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2024年9月アーカイブ

September 18, 2024

チョン・ミョンフン指揮東京フィルのヴェルディ「マクベス」演奏会形式

●17日はサントリーホールでチョン・ミョンフン指揮東京フィルのヴェルディ「マクベス」演奏会形式。客席は盛況。演奏会形式とはいえ、照明や小道具なども活用され、演技もかなりついており、工夫が凝らされている。不足なく物語を味わうことができて、なおかつオーケストラは磨き上げられており、ステージ上から十全なサウンドを響かせる。歌手陣はマクベスにセバスティアン・カターナ、マクベス夫人にヴィットリア・イェオ、バンクォーにアルベルト・ペーゼンドルファー、マクダフにステファノ・セッコ、マルコムに小原啓楼。合唱は新国立合唱団。マクベスもバンクォーも声量があり押し出しもよいが、もっとも印象的だったのはマクベス夫人のヴィットリア・イェオ。安定感があり、決して過剰にはならずにマクベス夫人の異常な権力欲を表現する。この物語の真の主役。マクベス夫人はだれよりも権力を渇望していて、マクベスは夫人の操り人形にすぎないくらいなんだけど、でもどんなに策略を凝らしたところでマクベス夫人本人は戴冠できない。だって、女だから。この欲望には入口はあっても出口がない。
●マクベスとマクベス夫人には子がいない。魔女の予言はバンクォーの子孫が王になると言っているわけだが、仮にそれがなくてもマクベスは自らが簒奪した王位を子に継がせることはできないわけだ。実はシェイクスピアの原作では、マクベス夫人は「お乳で子どもを育てた」と語っており、一見、マクベスに子がいないことと矛盾しているように見える。これは子を失ったのかもしれないし、あるいは先夫との間に子があったとも解釈できる。ともあれ、ヴェルディのオペラも原作もマクベスに子がいないことは同じ。マクベス夫人に母性は感じられない。マクベスは「女から生まれた者には倒されない」という魔女の予言で自身の無敵を信じるが、母の腹を破って生まれてきたマクダフに倒される。時代を考えれば母体は犠牲になっているはずであり、マクダフは母を知らずに育っており、ここにも母性の不在がある。
●「マクベス」の大きな特徴は、魔女の予言「バンクォーの子孫が王になる」という伏線が回収されないこと。これが演出上の可能性を広げている。マクダフはマクベスに勝利して、先王の息子マルコムに戴冠させる。じゃあ、バンクォーの息子(原作ではフリーアンス)はどうなるの?と思う。ヴェルディのオペラではバンクォーの息子に名前が与えられていない。今回の舞台ではバンクォーが息子を逃す場面で黙役の子がでてきた。演奏会形式だから黙役の子役を用意しなくても成立したわけだけど、ここはちゃんと姿を見せておかないと話がわかりづらくなるということなのだろう。演出の一例としては、最後の場面で戴冠したマルコムが、バンクォーの息子の存在に気づいてギクリとしたりする。なので、最後にあの子役が出てくるのかなと思ったが、出てこなかった。でも、よく考えたら出てこなくて当然なのだ。たしか労働基準法で子役は夜8時だったか9時だったかより遅くには出演できないはずなので、第4幕の終盤に顔を見せることはない……。
●ヴェルディのオペラでは先王の息子はマルコムひとりだけど、原作ではイングランドに逃げた長男マルコム(マルカム)と、アイルランドに逃げた次男のドナルベインのふたりがいる。この設定もいろんな演出の可能性を生み出していて、ポランスキーが映画化した「マクベス」では最後にドナルベインが魔女のところに行くんじゃなかったっけ? 記憶が曖昧なのでもう一回見て確かめたいところだが、わりと怖い映像だったと思うので手が出ない。映画としての「マクベス」では、以前にもご紹介したジョエル・コーエン監督の「マクベス」(2021)がオススメ。
●余談。第4幕、バーナムの森が動く場面の「枝を捨てよ、武器を持て」の歌詞のところで、チョン・ミョンフンの手から指揮棒がすっぽ抜けた。マエストロは指揮台を降りて、棒を取りに行ったのだが(その間も演奏は続いていた)、これは指揮棒を枝に見立てたってこと? まさかね。

