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2024年12月アーカイブ

December 31, 2024

第54回サントリー音楽賞受賞記念コンサート 井上道義指揮読響

サントリー音楽賞受賞記念コンサート 井上道義指揮読響
●30日はサントリーホールで第54回サントリー音楽賞受賞記念コンサート 井上道義(指揮) 。かねてより発表されていた通り、これが井上道義の引退公演ということで、場内は特別な雰囲気。オーケストラは読響。プログラムは前半にメンデルスゾーンの序曲「フィンガルの洞窟」、ベートーヴェンの交響曲第6番「田園」、後半にシベリウスの交響曲第7番、ショスタコーヴィチの祝典序曲。最後のショスタコーヴィチを別とすれば、自然への畏怖と賛歌をテーマにしたプログラム。
●前半は弦楽器8型のコンパクトな編成。「フィンガルの洞窟」はかなり遅いテンポで始まり、暗い嵐の前兆のよう。「田園」の弦楽器は8-8-6-4-3、かな。対向配置。指揮台も置かず。OEK時代を彷彿させるスタイルで、ほとんど室内楽的。トランペット、トロンボーン、ピッコロが3楽章の途中から入場して舞台上手側に横一列に座るという演出。後半は指揮台あり、指揮棒あり。シベリウスの交響曲第7番は圧巻。読響の本領発揮で雄大で清冽。その後は引退公演ならではの祝祭の時間に。ショスタコーヴィチの祝典序曲ではなんと30名を超えるバンダがP席、LA席、RA席それぞれの後方に登場して、すさまじい音圧。しかも最後はくるりとマエストロがこちらを向いて指揮台に置いてあったシンバルを叩くという暴れっぷり。マイクを持って登場、「下品な曲でっせ」と紹介してアンコールにショスタコーヴィチの組曲「ボルト」より「荷馬車弾きの踊り」。これでもうおしまいといった様子で楽員とともに退出するが、ふたたび弦楽器奏者たちが姿を見せて着席、トレードマークとも言うべき武満徹の「3つの映画音楽」より第3曲「ワルツ」。いつもそうだが、踊るように指揮、さらには受け取った花束から花をまいたり、花束を客席に投げたり。指揮を終えて足を痛めた様子でコンサートマスターに抱えられてヒヤリとするが、すぐに立ち直り、これはジョークなのか本当に痛めたのか、さっぱりわからない。退場時にくるりと一回転して見せる。本当に最後の最後まで変わらない。前もって引退を発表し、その通りに引退するこれまでに指揮者がいただろうか。78歳。「老い」を見せなかった。これが引き際の美学と感じ入る一方で、どこかでまた舞台に戻ってくるかもしれないとも思う。
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●本日は大晦日。今年一年、お世話になりました。よいお年をお迎えください。年始は不定期更新で。

December 30, 2024

落穂拾い、所沢でパーヴォ・ヤルヴィ指揮ドイツ・カンマーフィル

所沢市民文化センターミューズ
●年が変わる前に書き落としていた公演についての備忘録。12月13日、所沢市民文化センターミューズでパーヴォ・ヤルヴィ指揮ドイツ・カンマーフィルを聴いた。9日の東京オペラシティでの公演があまりにすばらしかったので、ぜひ「ジュピター」をもう一度聴きたいと思って足を運んだのだ。たまたまこの日は別の予定が急遽なくなったので、これも巡り合わせかなと思い。プログラムは東京とは少し違っていて、ソリストなし、交響曲3曲が並ぶ。モーツァルトの交響曲第31番「パリ」、シューベルトの交響曲「未完成」、モーツァルトの交響曲第41番「ジュピター」。ダイナミックでぐんぐんと前に進む「パリ」、ウィーンのジムで鍛えてます的な筋肉質な「未完成」、細部まで作りこまれた「ジュピター」を満喫。実演ではなかなか満足できる演奏に出会えない「ジュピター」だが、2回も聴けてうれしい。アンコールはシベリウスのアンダンテ・フェスティーヴォ(ティンパニ入り)。これがまた絶品で、清冽でエモーショナル。
●ただ、客席は半分埋まっていたかどうか。なにしろオペラシティで2公演、横浜みなとみらいでも1公演あって、それぞれソリストも一流どころ。それで所沢はソリストなしとなれば、さすがのドイツ・カンマーフィルといえども苦戦するのはしかたがないか。しかし客席の雰囲気は熱心なお客さんが集まった感じで悪くなかった。
●ミューズはなんども来ているが、久しぶりだったので航空公園駅から10分歩くことを忘れていた。駅を出た目の前に航空公園の入り口があるので、同じ公園内にあるミューズは駅近だと思い込んでしまうのだが、実際には公園が大きくてそこそこ歩くのだ。この日は夜だったので入らなかったけど、航空公園はとてもすばらしい公園で、昼なら寄らない手はない。
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●宣伝を。「ぶらあぼ」に「2024年のマイ・ベスト公演(オーケストラ編)」を寄稿。ご笑覧ください。

December 27, 2024

シェイクスピアの「ハムレット」には有名曲がない

●「生きるべきか、死ぬべきか。それが問題だ」「尼寺へ行け!」「復讐するは我にあり」「弱き者、汝の名は女」。名言がたっぷりつまってるけど、シェイクスピアの「ハムレット」にはオペラの名作がない。トマのグランドオペラ「ハムレット」は当時大成功を収めたそうなんだけど、今ではめったに上演されない。管弦楽曲としてもチャイコフスキー、リスト、プロコフィエフ、ショスタコーヴィチが「ハムレット」を書いてるが、ビッグネームがそろってるわりには、どれも有名曲とはいいがたい。「ロメオとジュリエット」や「真夏の夜の夢」「ウィンザーの陽気な女房たち(ファルスタッフ)」に比べると、「ハムレット」の音楽化はなかなか難しい様子。でも、ストーリーはかなりおもしろいと思うんすよね。
●で、先日、NHK「100分de名著」の「シェイクスピア ハムレット 悩みを乗り越えて悟りへ」(河合祥一郎著)を読んで、自分が「ハムレット」をぜんぜんわかっていなかったことを思い知った。たとえば、ハムレットって、優柔不断なひょろっとした男子みたいなイメージでとらえがちじゃないすか。でも、それは伝統的な誤解ともいうべきもので、父王を殺されたハムレットが復讐を逡巡するのは、父の亡霊が本物なのか、それとも悪魔なのかを迷ってるからだ、って言うんすよね。実際、シェイクスピアのテキストにそう書いてある。で、なるほどと思ったのはこの話。

実はここには、カトリックとプロテスタントという、当時の宗教問題が関係してきます。亡霊という存在を認めるのはカトリックだけで、プロテスタントでは死者の亡霊などというものは認めていません。プロテスタントの見方からすれば、これは悪魔が見せる幻影ということになります。つまりハムレットは、カトリックとプロテスタントのあいだで揺れているという解釈もできるのです。

