出てくるとは! くらくら。「斜め屋敷の犯罪」、懐かしい。また読もうかな。
●今回はこれまでのシリーズと違って、もう終わってしまった過去の事件を、結末を知らされないまま少しずつ著者が書き進めるという趣向になっている。小説内の過去の時間軸と、著者の現在の時間軸がそれぞれ流れているわけだ。これもとても気の利いた趣向。緻密なんだけど、するすると読める。
プッチーニ「ラ・ボエーム」 全国共同制作オペラ2024 東京芸術劇場シアターオペラvol.18
●21日は東京芸術劇場で全国共同制作オペラ、プッチーニの「ラ・ボエーム」。演出・振付・美術・衣裳を森山開次が務めた。指揮は今年いっぱいで指揮活動から引退する井上道義。オーケストラは読響(全国共同制作オペラでは各地で異なるオーケストラが起用される)、合唱はザ・オペラ・クワイアと世田谷ジュニア合唱団。歌手陣はミミにルザン・マンタシャン、ロドルフォに工藤和真、ムゼッタにイローナ・レヴォルスカヤ、マルチェッロに池内響、コッリーネにスタニスラフ・ヴォロビョフ、ショナールに高橋洋介。ダンサーとして梶田留以、水島晃太郎、南帆乃佳、小川莉伯の4人が登場し、要所要所で登場人物の心理や情景を身体表現によって伝える。ダンサーのみならず歌手陣もかなり緻密な動きが要求されている模様。この演出では画家のマルチェッロを藤田嗣治に見立てている(風貌がそうだった)。これは、なるほどと思った。日本人にとって、パリで暮らすボヘミアンの画家といえばそのイメージか。とはいえ、それぞれの人物像の解釈は伝統に沿ったもの。趣向は凝らされていても、演出として奇抜なところはまったくない。みんなが期待する青春群像劇「ボエーム」の世界を描いていた。
●ルザン・マンタシャンと工藤和真のふたりをはじめ、歌手陣は強力。が、主役はオーケストラだったと思う。緻密でありながら雄弁なサウンド。オペラ劇場のような深いピットではないこともあり、オーケストラの音圧はかなり強めで、ときには重たく粘りのある表現で、痛切な感情表現を伝える。色彩感豊かなオーケストレーションはプッチーニ作品の大きな魅力であることを改めて実感。
●休憩は2回。第2幕の後と、さらに第3幕の後にも。コンサートホールなので物理的な幕がないわけで、途中の幕切れをどうするか、いろいろなやり方があると思うが、拍手が起きても歌手は客席に向いてお辞儀などせず、そのまま物語世界に留まった。拍手が止んでからも演技を続けていたのはとてもいいと思った。会場内には「カーテンコール中の撮影・SNS投稿は大歓迎です!」の貼り紙あり。カーテンコールの写真は最良のお土産。
●オペラはオペラとして完結するべきなので、プッチーニを味わううえで原作を知る必要はないと思うが、それはそれとして、オペラの原作であるアンリ・ミュルジェールの「ラ・ボエーム」は一読の価値がある。以前にONTOMOの「耳たぶで冷やせ」にも書いたように、ミミの人物像がずいぶん違っていて、気性が荒く、純真可憐ではまったくない。ミミはロドルフォとケンカをして別れたり、また付き合ったり、別の恋人を作ったりと、人間関係の出入りが激しい。つまり、ミミもひとりの人間として人格を持っていて、激しい感情も持っているし、ときには奔放だったりする。
●さらに、若き芸術家の卵たちが純粋なだけではなく、怠惰で身勝手なところもしっかり書かれていて、「ああ、ボヘミアンってイヤなヤツらだなあ」という嫌悪感も催させる。そういう嫌悪感がわき起こるのは大なり小なり身に覚えがあるからで、そのあたりの居心地の悪さが原作の魅力の核心にあるんじゃないだろうか。ミミの気難しさもそうだが、「若者であることの憂鬱さ」をきれいに取り除いて、純化した恋愛悲劇に仕立てたのがプッチーニのオペラ。やはりオペラはどこまで行っても音楽が主役なので、プッチーニが書く以上、プッチーニが書きたい音楽のなかに物語は収斂する。
ファビオ・ルイージ指揮NHK交響楽団のベートーヴェン第7番他
●19日はサントリーホールへ。ふたたびファビオ・ルイージ指揮NHK交響楽団。N響定期は毎月A、B、Cの3種類のプログラムがあるわけだが、サントリーホールのBプロが今季より木曜と金曜に変更になった(昨季までは水曜と木曜)。木曜の場合はBプロと決まっているから気にしなくていいが、金曜の公演はBプロ二日目のサントリーホールとCプロ初日のNHKホールの2パターンがあるわけで、少しだけ注意が必要になる。「金曜のN響=NHKホール」と思いこまないようにせねば。
●この日はシューベルトのイタリア風序曲第2番、シューマンのピアノ協奏曲(アレッサンドロ・タヴェルナ)、ベートーヴェンの交響曲第7番というオーソドックスなプログラム。チケットは完売。シューベルトはイタリア風というかロッシーニ風の愉快な序曲。シューマンは当初エレーヌ・グリモーが独奏を務める予定だったが、新型コロナ感染のため来日できず、代役でイタリアのアレッサンドロ・タヴェルナが登場。派手さはないがリリカル。ソリストアンコールに弾いたバッハ~ペトリの「羊は安らかに草を食み」に持ち味が出ていたのでは。