September 17, 2024

ファビオ・ルイージ指揮NHK交響楽団のブルックナー交響曲第8番(初稿)

ファビオ・ルイージ NHK交響楽団
●14日はNHKホールでファビオ・ルイージ指揮N響。曲はブルックナーの交響曲第8番(初稿)のみ。ブルックナー生誕200年の今年、新シーズンの開幕にふさわしい大曲であるが、なんと、初稿なのだ。録音ではともかく、ライブで聴く機会は貴重。N響にとってもこれが初めての演奏だったとか。熱気にあふれ、緻密というよりは強靭なブルックナーに。
●一般的な改訂稿と比べると、大まかなアウトラインは同じなのに、オーケストレーションが違ったり、局所的にまったく異なる楽想が出てきたりして、まるでパラレルワールドに迷い込んだような不思議な感覚になる。大きな違いは第1楽章の終結部で、通常は静かに終わってエネルギーを溜めるような感があるんだけど、この初稿では長調でパワフルに楽章を閉じて、はっきり区切りをつける。第2楽章はスケルツォで同じように始まるけど、トリオがまったく違う。ここは改訂稿のトリオのほうがだんぜんよくできてるんじゃないだろうか。第3楽章は長大な緩徐楽章。全曲の白眉であるのみならず、ブルックナーの全交響曲のなかでも、とりわけインスピレーションに富んだ楽章。この初稿ではクライマックスでシンバルの3連発×2がある。すごい念押し感。ブルックナーの作風としては過剰に感じるが、当初の構想としてこういう形が採用されていたという事実は興味深い。全体として、やっぱり改訂稿は数段練り上げられていると実感する。ただ、初稿には初稿にしかない粗削りの魅力があることもたしか。
●曲が終わった瞬間、客席は拍手をしたい少数の人と沈黙したい多数の人に分かれた。威勢よく終わるので、拍手が出ても不思議はないとは思った。その後、大喝采。

September 13, 2024

石上真由子&中恵菜&佐藤晴真の弦楽三重奏

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●12日はHakuju Hallで石上真由子(ヴァイオリン)、中恵菜(ヴィオラ)、佐藤晴真(チェロ)のトリオ。新旧ウィーン楽派の弦楽三重奏曲のみで構成される硬派なプログラムだが、客席は盛況。ウェーベルンの弦楽三重奏曲、シューベルトの弦楽三重奏曲第1番変ロ長調D471(未完)、シェーンベルクの弦楽三重奏曲、休憩をはさんでベートーヴェンの弦楽三重奏曲第1番変ホ長調op3。練り上げられたプログラムといった感で、弦楽三重奏にこれだけ豊かな世界が広がっていることを初めて実感。同じ新ウィーン楽派といってもウェーベルンとシェーンベルクの描く世界は対照的で、シェーンベルクのひりひりとするような熱さを堪能。
●白眉は後半のベートーヴェン。作品3という初期作品、しかも全6楽章という多楽章から、漠然とディヴェルティメント風、セレナーデ風の軽い音楽のような先入観を抱いてしまっていたのだが、ぜんぜんそうではなく、きわめて鮮烈で雄弁。第1楽章のアレグロ・コン・ブリオは本当にコン・ブリオで中期作品を先取りするかのよう。奇をてらうところのない正攻法のベートーヴェンで、各楽章のキャラクターがよく伝わる内容の濃い音楽。パッション、ユーモアも十分。弦楽四重奏はどんなに第1ヴァイオリンのキャラが立っていても「集合体」って感じだけど、弦楽三重奏は3人が全員主役というか、各人それぞれのパーソナリティが表に出る音楽だなと感じる。その点でもこの3人は超強力。
●感心したのは終わった後にアンコールではなく、撮影タイムがあったこと。意表を突かれたけど、これはすばらしいアイディアだと思った。本編が充実している場合、欲しいのはオマケではなく、お土産なのだ。Googleフォトがライフログ化している今日、写真にまさるお土産はない。石上さんのトークが上手なこともあって、とてもいい雰囲気で終演。