自分は日本的な感性から「父王の亡霊」という存在をあまりにすんなりと受け入れてしまい、ハムレットの迷いがぜんぜんピンと来ていなかった。このカトリックかプロテスタントか、という問題がひいては中世的な情熱か近代的な理性かという選択肢につながってくるというのだ。ハムレットの周りにいる登場人物では、レアーティーズが情熱の人、ホレイシオが理性の人という対比がある。
●もうひとつ、びっくりしたのがこの話。シェイクスピアの劇は近代演劇とは違うという文脈で、こう記されている。

当時はそもそも役者に台本すら配らなかったのです。著作権のない時代ですから、金に困った役者が台本を別の劇団に売って、儲けようとしたら困るからです。ではどうやって稽古をしたのかといえば、役者ごとに台詞ときっかけだけを写した書き抜きを配りました。つまり役者は相手役の台詞も知らないし、通し稽古で初めて芝居の全貌を知るということになります。それぞれに自分の台詞だけが書かれた巻物(roll)を持って稽古したので、のちに役のことをロール(role)と呼ぶようになったのです。

わわ、これ知ってた? 読んでいて思わずのけぞった。「ロール」って、そういうことだったんだ。あと、役者が受け取る「ロール」って、オーケストラの「パート譜」みたいだなと思った。

December 26, 2024

「日本生まれのインド人、メタ・バラッツのスパイスカレーユニバース」

●えっ、ウソでしょ……わわ、ホントに無料だ! 期間限定なのかどうかもわからないのだが、Kindle本の「日本生まれのインド人、メタ・バラッツのスパイスカレーユニバース」(インターネットオブスパイス)が無料で提供されている。これがスゴいのだ。なんと、全1700ページ(!)を超える膨大なカレー・レシピ集。レシピは400種類以上あるだろうか。で、サンプルを見てもらえばわかるように、デザインも写真もしっかりしていて、書店に並んでいてまったくおかしくないクオリティ。
●これがなぜ無料なのか、さっぱりわからないのだが、開いてみると前書きがいきなりパンチの効いた一言で始まる。著者のメタ・バラッツさんは言う。

スパイスを使えるようになれば何にでもなれるしどこにでもいける。

なんだか、ぐっと来る詩的な一言だ。スパイスを使えるようになりたいぜー。
●なんとなく置いてみる、カレーラス「ザ・グレイテスト・ヒッツ50」(唐突すぎ)。

December 25, 2024

2025年 音楽家の記念年

ヨハン・シュトラウス2世
●12月恒例、来年に記念の年を迎える音楽家をリストアップしてみた。いつものように周年は100年区切り。細かく刻んだ周年だとインパクトがなさすぎなので。基本、網羅するより絞る方向。
今年はいろんな人が該当したけど、結局ブルックナー・イヤーだった。来年は知名度ではヨハン・シュトラウス2世なんだけど、お正月の一瞬しか話題にならないから、いろんな企画ものには向いていないか。ブーレーズとベリオの前衛コンビはどうなるか。案外、ポール・モーリア・イヤーになるかも。ならないかも。参考までに没後50年にドミトリー・ショスタコーヴィチとルロイ・アンダーソンがいる。

[生誕100年]
ピエール・ブーレーズ(作曲家)1925-2016
ルチアーノ・ベリオ(作曲家)1925-2003
芥川也寸志(作曲家)1925-1989
チャールズ・マッケラス(指揮者)1925-2010
アルド・チッコリーニ(ピアニスト)1925-2015
ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ(歌手)1925-2012
ニコライ・ゲッダ(歌手)1925-2017
キャシー・バーベリアン(歌手)1925-1983
ポール・モーリア(作曲家、イージーリスニング楽団指揮者)1925-2006
オスカー・ピーターソン(ジャズ・ピアニスト)1925-2007

[没後100年]
アンドレ・カプレ(作曲家)1878-1925
エリック・サティ(作曲家)1866-1925
モーリツ・モシュコフスキ(作曲家、ピアニスト)1854-1925

[生誕200年]
ヨハン・シュトラウス2世(作曲家)1825-1899
エドゥアルト・ハンスリック(評論家)1825-1904

[没後200年]
アントニオ・サリエリ(作曲家)1750-1825
ヤン・ヴァーツラフ・ヴォジーシェク(作曲家)1791-1825
清元延寿太夫[初世](清元節家元)1777-1825

[没後300年]
アレッサンドロ・スカルラッティ(作曲家)1660-1725

[没後400年]
オーランド・ギボンズ(作曲家)1583-1625

[生誕500年?]
ジョヴァンニ・ピエルルイージ・ダ・パレストリーナ(作曲家)1525?-1594

●上のイラストはアニメ調で描いてもらったヨハン・シュトラウス2世。AI画伯Grok2さん作。ヨハン・シュトラウス2世は顎ヒゲはなくて口ヒゲと頬ヒゲを生やしているのだと何度説明しても、顎ヒゲを描いてくるので閉口した。しょうがないので、たくさん描かせたなかからいちばん顎ヒゲが薄いやつを採用。てか、似てないし。

December 24, 2024

ガルシア・マルケスの「悪い時」 (光文社古典新訳文庫)

●今年の本を一冊選ぶならガブリエル・ガルシア・マルケスの「百年の孤独」(→参照)以外にありえないが、先日、書店で同じガルシア・マルケスの「悪い時」(寺尾隆吉訳/光文社古典新訳文庫)が出ているのを発見。さっそく読む。「百年の孤独」のようなマジックリアリズムではなく、リアリズムに即した若き日の作品だが、「百年の孤独」前夜的なムードもしっかり感じられる。比較的短い小説だが、粗削りで、読みやすくはない。でも、いま読むべき一冊だと思う。
●舞台となっているのは「暴力時代」後のコロンビアの小さな街。暴力が過ぎ去った後、街には均衡が訪れている。だが、強権的に平和を維持している側と、恨みを抱えたまま耐える側がかろうじてともに暮らす。そんな街で人々の秘密や噂を書いたビラがあちこちに貼られる。だれが書いたかわからないビラに、人々は動揺したり、無視を決め込んだりするが、次第に不信が渦巻き、ときに暴発する。といっても物語のトーンは陰惨ではない。日常のなかでなにかが燻っていく様子がひたひたと描かれてゆく。
●印象的なのが歯医者のエピソード。権力者側の町長は虫歯の痛みに耐えている。いくら鎮痛剤を飲んでも耐えられないくらいまでずっと耐え続ける。なぜなら、歯医者は敵対者側だから。二週間もずっと痛みに耐え続けた町長は、ついに歯医者を訪ねる。と言っても、武装警官3人を引き連れて突然、歯医者に乗り込んで、銃口を向けて抜歯を命ずるのだ。歯科医は平然と仕事にとりかかる。町長は歯科医と目と目が合ったときに手首をつかんで「麻酔」と言うが、歯科医は優しい口調で答える。「あなた方が人を殺すときは麻酔なしでしょう」。これは名場面だ。
●でも、この場面、以前に読まなかったっけ? と思ったら、「ガルシア=マルケス中短篇傑作選」(野谷文昭訳/河出文庫)収載の短篇「ついにその日が」がほぼ同じエピソードを取り出した作品だった(→参照)。この短篇集には「悪い時」と同時期の名高い中篇「大佐に手紙は来ない」が収められている。こちらも強くオススメ。
●このエピソードが強い印象を残すのは、自分に敵意を持つ歯医者というシチュエーションの恐ろしさゆえだろう。そこには潜在的な歯医者さんに対するうっすらとした恐怖があるはずで、大昔に見たダスティン・ホフマン主演の映画「マラソンマン」(1976)では、元ナチ戦犯の拷問歯科医が出てきて、主人公の歯をドリルで痛めつけて悲鳴が上がるシーンがあったと記憶する。脚本家はガルシア・マルケスを読んでいるだろうか。