●ベートーヴェンの交響曲第7番は16型のオーケストラによる重量級。速めのテンポでぐいぐいと進む。第1楽章からほぼアタッカで第2楽章に入ったのは意外(が、前にも聴いたぞ……そうだ、ノット&東響だ。というかエッシェンバッハ&N響もそうだったか。実はたくさんあるかも)。あとの楽章は間をとった。終楽章はさらにギアを上げて、高速重戦車のような一気呵成のベートーヴェン。怒涛の勢いで客席を沸かせた。カーテンコールの後、拍手は止むか続くか微妙な気配だったけど、熱心なお客さんが残ってルイージのソロ・カーテンコールが実現。
大井浩明ピアノリサイタル クセナキス「エオンタ」他
●18日は豊洲シビックセンターホールで大井浩明ピアノリサイタル。このホール、たぶん初めて来たけど、豊洲文化センターという江東区の建物のなかにある300席ほどのホールで、客席側に傾斜がしっかりあってなかなかよい。ピアノはファツィオリ。この日の公演は日本・ギリシア文化観光年2024記念事業と銘打たれ、クセナキスを中心としたプログラム。最初にフィニッシーのピアノ協奏曲第4番(ピアノ独奏曲)が演奏され、以降はすべてクセナキスで「6つのギリシア民謡集」「ヘルマ」「エヴリアリ」、休憩をはさんで「靄」「ラヴェル頌」、最後にピアノと金管五重奏のための「エオンタ」。「エオンタ」ではトランペットに高橋敦と服部孝也、トロンボーンに小田桐寛之、伊藤雄太、菅貴登、指揮は大井駿。演出補佐を金剛流シテ方の田中敏文が務める。
●超絶的な難曲の嵐なのだが、とりわけ最初のフィニッシーが血も涙もないウルトラモダンな曲調で、この後にクセナキスを聴くとほっとするほど。初期作品「6つのギリシア民謡集」はバルトークが農村で採集してきた民謡みたいな顔をして始まるのだが、最後は民謡主題を留めながらもモダンなスタイルに変容する。「ヘルマ」と「エヴリアリ」は名曲の趣。「ヘルマ」を形作る集合論的なロジックは知覚できないが、きらめくような無機的な音響の連続から詩情が立ち昇る。久々に聴いた「エヴリアリ」に祝祭性を感じる。全体に、突き抜けるような強靭な打鍵が爽快。
●圧巻はおしまいの「エオンタ」。ピアノを下手に置き、金管五重奏が上手に陣取り、中央に指揮者が立つ配置なのだが、奏者は全員、能のような所作でしずしずと摺り足で登場。来日したクセナキスが能を鑑賞した直後に着想された作品ということから、能の所作を取り入れた模様。金管五重奏は最初は中央で奏し、以後、舞台上手やピアノ脇などに動き回り、視覚的なインパクトも大。明快な指揮があっても全員の同期は至難にちがいなく、アクセル全開で突っ込むコーナリングのようなスリリングさがあるのだが、ユーモアの要素も感じる。苛烈で荒々しい曲想が続いて曲を閉じつつも、後味はさわやか。予想外に晴れやかな気分に浸る。
チョン・ミョンフン指揮東京フィルのヴェルディ「マクベス」演奏会形式
●17日はサントリーホールでチョン・ミョンフン指揮東京フィルのヴェルディ「マクベス」演奏会形式。客席は盛況。演奏会形式とはいえ、照明や小道具なども活用され、演技もかなりついており、工夫が凝らされている。不足なく物語を味わうことができて、なおかつオーケストラは磨き上げられており、ステージ上から十全なサウンドを響かせる。歌手陣はマクベスにセバスティアン・カターナ、マクベス夫人にヴィットリア・イェオ、バンクォーにアルベルト・ペーゼンドルファー、マクダフにステファノ・セッコ、マルコムに小原啓楼。合唱は新国立合唱団。マクベスもバンクォーも声量があり押し出しもよいが、もっとも印象的だったのはマクベス夫人のヴィットリア・イェオ。安定感があり、決して過剰にはならずにマクベス夫人の異常な権力欲を表現する。この物語の真の主役。マクベス夫人はだれよりも権力を渇望していて、マクベスは夫人の操り人形にすぎないくらいなんだけど、でもどんなに策略を凝らしたところでマクベス夫人本人は戴冠できない。だって、女だから。この欲望には入口はあっても出口がない。
●マクベスとマクベス夫人には子がいない。魔女の予言はバンクォーの子孫が王になると言っているわけだが、仮にそれがなくてもマクベスは自らが簒奪した王位を子に継がせることはできないわけだ。実はシェイクスピアの原作では、マクベス夫人は「お乳で子どもを育てた」と語っており、一見、マクベスに子がいないことと矛盾しているように見える。これは子を失ったのかもしれないし、あるいは先夫との間に子があったとも解釈できる。ともあれ、ヴェルディのオペラも原作もマクベスに子がいないことは同じ。マクベス夫人に母性は感じられない。マクベスは「女から生まれた者には倒されない」という魔女の予言で自身の無敵を信じるが、母の腹を破って生まれてきたマクダフに倒される。時代を考えれば母体は犠牲になっているはずであり、マクダフは母を知らずに育っており、ここにも母性の不在がある。