September 12, 2024

「指揮棒の魔術師ロジェストヴェンスキーの“証言”」(ブリュノ・モンサンジョン著)

●気になっていた本、「指揮棒の魔術師ロジェストヴェンスキーの“証言”」(ブリュノ・モンサンジョン著/船越清佳訳/音楽之友社)を読んだ。モンサンジョンといえばグレン・グールドやスヴャトスラフ・リヒテルらの映像でおなじみ。映像作家であると同時に、筑摩書房刊の「リヒテル」(傑作!)のような著作でも知られている。で、このロジェストヴェンスキー本も期待通りのおもしろさ。基本的にロジェストヴェンスキーの語りの体裁で記述されており、その語り口は率直で、しばしば辛辣なユーモアに包まれている。
●おもしろさの源泉は2種類あると思った。ひとつはソ連時代の社会システムが生み出す不条理の世界。これはもういろんな音楽家たちが書いていることだけど、やっぱりくりかえし語って伝えていくべきこと。独裁的な強権政治と極端に硬直した官僚主義がなにを生み出すか。有名なジダーノフ批判で、プロコフィエフもショスタコーヴィチもハチャトゥリアンもみんな「形式主義者」と批判されたけど、「形式主義者」とはなにか、だれもわからない。そして「社会主義リアリズム」というドクトリンが掲げられたが、これがなにを意味するのかも、だれひとり説明できないまま物事が決められていく。

 誰かが「このシャツは白い」と言えば、「その通り、白です」と同意する。それが現実には暗色のチェックであったとしても「白だ」と答えなければ、翌日は牢獄という現実が待っているのだ。

●もうひとつはロジェストヴェンスキーから見たロシアの音楽家たちの実像。ショスタコーヴィチ、プロコフィエフ、フレンニコフ、ロストロポーヴィチ、オイストラフ、ストラヴィンスキーなど。とくにショスタコーヴィチについての記述がいい。
●ショスタコーヴィチが楽譜に誤りがたくさんあることを知りながら、訂正しなかったという話は興味深い。ボロディン弦楽四重奏団が楽譜の誤りを見つけて尋ねると、ショスタコーヴィチは指摘の通りまちがっていることを認めたうえで、「でも書かれている通りに弾いてくださいよ!」と求めたという。ムラヴィンスキーが交響曲第5番を指揮した際、客席にいたシルヴェストリが楽屋にショスタコーヴィチを訪ね、「楽譜に書かれているテンポは正しいのか」と尋ねたら、「もちろん正しい。すべて完璧に正しい」という答えが返ってきた。でもムラヴィンスキーはまったく違うテンポで指揮していたではないかと聞くと、「彼もまったく正しいんです!」と言われてしまう。その場に居合わせたロジェストヴェンスキーは、ショスタコーヴィチが指揮についての話を心底嫌っていることを知っていたので、ひたすらこの会話が早く終わってほしいと願うばかりだったという。ちなみにショスタコーヴィチのメトロノームはピアノから落ちて壊れていたが、それをよく承知の上でショスタコーヴィチはずっと同じものを使い続けた。だからショスタコーヴィチのメトロノーム表示はどれひとつ信用できないとロジェストヴェンスキーは言っている。なんというか、ふつうのロジックが通用しないのだ。
●あとはショスタコーヴィチがドビュッシーの音楽を毛嫌いしていた話もおもしろい。ブーレーズがショスタコーヴィチをまったく評価しなかったことを思い出す。

