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Booksの最近のブログ記事

February 25, 2025

「ブックセラーズ・ダイアリー2 スコットランドの古書店の日々ふたたび」(ショーン・バイセル)

●今読んでいる本、ショーン・バイセル著「ブックセラーズ・ダイアリー2 スコットランドの古書店の日々ふたたび」(阿部将大訳/原書房)がすこぶるおもしろい。前作を以前にご紹介したが、著者はスコットランドの「本の街」ウィグタウンの古書店店主。その店主の日記で、毎日、客が何人来て、どれだけ売り上げがあったかが記録され、その日の出来事が綴られる。まったくサクセスストーリーではないし、ビジネス書でもなく、身辺雑記に近い(ブログみたいなもの)。日々の仕事から垣間見える客の変人奇人ぶりや、店員たちの癖の強さがなんともおかしい。そして、著者のいじわるなユーモアセンスが楽しい。
●ほしい本をいくつか探し出してきて、レジで値引きを要求する客の多さには驚くばかり。さらに、まけてもらえないとなったら「じゃあ、買わない」といってレジに本を置いていくのが信じられない。逆に、本を買い取ってほしいと依頼されて車で何時間もかけて査定に行き、時間をかけて値段をつけたのに「そんなんじゃ売れない」と言って断られることもしばしば。この時代、古書の値段は下がるばかりで、がっかりされることも多いのだろう。なんと大変な商売なのかと思うが、著者が日々を楽しんでいることはまちがいない。ただ、読み進めると、パートナーと別れたという記述が出てきて、このあたりはビターテイスト。
●古書店が新刊書店と違うのは、売る側としても買う側としても、値付けをしなければならないところ。印象に残ったのはここ。

 本を買い取るときには貪欲きわまりない人間に出くわす。そして、自分のコレクションを売るときに書店からできるかぎりしぼりとろうとする人間こそ、本を買うときになるとぎりぎりまで値切ろうとするものなのだ。ビジネスという観点からすれば道理にかなっているのかもしれないが、不愉快な態度と言うしかない。公正さという感覚がないからだ。
(中略)
 この種の客はまた、なんとか値引きを勝ち取ったという満足感を得ないかぎり何も買おうとしない人間でもある。取引相手としては最悪だ。そう感じる理由は、結局、彼らは一ポンドでも節約したいと考えているのではなく、権力をふりかざしたいと思っているだけだからだろう。こういう人たちにとっては自分が支配者だと感じることが重要なのであり、相手が骨董商であれ、農家であれ、自動車ディーラーであれ、取引では客に主導権があると思いたいのだ。

これはすごく腑に落ちる話。「取引」は相互補完的なものであるはずなのに、勝負事のように臨んでくる人がいる。
●読んでいる途中で、前作「ブックセラーズ・ダイアリー スコットランド最大の古書店の一年」とは版元も翻訳者も違うことに気づいた。そんなこともあるのか。

January 31, 2025

「光のそこで白くねむる」(待川匙)

●評判になっているのを目にして読んだ、「光のそこで白くねむる」(待川匙著/河出書房新社)。第61回文藝賞受賞作。これはびっくりするほどの傑作。一人称の小説で、東京で働いていた「わたし」が勤め先の土産物屋が閉店になったことを機に、久しぶりに故郷に帰り、墓参りに向かう。そんな枠組みで始まるのだが、ぜんぜん予想もしなかった方向に話が向かい、過去の記憶が掘り起こされるにつれて、「わたし」という人物の歪んだ認知がうっすら浮かんできて戦慄する。閉鎖的な田舎の怖さがある一方で、「わたし」の怖さもあり、でも、それでいて「わたし」に共感したくなってしまうような居心地の悪さが肝か。事実はあやふやだが、物事はひとつの真実で語れるものではないということにも思い至る。ここに描かれる田舎にフォークナーを連想しなくもない。あの「祖母」がいい。
●てっきり語り手の性別を女性だと思い込んで読んでいたが、読後にどちらとも明示されていないことに気づいた。なぜそう思い込んだのか。短い話なので、もう一度読んでみてもいいかもしれない。

January 23, 2025

「チーヴァー短篇選集」(ジョン・チーヴァー)

