ドミノ・ピザ

Booksの最近のブログ記事

February 20, 2018

「巡り逢う才能 音楽家たちの1853年」(ヒュー・マクドナルド著/春秋社)

●「巡り逢う才能 音楽家たちの1853年」(ヒュー・マクドナルド著/春秋社)を読んでいる。装画はおなじみIKEさん。これは1853年という一年間に起きた音楽史上の出来事を描いた一冊で、当時の音楽家たちの交流の軌跡を追った「水平的な伝記」(うまい表現だ)。1853年というと、シューマンに見出されたブラームスが作曲家としてデビューし、ワーグナーは「ニーベルングの指環」の作曲に着手したという年。ブラームス19歳、ヨアヒム21歳、シューマン42歳、ワーグナー39歳、リスト41歳、ベルリオーズ49歳。これら作曲家の生涯を年代を追って垂直的に描くのではなく、水平的に一年間を切り取るというのは実に秀逸なアイディア。そして一年間の密度の濃さにもくらくらする。これは以前にも何度か書いていることだけど、変化の緩やかな現代と違って19世紀は(音楽史的な見方でいえば)ギュンギュンと世の中が猛スピードで動いていた。
●巻頭の「はじめに」で指摘されているのは、当時の芸術家たちの活発で密度の濃い交流を可能にしたのは郵便と鉄道という二大技術の発達だということ。1853年には欧州の郵便システムは成熟しており、速く確実に郵便が届くようになったばかりか、大都市では一日に3回以上も配達が行われたという。「午前中に郵便を送れば、午後に返事が返ってくることもあった」。すげえ。ヨドバシカメラのエクストリームサービス便もびっくりの速さである。いまの東京じゃ、郵便なんて一日に1回しか配達してくれないっすよ? ていうか、一日3便なんてもうメール感覚じゃないすか。現代とは桁違いにトラフィックが小さかったからこそ可能だったのだろうけど、こういった19世紀のスピード感をワタシらは見くびりがちだと思い知る。
●ベルリオーズがかわいそうなんすよ。彼がフランスでは認められず、もっぱら外国で評価されていたという話はよく目にするが、この年、ロンドンでオペラ「ベンヴェヌート・チェッリーニ」が上演されることになった。かつてパリの初演では散々だったオペラをロンドンで上演して巻き返そう。そんな好機が到来したにもかかわらず、客席では組織的らしき妨害行為が行われて、またしても無残な結果に終わってしまう。もう49歳にもなってて、まだこんな目に合わなければならないとは。このとき臨席していたヴィクトリア女王の言葉が強烈なので引用する。

 およそこれまでに作曲されたオペラの中で、もっとも魅力がなく、もっともくだらない作品だと感じた。メロディーらしいものはかけらもなく、支離滅裂でこのうえなく混乱した音は、不安をかきたてる騒音にしか聞こえない。まったく、犬や猫のたてる騒音と比べるのがちょうどよいくらいの音楽だ!

どんな辛口批評家もここまでは書けない。っていうか、むしろある種の文才を感じる。
●じゃあ、ベルリオーズが支離滅裂だとすると、当時のロンドンで歓迎されていたのはだれかというと、シュポア。安心して聴けると評判だったシュポアの交響曲がどんなものかと、試しに本書で言及されているいくつかの曲を少し聴いてみたが、起伏に乏しくて聴き続けられない。展開力が足りないというか、いつになっても前に進まないというか……。

January 24, 2018

「いくさの底」(古処誠二著/KADOKAWA)

●「このミス」で上位に入っているのを見て年末年始に読んだ「いくさの底」(古処誠二著/KADOKAWA)なんだけど、なんとなく気になって、途中から拾い読みで再読してしまった。とてもよくできたミステリで、再読すると「あ、なるほど、だからここはこんなふうに書かれていたのね」ともう一度味わうことができる。舞台は第二次大戦中のビルマの小村。この山岳地帯の村に警備駐屯することになった日本軍に、通訳として主人公の民間人が同行している。隊の少尉が何者かによって殺され、いったいだれがなんのために、というところから話がスタートする。戦時下の特異な状況を背景にした謎解きが鮮やかで、戦争小説としてもおもしろい。血なまぐさい戦闘シーンは一切なく、むしろ戦闘が起きていないときの戦場の描き方として秀逸。
●特異な状況を設定して閉鎖的な人間集団を描くという点では先日の「屍人荘の殺人」と同じなんだけど、あちらがジャンル小説のパロディ的な装いをまとっているのに対して、こちらは真に迫ったタッチ。実質的な探偵役ともいえる「副官」が、ずっと物語の背景にいたまま真相に迫るという趣向も吉。

January 10, 2018

写真集 Moving Music / Die Berliner Philharmoniker & Sir Simon Rattle(モニカ・リッタースハウス/Alexander Verlag Berlin)