September 11, 2024

バーレーンvsニッポン@ワールドカップ2026 アジア最終予選

バーレーン●W杯アジア最終予選、第2節はアウェイのバーレーン戦。中継はDAZNのみ。初戦はホームでの中国戦で7対0と予想外の大勝を収めたニッポンだが、アウェイとなれば苦戦が続くのがアジアの戦いの常。気温38度、スタジアムには無料で観客を入れ、君が代でブーイングが鳴り響く。が、観客数は2万3千人。中東勢といってもサウジやイランのような大国とは違うのだ。バーレーンの人口は約150万人で、その半数以上は外国人労働者。むしろこの規模で最終予選まで勝ち上がってくることがすごい。もちろん帰化選手もいるようだが。
●ここまで連戦では先発選手のターンオーバーを原則としてきた森保監督だが、今回は中国戦のメンバーからひとりを変更したのみ(久保に代えて鎌田を起用)。3-2-4-1の超攻撃的布陣で、ワントップ(上田)、ツーシャドウ(南野、鎌田)、両ウィング(三笘、堂安)のアタッカー陣。序盤はバーレーンがしっかりニッポン対策を練ってきた感があった。ドラガン・タライッチ監督はディフェンスラインを高めに敷いて選手間の距離をコンパクトに保ち、ニッポンがつなぐボールを網にかけてカウンターを狙う。前線へのプレスもある程度はかけてくる。ファウルをもらえばセンターライン近くからでもロングボールをゴール前に放り込んでフィジカル勝負をかける。ロングスローも使う。狙いとしてはまちがっていない。ボールを保持するのはニッポンだが、前半の中盤くらいまではバーレーンのゲームプラン通りだったはず。
●ところが前半34分、右サイドからの低いクロスに対して、スライディングしたバーレーンのディフェンダーの手が当たってPKに。キッカー上田は、スタンドから目を狙ってくる緑色のレーザーポインターを一切無視してズドンと左下に蹴り込んで先制ゴール。ここからニッポンがのびのびとプレーするようになった。後半に入ってすぐ、ペナルティエリア内で鎌田、伊東(後半頭から堂安に代えて投入)、上田と細かくパスを回し、上田が振り向きざまに豪快にシュートして2点目。この得点が大きかった。がくんと相手の集中力が切れ、運動量も低下して、コンパクトな陣形を保てなくなる。早くも客席から帰る人たちも。無料で動員するとこうなりがち。後半16分、中盤から駆け上がった守田が上田とのワンツーで抜け出て、落ち着いてシュートを打って3点目。どんどん客席から人が帰ってゆく。その直後、また守田が走り込んで4点目。この後はバーレーンはすっかり気力と規律を失って試合が緩んだ。途中出場の小川が5点目を決めて、バーレーン 0対5 ニッポン
●2戦連続の大勝で、従来の最終予選とはずいぶん様子が違う。この試合にかんしていえば、主審のルスタム・ルトフリン(ウズベキスタン)が試合が荒れないようにコントロールしていたのがよかった。ちなみにバーレーンは1戦目にアウェイでオーストラリアを下しており、ワールドカップ出場の可能性は十分にある。なにせアジアの出場枠は8.5まで拡大されているのだから。

September 10, 2024

カーチュン・ウォン指揮日本フィルのブルックナー9

●8月に最高気温が39℃まで到達して「ああ、東京の夏が40℃を超えるのは時間の問題だな」と思っていたが、さすがに9月も中旬に入ろうとする今週、日々の最高気温は34℃前後である。これでだいぶ暑さが和らいできたと感じてしまうのだから、どうかしている。先の天気予報を眺めると9月20日頃から最高気温が30℃を下回るようだ。夏が長くなったのか、あるいはこれが新しい秋なのか。
カーチュン・ウォン 日本フィル
●で、6日はサントリーホールでカーチュン・ウォン指揮日本フィル。曲はブルックナーの交響曲第9番のみ。ブルックナー生誕200年、しかも9月4日が作曲者の誕生日とあって、ブルックナーラッシュが続いている。でも第4楽章付きではないのに、交響曲第9番のみのプログラムは珍しい。ゲストコンサートマスターにマンチェスターのハレ管弦楽団のロベルト・ルイジ。カーチュンは今秋からハレ管弦楽団の首席指揮者に就任している。
●前夜のサントリーホールでマクシム・エメリャニチェフ指揮読響が後列にコントラバス4台を横一列に並べていて、東京のオーケストラでこの配置は珍しいなと思っていたら、なんと、この日はコントラバス10台が横一列に並んでいた。なかなか目にすることのない壮観。オーケストラの音も重厚で、ふだんの日フィルとはだいぶ違ったイメージに。カーチュンは第1楽章をかなり遅いテンポで開始。最近、どちらかというとシャープなスマート・ブルックナーを聴くことが多かったので、これだけ重々しく荘厳なブルックナーを聴くのは久々。筆圧が強く、カーチュンのジェスチャー同様、くっきりとして曖昧なところのない剛のブルックナー。強靭ではあるが、音圧頼みではまったくない。第2楽章のスケルツォ主題、カーチュンの指揮がボウイングを明確に視覚化していたのがおもしろかった。第2楽章が終わったところで指揮棒を止めて、たっぷり間をとった。チューニングを入れて、第3楽章へ。陶然としたアダージョの後、長い沈黙。盛大な喝采が続き、楽員退出後も拍手が止まず、カーチュンとコンサートマスターのふたりが登場してカーテンコール。

