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October 4, 2024

新国立劇場 ベッリーニ「夢遊病の女」(新制作)

新国立劇場 ベッリーニ「夢遊病の女」
●3日は新国立劇場でベッリーニのオペラ「夢遊病の女」(新制作)。シーズン開幕公演の初日。バルバラ・リュック演出、マウリツィオ・ベニーニ指揮東京フィル。音楽面は充実。とくにヒロインのアミーナ役、クラウディア・ムスキオがすばらしい。声に透明感があり、高音はのびやか、表現は精緻。役柄にふさわしくアミーナそのもの。この演出ではアミーナは可憐であるだけでなく、覚醒時もしばしば病的な様子を見せるのだが(ナルコレプシーっぽい)、その表現も巧み。エルヴィーノ役はアントニーノ・シラグーザ。久々に聴いたけど、大スターの貫禄十分。還暦を迎えるということで(カーテンコールで誕生日を祝うハッピーバースデーのサプライズ演奏あり)、だいぶ成熟したエルヴィーノではあるが、やっぱり華がある。ロドルフォ伯爵は妻屋秀和。入浴シーンに笑。リーザに伊藤晴、アレッシオに近藤圭、テレーザに谷口睦美、公証人に渡辺正親。
●ベニーニ指揮の東フィルは軽やか。威勢のよい場所でも決して力むことなく、清爽とした響きを保ち続ける。なるほど、ベッリーニの音楽にはこういうやり方があるのかと得心。ホルンをはじめ、随所にあるソロの聴かせどころも見事。で、ここから先なんだけど、演出内容に触れるので、これから観る人は読まないほうがいいかも。っていうか、読まないほうがいい。ネタバレとかじゃなくて、解釈に幅があると思うので、他人の見方を先に見てしまうとつまらない。
●なにしろ「夢遊病の女」の物語は、そのままだと毒にも薬にもならない薄っぺらい話で、まるで音楽に見合っていない。物語として最低限の合理性も欠いていると思う。そこで演出家は物語を救い出そうと、いろいろな工夫を凝らす。バルバラ・リュックの演出は、端的に言えば喜劇を悲劇として再構築している。舞台は暗い。風光明媚なスイスは一切出てこないし、色とりどりのきれいな衣装もない。第1幕は上のフォトスポットの写真にあるような殺風景な屋外で、宿の場面は大きな白い布をいくつも立てただけで簡素。なにより目を引くのは中央の大木で、上のほうに男女の人形が二体吊るされているんすよ。この解釈が迷うところなんだけど、孤児であるアミーナの両親なのかな、と。暗くてよく見えないので違ってたらゴメンだけど、ふたりとも吊るされている。あるいは自分で吊ったのか。いずれにせよ、きっとこの村で悲惨な最期を遂げた。これがトラウマとなって、アミーナは病んでいるのかもしれない。伯爵がアミーナの顔を見て「昔の恋人に似ている」と歌う場面があるので、その恋人はアミーナの実母だったのだろう。この村には陰惨な過去がありそうだ。
●第2幕はエルヴィーノの農場で始まるが、これも荒涼としていて、焼却炉付きの大型機具が設置してある。エルヴィーノは裕福な地主だが、時代に取り残されないように努めなければ、裕福であり続けるのは難しいかもしれない。第2幕後半、アミーナは水車小屋(教会?)の屋根というかひさしの部分に現れて、睡眠状態で歌う。高所で歌うから落下事故が起きないかとハラハラする(安全対策はしてあるのだろうけど)。で、高所に登場するのはもともとのストーリーがそうなっているわけだけど、そこから最後まで降りてこない。誤解が解けてハッピーエンドになっても、アミーナはひさしに留まっていて、エルヴィーノのもとには行かない。第1幕で木に吊るされている人形を見てるから、なんかアミーナにもイヤなことが起きるのかなと心配になるんだけど、そこまではやらず、余白を残す。とはいえ、「オペラあるある」なんだけど、演出がどうであっても、音楽は完璧にハッピーエンドを宣言しているので、違和感はある。でもその違和感は許容しないと演出の幅が狭まってしまうので、そこはしかたないかなー。
●アミーナがエルヴィーノと結ばれてハッピーになるとは思えないのはたしか。エルヴィーノは他人の話に耳を貸さず、自己憐憫の強いイヤなヤツ。エルヴィーノにはリーザがお似合いだ。アミーナはもっといい男を探すべき! でもそんなことを言いだしたら、こんな農村で結婚相手をどうやって見つければいいのか。都会に出るしか?
●第1幕、アミーナの心象風景の表現として10人のダンサーが登場するのだが、これがとても効果的だった。これくらい高度で緻密な振付があれば、ダンサーは有効なのだという発見あり。