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December 16, 2024

ジョナサン・ノット指揮東京交響楽団 リヒャルト・シュトラウス「ばらの騎士」(演奏会形式)

ジョナサン・ノット 東京交響楽団 「ばらの騎士」
●15日はミューザ川崎でジョナサン・ノット指揮東京交響楽団のリヒャルト・シュトラウス「ばらの騎士」(演奏会形式)。「サロメ」「エレクトラ」に続いて、シリーズ最終回として満を持しての「ばらの騎士」。演奏会形式ではあるが、演出監修をトーマス・アレンが務め、随所に工夫を盛り込んでコンサートホールのステージ上で可能な範囲で物語が再現されている。歌手陣は充実。ミア・パーションの気品のある元帥夫人、カトリオーナ・モリソンのまっすぐなオクタヴィアン、エルザ・ブノワの可憐なゾフィーと、それぞれ役柄にふさわしいが、もっとも印象的だったのはオックスを歌ったアルベルト・ペーゼンドルファー(校正者泣かせの名前。ベではなくペ)。道化役ではなく、かといって共感を呼ぶ下り坂の中年男でもなく、脅威としての男爵像を予感させる。ファーニナルのマルクス・アイヒェはこの役柄として抜群。ノット指揮東京交響楽団は清爽とした響きで陶酔感を表現。尻上がりに調子を上げた感。演奏会形式ならではの豊かで開放的な響きを堪能できた。
●このシリーズを見てると、舞台にソファーとテーブルとイスと衝立があれば、なんだって表現できるんじゃないか、って気になる。さすがに3幕のお化けの場面は、舞台の記憶を外挿しないとどうにもならないけど。あそこは舞台上演でもコメディとリアリズムのバランスが難しい場面。
●このオペラ、観るたびにどんどん見方が変わってくる。最初は元帥夫人視点で観ていた。30歳を過ぎて若さが失われる。無邪気なオクタヴィアンを目にして、自分の成熟を知る。個人の時の流れに、時代の移り変わりを重ねた作品……と、思っていたが、時とともに、だんだん元帥夫人が若者に見えてくるし、やがてオックスすら若い男に見えてくる(やれやれー)。物事の終わりを描いたオペラにちがいないんだけど、この日の演奏に接して感じるのは、物事の始まりを描いたオペラでもあるってことかな。オクタヴィアンとゾフィー以上に、元帥夫人の始まりなんだなと思う。若い恋人との情事をくりかえす刹那的な生き方がここで幕を閉じて、この人はここから自分の人生を取り戻すにちがいない。
●ファーニナルがいい。これはマルクス・アイヒェのおかげだと思うけど、かつてないほど血の通った人物になっていて、共感できる人物像になっていた。2幕の父娘の言い合いは爆笑! ここは本当に筆が冴えている場面だと思う。以前はファーニナルなんて己のビジネスのために娘を道具のように扱う利己的な人物だと思っていたけど、そうじゃなくて、こんな血統主義と男性中心主義がはびこる世界で、自分の娘をどうやったら幸せにできるかを彼なりに考え抜いて嫁がせようとしていることが伝わってくる。
●あとはやっぱりペーゼンドルファーのオックス。以前はオックスをこう考えていた。血筋しか誇れるものがなく、野卑で厚顔無恥、もはやただ時代に取り残されるのみの男。でも、今はそんな見方は無邪気すぎると痛感している。こういう人物こそ、本音で物をいう男として人々から熱狂的に支持されるものであり、手にした権力の使い方を知っている。オックスの企ては失敗したけど、軍需で財を成したファーニナル家に目を付けたところは鋭く、地位に加えて財力を手にすれば、どんな危険な人物になるかわからない。笑い者にしていられるのは今のうちであって、遠からず第二のゾフィーを見つけ出すんじゃないだろうか。オックスは過去に取り残されることのない野心家だと思う。
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●会場でも販売していた「オペラ対訳×分析ハンドブック リヒャルト・シュトラウス 楽劇 ばらの騎士」(広瀬大介訳・著/アルテスパブリッシング)。広瀬さん渾身の一冊。左ページが歌詞対訳、右ページが音楽の分析という構成になっている。オペラガイドの理想形では。

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