December 23, 2024

ケンショウ・ワタナベ指揮東京フィルの「第九」

●20日は東京オペラシティでケンショウ・ワタナベ指揮東京フィルのベートーヴェン「第九」。ソプラノに吉田珠代、アルトに花房英里子(中島郁子から変更)、テノールに清水徹太郎、バリトンに上江隼人。合唱は新国立劇場合唱団。最近、「第九」公演は「第九」一曲のみのオーケストラが多いが、東フィルは最初に短い曲を演奏してから休憩に入る方式。まずはベートーヴェンの「フィデリオ」序曲。すごく短い曲なので、終わったところで「15分の休憩に入ります」のアナウンスに軽く客席がどよめいた。しかし、ワタシは以前に遅刻してこの休憩に救われた経験があるので、この方式にも長所があることはたしか。
●ケンショウ・ワタナベはアメリカの指揮者。今シーズン、メトロポリタン・オペラで「ラ・ボエーム」、昨シーズンはケヴィン・プッツ「めぐりあう時間たち」を指揮、フィラデルフィア管弦楽団とたびたび共演するなど、アメリカで実績豊富だが、その割に日本で聴く機会は少ない。長身痩躯で、後ろ姿も棒の振り方も川瀬賢太郎激似。心持ち速めのテンポで始まり、明快でまっすぐな「第九」。奇をてらわず、晴れやかなフィナーレに向かってさらさらと進む。この日の「第九」も終わると盛大な喝采に。
●やはり年末「第九」は客席の雰囲気が定期公演とは違って、新鮮な気持ちで聴いているお客さんが多い様子が伝わってくる。初心に帰る、みたいな気分になる。
●そういえば、この日の新国立劇場合唱団の合唱指揮は三澤洋史さんだった。今年は読響、N響、東フィルの「第九」を聴いて、いずれも新国立劇場合唱団だったが指揮者が違う。水戸博之指揮のチーム、冨平恭平指揮のチーム、三澤洋史指揮のチームということで、㌠の「第九」を聴いたことになる(←前から使ってみたかった、㌠)。

December 20, 2024

年末バックアップ祭り

●暮れの風物詩といえば「第九」、そしてPCのバックアップだ(え?)。ふだん仕事で使うようなデータはすべてDropboxやOneDriveのようなクラウドストレージに置くようになったので、なにも意識しなくとも勝手にバックアップされているわけだが、それとは別に自分のPCにある全データの定期的なバックアップは必須。音源や写真などの全データはクラウドに置くには巨大すぎるし、ある日PCがうんともすんとも言わなくなった場合でも全データをローカルで復元できるようにしておきたいもの。
●で、従来はバックアップ専用の外付けハードディスクに放り込んでいたのだが、耐用年数を考えるとそろそろ買い替え時ということで(肝心なときに壊れていたのでは困る)、この際、ハードディスクを止めて、外付けSSDに一本化することにした。機械的な駆動部分の多いハードディスクのほうが壊れやすいだろうし。SSDはエレコムのポータブルタイプの1TBを導入。見た目はUSBメモリをほんの少し大きくした感じだが、スピードは段違い。1TBでは少し足りないのだが、その分は先代のPCで使っていたSSDを活用することに(参照:内蔵SSDを外付けSSDとして再利用する)。これでウチのPC環境からハードディスクはすべて引退。
●バックアップ用のツールには DiskMirroringTool Unicode を使っている。とても古くからあるツールで、MERCURY氏の開発したDisk Mirroring Toolをばぐ★NAGA氏がUnicode対応に改良したもの。なにがいいかといえば、ただ指定したフォルダをバックアップ先にコピーするだけというシンプルさ。コピー元のファイルが削除された場合にバックアップ先も削除するようにミラーリングすることもできる。余計な機能がなく、動作がわかりやすいのが吉。

December 19, 2024

ファビオ・ルイージ指揮NHK交響楽団の「第九」

ファビオ・ルイージ NHK交響楽団 第九
●今週は「第九」ウィーク。18日はNHKホールでファビオ・ルイージ指揮NHK交響楽団によるベートーヴェンの交響曲第9番。この日は一曲のみのプログラムなので遅刻しないように早めに行く。会場もNHKホールだとしっかり確認(先月、うっかりまちがえて遅刻しそうになった)。テレビ中継あり。
●コンサートマスターに篠崎史紀、その隣に郷古廉のそろい踏み。第1楽章冒頭から気迫のこもった音が出てくる。ルイージは速めのテンポを基調にぐいぐいとオーケストラを引っ張る。第2楽章も同様で集中力が高く、引きしまった「第九」。第3楽章に入ると空気が一変して、開放的で清澄な音楽に。第4楽章ではソプラノのヘンリエッテ・ボンデ・ハンセン、メゾ・ソプラノの藤村実穂子、テノールのステュアート・スケルトン、バス・バリトンのトマス・トマソンの独唱陣が登場。合唱は新国立歌劇場合唱団。100名近くいたと思うが、NHKホールだとそう大勢には見えない。推進力があり、熱気にあふれたフィナーレを築く。力強い幕切れからすぐに盛大なブラボーの声があがり、大喝采に。
●前日の読響から二晩続けて、新国立劇場合唱団の「第九」を聴いたことになる。この日の合唱指揮は冨平恭平。前日の合唱指揮は水戸博之。人数もだいぶ違う。
●今年、N響の「第九」は6公演あり、5公演がNHKホール、1公演がサントリーホールで開催される。N響だけでも2万人近くの人が「第九」を聴くことになる。これはものすごいこと。
●「運命」と「田園」のように、ベートーヴェンは交響曲を2曲セットで構想する傾向がある。「第九」にしても、当初、ロンドン・フィルハーモニック協会はベートーヴェンに2曲の新作交響曲の作曲と渡英を依頼しているので、第9番と第10番がセットで書かれてロンドンで初演される歴史線がありえたわけだ。そんなことから「失われた交響曲第10番」というテーマはしばしばフィクションの世界の題材になる。以前にも紹介したがリチャード・クルーガーの Beethoven's Tenth (ベートーヴェンの「第十」/未訳)では、ベートーヴェンの交響曲第10番「ウィリアム・テル」の楽譜を巡る真贋論争がくりひろげられるという。ベートーヴェンの行動記録が乏しい1814年夏の2か月に、耳の治療のために密かにチューリッヒを訪れ、そこで交響曲第10番「ウィリアム・テル」を作曲した記録が見つかるという設定。これはなかなかおもしろいアイディアではないだろうか。つまり「第九」がシラーの「歓喜の歌」なのだから、「第十」はシラーの「ウィリアム・テル」でシラー2部作になる、というわけだ。今年は新国立劇場でロッシーニ「ウィリアム・テル」の原語日本初演があったので思い出した。Beethoven's Tenth、どこかで翻訳してくれないだろうか。