●「マクベス」の大きな特徴は、魔女の予言「バンクォーの子孫が王になる」という伏線が回収されないこと。これが演出上の可能性を広げている。マクダフはマクベスに勝利して、先王の息子マルコムに戴冠させる。じゃあ、バンクォーの息子(原作ではフリーアンス)はどうなるの?と思う。ヴェルディのオペラではバンクォーの息子に名前が与えられていない。今回の舞台ではバンクォーが息子を逃す場面で黙役の子がでてきた。演奏会形式だから黙役の子役を用意しなくても成立したわけだけど、ここはちゃんと姿を見せておかないと話がわかりづらくなるということなのだろう。演出の一例としては、最後の場面で戴冠したマルコムが、バンクォーの息子の存在に気づいてギクリとしたりする。なので、最後にあの子役が出てくるのかなと思ったが、出てこなかった。でも、よく考えたら出てこなくて当然なのだ。たしか労働基準法で子役は夜8時だったか9時だったかより遅くには出演できないはずなので、第4幕の終盤に顔を見せることはない……。
●ヴェルディのオペラでは先王の息子はマルコムひとりだけど、原作ではイングランドに逃げた長男マルコム(マルカム)と、アイルランドに逃げた次男のドナルベインのふたりがいる。この設定もいろんな演出の可能性を生み出していて、ポランスキーが映画化した「マクベス」では最後にドナルベインが魔女のところに行くんじゃなかったっけ? 記憶が曖昧なのでもう一回見て確かめたいところだが、わりと怖い映像だったと思うので手が出ない。映画としての「マクベス」では、以前にもご紹介したジョエル・コーエン監督の「マクベス」(2021)がオススメ。
●余談。第4幕、バーナムの森が動く場面の「枝を捨てよ、武器を持て」の歌詞のところで、チョン・ミョンフンの手から指揮棒がすっぽ抜けた。マエストロは指揮台を降りて、棒を取りに行ったのだが(その間も演奏は続いていた)、これは指揮棒を枝に見立てたってこと? まさかね。
ファビオ・ルイージ指揮NHK交響楽団のブルックナー交響曲第8番(初稿)
●14日はNHKホールでファビオ・ルイージ指揮N響。曲はブルックナーの交響曲第8番(初稿)のみ。ブルックナー生誕200年の今年、新シーズンの開幕にふさわしい大曲であるが、なんと、初稿なのだ。録音ではともかく、ライブで聴く機会は貴重。N響にとってもこれが初めての演奏だったとか。熱気にあふれ、緻密というよりは強靭なブルックナーに。
●一般的な改訂稿と比べると、大まかなアウトラインは同じなのに、オーケストレーションが違ったり、局所的にまったく異なる楽想が出てきたりして、まるでパラレルワールドに迷い込んだような不思議な感覚になる。大きな違いは第1楽章の終結部で、通常は静かに終わってエネルギーを溜めるような感があるんだけど、この初稿では長調でパワフルに楽章を閉じて、はっきり区切りをつける。第2楽章はスケルツォで同じように始まるけど、トリオがまったく違う。ここは改訂稿のトリオのほうがだんぜんよくできてるんじゃないだろうか。第3楽章は長大な緩徐楽章。全曲の白眉であるのみならず、ブルックナーの全交響曲のなかでも、とりわけインスピレーションに富んだ楽章。この初稿ではクライマックスでシンバルの3連発×2がある。すごい念押し感。ブルックナーの作風としては過剰に感じるが、当初の構想としてこういう形が採用されていたという事実は興味深い。全体として、やっぱり改訂稿は数段練り上げられていると実感する。ただ、初稿には初稿にしかない粗削りの魅力があることもたしか。
●曲が終わった瞬間、客席は拍手をしたい少数の人と沈黙したい多数の人に分かれた。威勢よく終わるので、拍手が出ても不思議はないとは思った。その後、大喝采。
石上真由子&中恵菜&佐藤晴真の弦楽三重奏
●12日はHakuju Hallで石上真由子(ヴァイオリン)、中恵菜(ヴィオラ)、佐藤晴真(チェロ)のトリオ。新旧ウィーン楽派の弦楽三重奏曲のみで構成される硬派なプログラムだが、客席は盛況。ウェーベルンの弦楽三重奏曲、シューベルトの弦楽三重奏曲第1番変ロ長調D471(未完)、シェーンベルクの弦楽三重奏曲、休憩をはさんでベートーヴェンの弦楽三重奏曲第1番変ホ長調op3。練り上げられたプログラムといった感で、弦楽三重奏にこれだけ豊かな世界が広がっていることを初めて実感。同じ新ウィーン楽派といってもウェーベルンとシェーンベルクの描く世界は対照的で、シェーンベルクのひりひりとするような熱さを堪能。
