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Booksの最近のブログ記事

November 15, 2024

「アイヴズを聴く 自国アメリカを変奏した男」(J.ピーター バークホルダー著)

●今年発売された音楽書のなかで、これほど待ち望んでいた一冊はなかった。「アイヴズを聴く 自国アメリカを変奏した男」(J.ピーター バークホルダー著/奥田恵二訳/アルテスパブリッシング)。これまで日本語で読めるアイヴズ本がほとんどなかったところに、ついに登場した決定的な評伝であり作品論でもある。堂々544ページにわたる大著なので、お値段もそこそこする。以前から、この本の翻訳が進んでいることは耳にしていたのだが、これだけの分量となるとさまざまな過程で難航してもおかしくないわけで、なんとかアイヴズ生誕150年に間に合ってくれて本当によかった。
●いつもなら本は読んでから紹介するのだが、これはそうそう読み切れないので、まだごく一部を読んだところ。この一冊は頭から読むよりは、読みたいところから読むのがいいと思う。たとえば、偉大な作品、「コンコード・ソナタ」から読む。なんと、この一曲のために第10章「アメリカ文学」の章まるまる46ページが割かれているのだ。ピアノ・ソナタ一曲に46ページっすよ! この章が「アメリカ文学」と題されているように、「コンコード・ソナタ」が文学由来の作品だということは、もっと意識されるべきことかもしれない。著者は言う。

「コンコード・ソナタ」は、究極的にはロマン的な衝動を反映した近代音楽作品ということになる。それはメンデルスゾーンの「夏の夜の夢」や、リストの「ダンテ・ソナタ」および「ファウスト交響曲」、リヒャルト・シュトラウスの「ドン・ファン」および「ドン・キホーテ」その他、数えきれぬほどの19世紀の器楽作品と同様、文学作品に触発された作品であり、ロマン的なピアノ書法──即興的な夢幻性から単純な歌謡性にいたる様式、緊張度の高い半音階主義から明瞭な機能和声にいたる調性感、深刻な発言から軽妙な遊び感覚にいたる表現性を含み込んだ書法──を大幅に採りいれた作品である。

この一文を読んだだけでも、「コンコード・ソナタ」の聴き方が変わってこないだろうか。
●あと、まっさきに読んだのは保険会社のくだり。アイヴズといえば「不協和音のために飢えるのはまっぴら」と言って、保険会社を設立して生計を立てたとよく言われる。その保険会社が際立った成功を収めたことはあちこちで目にしていたが、もう少し詳しい事情を知りたいと思っていたのだ。保険会社というか、保険代理店で保険を売っていたわけだが、アイヴズはもともと保険代理店の社員にすぎなかった。ところが勤務先でスキャンダルが発覚し、この会社が解散することになり、アイヴズは同僚と一緒に新たに会社を立ち上げた。この会社が急成長を遂げてアイヴズは財を成した。しかし、アイヴズ自身は決して自ら保険の販売を手がけなかったという。その代わり、保険額を決めるシステマティックな方法をパンフレットにまとめ、研修資料を作り、保険の代理人養成のための学校を初めて開いた。アイヴズが導入した方式によって「代理店の保険販売業務は完全に様変わりした」というのだから、保険業界へのインパクトは相当に大きかったようだ。そして、その原動力は経済的に成功したいという欲求ではなく、保険により世の家庭は守られるべきという崇高な理念にもとづく理想主義だったという点は、作曲家としてのアイヴズの姿と重なっているように思える。