December 18, 2024

フランチェスコ・アンジェリコ指揮読響の「第九」

●先週、ANAの機内オーディオプログラム「旅するクラシック」(←飛行機に乗ったら聴いてね♪)の収録の際、別れ際にパーソナリティの松尾依里佳さんとスタジオのみなさんに「よいお年を」の挨拶をしたのが、今年の「よいお年を」第1号だった。例年、「よいお年を」第1号がやってくると、次に来るのが「第九」シーズン。17日はその第1弾として、サントリーホールで読響のSHINRYO presents 「第九」特別演奏会。指揮はフランチェスコ・アンジェリコ。
●ベートーヴェン「第九」に先だって、第1部は大木麻理によるオルガン独奏。イギリスのオルガン奏者ジョナサン・スコットの「クリスマス・セレブレーション」、バッハの「古き年は過ぎ去りぬ」BWV1091、ヴィドールのオルガン交響曲第5番からトッカータの3曲が演奏された。ヴィドールのトッカータがすこぶる壮麗で圧倒される。久々にサントリーホールのオルガンをソロで聴いたかも。
●指揮のフランチェスコ・アンジェリコは初めて聴く人。イタリア出身の中堅で、カッセル歌劇場の音楽総監督を務めるなど、オペラでの経験が豊富な模様。オペラ指揮者の「第九」という先入観ばかりではないと思うが、劇場的というか、闊達な「第九」。第1楽章、終結部で一段テンポを落として念入りにドラマを築く。第3楽章は天上の音楽というよりは人間臭いカンタービレの音楽。終楽章は大らかな一気呵成のクライマックス。独唱陣は中村恵理のソプラノ、清水華澄のメゾ・ソプラノ、ダヴィデ・ジュスティのテノール、エギルス・シリンスのバス。エギルス・シリンスは声量豊かに朗々と歌い上げてホールの空気を一変させた。合唱は新国立劇場合唱団。60名程度の規模。曲が終わると客席から盛大なブラボー。日テレのテレビ収録あり。
●年末の「第九」でも珍しい光景だが、第1楽章の終わりと第2楽章の終わりに拍手が入った。新規のお客さんが来てくれた証拠で、これはありがたいこと。自分も最初に買ったチケットの演奏会は「第九」だったことを思い出す。新しく来てくれた人がまた足を運んでくれますように。

December 17, 2024

東京国立近代美術館「ハニワと土偶の近代」

東京国立近代美術館「ハニワと土偶の近代」
●まもなく閉幕するのだが(~12/22)、東京国立近代美術館で「ハニワと土偶の近代」。えっ、ハニワ? いやー、そんなに関心ないんだけど、ま、せっかくだし見ておくか―、みたいな軽い気持ちで行ったらメチャクチャおもしろかった。少し前まで東博でハニワ展があったと思うけど、あちらは本物のハニワなのに対して、こちらはなにせ「近代」美術館なので、ハニワにインスパイアされた20世紀以降の作品が中心。ハニワがもたらすイメージの豊かさ、予想外の物語性に驚く。ハニワが皇紀2600年の奉祝ムードのなかで日本の美として称揚され、戦意高揚や軍国教育に結び付くといった歴史を経て、それが後にSFオカルトブームとともにサブカルチャーに取り込まれていく様子など、実にエキサイティング。

榎戸庄衛「出土」
●これは榎戸庄衛の「出土」(1953年頃/茨城県近代美術館)。ハニワがキュビズムと結合している。何にでも組み合わさるハニワの汎用性がすごい。

岡本太郎「犬の植木鉢」
●こちらは岡本太郎の「犬の植木鉢」(1954年/滋賀県立陶芸の森陶芸館)。ハニワ風、なのか。犬なんだけど、ヒトのようでもあり、異世界生命体味もあり。

ハニワと土偶とサブカルチャー
●「ハニワと土偶とサブカルチャー」というテーマで集められた品々。ハニワや土偶は容易に空想上の武人や宇宙人と結びつく。ミクロマンやドラえもん、怪物くん、サイボーグ009、キン肉マンなど。

大映「大魔神」
●その一環にあるのが大映の「大魔神」。穏やかなハニワ顔が憤怒の形相に変化するまでの動作は、仮面ライダー、ウルトラマンと並ぶ日本三大変身ポーズのひとつとされている(ウソ)。

December 16, 2024

ジョナサン・ノット指揮東京交響楽団 リヒャルト・シュトラウス「ばらの騎士」(演奏会形式)

ジョナサン・ノット 東京交響楽団 「ばらの騎士」
●15日はミューザ川崎でジョナサン・ノット指揮東京交響楽団のリヒャルト・シュトラウス「ばらの騎士」(演奏会形式)。「サロメ」「エレクトラ」に続いて、シリーズ最終回として満を持しての「ばらの騎士」。演奏会形式ではあるが、演出監修をトーマス・アレンが務め、随所に工夫を盛り込んでコンサートホールのステージ上で可能な範囲で物語が再現されている。歌手陣は充実。ミア・パーションの気品のある元帥夫人、カトリオーナ・モリソンのまっすぐなオクタヴィアン、エルザ・ブノワの可憐なゾフィーと、それぞれ役柄にふさわしいが、もっとも印象的だったのはオックスを歌ったアルベルト・ペーゼンドルファー(校正者泣かせの名前。ベではなくペ)。道化役ではなく、かといって共感を呼ぶ下り坂の中年男でもなく、脅威としての男爵像を予感させる。ファーニナルのマルクス・アイヒェはこの役柄として抜群。ノット指揮東京交響楽団は清爽とした響きで陶酔感を表現。尻上がりに調子を上げた感。演奏会形式ならではの豊かで開放的な響きを堪能できた。
●このシリーズを見てると、舞台にソファーとテーブルとイスと衝立があれば、なんだって表現できるんじゃないか、って気になる。さすがに3幕のお化けの場面は、舞台の記憶を外挿しないとどうにもならないけど。あそこは舞台上演でもコメディとリアリズムのバランスが難しい場面。
●このオペラ、観るたびにどんどん見方が変わってくる。最初は元帥夫人視点で観ていた。30歳を過ぎて若さが失われる。無邪気なオクタヴィアンを目にして、自分の成熟を知る。個人の時の流れに、時代の移り変わりを重ねた作品……と、思っていたが、時とともに、だんだん元帥夫人が若者に見えてくるし、やがてオックスすら若い男に見えてくる(やれやれー)。物事の終わりを描いたオペラにちがいないんだけど、この日の演奏に接して感じるのは、物事の始まりを描いたオペラでもあるってことかな。オクタヴィアンとゾフィー以上に、元帥夫人の始まりなんだなと思う。若い恋人との情事をくりかえす刹那的な生き方がここで幕を閉じて、この人はここから自分の人生を取り戻すにちがいない。
●ファーニナルがいい。これはマルクス・アイヒェのおかげだと思うけど、かつてないほど血の通った人物になっていて、共感できる人物像になっていた。2幕の父娘の言い合いは爆笑! ここは本当に筆が冴えている場面だと思う。以前はファーニナルなんて己のビジネスのために娘を道具のように扱う利己的な人物だと思っていたけど、そうじゃなくて、こんな血統主義と男性中心主義がはびこる世界で、自分の娘をどうやったら幸せにできるかを彼なりに考え抜いて嫁がせようとしていることが伝わってくる。
●あとはやっぱりペーゼンドルファーのオックス。以前はオックスをこう考えていた。血筋しか誇れるものがなく、野卑で厚顔無恥、もはやただ時代に取り残されるのみの男。でも、今はそんな見方は無邪気すぎると痛感している。こういう人物こそ、本音で物をいう男として人々から熱狂的に支持されるものであり、手にした権力の使い方を知っている。オックスの企ては失敗したけど、軍需で財を成したファーニナル家に目を付けたところは鋭く、地位に加えて財力を手にすれば、どんな危険な人物になるかわからない。笑い者にしていられるのは今のうちであって、遠からず第二のゾフィーを見つけ出すんじゃないだろうか。オックスは過去に取り残されることのない野心家だと思う。
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●会場でも販売していた「オペラ対訳×分析ハンドブック リヒャルト・シュトラウス 楽劇 ばらの騎士」(広瀬大介訳・著/アルテスパブリッシング)。広瀬さん渾身の一冊。左ページが歌詞対訳、右ページが音楽の分析という構成になっている。オペラガイドの理想形では。