●白眉は後半のベートーヴェン。作品3という初期作品、しかも全6楽章という多楽章から、漠然とディヴェルティメント風、セレナーデ風の軽い音楽のような先入観を抱いてしまっていたのだが、ぜんぜんそうではなく、きわめて鮮烈で雄弁。第1楽章のアレグロ・コン・ブリオは本当にコン・ブリオで中期作品を先取りするかのよう。奇をてらうところのない正攻法のベートーヴェンで、各楽章のキャラクターがよく伝わる内容の濃い音楽。パッション、ユーモアも十分。弦楽四重奏はどんなに第1ヴァイオリンのキャラが立っていても「集合体」って感じだけど、弦楽三重奏は3人が全員主役というか、各人それぞれのパーソナリティが表に出る音楽だなと感じる。その点でもこの3人は超強力。
●感心したのは終わった後にアンコールではなく、撮影タイムがあったこと。意表を突かれたけど、これはすばらしいアイディアだと思った。本編が充実している場合、欲しいのはオマケではなく、お土産なのだ。Googleフォトがライフログ化している今日、写真にまさるお土産はない。石上さんのトークが上手なこともあって、とてもいい雰囲気で終演。
「指揮棒の魔術師ロジェストヴェンスキーの“証言”」(ブリュノ・モンサンジョン著)
●気になっていた本、「指揮棒の魔術師ロジェストヴェンスキーの“証言”」(ブリュノ・モンサンジョン著/船越清佳訳/音楽之友社)を読んだ。モンサンジョンといえばグレン・グールドやスヴャトスラフ・リヒテルらの映像でおなじみ。映像作家であると同時に、筑摩書房刊の「リヒテル」(傑作!)のような著作でも知られている。で、このロジェストヴェンスキー本も期待通りのおもしろさ。基本的にロジェストヴェンスキーの語りの体裁で記述されており、その語り口は率直で、しばしば辛辣なユーモアに包まれている。
●おもしろさの源泉は2種類あると思った。ひとつはソ連時代の社会システムが生み出す不条理の世界。これはもういろんな音楽家たちが書いていることだけど、やっぱりくりかえし語って伝えていくべきこと。独裁的な強権政治と極端に硬直した官僚主義がなにを生み出すか。有名なジダーノフ批判で、プロコフィエフもショスタコーヴィチもハチャトゥリアンもみんな「形式主義者」と批判されたけど、「形式主義者」とはなにか、だれもわからない。そして「社会主義リアリズム」というドクトリンが掲げられたが、これがなにを意味するのかも、だれひとり説明できないまま物事が決められていく。
誰かが「このシャツは白い」と言えば、「その通り、白です」と同意する。それが現実には暗色のチェックであったとしても「白だ」と答えなければ、翌日は牢獄という現実が待っているのだ。
●もうひとつはロジェストヴェンスキーから見たロシアの音楽家たちの実像。ショスタコーヴィチ、プロコフィエフ、フレンニコフ、ロストロポーヴィチ、オイストラフ、ストラヴィンスキーなど。とくにショスタコーヴィチについての記述がいい。
●ショスタコーヴィチが楽譜に誤りがたくさんあることを知りながら、訂正しなかったという話は興味深い。ボロディン弦楽四重奏団が楽譜の誤りを見つけて尋ねると、ショスタコーヴィチは指摘の通りまちがっていることを認めたうえで、「でも書かれている通りに弾いてくださいよ!」と求めたという。ムラヴィンスキーが交響曲第5番を指揮した際、客席にいたシルヴェストリが楽屋にショスタコーヴィチを訪ね、「楽譜に書かれているテンポは正しいのか」と尋ねたら、「もちろん正しい。すべて完璧に正しい」という答えが返ってきた。でもムラヴィンスキーはまったく違うテンポで指揮していたではないかと聞くと、「彼もまったく正しいんです!」と言われてしまう。その場に居合わせたロジェストヴェンスキーは、ショスタコーヴィチが指揮についての話を心底嫌っていることを知っていたので、ひたすらこの会話が早く終わってほしいと願うばかりだったという。ちなみにショスタコーヴィチのメトロノームはピアノから落ちて壊れていたが、それをよく承知の上でショスタコーヴィチはずっと同じものを使い続けた。だからショスタコーヴィチのメトロノーム表示はどれひとつ信用できないとロジェストヴェンスキーは言っている。なんというか、ふつうのロジックが通用しないのだ。
●あとはショスタコーヴィチがドビュッシーの音楽を毛嫌いしていた話もおもしろい。ブーレーズがショスタコーヴィチをまったく評価しなかったことを思い出す。
バーレーンvsニッポン@ワールドカップ2026 アジア最終予選
●W杯アジア最終予選、第2節はアウェイのバーレーン戦。中継はDAZNのみ。初戦はホームでの中国戦で7対0と予想外の大勝を収めたニッポンだが、アウェイとなれば苦戦が続くのがアジアの戦いの常。気温38度、スタジアムには無料で観客を入れ、君が代でブーイングが鳴り響く。が、観客数は2万3千人。中東勢といってもサウジやイランのような大国とは違うのだ。バーレーンの人口は約150万人で、その半数以上は外国人労働者。むしろこの規模で最終予選まで勝ち上がってくることがすごい。もちろん帰化選手もいるようだが。