●文庫化された「チーヴァー短篇選集」(ジョン・チーヴァー著/川本三郎訳/ちくま文庫)を読む。チーヴァーの短篇集は以前に村上春樹訳の「巨大なラジオ / 泳ぐ人」(新潮社)を紹介した。基本テイストはこの「チーヴァー短篇選集」でも同じで、ニューヨーク近郊の住宅地に住む中産階級の人々の孤独と憂鬱が描かれる。「巨大なラジオ / 泳ぐ人」ではリアリズムから逸脱した表題作の2作が強烈な印象を残したが、こちらの「チーヴァー短篇選集」はより現実に即した、ややひりひりとした手触りの話が多い。でも少々手厳しいんじゃないかなと思って読んでいると、予想外の方向からユーモアや不条理が忍び寄ってくる。「美しい季節」とか「父との再会」なんて実におかしい。
●いちばんの傑作は冒頭の「さよなら、弟」かな。この短篇は村上春樹訳の「巨大なラジオ / 泳ぐ人」にも「ぼくの弟」の題で収められていて、異なる翻訳で二度読んだことになる。二度読んで、なおさらおもしろく感じられる。成人した四人兄妹がそれぞれの家族を連れて母親といっしょに夏の休暇を楽しむという話。さあ、休暇に入った、みんなせっかく都合をつけて集まったんだからたっぷり楽しもうぜっ!ていうモードのなかで、久々に顔を出した弁護士の弟だけは打ち解けず、感じが悪い。酒も飲まないし、ボードゲームにも参加しない。雇った料理人に対して、安月給で働きすぎていると憐れんで、相手を怒らせる。弟の妻もあくせくと洗濯をしたりして、休暇を楽しむ様子ではないし、子供たちも委縮していて場になじめない。で、家族みんながだんだんこの弟が嫌いだということを思い出す。そんなくだらない遊びよりもっとやるべきことがあるだろうみたいな態度があからさまで出ているのだ。
●この短篇の秀逸なところは、そんな嫌なヤツを描いているにもかかわらず、読み手である自分は弟のほうに共感してしまう、っていうことなんすよね。最後に主人公は弟に対して怒りを爆発させて、それがまた笑ってしまうくらいスカッとする場面なんだけど、それでもなお弟側に共感して読んでいる自分に気づく。
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●宣伝を。ONTOMO連載、五月女ケイ子の「ゆるクラ」が久々に更新。第13回のテーマは「推し活」。お助けマンとして参加中。

January 16, 2025

「ママは何でも知っている」のオペラマニア殺人事件

●ジェイムズ・ヤッフェ著のミステリに「ママは何でも知っている」(小尾芙佐訳/ハヤカワ・ミステリ文庫)という短篇集がある。いわゆる安楽椅子探偵(アームチェア・ディテクティブ)もののシリーズで、主人公は刑事なのだが、いつも事件の解決役はそのママ。ママが息子から話を聞いただけで、事件を解決してしまうという趣向の短篇が並ぶ。アイザック・アシモフの「黒後家蜘蛛の会」シリーズでいえば老給仕ヘンリーの役柄を、ここでは「ママ」が担っている。
●そのなかの一篇「ママ、アリアを唄う」では、ニューヨークのメトロポリタン・オペラが事件の舞台となる。ママは土曜日の午後のメトロポリタン・オペラのラジオ中継は欠かさず聴くというオペラ・ファン。そのママに向かって、息子である刑事が事件のあらましを話す。事件の登場人物となるのは、長年対立してきたオペラマニアの老人ふたり。ひとりはコーエン、もうひとりはダンジェロ。ふたりは立見席の常連で、熱狂的なオペラ・ファンなのだが、ことごとく趣味が合わない。刑事である息子はこう語る。

コーエンとダンジェロの口論は近年はとみに激しさを加えていたそうなんだ。全世界のオペラ・ファンのあいだで議論沸騰している論争が、ふたりの仲を悪化させていた。現存のソプラノでもっとも偉大なのはだれか──マリア・カラスかレナータ・テバルディか?

●ダンジェロはテバルディ派。コーエンはカラス派である。

ダンジェロはある日こう宣言した、テバルディはかぐわしい、カラスの声はおんどりだ──すぐさまコーエンがやり返した、カラスは神々しい、テバルディの歌はひびの入ったレコードだ。