December 13, 2024

2024年のJリーグをふりかえる

豊田スタジアム
●今季のJ1リーグ、マリノスは9位で終了。15勝16敗7分。よく負けた。選手層が足りていないのにACLやカップ戦で尋常ではない過密日程になり、ボロボロになって戦い抜いたシーズンだった。ハリー・キューウェル監督が成績不振で途中解任、途中から監督実績のないジョン・ハッチンソンが暫定的に指揮したが、今季で退任する。来季はイングランド代表でコーチだったスティーブ・ホランドが率いるらしいのだが。
●で、J1は神戸が2連覇。しばらくの間、川崎やマリノスのようなボールを保持してパスをつなぐチームが勝ってきたが、昨年から流れが変わった。今季の1試合平均パス本数は、上から新潟、マリノス、浦和、川崎、札幌。つなぐチームはみんな苦戦した印象だ。逆にパスの少ないチーム、神戸や町田が成功している。サッカーはパスをつなぐほど、そしてボールを保持するほどミスが増えるスポーツだとモウリーニョが言ってたっけ。つなぐのは損。しかし……ってところに現代サッカーの肝がある気がする。
●J2からは清水と横浜FCが自動昇格、プレイオフで下克上が起きて5位の岡山が昇格することに。長崎は残念だった。J3からは大宮と今治がJ2に昇格。岡田武史オーナーが一から作ったFC今治がついにJ2まで上がってくることに。個人の壮大な夢がここまで形になっていることに驚嘆。
●すごいのは栃木だ。栃木SCはJ2から降格してJ3に行く。一方、JFL(4部相当)で栃木シティが優勝し、J3への昇格を果たした。つまり、来季はJ3で栃木SCと栃木シティの栃木ダービーが実現するわけだ。ここでまちがえやすいのは、栃木SCは宇都宮市が本拠地、栃木シティは栃木市(という市がある)がホームタウンという点。県外の人間は混乱しそう。まあ、東京交響楽団と東京都交響楽団と東京フィルハーモニー交響楽団があってぜんぶ別団体みたいなもので、慣れればなんとも思わなくなるのかもしれないが。
●JFLでは横河武蔵野FCが最後の最後で逆転で残留を決めた。かつてはJへの門番と呼ばれた時期もあったが、紆余曲折あって、今はこうなっている。今季は1試合しか足を運べなかったが、来季はもっと行きたいものである。
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●宣伝を。テレビ朝日「題名のない音楽会」、今週末の放送は「ミュージカルをミュージカルで説明する音楽会」。ミュージカル特集をするにあたって、司会やトークもぜんぶ歌にしてしまったらどうかというメタ・ミュージカル回。いいと思うんだけど、どうだろう?

December 12, 2024

イザベル・ファウスト&ジョヴァンニ・アントニーニ指揮イル・ジャルディーノ・アルモニコのモーツァルト

東京オペラシティ クリスマス仕様
●11日は東京オペラシティでイザベル・ファウストとジョヴァンニ・アントニーニ指揮イル・ジャルディーノ・アルモニコによるモーツァルトのヴァイオリン協奏曲全曲演奏会の第2夜。第1夜は聴けなかったので、この日のみ。プログラムはモーツァルトのヴァイオリン協奏曲第2番ニ長調、グルックのバレエ音楽「ドン・ジュアンあるいは石の宴」、モーツァルトのロンド ハ長調K373、ヴァイオリン協奏曲第5番イ長調「トルコ風」。舞台後方に管楽器用の雛壇が組んであるのだが、イル・ジャルディーノ・アルモニコの弦が立奏するため、雛壇がけっこう高く、横一列で並ぶ。弦は4-4-2-2-1、だっけ。
●モーツァルトのヴァイオリン協奏曲、ぜんぶ10代のごく短期間に作曲されているけど、第2番と第3番の間の跳躍がすごい。と、第2番を聴いて改めて実感。こういう機会でもないと聴けない曲。グルックの「ドン・ジュアンあるいは石の宴」は初めて聴いたかも。おもしろい。モーツァルトの「ドン・ジョヴァンニ」と同じ題材だけど、こちらはバレエ音楽。とはいえ、一貫したストーリー性があり、音楽には物語に応じた描写性がある模様。モーツァルトのオペラがおどろおどろしいムードの序曲で始まって、最後はおめでたく幕を閉じるのとは反対で、グルックのバレエは調子のよい朗らかなシンフォニアで始まって、最後は突風が吹き荒れるような恐ろしい地獄の音楽で終わる。このあたりは人称の違いというか、モーツァルトのオペラはドン・ジョヴァンニが地獄に落ちて「ざまぁ」みたいな三人称視点だけど、グルックはドン・ファンの一人称視点で地獄を描いている。地獄の音楽の迫力はさすがアントニーニとイル・ジャルディーノ・アルモニコ。スペイン趣味も取り入れられた曲で、後半のトルコ趣味と呼応する。
●モーツァルトのロンド ハ長調K373は、いかにも協奏曲のフィナーレといった仕立て。ブルネッティが弾くために書いた曲ということだが、その際にはだれかの第1楽章と第2楽章がくっついていたのだろうか。「トルコ風」はかつて聴いたことのないほどヴィヴィッド。独奏ヴァイオリンもHIPなスタイルで、アンサンブルと一体となって作品に命を吹き込む。ノン・ヴィブラートをベースとしたざらりとした質感の響き、強いアクセント、大胆なダイナミズム。アントニーニの全身を使った指揮による抜群の推進力。アンコールは2曲。まずはファウストが無伴奏で、ニコラ・マッテイスSrのヴァイオリンのためのエア集よりパッサッジョ・ロット。これは以前にもファウストのアンコールで聴いた気がする。さらにもう一曲、全員でハイドンの交響曲第44番「悲しみ」より第4楽章。これも強烈な嵐のような音楽。大喝采。
●終了後、CD購入者にサイン会あり。長蛇の列ができていた。