●うーむ、これは立派な写真集だ。ズシリと重い1650gの Moving Music / Die Berliner Philharmoniker & Sir Simon Rattle。つまりベルリン・フィルの写真集なんである。スゴくないすか。歌手の写真でもなく、指揮者の写真集でも(ほぼ)なく、オーケストラの写真集。写真家はモニカ・リッタースハウスという人で、昨年のラトル&ベルリン・フィル記者会見にも随行していて、壇上から紹介されていた。10年以上にわたって、本番からツアー、舞台裏に至るまで、さまざまな場面でベルリン・フィルのメンバーを撮影している。アジアも含めて世界各地を訪れるベルリン・フィルの姿がここに。もちろん、ラトルも撮影されているし、ほんの少しだけ客演指揮者も写っているが、主役はオーケストラ。ワタシの感覚としては、これはかなり作家性の感じられる写真集で、一枚一枚の写真がとても雄弁で、かつ美しくデザインされている。写真から漂うテーマは、プロフェッショナリズム、チームワーク、神秘性、ユーモア、スター性、孤独、そして喜びといったところだろうか。こんなによくできているんだから、表紙と背表紙に写真家の名前を入れてくれればよかったのに(扉には入っている)。
●今のベルリン・フィルを見ていると、歌手がスターの時代、ソリストがスターの時代、指揮者がスターの時代に続いて、オーケストラがスターの時代が来つつあるという気配をうっすらと感じる。その場合、個のプレーヤー(コンサートマスターや首席奏者)ではなく、オーケストラそのものがスターになるはずという確信を、この写真集は抱かせる。
●たとえば、今日からベルリン・フィルとウィーン・フィルのメンバーが全員総とっかえしたとして、昨日までベルリン・フィルのファンだった人はどっちのファンになるか。え、そんなのウィーン・フィルのファンになるに決まってるって? いやいやいや、そうとも限らないんでは。つまり、マリノスとFC東京の選手が全員総とっかえしたとしても、ワタシはマリノスのファンであり続けることは確実なんすよ。プレーヤーの継続性より、クラブのアイデンティティのほうが優先される領域なので。

January 9, 2018

ミステリ批評家ハロルド・ショーンバーグ

●ハロルド・C・ショーンバーグといえばニューヨーク・タイムズで長年活躍した高名な音楽評論家。日本でも「ピアノ音楽の巨匠たち」をはじめ著書が翻訳されているが、著書を読まずとも名前をどこかで目にしているクラシック音楽ファンは多いはず。が、この人が同時に覆面ミステリ批評家としても活動していたことを知っているだろうか。ワタシは偶然知ったのだが、ニューゲイト・キャレンダーの筆名で同じニューヨーク・タイムズのミステリ書評を担当していたというんである。
●どうやってそれを知ったかというと、 ドナルド・E・ウェストレイク著の「踊る黄金像」(木村仁良訳/早川書房)の訳者あとがきにそう書いてあるのを見つけたから。こんな記述だ。

ホセとエドワルドとペドロが飛行機に乗っているとき、「台詞にSの音がないのに、非難の歯擦音を出すのは人間にとって不可能だが、エドワルドはその不可能を実行」する。Sなしの歯擦音を出す(ヒス)は不可能だとしつこく主張しているのは、「ニューヨーク・タイムズ・ブック・レヴュー」のミステリ書評子ニューゲイト・キャレンダーである。キャレンダーはいちおう覆面書評子だが、その正体は音楽評論家のハロルド・シェンバーグなのだ。ミステリ小説の中で音楽や音楽家の話が出てくると、ミステリのことなどはそっちのけで、音楽関係の間違いをアラ捜しする……
(ええい、率直に言ってしまおう)キラワレ者である。

●と、こんな感じで書かれていて、ミステリ批評家としての芸風もなんとなく伝わってくる。Wikipedia英語版でのハロルド・シェンバーグの項によれば、20年以上もニューゲイト・キャレンダー名義でミステリ書評をしていたというのだから、この分野でも十分に実績豊富といっていい。ニューゲイト・キャレンダーという筆名もなんだかいわくありげ。チェス・プレイヤーとしても大した腕前だったというから、ずいぶんとなんでもできる人である。

January 4, 2018

「屍人荘の殺人」(今村昌弘著/東京創元社)