一般向けのミステリ小説で、登場人物がこんなケンカをしているのだ。カラスが「椿姫」を歌ったときなど、ダンジェロは「カラスのへたくそ椿姫を聴かずにすめば、一生幸せに暮らせる。今晩ここにやってきたのは、テノールのリチャード・タッカーを聴くためだ」とまで言う。で、後日、テバルディが「トスカ」を歌った際に、コーエンが劇場で急死する。毒殺されたのだ。刑事である息子は、犯人はダンジェロにちがいないと考えるが、ママは……というお話。
●これを読んで、いったいいつ書かれた小説なのかと奥付を見たら、マルC表示は1952年から1968年にかけて。カラスがメトに初めて出演したのが1956年なので、その頃に書かれたものだろうか。時代の空気が伝わってくる愉快なミステリ。

January 7, 2025

「小説」(野崎まど)

●年末年始に読んだ本その2。野崎まど著「小説」(講談社)。ほぼ予備知識なしで手にした一冊だが、途中からまったく予測していなかった方向に話が進んで、心底驚いた。だいたい小説のタイトルが「小説」。なんという豪胆なネーミングなのかと思ったが、読めば納得できる。たいへんおもしろい。
●テーマは小説そのもの。小説を読むことに魅入られた若者が、小説を通じて生涯の友と出会う。ともに本の世界にしか居場所を見つけられない不器用な若者同士。序盤の展開に藤本タツキ「ルックバック」を連想したのだが、やがて小説についての小説になるという点でモアメド・ムブガル・サールの「人類の深奥に秘められた記憶」を思い出し、最後はとある名作みたいだなと思った。渾身の一作であるにもかかわらず、話が長くなくて読みやすいのは大吉。ジャンルで括ってはいけないタイプの小説だと思う。

January 6, 2025

「なんでかなの記」(濱田滋郎著)

●年末年始に読んだ本を。「なんでかなの記」(濱田滋郎著/言言句句)。2021年に86歳で世を去った音楽評論家の濱田滋郎先生の自伝。あまりにおもしろくて、読みだしたら止まらなくなってしまった。濱田先生の印象といえば、音楽への純粋な愛情にあふれ、一切偉ぶることのない人。だれもから尊敬される人だったと思う。クラシック音楽全般に対して該博であり、とりわけスペイン音楽についての知識と理解は右に出る者がおらず、スペイン語も堪能だった。昔、雑誌編集者時代にアリシア・デ・ラローチャのインタビュー取材に同行したことがあったが、濱田先生とラローチャは旧知の間柄といった様子でごく自然にスペイン語で会話をしていた。こういう場合、通訳不在になるので、そばにいる自分は会話の内容がまったくわからない。テープレコーダーのスイッチを入れたら後はお任せするしかない。
●でも、濱田先生はなぜスペイン語ができるのか。自分はそれまでに何度か原稿をお願いしていたにもかかわらず、先生の経歴をまったく知らなかった。すでに著名な先生だったので、気にもならなかったのだ。きっと幼少時にスペインで暮らしていたとか、あるいはお顔立ちからするとスペイン系の血が入っているのではないかとか、そんな勝手な想像をしていたのだが、この本を読んで本当に驚いた。濱田先生のスペイン語は独学なのだ。日本にいて本で学んだという。日比谷高校を健康上の理由で中退し、スペイン音楽が好きだからとスペイン語の入門書で学び、セルバンテスの「ドン・キホーテ」を原文で読破し、やがて翻訳をするようになった。その後、スペインの音楽家たちとの交流を通して、それまで自信がなかった会話能力を磨いたというのだ。初めてスペインを訪れたのは48歳になってから! もちろん、その頃にはすでに評論でも翻訳でも豊富な実績を積んでいた。初めてスペインに足を踏み入れ、そこで「懐かしさ」を感じたという記述は本書のハイライトだろう。
●若い頃の文筆の仕事で一本立ちするまでの経緯も率直に書かれていて、実に興味深い。まだあまり仕事がなく、奥さんの失業保険を頼りに暮らしていた頃、コロムビア・レコードの「スペイン民俗音楽大系」の解説と歌詞の翻訳の仕事が舞い込み、この仕事に尽力したことがきっかけで他社からも声がかかり、30代でようやく生計を立てていけるようになったという。「当時の収入の大半を占めたレコード解説、歌詞対訳の仕事ですが、現在ではおそらくありえないことで、この点からも私は時代に恵まれたのでしょう」と記されている。たしかに当時は今とは比較にならないほどレコードの仕事がたくさんあった。でも、濱田先生の場合、時代が違えばまた違った種類の仕事がどんどんやってきて、〆切に追われる身になったんじゃないだろうか。
●本のおしまいのほうに、家族日記の一ページが公開されている。この濱田先生の筆跡が懐かしかった。原稿用紙の升目いっぱいに文字を書くスタイルで、読みやすい筆跡だった。