●ここまで連戦では先発選手のターンオーバーを原則としてきた森保監督だが、今回は中国戦のメンバーからひとりを変更したのみ(久保に代えて鎌田を起用)。3-2-4-1の超攻撃的布陣で、ワントップ(上田)、ツーシャドウ(南野、鎌田)、両ウィング(三笘、堂安)のアタッカー陣。序盤はバーレーンがしっかりニッポン対策を練ってきた感があった。ドラガン・タライッチ監督はディフェンスラインを高めに敷いて選手間の距離をコンパクトに保ち、ニッポンがつなぐボールを網にかけてカウンターを狙う。前線へのプレスもある程度はかけてくる。ファウルをもらえばセンターライン近くからでもロングボールをゴール前に放り込んでフィジカル勝負をかける。ロングスローも使う。狙いとしてはまちがっていない。ボールを保持するのはニッポンだが、前半の中盤くらいまではバーレーンのゲームプラン通りだったはず。
●ところが前半34分、右サイドからの低いクロスに対して、スライディングしたバーレーンのディフェンダーの手が当たってPKに。キッカー上田は、スタンドから目を狙ってくる緑色のレーザーポインターを一切無視してズドンと左下に蹴り込んで先制ゴール。ここからニッポンがのびのびとプレーするようになった。後半に入ってすぐ、ペナルティエリア内で鎌田、伊東(後半頭から堂安に代えて投入)、上田と細かくパスを回し、上田が振り向きざまに豪快にシュートして2点目。この得点が大きかった。がくんと相手の集中力が切れ、運動量も低下して、コンパクトな陣形を保てなくなる。早くも客席から帰る人たちも。無料で動員するとこうなりがち。後半16分、中盤から駆け上がった守田が上田とのワンツーで抜け出て、落ち着いてシュートを打って3点目。どんどん客席から人が帰ってゆく。その直後、また守田が走り込んで4点目。この後はバーレーンはすっかり気力と規律を失って試合が緩んだ。途中出場の小川が5点目を決めて、バーレーン 0対5 ニッポン。
●2戦連続の大勝で、従来の最終予選とはずいぶん様子が違う。この試合にかんしていえば、主審のルスタム・ルトフリン(ウズベキスタン)が試合が荒れないようにコントロールしていたのがよかった。ちなみにバーレーンは1戦目にアウェイでオーストラリアを下しており、ワールドカップ出場の可能性は十分にある。なにせアジアの出場枠は8.5まで拡大されているのだから。
カーチュン・ウォン指揮日本フィルのブルックナー9
●8月に最高気温が39℃まで到達して「ああ、東京の夏が40℃を超えるのは時間の問題だな」と思っていたが、さすがに9月も中旬に入ろうとする今週、日々の最高気温は34℃前後である。これでだいぶ暑さが和らいできたと感じてしまうのだから、どうかしている。先の天気予報を眺めると9月20日頃から最高気温が30℃を下回るようだ。夏が長くなったのか、あるいはこれが新しい秋なのか。
●で、6日はサントリーホールでカーチュン・ウォン指揮日本フィル。曲はブルックナーの交響曲第9番のみ。ブルックナー生誕200年、しかも9月4日が作曲者の誕生日とあって、ブルックナーラッシュが続いている。でも第4楽章付きではないのに、交響曲第9番のみのプログラムは珍しい。ゲストコンサートマスターにマンチェスターのハレ管弦楽団のロベルト・ルイジ。カーチュンは今秋からハレ管弦楽団の首席指揮者に就任している。
●前夜のサントリーホールでマクシム・エメリャニチェフ指揮読響が後列にコントラバス4台を横一列に並べていて、東京のオーケストラでこの配置は珍しいなと思っていたら、なんと、この日はコントラバス10台が横一列に並んでいた。なかなか目にすることのない壮観。オーケストラの音も重厚で、ふだんの日フィルとはだいぶ違ったイメージに。カーチュンは第1楽章をかなり遅いテンポで開始。最近、どちらかというとシャープなスマート・ブルックナーを聴くことが多かったので、これだけ重々しく荘厳なブルックナーを聴くのは久々。筆圧が強く、カーチュンのジェスチャー同様、くっきりとして曖昧なところのない剛のブルックナー。強靭ではあるが、音圧頼みではまったくない。第2楽章のスケルツォ主題、カーチュンの指揮がボウイングを明確に視覚化していたのがおもしろかった。第2楽章が終わったところで指揮棒を止めて、たっぷり間をとった。チューニングを入れて、第3楽章へ。陶然としたアダージョの後、長い沈黙。盛大な喝采が続き、楽員退出後も拍手が止まず、カーチュンとコンサートマスターのふたりが登場してカーテンコール。
マクシム・エメリャニチェフ指揮読響、マハン・エスファハニ
●5日はサントリーホールでマクシム・エメリャニチェフ指揮読響。メンデルスゾーンの序曲「フィンガルの洞窟」、チェコの作曲家ミロスラフ・スルンカ(1975~ )のチェンバロ協奏曲「スタンドスティル」日本初演(マハン・エスファハニ)、シューベルトの交響曲「グレイト」というプログラム。鬼才の呼び声高いエメリャニチェフとエスファハニを一度に聴けるお得な機会。
