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September 18, 2024

チョン・ミョンフン指揮東京フィルのヴェルディ「マクベス」演奏会形式

●17日はサントリーホールでチョン・ミョンフン指揮東京フィルのヴェルディ「マクベス」演奏会形式。客席は盛況。演奏会形式とはいえ、照明や小道具なども活用され、演技もかなりついており、工夫が凝らされている。不足なく物語を味わうことができて、なおかつオーケストラは磨き上げられており、ステージ上から十全なサウンドを響かせる。歌手陣はマクベスにセバスティアン・カターナ、マクベス夫人にヴィットリア・イェオ、バンクォーにアルベルト・ペーゼンドルファー、マクダフにステファノ・セッコ、マルコムに小原啓楼。合唱は新国立合唱団。マクベスもバンクォーも声量があり押し出しもよいが、もっとも印象的だったのはマクベス夫人のヴィットリア・イェオ。安定感があり、決して過剰にはならずにマクベス夫人の異常な権力欲を表現する。この物語の真の主役。マクベス夫人はだれよりも権力を渇望していて、マクベスは夫人の操り人形にすぎないくらいなんだけど、でもどんなに策略を凝らしたところでマクベス夫人本人は戴冠できない。だって、女だから。この欲望には入口はあっても出口がない。
●マクベスとマクベス夫人には子がいない。魔女の予言はバンクォーの子孫が王になると言っているわけだが、仮にそれがなくてもマクベスは自らが簒奪した王位を子に継がせることはできないわけだ。実はシェイクスピアの原作では、マクベス夫人は「お乳で子どもを育てた」と語っており、一見、マクベスに子がいないことと矛盾しているように見える。これは子を失ったのかもしれないし、あるいは先夫との間に子があったとも解釈できる。ともあれ、ヴェルディのオペラも原作もマクベスに子がいないことは同じ。マクベス夫人に母性は感じられない。マクベスは「女から生まれた者には倒されない」という魔女の予言で自身の無敵を信じるが、母の腹を破って生まれてきたマクダフに倒される。時代を考えれば母体は犠牲になっているはずであり、マクダフは母を知らずに育っており、ここにも母性の不在がある。
●「マクベス」の大きな特徴は、魔女の予言「バンクォーの子孫が王になる」という伏線が回収されないこと。これが演出上の可能性を広げている。マクダフはマクベスに勝利して、先王の息子マルコムに戴冠させる。じゃあ、バンクォーの息子(原作ではフリーアンス)はどうなるの?と思う。ヴェルディのオペラではバンクォーの息子に名前が与えられていない。今回の舞台ではバンクォーが息子を逃す場面で黙役の子がでてきた。演奏会形式だから黙役の子役を用意しなくても成立したわけだけど、ここはちゃんと姿を見せておかないと話がわかりづらくなるということなのだろう。演出の一例としては、最後の場面で戴冠したマルコムが、バンクォーの息子の存在に気づいてギクリとしたりする。なので、最後にあの子役が出てくるのかなと思ったが、出てこなかった。でも、よく考えたら出てこなくて当然なのだ。たしか労働基準法で子役は夜8時だったか9時だったかより遅くには出演できないはずなので、第4幕の終盤に顔を見せることはない……。
●ヴェルディのオペラでは先王の息子はマルコムひとりだけど、原作ではイングランドに逃げた長男マルコム(マルカム)と、アイルランドに逃げた次男のドナルベインのふたりがいる。この設定もいろんな演出の可能性を生み出していて、ポランスキーが映画化した「マクベス」では最後にドナルベインが魔女のところに行くんじゃなかったっけ? 記憶が曖昧なのでもう一回見て確かめたいところだが、わりと怖い映像だったと思うので手が出ない。映画としての「マクベス」では、以前にもご紹介したジョエル・コーエン監督の「マクベス」(2021)がオススメ。
●余談。第4幕、バーナムの森が動く場面の「枝を捨てよ、武器を持て」の歌詞のところで、チョン・ミョンフンの手から指揮棒がすっぽ抜けた。マエストロは指揮台を降りて、棒を取りに行ったのだが(その間も演奏は続いていた)、これは指揮棒を枝に見立てたってこと? まさかね。