December 11, 2024

パーヴォ・ヤルヴィ指揮ドイツ・カンマーフィルのモーツァルト他

●毎年12月上旬はコンサートラッシュになりがち。これは12月後半のオーケストラ公演が「第九」一色になるため、それ以外の通常公演が前倒し気味になることによる「年末進行」なんだと思っている。
パーヴォ・ヤルヴィ ドイツ・カンマーフィル●で、9日は東京オペラシティでパーヴォ・ヤルヴィ指揮ドイツ・カンマーフィル。パーヴォはこの楽団の芸術監督に就任して20周年を迎えたのだとか。今の時代にこの継続性は立派というほかない。しかも、継続的に来日公演を行ってくれて、毎回が新鮮。今回のプログラムは前半がシューベルトのイタリア風序曲(第2番)D591、ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲(樫本大進)、後半がモーツァルトの交響曲第41番「ジュピター」。本来ならヒラリー・ハーンがソリストを務める予定だったが、体調不良により樫本大進が代役として登場。ヒラリー・ハーンを聴けなかったのは残念すぎるが、しかし代役に樫本大進はびっくり。ブレーメンの室内オーケストラの来日公演に、ベルリン・フィルのコンサートマスターがソリストとして出演しているわけだ。
●シューベルトのイタリア風序曲、イタリア風というかロッシーニ風なわけだが、陰キャが陽キャを装ったようなところがあって、陽気で軽快なのにたまにシューベルトの地が垣間見える雰囲気が楽しい。ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲では樫本大進が堂々たるソロ。輝かしく、流麗。オーケストラはHIPなスタイルで、ゴツゴツした手触りがあり、組合せの妙味。アンコールにバッハの無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第3番よりラルゴ。
●後半が「ジュピター」のみなので、前半が重いプログラムだと思っていたら、この「ジュピター」がすごかった。パーヴォらしい引き締まったサウンドでぐいぐいと進むのだが、練り上げられた解釈で随所に仕掛けが満載。小編成ならではの機動力があり、管楽器の各パートがとてもよく聞こえる。最大の聴きどころ、終楽章のコーダでは高解像度の混沌が祝祭性を生み出す。実のところ、「ジュピター」は演奏頻度が高いわりに満足できる演奏にはめったに出会えないのだが、この日の演奏はこれまで記憶にないほどスリリングで、高揚感にあふれていた。
●アンコールにこのコンビの定番、シベリウスの「悲しきワルツ」。とことん磨き上げられた十八番。超絶ピアニッシモを駆使しながら幻想の世界へ誘う。客席の反応もよかったのだが、なぜかソロ・カーテンコールにならず。

December 10, 2024

パトリツィア・コパチンスカヤ&カメラータ・ベルン

●8日は彩の国さいたま芸術劇場音楽ホールでパトリツィア・コパチンスカヤ&カメラータ・ベルン。久々の与野本町。プログラムはパトコップ(=コパチンスカヤ)の「怒り」(2012)、メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲ニ短調、シューベルトの弦楽四重奏曲第14番「死と乙女」(コパチンスカヤ編/弦楽オーケストラ版)。期待通り、コパチンスカヤ色が全開になったエキサイティングな公演だった。一曲目はコパチンスカヤ自身の作品で「怒り」。作曲家名がパトリツィア・コパチンスカヤの愛称ということなのか「パトコップ」と記されているのは、どういうキャラ設定なんだろう。叫びや感情の爆発を写し取ったような曲想に、発話的あるいは対話的な部分が挟まれる。ふっと宙に消えるように終わると、そのまま続けてメンデルスゾーンへ。この展開は劇的。メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲といっても有名なホ短調ではなく、弦楽器だけで演奏できるニ短調。冒頭部分から疾風怒濤期のハイドンを連想させる。目まぐるしい感情の変転はエマヌエル・バッハ的とも。コパチンスカヤもカメラータ・ベルンも鋭く峻烈で、メンデルスゾーンを再創造するかのよう。
●たぶん、この曲、有名な「メンコン」のほうだと思い込んで足を運んだ人もいたはずで、相当びっくりしたのでは。「メンコン」と区別するためになにか愛称が必要だと思う。たとえば、発見者にちなんでヴァイオリン協奏曲「メニューイン」と呼ぶとか?
●後半のシューベルト「死と乙女」はコパチンスカヤを含めて弦楽器4-4-3-2-1の編成。これも壮絶。奏者全員が一丸となってメガ・コパチンスカヤ化している。ノンヴィブラートをベースとした乾いた音色で、切れ込み鋭く、ダイナミクスの幅が大きい。激烈なアッチェレランドもあれば、消え入るような最弱音も駆使する奔放自在のシューベルト。第4楽章でコパチンスカヤの楽器の弦が切れたようで、即座に隣の奏者と楽器を交換して弾き続けた。楽器を交換された奏者はしばらくその場にたたずみ、頃合いを見て袖に下がって、最終盤に復帰、ふたたびコパチンスカヤと楽器を交換。ただでさえスリリングな演奏に、別のスリルが加わった。
●客席の大喝采と歓声にこたえて、アンコールにバルトークのルーマニア民俗舞曲より。爆発的な盛り上がりで、本来ならこれでおしまいだったと思うのだが、この日はNHKの収録が入っていた。コパチンスカヤが登場して、NHKのために「死と乙女」の終楽章をもう一回演奏するけどいいかなー的なアナウンスをして、もう一度。これが「撮り直し」っぽくならないように、ふたたび渾身の演奏をしてくれたのだが、客席側の雰囲気はだいぶリラックスしたムードになっていたかも。アクシデントのおかげでアンコールを2曲も聴けたのはお得。