September 9, 2024

マクシム・エメリャニチェフ指揮読響、マハン・エスファハニ

●5日はサントリーホールでマクシム・エメリャニチェフ指揮読響。メンデルスゾーンの序曲「フィンガルの洞窟」、チェコの作曲家ミロスラフ・スルンカ(1975~ )のチェンバロ協奏曲「スタンドスティル」日本初演(マハン・エスファハニ)、シューベルトの交響曲「グレイト」というプログラム。鬼才の呼び声高いエメリャニチェフとエスファハニを一度に聴けるお得な機会。
●スルンカのチェンバロ協奏曲「スタンドスティル」は23分ほどのそこそこ大仕掛けの作品。チェンバロ用にPAも入る。弦楽器奏者たちがゆで卵カッター(金属部分、たぶん)を使ったザワザワとした音を敷いたところにチェンバロ奏者が信号音的な同音連打を重ね、やがて無機的な断片的パッセージの反復を基調としたゆるやかな音響の波を作り出す。チェンバロの音色がきらきらとした輝きを放ち、ときには発話的、ときには吃音的なパッセージをくりかえす。打楽器奏者たちがプラスチックの下敷きのようなものを歪ませてブワブワと音を鳴らし、これと対話するようにチェンバロ奏者が応答する。チェンバロは発音なしの打鍵音を出したり、肘を使って鍵盤を叩くなど自在の表現。全般に響きのおもしろさに焦点が当てられているが、これだけの長さがあると構成感という点ではどうなのかな。もう少しチェンバロの近くで聴けばまた違った感興がわいたかも。エスファハニは電子楽譜を使用。曲が終わったところで思わせぶりな態度をとらずに、さっと「はい、おしまい」みたいなポーズを見せたところは好感。作曲者臨席。
●エスファハニのソリスト・アンコールあり。パーセルのグラウンドを弾いて、これで前半は終わるかと思ったら、そこからラモーのガヴォットと6つの変奏が始まった。それ弾くなら、一曲だけでもよくない?とは思ったけど、熱々の演奏で大いに盛り上げてくれた。風貌に身近なオッチャン感があるんだけど、魅せて沸かせる人であった。
●と、長々と書いてしまったが、スルンカの協奏曲よりも、だんぜんおもしろかったのがエメリャニチェフの指揮で、メンデルスゾーンといい、シューベルトといい、まったく常套的ではない。綿密に響きを磨き上げるタイプではないが、自在にテンポを伸び縮みさせながら、今そこで音楽が生み出されている喜びを感じさせてくれる。指揮ぶりにアーノンクールを連想。「グレート」はコンパクトで、弦は10型だったかな? 対向配置、後列にコントラバス4台を横一列に並べるスタイル。指揮棒も指揮台もなし。俊敏で鮮烈、快速テンポでリピートあり、長大な曲をまったく退屈させずに聴かせてくれた。楽しい。