December 27, 2024

シェイクスピアの「ハムレット」には有名曲がない

●「生きるべきか、死ぬべきか。それが問題だ」「尼寺へ行け!」「復讐するは我にあり」「弱き者、汝の名は女」。名言がたっぷりつまってるけど、シェイクスピアの「ハムレット」にはオペラの名作がない。トマのグランドオペラ「ハムレット」は当時大成功を収めたそうなんだけど、今ではめったに上演されない。管弦楽曲としてもチャイコフスキー、リスト、プロコフィエフ、ショスタコーヴィチが「ハムレット」を書いてるが、ビッグネームがそろってるわりには、どれも有名曲とはいいがたい。「ロメオとジュリエット」や「真夏の夜の夢」「ウィンザーの陽気な女房たち(ファルスタッフ)」に比べると、「ハムレット」の音楽化はなかなか難しい様子。でも、ストーリーはかなりおもしろいと思うんすよね。
●で、先日、NHK「100分de名著」の「シェイクスピア ハムレット 悩みを乗り越えて悟りへ」(河合祥一郎著)を読んで、自分が「ハムレット」をぜんぜんわかっていなかったことを思い知った。たとえば、ハムレットって、優柔不断なひょろっとした男子みたいなイメージでとらえがちじゃないすか。でも、それは伝統的な誤解ともいうべきもので、父王を殺されたハムレットが復讐を逡巡するのは、父の亡霊が本物なのか、それとも悪魔なのかを迷ってるからだ、って言うんすよね。実際、シェイクスピアのテキストにそう書いてある。で、なるほどと思ったのはこの話。

実はここには、カトリックとプロテスタントという、当時の宗教問題が関係してきます。亡霊という存在を認めるのはカトリックだけで、プロテスタントでは死者の亡霊などというものは認めていません。プロテスタントの見方からすれば、これは悪魔が見せる幻影ということになります。つまりハムレットは、カトリックとプロテスタントのあいだで揺れているという解釈もできるのです。

自分は日本的な感性から「父王の亡霊」という存在をあまりにすんなりと受け入れてしまい、ハムレットの迷いがぜんぜんピンと来ていなかった。このカトリックかプロテスタントか、という問題がひいては中世的な情熱か近代的な理性かという選択肢につながってくるというのだ。ハムレットの周りにいる登場人物では、レアーティーズが情熱の人、ホレイシオが理性の人という対比がある。
●もうひとつ、びっくりしたのがこの話。シェイクスピアの劇は近代演劇とは違うという文脈で、こう記されている。

当時はそもそも役者に台本すら配らなかったのです。著作権のない時代ですから、金に困った役者が台本を別の劇団に売って、儲けようとしたら困るからです。ではどうやって稽古をしたのかといえば、役者ごとに台詞ときっかけだけを写した書き抜きを配りました。つまり役者は相手役の台詞も知らないし、通し稽古で初めて芝居の全貌を知るということになります。それぞれに自分の台詞だけが書かれた巻物(roll)を持って稽古したので、のちに役のことをロール(role)と呼ぶようになったのです。

わわ、これ知ってた? 読んでいて思わずのけぞった。「ロール」って、そういうことだったんだ。あと、役者が受け取る「ロール」って、オーケストラの「パート譜」みたいだなと思った。

December 26, 2024

「日本生まれのインド人、メタ・バラッツのスパイスカレーユニバース」

●えっ、ウソでしょ……わわ、ホントに無料だ! 期間限定なのかどうかもわからないのだが、Kindle本の「日本生まれのインド人、メタ・バラッツのスパイスカレーユニバース」(インターネットオブスパイス)が無料で提供されている。これがスゴいのだ。なんと、全1700ページ(!)を超える膨大なカレー・レシピ集。レシピは400種類以上あるだろうか。で、サンプルを見てもらえばわかるように、デザインも写真もしっかりしていて、書店に並んでいてまったくおかしくないクオリティ。
●これがなぜ無料なのか、さっぱりわからないのだが、開いてみると前書きがいきなりパンチの効いた一言で始まる。著者のメタ・バラッツさんは言う。

スパイスを使えるようになれば何にでもなれるしどこにでもいける。

なんだか、ぐっと来る詩的な一言だ。スパイスを使えるようになりたいぜー。
●なんとなく置いてみる、カレーラス「ザ・グレイテスト・ヒッツ50」(唐突すぎ)。

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