●スルンカのチェンバロ協奏曲「スタンドスティル」は23分ほどのそこそこ大仕掛けの作品。チェンバロ用にPAも入る。弦楽器奏者たちがゆで卵カッター(金属部分、たぶん)を使ったザワザワとした音を敷いたところにチェンバロ奏者が信号音的な同音連打を重ね、やがて無機的な断片的パッセージの反復を基調としたゆるやかな音響の波を作り出す。チェンバロの音色がきらきらとした輝きを放ち、ときには発話的、ときには吃音的なパッセージをくりかえす。打楽器奏者たちがプラスチックの下敷きのようなものを歪ませてブワブワと音を鳴らし、これと対話するようにチェンバロ奏者が応答する。チェンバロは発音なしの打鍵音を出したり、肘を使って鍵盤を叩くなど自在の表現。全般に響きのおもしろさに焦点が当てられているが、これだけの長さがあると構成感という点ではどうなのかな。もう少しチェンバロの近くで聴けばまた違った感興がわいたかも。エスファハニは電子楽譜を使用。曲が終わったところで思わせぶりな態度をとらずに、さっと「はい、おしまい」みたいなポーズを見せたところは好感。作曲者臨席。
●エスファハニのソリスト・アンコールあり。パーセルのグラウンドを弾いて、これで前半は終わるかと思ったら、そこからラモーのガヴォットと6つの変奏が始まった。それ弾くなら、一曲だけでもよくない?とは思ったけど、熱々の演奏で大いに盛り上げてくれた。風貌に身近なオッチャン感があるんだけど、魅せて沸かせる人であった。
●と、長々と書いてしまったが、スルンカの協奏曲よりも、だんぜんおもしろかったのがエメリャニチェフの指揮で、メンデルスゾーンといい、シューベルトといい、まったく常套的ではない。綿密に響きを磨き上げるタイプではないが、自在にテンポを伸び縮みさせながら、今そこで音楽が生み出されている喜びを感じさせてくれる。指揮ぶりにアーノンクールを連想。「グレート」はコンパクトで、弦は10型だったかな? 対向配置、後列にコントラバス4台を横一列に並べるスタイル。指揮棒も指揮台もなし。俊敏で鮮烈、快速テンポでリピートあり、長大な曲をまったく退屈させずに聴かせてくれた。楽しい。
ニッポンvs中国@ワールドカップ2026 アジア最終予選
●いよいよ、W杯アジア最終予選がスタート。初戦は埼玉スタジアムでニッポン対中国。ニッポンは過去2大会とも最終予選の初戦で敗れており、意外と苦戦しているのだが、この中国戦、試合が始まってみると圧倒的なニッポンのペース。ホームゲームであり、個のクオリティの高さを考えてもニッポンがゲームを支配するとは思ったが、まさかここまで一方的な内容になるとは。前半12分にデザインされたセットプレイからフリーになった遠藤が頭でゴールして先制、その後、相手キーパーのファインセーブもあり追加点がなかなかとれなかったが、47分に右サイドからの堂安の完璧なクロスにファーサイドの三笘が頭で合わせて2点目。後半は南野、南野、復帰した伊東純也、前田大然、久保のゴールラッシュ。終わってみればニッポン 7対0 中国。シュート19本に対して相手は1本、73%のボール支配率だった。
●森保監督が敷いた布陣は3-4-3というか、3-2-4-1というか、以前も試した超攻撃的な布陣で、町田、谷口、板倉が並ぶ3バックに対して、左右のウイングバックが三笘と堂安。ここにサイドバックではなくウィンガー、アタッカー調の選手を置いている。中盤は守田と遠藤の2枚で、その前に南野と久保、トップに上田。実質的に5人のアタッカーがいる。つまり、三笘、南野、久保、堂安、上田。この布陣で相手に攻められたらどうなるのか、気になるところだが、ほぼ攻められなかった。キーパーは鈴木彩艶だが、セーブ機会はゼロだったのでは。サイドバックに居場所のない布陣でもある。
●中国を率いるのはイヴァンコヴィッチ監督。オマーン代表やイラン代表を率いてニッポンに勝っている。どういう戦い方をするのかと思ったが、ほとんど前線からプレスをかけてこなかったため、ニッポンは後ろから余裕を持ってボールを運べた。逆にこちらのプレスはよく効く。いちばん困るのはラフプレイだが、その点、VARがあるのは救い。まあ、アウェイではそれすら頼りにならなかったりもするが……。
●GK:鈴木彩艶-DF:板倉(→高井幸大)、谷口、町田-MF:遠藤(→田中碧)、守田-堂安(→伊東)、三笘(→前田大然)-久保、南野-FW:上田(→小川航基)。20歳の高井幸大が代表デビュー。192cmの大型ディフェンダー。
ガルシア=マルケス「百年の孤独」再読 その6 黄色い蛾
