●「アムステルダム」 イアン・マキューアン。(一昨日のエントリーからつづく)若き日の思い出を部分的に共有する男たちが集まって、元恋人の死を嘆く。そこから彼らの人生の諸相が浮かび上がってくる。イギリスの良き時代に育ち、時代が悪くなった頃にはすでに社会的な地位と財を築いている。才に恵まれ、成功して余裕があり、古い恋人の死を悼む。主人公といえる作曲家と新聞編集長はそれぞれに今やそのキャリアでもっとも大きな成功を得ようとしている。つまり、ここにあるのは「美しい瞬間」である。
●にもかかわらず、彼らはその「美しい瞬間」に「醜悪な行動」をとってしまう。善人で成功者で成熟しているはずの人々でも、彼らが築き上げたものなどほんの一瞬で脆くも崩れ去る。皮肉とユーモアが同居したタッチで、人の美しさが易々と醜さと同居可能であることが描かれる。同時にこれを逆側から見れば、いかなる凡庸さからでも人は高潔で厳粛な瞬間を紡ぎだすことができることも示唆している(この対称性が秀逸)。
●規模や才能の大小はあっても、ものを「創る」経験のある人なら、ある種の創造の熱狂、霊感が舞い降りて独特の熱中状態から興奮を経て、最後に満足と達成感を獲得するまでの過程を思い浮かべることができると思う。作曲家クライヴ・リンリーは、自作の交響曲の難所を書き進めた後、こう感じる。
朝早く、日の出どきの軽い興奮が鎮まり、ロンドン全体がすでにどやどやと仕事に向かいはじめ、創造のための奮闘がついに疲労に征服されるころに、ピアノから立ち上がってスタジオの電気を消しにドア口まで足を引きずってゆき、ふり返ってみずからの労苦をとりかこむ豊かに美しい混乱を目にするときなど、クライヴはふと考えることがあったが、それは世界の誰にも打ち明けられることのないほんのかすかな思い、日記につけられることさえない思いで、そのキーワードは心のなかでもごくためらいがちにしか形にされなかった。ごく簡単にいえば、それはこういう思いだった。誇張のないところ自分は……天才ではないか。
●崇高である。だが、同時に彼は醜悪なのだ。その辛辣な真実というか諸相の一つを、最後にこの小説は唖然とするほど見事に描いているのだが、ここでそこまで書いてしまうわけにはいかない。ぜひご一読を。読後に再度、じっくりと味わってほしい。
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P.S. 山尾さんのご指摘によれば、この作曲家像はジョン・タヴナー。なるほど、納得! マキューアンはタヴナーを意識して書いたにちがいない。