September 6, 2024

ニッポンvs中国@ワールドカップ2026 アジア最終予選

ニッポン!●いよいよ、W杯アジア最終予選がスタート。初戦は埼玉スタジアムでニッポン対中国。ニッポンは過去2大会とも最終予選の初戦で敗れており、意外と苦戦しているのだが、この中国戦、試合が始まってみると圧倒的なニッポンのペース。ホームゲームであり、個のクオリティの高さを考えてもニッポンがゲームを支配するとは思ったが、まさかここまで一方的な内容になるとは。前半12分にデザインされたセットプレイからフリーになった遠藤が頭でゴールして先制、その後、相手キーパーのファインセーブもあり追加点がなかなかとれなかったが、47分に右サイドからの堂安の完璧なクロスにファーサイドの三笘が頭で合わせて2点目。後半は南野、南野、復帰した伊東純也、前田大然、久保のゴールラッシュ。終わってみればニッポン 7対0 中国。シュート19本に対して相手は1本、73%のボール支配率だった。
●森保監督が敷いた布陣は3-4-3というか、3-2-4-1というか、以前も試した超攻撃的な布陣で、町田、谷口、板倉が並ぶ3バックに対して、左右のウイングバックが三笘と堂安。ここにサイドバックではなくウィンガー、アタッカー調の選手を置いている。中盤は守田と遠藤の2枚で、その前に南野と久保、トップに上田。実質的に5人のアタッカーがいる。つまり、三笘、南野、久保、堂安、上田。この布陣で相手に攻められたらどうなるのか、気になるところだが、ほぼ攻められなかった。キーパーは鈴木彩艶だが、セーブ機会はゼロだったのでは。サイドバックに居場所のない布陣でもある。
●中国を率いるのはイヴァンコヴィッチ監督。オマーン代表やイラン代表を率いてニッポンに勝っている。どういう戦い方をするのかと思ったが、ほとんど前線からプレスをかけてこなかったため、ニッポンは後ろから余裕を持ってボールを運べた。逆にこちらのプレスはよく効く。いちばん困るのはラフプレイだが、その点、VARがあるのは救い。まあ、アウェイではそれすら頼りにならなかったりもするが……。
●GK:鈴木彩艶-DF:板倉(→高井幸大)、谷口、町田-MF:遠藤(→田中碧)、守田-堂安(→伊東)、三笘(→前田大然)-久保、南野-FW:上田(→小川航基)。20歳の高井幸大が代表デビュー。192cmの大型ディフェンダー。

September 5, 2024

ガルシア=マルケス「百年の孤独」再読 その6 黄色い蛾

●(承前)品薄状態が続いていたが、さすがに近隣の書店でも平積みになっていた、ガルシア=マルケス「百年の孤独」(新潮文庫)。想定以上の売れ行きだったのはよかったが、千載一遇の好機にどれだけ売り逃したことかと思わずにはいられない。電子書籍もなかったし……。という辛気臭い話はここまでにして、再読メモの続きだ。今回が最終回のつもり。
●ふと思いついた、この長大な愛と孤独の物語をテーマにAIに絵を描いてもらったらどうなるだろうか。そこでBing Image Creator(DALL-E 3)に「百年の孤独」のイラストを描いてほしいとシンプルにリクエストした。もちろん、そこにはAIがトンチンカンな絵を描いてくるのではないかというイジワルな期待もあったのだが、AIはこんなイラストを作ってくれた。
百年の孤独
●お。おお。おおおーー! なんと、AIは健闘しているではないか。「百年の孤独」が書物であるという理解はもちろんのこと、見逃せないのは黄色い蝶だ。いや、蝶ではない。これは蛾であるはず。物語の内容を知らなければ出てこないモチーフだ。前回、クラヴィコード奏者になったメメ(レナータ・レメディオス)について書いたが、メメが恋に落ちた相手、マウリシオ・バビロニアはいつも黄色い蛾とともに姿を現すのである。映画館のなかでも、教会でも、まず黄色い蛾が飛んきて、そこにマウリシオ・バビロニアがやってくる。メメは抑圧的な母親フェルナンダに隠れてマウリシオ・バビロニアと愛し合う。メメの行いを正すべく、フェルナンダはメメを自宅に軟禁するが、メメは密かに浴室でマウリシオ・バビロニアと会い続けた。