November 6, 2024

クリストファー・プリースト「双生児」

●今年2月に世を去ったイギリスの作家、クリストファー・プリーストの「双生児」(古沢嘉通訳/ハヤカワ文庫FT)を読む。今さらだけど、恐るべき傑作。あまりにもよくできていて、完璧な小説だと思った。枠物語になっていて、イギリスの歴史ノンフィクション作家が第二次世界大戦中に活躍したJ.L.ソウヤーなる人物の生涯を追いかけるという体裁。で、このJ.L.ソウヤーは同じイニシャルを持つジャックとジョーの兄弟で、一卵性双生児なのだ。ジャックは英国空軍爆撃機の操縦士を務め、ジョーは良心的兵役拒否者になって赤十字で働く。同じ遺伝子を持って生まれながら、正反対の価値観を身につけており、戦時にまったく別の役割を果たす。ふたりは同じドイツ人女性に恋をして……といったロマンス要素もありつつ、ナチスのルドルフ・ヘスが戦時中に単身でイギリスに渡ったという歴史的事実が絡んでくる。
●が、読み進めていくと、途中でそれまでと食い違った記述にぶつかる。ジャックからの視点、ジョーからの視点、さらには第三者からの視点で、描かれる現実が異なっているのだ。個人の見方の違いではなく、歴史の流れそのものが違っており、戦争の結末も異なる。どうやら大きく見ると私たちの知る歴史と、そうではない別の歴史のふたつが流れているらしい。同じ登場人物がそれぞれの流れのなかで別の運命を迎える。そもそも物語の語り手は信用できるのか、登場人物が幻覚にとらわれる場面などもあり、現実と虚構の境目はどんどん曖昧になる。読み終わった後、「ええっ!?」となって、もう一度、頭からざっと目を通している。
●この小説のよくできたところは、無理に仕掛けを見抜こうとして読まなくても、十分におもしろいところ。すいすい読める。そしていろんな読み方ができる。現実に侵食する虚構や意識の混濁を描いた小説としても読めるし、20世紀イギリス版マジック・リアリズムによる幻想文学としても読めるし、量子論的並行宇宙を生きる双子SFとしても読める。同じ作家の「隣接界」もある程度共通するテーマを扱っているのだが、「双生児」に比べると粗削りというか、野心的すぎるところがあって、「双生児」のほうがより明快で、読者を選ばないと思う。

September 25, 2024

「死はすぐそばに」(アンソニー・ホロヴィッツ)

●アンソニー・ホロヴィッツ著の最新刊、「死はすぐそばに」(山田蘭訳/創元推理文庫)を読む。ホーソーン&ホロヴィッツ・シリーズの第5弾だが、抜群のおもしろさ。よくも毎回、これだけ新味のある趣向を盛り込めるものだと感心するばかり。このシリーズ、探偵役のホーソーンと助手役で記録役でもあるホロヴィッツ(著者自身)がコンビを組むというホームズ&ワトソン以来の古典的なミステリの枠組みを借りながらも、小説としては一種のメタフィクションになっていて、そこが新しい。著者本人が物語の登場人物であるということに加えて、ミステリについてのミステリになっているという二重の自己言及性が肝。今回は高級住宅地でヘッジファンドマネージャーが殺されるのだが、隣人たち全員が被害者を嫌っており、すべての住民に殺人の動機があるという設定。さて犯人はだれかと捜査を進めるのだが、設定自体がアガサ・クリスティーの超名作を想起させる。もちろん同じ結末にはならないはず、と思いながら読み進めてゆくと……。
●軽い驚きは、小説内でいわゆる密室ミステリ的な状況が訪れたところで、著者が密室ミステリ論を述べる場面。

 近年になってわたしは、最高の密室ミステリは日本から生まれていると考えるようになった。島田荘司の『斜め屋敷の犯罪』、あるいはこの分野の名手であり、八十編近くもの作品を書いている横溝正史の『本陣殺人事件』をぜひ読んでみてほしい。どちらもすばらしく精緻で鮮やかな作品だ。

まさかアンソニー・ホロヴィッツのミステリを読んでいて、島田荘司や横溝正史が出てくるとは! くらくら。「斜め屋敷の犯罪」、懐かしい。また読もうかな。
●今回はこれまでのシリーズと違って、もう終わってしまった過去の事件を、結末を知らされないまま少しずつ著者が書き進めるという趣向になっている。小説内の過去の時間軸と、著者の現在の時間軸がそれぞれ流れているわけだ。これもとても気の利いた趣向。緻密なんだけど、するすると読める。

September 12, 2024

「指揮棒の魔術師ロジェストヴェンスキーの“証言”」(ブリュノ・モンサンジョン著)

●気になっていた本、「指揮棒の魔術師ロジェストヴェンスキーの“証言”」(ブリュノ・モンサンジョン著/船越清佳訳/音楽之友社)を読んだ。モンサンジョンといえばグレン・グールドやスヴャトスラフ・リヒテルらの映像でおなじみ。映像作家であると同時に、筑摩書房刊の「リヒテル」(傑作!)のような著作でも知られている。で、このロジェストヴェンスキー本も期待通りのおもしろさ。基本的にロジェストヴェンスキーの語りの体裁で記述されており、その語り口は率直で、しばしば辛辣なユーモアに包まれている。
●おもしろさの源泉は2種類あると思った。ひとつはソ連時代の社会システムが生み出す不条理の世界。これはもういろんな音楽家たちが書いていることだけど、やっぱりくりかえし語って伝えていくべきこと。独裁的な強権政治と極端に硬直した官僚主義がなにを生み出すか。有名なジダーノフ批判で、プロコフィエフもショスタコーヴィチもハチャトゥリアンもみんな「形式主義者」と批判されたけど、「形式主義者」とはなにか、だれもわからない。そして「社会主義リアリズム」というドクトリンが掲げられたが、これがなにを意味するのかも、だれひとり説明できないまま物事が決められていく。