●(承前)品薄状態が続いていたが、さすがに近隣の書店でも平積みになっていた、ガルシア=マルケス「百年の孤独」(新潮文庫)。想定以上の売れ行きだったのはよかったが、千載一遇の好機にどれだけ売り逃したことかと思わずにはいられない。電子書籍もなかったし……。という辛気臭い話はここまでにして、再読メモの続きだ。今回が最終回のつもり。
●ふと思いついた、この長大な愛と孤独の物語をテーマにAIに絵を描いてもらったらどうなるだろうか。そこでBing Image Creator(DALL-E 3)に「百年の孤独」のイラストを描いてほしいとシンプルにリクエストした。もちろん、そこにはAIがトンチンカンな絵を描いてくるのではないかというイジワルな期待もあったのだが、AIはこんなイラストを作ってくれた。
●お。おお。おおおーー! なんと、AIは健闘しているではないか。「百年の孤独」が書物であるという理解はもちろんのこと、見逃せないのは黄色い蝶だ。いや、蝶ではない。これは蛾であるはず。物語の内容を知らなければ出てこないモチーフだ。前回、クラヴィコード奏者になったメメ(レナータ・レメディオス)について書いたが、メメが恋に落ちた相手、マウリシオ・バビロニアはいつも黄色い蛾とともに姿を現すのである。映画館のなかでも、教会でも、まず黄色い蛾が飛んきて、そこにマウリシオ・バビロニアがやってくる。メメは抑圧的な母親フェルナンダに隠れてマウリシオ・バビロニアと愛し合う。メメの行いを正すべく、フェルナンダはメメを自宅に軟禁するが、メメは密かに浴室でマウリシオ・バビロニアと会い続けた。
ある晩、メメがまだ浴室にいるあいだに、たまたまフェルナンダがその寝室に入っていくと、息もできないほどの無数の蛾が舞っていた。
恐るべき事態に気づいたフェルナンダは、鶏が盗まれているという理由で警官を呼ぶ。浴室に忍び込もうとしたマウリシオ・バビロニアは銃で撃たれ、一生ベッドから離れられない体になり、以後、思い出と黄色い蛾とともに侘しく年老いる。一方、メメはこの事件以来、老衰で世を去るまで二度と口をきかなかった。
●実はこのときメメは妊娠しており、マウリシオ・バビロニアとの子、アウレリャノ・バビロニアをもうける。アウレリャノ・バビロニアは自分の本当の血筋を知らされずに育てられ、やがて叔母であるアマランタ・ウルスラと愛しあうようになり、ついに「豚のしっぽ」を持った子、アウレリャノが生まれる。「この百年、愛によって生を授かった者はこれが初めて」。
●以前、METライブビューイングで上映されたダニエル・カターンのオペラ「アマゾンのフロレンシア」を紹介したけど(→参照)、あの作品はガルシア=マルケスに着想を得たという触れ込みだった(あくまで原作とは言っていない)。主に着想源となったのは「コレラの時代の愛」だと思うが、蝶のモチーフは「百年の孤独」から取られていたのかと気づく(ホントは蛾だけど、生物学的には蝶と蛾の明確な区別はつかないらしい)。
●終盤のマコンドの町の荒廃と、ブエンディア一族の衰退はなんとも儚い。すでに「豚のしっぽ」を持った子についてのウルスラの警告は忘れられている。メルキアデスの羊皮紙の謎が解け、その題字が「この一族の最初の者は樹につながれ、最後の者は蟻のむさぼるところになる」であることが判明する。この終章と来たら、もう本当に……。長い長い物語の幕切れはこのうえもなく鮮やかだ。そして、寂しい。
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ガルシア=マルケス「百年の孤独」再読 その1 水
http://www.classicajapan.com/wn/2024/07/091015.html
ガルシア=マルケス「百年の孤独」再読 その2 近親婚
http://www.classicajapan.com/wn/2024/07/120950.html
ガルシア=マルケス「百年の孤独」再読 その3 くりかえされる名前
http://www.classicajapan.com/wn/2024/07/191033.html
ガルシア=マルケス「百年の孤独」再読 その4 年金を待つ人
http://www.classicajapan.com/wn/2024/07/240955.html
ガルシア=マルケス「百年の孤独」再読 その5 クラヴィコード
http://www.classicajapan.com/wn/2024/08/231038.html
ガルシア=マルケス「百年の孤独」再読 その6 黄色い蛾(当記事)
http://www.classicajapan.com/wn/2024/09/050955.html
コメがなければ
●コメ不足だというニュースが広がり、じりじりとお米の価格が上がっているなと思ったら、先日、近所のスーパーのお米売場がすっからかんになっていた。けっこういいお値段が付いているのに一袋もない。この光景を見て、自分の心のなかのマリー・アントワネットがささやいた。「お米がなければパンを食べればいいじゃない」。