ある晩、メメがまだ浴室にいるあいだに、たまたまフェルナンダがその寝室に入っていくと、息もできないほどの無数の蛾が舞っていた。

恐るべき事態に気づいたフェルナンダは、鶏が盗まれているという理由で警官を呼ぶ。浴室に忍び込もうとしたマウリシオ・バビロニアは銃で撃たれ、一生ベッドから離れられない体になり、以後、思い出と黄色い蛾とともに侘しく年老いる。一方、メメはこの事件以来、老衰で世を去るまで二度と口をきかなかった。
●実はこのときメメは妊娠しており、マウリシオ・バビロニアとの子、アウレリャノ・バビロニアをもうける。アウレリャノ・バビロニアは自分の本当の血筋を知らされずに育てられ、やがて叔母であるアマランタ・ウルスラと愛しあうようになり、ついに「豚のしっぽ」を持った子、アウレリャノが生まれる。「この百年、愛によって生を授かった者はこれが初めて」。
●以前、METライブビューイングで上映されたダニエル・カターンのオペラ「アマゾンのフロレンシア」を紹介したけど(→参照)、あの作品はガルシア=マルケスに着想を得たという触れ込みだった(あくまで原作とは言っていない)。主に着想源となったのは「コレラの時代の愛」だと思うが、蝶のモチーフは「百年の孤独」から取られていたのかと気づく(ホントは蛾だけど、生物学的には蝶と蛾の明確な区別はつかないらしい)。
●終盤のマコンドの町の荒廃と、ブエンディア一族の衰退はなんとも儚い。すでに「豚のしっぽ」を持った子についてのウルスラの警告は忘れられている。メルキアデスの羊皮紙の謎が解け、その題字が「この一族の最初の者は樹につながれ、最後の者は蟻のむさぼるところになる」であることが判明する。この終章と来たら、もう本当に……。長い長い物語の幕切れはこのうえもなく鮮やかだ。そして、寂しい。
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「百年の孤独」再読 記事一覧
ガルシア=マルケス「百年の孤独」再読 その1 水
http://www.classicajapan.com/wn/2024/07/091015.html
ガルシア=マルケス「百年の孤独」再読 その2 近親婚
http://www.classicajapan.com/wn/2024/07/120950.html
ガルシア=マルケス「百年の孤独」再読 その3 くりかえされる名前
http://www.classicajapan.com/wn/2024/07/191033.html
ガルシア=マルケス「百年の孤独」再読 その4 年金を待つ人
http://www.classicajapan.com/wn/2024/07/240955.html
ガルシア=マルケス「百年の孤独」再読 その5 クラヴィコード
http://www.classicajapan.com/wn/2024/08/231038.html
ガルシア=マルケス「百年の孤独」再読 その6 黄色い蛾(当記事)
http://www.classicajapan.com/wn/2024/09/050955.html

September 4, 2024

コメがなければ

●コメ不足だというニュースが広がり、じりじりとお米の価格が上がっているなと思ったら、先日、近所のスーパーのお米売場がすっからかんになっていた。けっこういいお値段が付いているのに一袋もない。この光景を見て、自分の心のなかのマリー・アントワネットがささやいた。「お米がなければパンを食べればいいじゃない」。
●後日振り返るためにメモしておくと、amazonブランドの会津産コシヒカリ無洗米5kgが、本日時点で税込3625円。同商品の価格履歴をその筋のサイトで調べると、昨年11月には2000円だった。生協の宅配だと、ふだん1950円ほどのお米が今は2700円になっている。4割増くらいだ。
●ともあれ、農水省の言うように、これから今年の新米が供給されるわけで、まもなく品薄感は解消されるはず。ニュースを知って慌ててお米を買うことで一時的に需要が爆増していると思うので、しばらくすると逆にお米がだぶつくかもしれない。
●今日、外出先でスーパーをのぞいてみたら、お米売場にずらりとカルビーのフルグラが並んでいた。コメはなかった。ふたたび、心のなかのマリー・アントワネットが勝ち誇ったように叫んだ。「お米がなければフルグラを食べればいいのよっ!」