 誰かが「このシャツは白い」と言えば、「その通り、白です」と同意する。それが現実には暗色のチェックであったとしても「白だ」と答えなければ、翌日は牢獄という現実が待っているのだ。

●もうひとつはロジェストヴェンスキーから見たロシアの音楽家たちの実像。ショスタコーヴィチ、プロコフィエフ、フレンニコフ、ロストロポーヴィチ、オイストラフ、ストラヴィンスキーなど。とくにショスタコーヴィチについての記述がいい。
●ショスタコーヴィチが楽譜に誤りがたくさんあることを知りながら、訂正しなかったという話は興味深い。ボロディン弦楽四重奏団が楽譜の誤りを見つけて尋ねると、ショスタコーヴィチは指摘の通りまちがっていることを認めたうえで、「でも書かれている通りに弾いてくださいよ!」と求めたという。ムラヴィンスキーが交響曲第5番を指揮した際、客席にいたシルヴェストリが楽屋にショスタコーヴィチを訪ね、「楽譜に書かれているテンポは正しいのか」と尋ねたら、「もちろん正しい。すべて完璧に正しい」という答えが返ってきた。でもムラヴィンスキーはまったく違うテンポで指揮していたではないかと聞くと、「彼もまったく正しいんです!」と言われてしまう。その場に居合わせたロジェストヴェンスキーは、ショスタコーヴィチが指揮についての話を心底嫌っていることを知っていたので、ひたすらこの会話が早く終わってほしいと願うばかりだったという。ちなみにショスタコーヴィチのメトロノームはピアノから落ちて壊れていたが、それをよく承知の上でショスタコーヴィチはずっと同じものを使い続けた。だからショスタコーヴィチのメトロノーム表示はどれひとつ信用できないとロジェストヴェンスキーは言っている。なんというか、ふつうのロジックが通用しないのだ。
●あとはショスタコーヴィチがドビュッシーの音楽を毛嫌いしていた話もおもしろい。ブーレーズがショスタコーヴィチをまったく評価しなかったことを思い出す。

September 5, 2024

ガルシア=マルケス「百年の孤独」再読 その6 黄色い蛾

●(承前)品薄状態が続いていたが、さすがに近隣の書店でも平積みになっていた、ガルシア=マルケス「百年の孤独」(新潮文庫)。想定以上の売れ行きだったのはよかったが、千載一遇の好機にどれだけ売り逃したことかと思わずにはいられない。電子書籍もなかったし……。という辛気臭い話はここまでにして、再読メモの続きだ。今回が最終回のつもり。
●ふと思いついた、この長大な愛と孤独の物語をテーマにAIに絵を描いてもらったらどうなるだろうか。そこでBing Image Creator(DALL-E 3)に「百年の孤独」のイラストを描いてほしいとシンプルにリクエストした。もちろん、そこにはAIがトンチンカンな絵を描いてくるのではないかというイジワルな期待もあったのだが、AIはこんなイラストを作ってくれた。
百年の孤独
●お。おお。おおおーー! なんと、AIは健闘しているではないか。「百年の孤独」が書物であるという理解はもちろんのこと、見逃せないのは黄色い蝶だ。いや、蝶ではない。これは蛾であるはず。物語の内容を知らなければ出てこないモチーフだ。前回、クラヴィコード奏者になったメメ(レナータ・レメディオス)について書いたが、メメが恋に落ちた相手、マウリシオ・バビロニアはいつも黄色い蛾とともに姿を現すのである。映画館のなかでも、教会でも、まず黄色い蛾が飛んきて、そこにマウリシオ・バビロニアがやってくる。メメは抑圧的な母親フェルナンダに隠れてマウリシオ・バビロニアと愛し合う。メメの行いを正すべく、フェルナンダはメメを自宅に軟禁するが、メメは密かに浴室でマウリシオ・バビロニアと会い続けた。