December 8, 2024

ジョナサン・ノット指揮東京交響楽団のシェーンベルク&ベートーヴェン

ジョナサン・ノット 東京交響楽団
●7日はサントリーホールでジョナサン・ノット指揮東京交響楽団。シェーンベルクのヴァイオリン協奏曲(アヴァ・バハリ)とベートーヴェンの交響曲第5番「運命」というプログラム。シェーンベルクのヴァイオリン協奏曲の独奏者は現在売り出し中の若手、スウェーデンのアヴァ・バハリ。この曲をすっかり手の内に入れている様子。12音技法を使った作品であるが、尖鋭さよりも、作品の抒情性あるいは官能性が浮かび上がる。シェーンベルクは演奏頻度からいえば後期ロマン派スタイルの作品で名を残した作曲家だと感じてたけど、生誕150年の今年はヴァイオリン協奏曲を2回も聴けた。もっともこの曲、晦渋ではある。ソリスト・アンコールはクライスラーのレチタティーヴォとスケルツォ。途中のファンファーレ風動機のところで、前にもアンコールで聴いたことがある曲だと思い出す。
●後半は「運命」。以前にも同コンビでとりあげていたと思うが、そのときは聴けなかったので、ふたたび演奏してくれて嬉しい。冒頭の運命の動機が少し特徴的で、おしりが心持ちクレッシェンド気味になる「飛び出す運命」。速めのテンポで機敏なのだが、鬼気迫るといった重さ一辺倒ではなく、ときには柔らかく、うねるようであり、息づくようでもある「運命」。ノットの動きにオーケストラが鋭敏に反映して、一体化している。第4楽章のピッコロがすごく効いていて、オーケストラが翼を広げて羽ばたいているみたいに聞こえる。ノット監督は26年3月の退任が発表済み。それが頭にあるからなのか、過去を振り返るようなしみじみした気分も感じてしまう。盛大な拍手喝采と、ソロ・カーテンコールあり。
●正味の演奏時間が短めのプログラムだと思ったけど、終わってみたらそんなに短くもなかった。ソリスト・アンコールもあったし、「運命」のリピートもあったので、そんなものか。
●翌日のミューザ川崎での同プログラムが期間限定でニコ響で公開されている。ありがたいことである。

December 6, 2024

ファビオ・ルイージ指揮NHK交響楽団の「展覧会の絵」他

ファビオ・ルイージ NHK交響楽団
●5日はサントリーホールでファビオ・ルイージ指揮N響。スメタナの「売られた花嫁」序曲、ラフマニノフのピアノ協奏曲第3番(ネルソン・ゲルナー)、ムソルグスキー~ラヴェル編の組曲「展覧会の絵」というスラヴ・プログラム。「売られた花嫁」序曲はキレがあり爽快。数あるオペラの序曲のなかでも屈指の名曲だと思う。ネルソン・ゲルナーを聴くのはかなり久しぶり。ラフマニノフのピアノ協奏曲第3番は完成度が高く、均整がとれていて、ロマンと高揚感も十分。パワフルというよりはリリカル。第3楽章は大いに盛り上げてくれた。ソリスト・アンコールにラフマニノフの「リラの花」。細部まで彫琢され、繊細。
●「展覧会の絵」ではカラフルなラヴェルのオーケストレーションを堪能。つい最近、同じホールでアルティノグル指揮フランクフルト放送交響楽団の演奏を聴いたばかりだけど、ルイージ&N響はずっと明るく華やかな音で、ラヴェルのキャラクターが前面に出ている。N響のフレキシビリティの高さを感じる。圧巻は「キエフの大門」で、金管セクションの音色がまろやかで壮麗。カーテンコールではトランペットに盛大な拍手。
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●宣伝を。イオンカードの会員誌「mom」12月号のmom's viewのページで、今どきのクラシック音楽の楽しみ方について語っている。1ページのコーナー。似たようなパターンで、岩谷産業の会員向け情報誌「ムティ」10月号の「クラシック音楽を楽しもう」にも登場した。どちらも先方から顔写真のリクエストあり。こういうときに写真が実物より若いと微妙にばつが悪いので、プロフィール写真はちょくちょく更新するようにしている。

December 5, 2024

岐阜県美術館 「オディロン・ルドン 光の夢、影の輝き」

岐阜県美術館
●11月の東海シリーズ第3弾、宗次ホール、豊田市美術館に続いて、岐阜市の岐阜県美術館へ。目的は「オディロン・ルドン 光の夢、影の輝き」(~12/8)。岐阜駅は名古屋駅から東海道本線で20分ほどで、かなり近い。もともと岐阜県美術館は約260点ものオディロン・ルドンのコレクションを持っていて、収蔵品だけでもかなり立派な展覧会を開けるのだが、そこに各地の美術館やギャラリーが所蔵するルドン作品を集めて、約330点というとんでもない規模のルドン展が実現した。またとない機会なので、宗次ホールの前に足を延ばす。広々とした敷地にある落ち着いた美術館。

岐阜県美術館
●日曜日の開館に合わせて訪れたが、人は疎ら。もし都内で大ルドン展が開催されたら、週末だろうが平日だろうが大混雑の中でベルトコンベア鑑賞を強いられることは必至。演奏会は東京が圧倒的に恵まれていると思うが、美術展に関してはこのあたりに中規模都市の絶対的な優位がある。気に入った作品をのんびり好きなだけ見ていられる。
●とにかく作品数が膨大すぎて一度にはとても見切れない。すごい迫力。おもしろかったのは同じ版画が複数並んでいたりするのだが、これが意外と違うのだ。刷り方によるものなのか、明るさが違っていると作品の印象もけっこう変わる。全体を眺めて印象的だった点をキーワードとして挙げると、ブリュンヒルデ、パルジファル、仏陀、オフィーリアなど「ハムレット」関連、神話、挿画、花。惜しいのは写真撮影が全面禁止だったこと。こうして話題にしていても肝心の絵がないので寂しい。もっともルドンはパブリックドメインなんだから、絵柄そのものは好きに使えるわけで、なんだか悔しいから一点、ここに貼っておこう。「仏陀」(1904年)オルセー美術館蔵。この展覧会の絵じゃなくてごめん。左上にうっすらとミッキーがいる気がする(いません)。
ルドン 「仏陀」

●岐阜県美術館へのアクセスは、岐阜駅からバス、あるいはJR西岐阜駅から徒歩15分弱。バスの本数は少ない。でも西岐阜駅に止まる電車の本数も少なめ。どっちでもいいから検索して先に着くほうを選んだら、西岐阜駅から歩くことになった。車はたくさん通るが、あまり人は歩いていない。帰りはバスにしようと思ったが、どのバス停に乗ればいいのかパッとわからなかったので、めんどうになって西岐阜駅まで歩く。決して歩いて楽しい道ではないので、バスのほうがよかったかも?