September 3, 2024

東京オペラシティアートギャラリー 髙田賢三 夢をかける

東京オペラシティアートギャラリー 髙田賢三 夢をかける
東京オペラシティアートギャラリーで「髙田賢三 夢をかける」(~9/16)。日本人ファッションデザイナーとしていち早くパリに進出した髙田賢三(1939-2020)の創作活動を回顧する展覧会。もちろん、展示されるのはおもに服だ。服以外の作品もあるけど、基本的には服がずらりと並び、たくさんのマネキンが立つことになる。「じゃ、それって結局、デパートの婦人服売り場みたいな感じなんじゃないの。KENZOブランドの」。見る前はそんなことも案じたが、これは杞憂。入ってみると、ちゃんとアートギャラリーだった。展示空間がやっぱり美術館としてのそれであって、洋品店っぽくはならない(そりゃそうだ)。華やかな気分で楽しめる。

東京オペラシティアートギャラリー 髙田賢三 夢をかける
●けっこう賑わっていたのだが、やはり客層がいつものアートギャラリーとぜんぜん違う感じ。アートとファッション、近そうでぜんぜん近くないかも。若者率高し。

東京オペラシティアートギャラリー 髙田賢三 夢をかける クマ
●あ、クマさんだ。かわいいー。

東京オペラシティアートギャラリー 髙田賢三 夢をかける オリンピック公式服装
●こちらはアテネオリンピック開会式用公式服装のTシャツ、パンツ、帽子(2004、ファーストリテイリング)。涼しげで軽やかなのがよい。メンズは脛が丸出しなところがチャレンジングだ。さて、試着室はどこかな~(ありません)。

September 2, 2024

Chandosのダウンロード販売サービスThe Classical Shop終了に伴い、最大50%OFFセールを開催

シャンドス●SpotifyやApple Musicといったストリーミング配信全盛の今、音源をダウンロードで購入している人は少数派だとは思うが、Chandos Recordsのダウンロード販売サービス The Classical Shop が11月29日をもって閉じられることになった。新規ダウンロード購入は10月25日まで。よく勘違いされるので説明しておくと、The Classical ShopはChandos運営のサイトだが、Chandosレーベルの音源だけを扱うのではなく、BISとかonyxとかNimbusとかHänsslerとか、いろんな中堅レーベルの音源を購入できるサイトなんである。20年間続いたが、ダウンロードの需要低下が止まらず、サービスを終了することに。で、最後は最大50%セールをやってくれることになった。お値段はポンド建てなので、円安の今、お得感がどれほどのものかは知らない。
●The Classical Shopはなんどか利用したことはあるが、ダウンロードで購入するときは自分はおもにPresto Musicを使っていた。こちらのほうがメジャーレーベルを含めた数多くのレーベルを扱っていて便利であり、しかも購入時に円で決済できるのでなにかと明快。ここはまだ健在で、もちろんChandosの音源も販売している。もっとも、ストリーミングではなくダウンロードが必要という場面も減ってきたので、最近は使わなくなりつつあるというのが正直なところ。
●ストリーミングにはない、ダウンロードの利点もあることはある。たとえばデジタル・ブックレットが付いてくる(こともある)とか、CD音質を超えるハイレゾ音源でも購入できる(ものが多い)とか、ネットワークの不安定な環境でもストレスなく聴けるとか(たとえば長距離移動時)、たまにストリーミングでは聴けない音源が売っているとか、ストリーミング配信はいつサービス自体を止めると言い出すかわからないけどダウンロードでデータを所有してしまえばいつまでも聴き続けることができるとか。でも、こういった利便性はかなりニッチではある。
●ところでChandosといえば、少し前にナクソスの創業者であるクラウス・ハイマンの傘下に入るという発表があった(参照記事)。経営は引き続きラルフ・カズンズ(創始者ブライアンの息子)が行い、物流や配信はナクソスが担当するといった話。このニュースは、ナクソスではなく、クラウス・ハイマン個人がChandosを取得したという点で目を引いた。

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