ある晩、メメがまだ浴室にいるあいだに、たまたまフェルナンダがその寝室に入っていくと、息もできないほどの無数の蛾が舞っていた。

恐るべき事態に気づいたフェルナンダは、鶏が盗まれているという理由で警官を呼ぶ。浴室に忍び込もうとしたマウリシオ・バビロニアは銃で撃たれ、一生ベッドから離れられない体になり、以後、思い出と黄色い蛾とともに侘しく年老いる。一方、メメはこの事件以来、老衰で世を去るまで二度と口をきかなかった。
●実はこのときメメは妊娠しており、マウリシオ・バビロニアとの子、アウレリャノ・バビロニアをもうける。アウレリャノ・バビロニアは自分の本当の血筋を知らされずに育てられ、やがて叔母であるアマランタ・ウルスラと愛しあうようになり、ついに「豚のしっぽ」を持った子、アウレリャノが生まれる。「この百年、愛によって生を授かった者はこれが初めて」。
●以前、METライブビューイングで上映されたダニエル・カターンのオペラ「アマゾンのフロレンシア」を紹介したけど(→参照)、あの作品はガルシア=マルケスに着想を得たという触れ込みだった(あくまで原作とは言っていない)。主に着想源となったのは「コレラの時代の愛」だと思うが、蝶のモチーフは「百年の孤独」から取られていたのかと気づく(ホントは蛾だけど、生物学的には蝶と蛾の明確な区別はつかないらしい)。
●終盤のマコンドの町の荒廃と、ブエンディア一族の衰退はなんとも儚い。すでに「豚のしっぽ」を持った子についてのウルスラの警告は忘れられている。メルキアデスの羊皮紙の謎が解け、その題字が「この一族の最初の者は樹につながれ、最後の者は蟻のむさぼるところになる」であることが判明する。この終章と来たら、もう本当に……。長い長い物語の幕切れはこのうえもなく鮮やかだ。そして、寂しい。
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「百年の孤独」再読 記事一覧
ガルシア=マルケス「百年の孤独」再読 その1 水
http://www.classicajapan.com/wn/2024/07/091015.html
ガルシア=マルケス「百年の孤独」再読 その2 近親婚
http://www.classicajapan.com/wn/2024/07/120950.html
ガルシア=マルケス「百年の孤独」再読 その3 くりかえされる名前
http://www.classicajapan.com/wn/2024/07/191033.html
ガルシア=マルケス「百年の孤独」再読 その4 年金を待つ人
http://www.classicajapan.com/wn/2024/07/240955.html
ガルシア=マルケス「百年の孤独」再読 その5 クラヴィコード
http://www.classicajapan.com/wn/2024/08/231038.html
ガルシア=マルケス「百年の孤独」再読 その6 黄色い蛾(当記事)
http://www.classicajapan.com/wn/2024/09/050955.html

August 28, 2024

「バリ山行」(松永K三蔵)

●松本往復のあずさでたっぷり時間があったので、ハイカーたちが大勢いる車内にふさわしい一冊を読んでみた、第171回芥川賞受賞作、「バリ山行」(松永K三蔵著/講談社)。これは傑作。帯に「純文山岳小説」とあるが、もっと言えば「低山ハイキング小説」であり、「藪漕ぎ小説」でもある。本格登山の世界ではなく、里山みたいなところであえて難度の高い道や、道なき道を行くのがバリ山行なのだとか(バリエーションルート、略してバリ)。勤め先の仲間たちと一般的なハイキングルートを楽しんでいた主人公が、あるとき職場で孤立する同僚が毎週末ひとりでバリ山行に挑んでいることを知る。ふたりは行動をともにする機会を得る。
●低山ハイキングでも定められたルートから一歩外れれば、命がけの危険がありうることは、よくわかる。みんなが通るルートから外れるなど、恐怖以外のなにものでもない。うっかり変な道に入って迷い、暗くなったりでもしたら身動きが取れなくなる。あるいは降りれるけどもう登れない場所とか、逆に登れるけど降りるのは無理な場所とか、いっくらでもあるわけで、自分の感覚からするとバリルートなんて勘弁してくれって感じなのだが、そんな山の世界をこれほどの解像度で描けるとは。山の描写がことごとくよい。感嘆するばかり。
●山小説であると同時にこれは会社員小説でもあって、職場にもみんなでいっしょに進むハイキングルートもあれば、藪漕ぎみたいなまったく先の見えない孤独なルートもある。そこをぐさりと抉ってくる。どちらを進むのかという選択はだれしも迫られるはず。会社って、ほんと、こういう場所だよなと思う。

August 23, 2024

ガルシア=マルケス「百年の孤独」再読 その5 クラヴィコード

●(承前)少し間があいたが、ガルシア=マルケス「百年の孤独」(新潮文庫)の再読メモを続ける。物語も終盤に入ったところで、一族をずっと見てきた老齢のウルスラが言う。