December 4, 2024

鈴木優人指揮読響とベルリンRIAS室内合唱団のベリオ&モーツァルト

●3日はサントリーホールで鈴木優人指揮読響。前半がベリオのシンフォニア、後半がモーツァルトのレクイエム(鈴木優人補筆校訂版)で、ベルリンRIAS室内合唱団、ジョアン・ラン(ソプラノ)、オリヴィア・フェアミューレン(メゾ・ソプラノ)、ニック・プリッチャード(テノール)、ドミニク・ヴェルナー(バス)が招かれるというデラックスなプログラム。きわめて濃密な一夜。ベリオは来年が生誕100年、モーツァルトは2日後が命日だったので、ダブル「一足早い」プロでもある。
●ベリオのシンフォニア、録音では早くに出会った曲だけど、ライブでは聴いたことがあったかどうか……。実際に聴いてみてずいぶん印象が改まった。全5楽章からなり、真ん中の第3楽章が多数の楽曲を引用した高密度コラージュ楽章。前半、いろんなテキストの引用があるが(ソリストはベルリンRIAS室内合唱団メンバー)、もともと言葉がわからないし、きっとわかっても聴きとれないし意味も理解できない。第3楽章になるとマーラー「復活」第3楽章というはっきりした下敷きのうえで、次々といろんな曲の断片があらわれて、同様にかなりのところは聴きとれないし、即座に意味を考える余裕もない。わかりやすいのはドビュッシー「海」、ラヴェル「ラ・ヴァルス」、ベルリオーズ「幻想交響曲」、ストラヴィンスキー「春の祭典」といったところだが(たまたまなのかフランス系の音楽ばかりだけど)、ほかにもいっぱいある。近接的に眺めると引用の集積だけど、遠目に見るとひとつの作品としての形が浮かび上がってくる。そういう意味では絵画的かも。ざっくり大雑把に感じたのは、前半は豊麗な歌の音楽、後半は熱を帯びたスリリングな音楽。とくにおしまいの部分、宙に消える一点に向かって驀進する感じは得難い体験。客席は大喝采。カーテンコールで音響の有馬純寿さんも呼ばれてステージに上がる。
●後半はぐっと音像がコンパクトになってモーツァルトのレクイエム。すっきりと清新な管弦楽にベルリンRIAS室内合唱団の柔らかく温かみのある声が重なる。合唱団は33名かな。声が芳醇というか、色が濃い。鈴木優人補筆校訂版は従来からのジュスマイヤー版をベースにしつつ、随所に違いがある模様。ジュスマイヤー版に存在しないのは、「ラクリモーサ」の後の「アーメン・フーガ」。これは1962年に発見されたモーツァルトのスケッチをもとにしたフーガ。このスケッチを使う例はこれまでの補筆例にもあったとは思うが、モーツァルトの主題がけっこう特徴的で、虚ろというか漂泊するような雰囲気があって全曲のなかでアクセントになっている。ジュスマイヤー版に慣れてしまうと「ラクリモーサ」のおわりからサッと駆け抜けるように「ドミネ・イエス」に入るものと思い込んでしまうが、ここにフーガが入ると一区切りできる。もともと高いフーガ密度がいちだんと高まって、堅牢さを感じる。演奏終了後、盛大な喝采に続いて独唱陣も合唱に加わって、モーツァルト「アヴェ・ヴェルム・コルプス」。ぜいたくなアンコール。

December 3, 2024

豊田市美術館 「しないでおく、こと。― 芸術と生のアナキズム」

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●昨日に続いて愛知県ネタをもう一件。豊田市美術館に足を運んだ。この美術館、今回で3度目だが常に満足度が高く、また来たいと思ってしまう。毎回、企画展と常設展のどちらも最強なのだ。その意味では都内でいえば東京都現代美術館や東京国立近代美術館に匹敵するが、建物と庭園の広さと開放感で上回る。しかも週末の昼間でも混んでない。近くに住んでたら年パス必須。
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●ここの庭園が心地よい。作品もいくつか展示されている。座る場所もあり、あまり人がいないのでのんびりできる。駅から少し歩くので、着いたらまずここで「ふー」と休憩する。帰るときもいったんここで休憩できるとなおよい。
●現在の企画展は「しないでおく、こと。― 芸術と生のアナキズム」。独自の切り口で現代アート中心に並べられているのだが、異様な存在感があったのが複数アーティストの協働による「コーポ北加賀屋」の一角で、びっしりと展示物が詰めこまれていて、情報量がやたらと多い。その饒舌さにくらくらするのだが、一方でノスタルジーも漂っていて、架空の昔の自室みたいなムードがある。
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●もうひとつ印象的だったのはアーティスト集団「オル太」による映像作品+インスタレーションのセット。ふだん、映像作品は時間を食うこともあってスルーしがちなのだが、この映像は当の美術館内にセットを組んで撮影したもので、しかもそのセットが並んで作品として展示してあるのがおもしろく、見入ってしまった。昭和の高度成長期の「団地」が題材となっていて、とてもよい。
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●豊田市美術館へのアクセスだが、豊田市駅または新豊田駅から徒歩13分くらいだろうか。公式サイトにはタクシー利用で展覧会の割引券を配布するとあったので、初回はタクシーにしようか迷ったものの、歩いてみたら拍子抜けするほど近かった。ただ、館が坂の上にあるのと、美術館自体がたくさん歩く場所なので、タクシーに乗れば乗ったで楽だとは思う。というか、毎回駅から歩いている人をほとんど見かけないので、自家用車の人が多いのかも。ちなみに豊田スタジアムとは駅からの方角が違う。
●豊田市駅には名古屋駅から行っても、豊橋駅から行っても1時間かかる。東京から行く場合、のぞみでいったん名古屋まで行ってから豊田市に戻るほうが新幹線の本数が多くて便利だが、この「行って戻る」というエコロジー的な不合理さが嫌で、自分は毎回ひかりで豊橋まで行き、名鉄を乗り継いで豊田市に行くようにしている。豊橋駅停車のひかりが限られているので、常にそうできるかといえば微妙ではあるのだが。

December 2, 2024

宗次ホールで田部京子ピアノ・リサイタル

宗次ホール
●遡って11月17日、名古屋の宗次ホールへ。2007年にカレーハウスCoCo壱番屋創業者である宗次德二氏が設立したこの地の名物ホールで、訪れるのはかなり久しぶり。稼働率が高く、昼の公演も含めればほとんど毎日何かしら公演があるのがすごい。
●この日は田部京子ピアノ・リサイタル。前半にシベリウスの「樹の組曲」(ピヒラヤの花咲くとき/淋しいもみの木/ポプラ/白樺/もみの木)、フランク~バウアー編の「前奏曲、フーガと変奏曲」、後半はドビュッシーを集めて、2つのアラベスク、「ベルガマスク組曲」「版画」「喜びの島」。プログラムの柱となっているのは組曲。性格的小品を集めたシベリウスのような組曲もあれば、グリーグやドビュッシーのような前奏曲に各種舞曲が続く古典組曲のスタイルを借りた組曲もあり、それぞれの特徴が描き分けられるという美しいプログラム。最後は「喜びの島」で感情を爆発させる。潤い豊かでみずみずしい音楽を堪能。アンコールにドビュッシーの「夢」、さらに挨拶をはさんでグリーグの「君を愛す」。カーテンコールは撮影可だった。
宗次ホール 田部京子
●宗次ホールの座席数は310席。奏者と同じ空間を共有している感覚が半端ではない。座席にゆとりがある感じで、ぜいたく。栄駅からすぐで、ひとつ通りを隔てたところに愛知芸術文化センターがある。栄は自分にとって懐かしい街だったのだが、昔とすっかり風景が変わっており、だんだん知らない街になってきた。感覚的には丸善が移転したあたりで別の街になった。

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