●後日振り返るためにメモしておくと、amazonブランドの会津産コシヒカリ無洗米5kgが、本日時点で税込3625円。同商品の価格履歴をその筋のサイトで調べると、昨年11月には2000円だった。生協の宅配だと、ふだん1950円ほどのお米が今は2700円になっている。4割増くらいだ。
●ともあれ、農水省の言うように、これから今年の新米が供給されるわけで、まもなく品薄感は解消されるはず。ニュースを知って慌ててお米を買うことで一時的に需要が爆増していると思うので、しばらくすると逆にお米がだぶつくかもしれない。
●今日、外出先でスーパーをのぞいてみたら、お米売場にずらりとカルビーのフルグラが並んでいた。コメはなかった。ふたたび、心のなかのマリー・アントワネットが勝ち誇ったように叫んだ。「お米がなければフルグラを食べればいいのよっ!」
東京オペラシティアートギャラリー 髙田賢三 夢をかける
●東京オペラシティアートギャラリーで「髙田賢三 夢をかける」(~9/16)。日本人ファッションデザイナーとしていち早くパリに進出した髙田賢三(1939-2020)の創作活動を回顧する展覧会。もちろん、展示されるのはおもに服だ。服以外の作品もあるけど、基本的には服がずらりと並び、たくさんのマネキンが立つことになる。「じゃ、それって結局、デパートの婦人服売り場みたいな感じなんじゃないの。KENZOブランドの」。見る前はそんなことも案じたが、これは杞憂。入ってみると、ちゃんとアートギャラリーだった。展示空間がやっぱり美術館としてのそれであって、洋品店っぽくはならない(そりゃそうだ)。華やかな気分で楽しめる。
●けっこう賑わっていたのだが、やはり客層がいつものアートギャラリーとぜんぜん違う感じ。アートとファッション、近そうでぜんぜん近くないかも。若者率高し。
●あ、クマさんだ。かわいいー。
●こちらはアテネオリンピック開会式用公式服装のTシャツ、パンツ、帽子(2004、ファーストリテイリング)。涼しげで軽やかなのがよい。メンズは脛が丸出しなところがチャレンジングだ。さて、試着室はどこかな~(ありません)。
Chandosのダウンロード販売サービスThe Classical Shop終了に伴い、最大50%OFFセールを開催
●SpotifyやApple Musicといったストリーミング配信全盛の今、音源をダウンロードで購入している人は少数派だとは思うが、Chandos Recordsのダウンロード販売サービス The Classical Shop が11月29日をもって閉じられることになった。新規ダウンロード購入は10月25日まで。よく勘違いされるので説明しておくと、The Classical ShopはChandos運営のサイトだが、Chandosレーベルの音源だけを扱うのではなく、BISとかonyxとかNimbusとかHänsslerとか、いろんな中堅レーベルの音源を購入できるサイトなんである。20年間続いたが、ダウンロードの需要低下が止まらず、サービスを終了することに。で、最後は最大50%セールをやってくれることになった。お値段はポンド建てなので、円安の今、お得感がどれほどのものかは知らない。
●The Classical Shopはなんどか利用したことはあるが、ダウンロードで購入するときは自分はおもにPresto Musicを使っていた。こちらのほうがメジャーレーベルを含めた数多くのレーベルを扱っていて便利であり、しかも購入時に円で決済できるのでなにかと明快。ここはまだ健在で、もちろんChandosの音源も販売している。もっとも、ストリーミングではなくダウンロードが必要という場面も減ってきたので、最近は使わなくなりつつあるというのが正直なところ。
●ストリーミングにはない、ダウンロードの利点もあることはある。たとえばデジタル・ブックレットが付いてくる(こともある)とか、CD音質を超えるハイレゾ音源でも購入できる(ものが多い)とか、ネットワークの不安定な環境でもストレスなく聴けるとか(たとえば長距離移動時)、たまにストリーミングでは聴けない音源が売っているとか、ストリーミング配信はいつサービス自体を止めると言い出すかわからないけどダウンロードでデータを所有してしまえばいつまでも聴き続けることができるとか。でも、こういった利便性はかなりニッチではある。
●ところでChandosといえば、少し前にナクソスの創業者であるクラウス・ハイマンの傘下に入るという発表があった(参照記事)。経営は引き続きラルフ・カズンズ(創始者ブライアンの息子)が行い、物流や配信はナクソスが担当するといった話。このニュースは、ナクソスではなく、クラウス・ハイマン個人がChandosを取得したという点で目を引いた。