時は少しも流れず、ただ堂々巡りをしているだけであることを改めて知り、身震いした。

ブエンディア一族で同じ名前がくりかえされているが、くりかえされているのは名前だけではない。前にも述べたように、反復的な時の流れはこの物語の中心的なテーマだ。
●一方で、一族の外からやってきた登場人物は、しばしば異質な文化をブエンディア家にもたらす。たとえば、フェルナンダ。没落した名家に生まれたフェルナンダはアウレリャノ・セグンドと結婚し、自分の家の風習を強引に持ち込む。やがて生まれた長女はレナータ・レメディオス(メメ)と名付けられる。メメは尼僧たちの学校に通わされ、クラヴィコード(クラビコード)を習う。
●えっ、クラヴィコード? ここはびっくりする場面だ。クラヴィコードといえばバッハやその息子らも愛好した昔の打弦鍵盤楽器。音量が小さく、コンサート用の楽器ではなく、もっぱら家庭用の楽器として言及されるが、19世紀になると忘れられ、その後、20世紀の古楽復興運動により甦る。一般的にはそんな認識だろう。復興したと言っても、録音では聴けても、演奏会で聴くチャンスはなかなかない。そんな楽器が1967年出版の「百年の孤独」に出てくる。メメはなにを弾いたのか。

 やがてメメは勉学を終えた。一人前のクラビコード奏者であるむねを証明する免状が本物だということは、卒業を祝うと同時に喪の終わりを告げるために催されたパーティの席上で、十七世紀の民謡ふうの曲を実に巧みに演奏したことで示された。

これがどんな曲なのかはわからないが、当然、バッハなどを弾くはずはない。検索で見つけたサイト、CLAVICORDIOS HECHOS EN AMÉRICA LATINA を眺めると、どうやら南米各国ではさまざまなクラヴィコードが製作されており、ヨーロッパとはまた違ったクラヴィコード文化が花開いていたようである。ちなみに、このサイトにはチェンバロ奏者のラファエル・プヤーナ(コロンビア出身だ)が所蔵する楽器も載っている。
●もっとも、メメがクラヴィコードを弾くのは音楽への情熱からではまったくなく、単に頑迷な母フェルナンダの不興を買わないためであって、従順な態度の奥にはどす黒い憎悪が隠されている。これに母親は気づいていない。メメはマウリシオ・バビロニアと密かに恋に落ち、ある事件をきっかけに、老衰で世を去るまで二度と口をきかなくなる。(つづく

●おまけ。La Hacienda - Latin American Music On Clavichord (Federico Hernández)

July 24, 2024

ガルシア=マルケス「百年の孤独」再読 その4 年金を待つ人

●(承前)えっ、またその本の話? そう、またその本の話だ。ガルシア=マルケス「百年の孤独」(新潮文庫)だ。再読には初読とは違った味わい方がある。マコンドという蜃気楼のような町で生きるブエンディア一族のなかで、唯一、国家の行方を左右するような並外れた軍事的才能を発揮したのが、アウレリャノ・ブエンディア大佐。だが、大佐は老年期に入るとすべてに幻滅し、世捨て人のようになって、ただひたすら仕事場で魚の金細工を作り続ける。

大佐が戦争と関係のある問題に最後にかかわったのは、約束ばかりでいっこうに実現しない終身年金を承認させるため、両派の旧兵士らがそろって大佐の援助を求めてきたときである。「その件は、あきらめたらどうかな」と大佐は答えた。「みんなも知っているように、わしが年金を断ったのも、じりじりしながら死ぬまで待たされるのがいやだったからだ」

●この一節で思い出すのが、ガルシア=マルケスの初期の代表作である短篇「大佐に手紙は来ない」。以前、「ガルシア=マルケス中短篇傑作選」で紹介したが、これは年金開始の手紙を待っている、ある退役した大佐の物語なのだ。かつて名を馳せた闘士が世間から忘れ去られ、もう食べ物に困るほど困窮し、ただ毎週金曜日になると郵便局に足を運び、年金開始の手紙が届いていないかを確かめる。手紙など来るはずがないのに。かつてガルシア=マルケスは、「大佐に手紙は来ない」を読んでもらうために「百年の孤独」を書かなければならなかったと言ったとか。報われないとわかりながら「いつまでも待ち続ける」というのは、ガルシア=マルケスの小説にしばしば登場するテーマだ。
●「百年の孤独」、初読では読み終えて頭が真っ白になるような衝撃があったが、再読してみると前半はわりと覚えているのに、終盤になるとぜんぜん覚えていないことに気づく。特にフェルナンダと、その子供たちの代は印象が薄い。なぜなのか。(つづく
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●宣伝を。ONTOMOの連載「おとぎの国のクラシック」第12話「眠れる森の美女」が公開中。12回シリーズなので、これが最終回。ご笑覧ください。

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