●デビュー作で「このミステリーがすごい!2018年版」第1位、「週刊文春」ミステリーベスト第1位、「2018本格ミステリ・ベスト10」第1位の三冠を達成してしまった「屍人荘の殺人」(今村昌弘著/東京創元社)。あまりの評判のよさにつられて読んだが、これはもう驚愕の一冊。大学ミステリ研の登場人物たちが、「雪山の山荘」ならぬ夏合宿のペンションで外界から閉ざされた環境に置かれ、そこで密室殺人が起きる。文体や人物描写もまったくジャンル小説的で、古典的な本格ミステリのパロディのように始まるのだが、途中で世界が一変してしまう。登場人物のひとりにまるでワタシ自身のような人が出てきて、これは自分のために書かれたミステリとしか思えなかった。
●で、うっかりamazonのカスタマーレビューを読むとぜんぶネタバレを書いている困った人がいるので、版元の紹介文を読んで買うと決めたらさっさと買うのが吉。自分は本格ミステリ・ファンではないので、トリックに関してはいくらよくできていても「んなことするヤツがいるかよ」と突っ込まずにはいられないのだが(エレベーターのあれとか)、それでもまったく問題なく楽しめた。ミステリ側からだけではなく、別のジャンルの側から眺めたときにもクラシカルなテイストがあって、読みたかったのはこれだ!と快哉を叫びたくなる。爽快。

December 27, 2017

「ブレードランナー2049」で「ピーターと狼」と「青白い炎」

●先日の映画「ブレードランナー2049」の話の続き。この映画とナボコフの「青白い炎」との結びつきが話題になっている。主人公のレプリカントは任務を終えて帰還するたびにメンタルテストを受けて、そこでよくわからないキーワードのようなものを連呼するシーンがあるのだが、あれがナボコフの「青白い炎」からの引用なんだとか。この「青白い炎」というのが一筋縄ではいかない怪作で、架空の詩人による長篇詩に架空の学者による膨大かつ詳細な注釈が添えられたという構成を持つメタフィクション。本編である長篇詩より注釈のほうがはるかに長い。
●ワタシは未読なんだけど、仮に「青白い炎」を読んでいたとしても、映画を見て引用に気づくなんてことは不可能だったと思う。映画での字幕と訳文は異なるが、おそらくこの部分だと思われるところを、岩波文庫の「青白い炎」(ナボコフ著/富士川義之訳)から引用しておこう。

一個の主要細胞内で連結した細胞同士を
さらに連結した細胞内でさらにそれらを連結した
細胞組織を。そして暗黒を背景に
恐ろしいほど鮮明に、高く白く噴水が戯れていた。

●ちなみにこの長篇詩、ここだけ見るとなんとも小難しそうだが、たとえば「地方紙『スター』からの珍しい切り抜き。レッド・ソックス、5対4でヤンキースをくだす/チャップマンのホーマーで」なんていう、妙にローカルな一節も出てくる。
●さて、「ブレードランナー2049」にはクラシックの名曲が一曲登場する。主人公が携帯する情報端末から、ときおり聞こえる通知音が、プロコフィエフの「ピーターと狼」の冒頭主題なんである。これは主人公の恋人であるAIのジョイの起動音みたいなもので、全編を通じてなんども聞こえてくる。この映画にはナボコフだったり、タルコフスキーへのオマージュだったり、プロコフィエフだったりと、ロシア的な題材がちらちらと見え隠れするのだが、それにしてもどうして「ピーターと狼」なんだろう。「ピーターと狼」のあまりに簡潔なストーリーに重要な意味があるとは思えないので、ひとつにはこれが動物の音楽だから、ということがあるのだろう。先日も書いたが、おおもとの原作であるディックの「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」で描かれるように、この世界では動物はほぼ絶滅しており、超貴重品。だから羊だったり馬だったりといろんな動物モチーフが意味ありげに登場する。ロシアの動物の曲といえばこの曲。主人公ピーターが小鳥やアヒル、猫、狼たちに囲まれているという図式は、非人間だらけのこの映画と重なるところがある。
●もうひとつは、この組曲では各楽器がキャラクターを担っていて、フルートは小鳥、オーボエがアヒルで、クラリネットが猫、ホルンが狼を意味する。この情報端末が鳴らすのは冒頭主題、つまり弦楽器によるピーターの主題。だからこの情報端末という楽器 instrument にジョイという人物の役割をあてがっている、とも解釈できる。

December 21, 2017

「機巧のイヴ」(乾緑郎著/新潮文庫)

●昨日の「ソラリスとブレードランナー2049」の話の続きだが、そういえば「人間のようでいて人間ではない者」の話を最近読んだなと思い出したのが、乾緑郎著の「機巧のイヴ」(新潮文庫)。これは舞台設定が秀逸で、時代小説の枠組みを借りたアンドロイド小説とでもいえばいいのだろうか。江戸のようでいて江戸ではない世界を舞台に、機巧師と呼ばれる男と、精巧な機械でできているが人間とは見分けのつかない美女、伊武(イヴ)の物語が描かれている。スチームパンク的な「懐かしい未来」を和風でひとひねりした感じ。連作短篇集の形になっていて、とてもおもしろく、かつ読みやすい。
●この男女のキャラクターは、「ブレードランナー2049」の主人公とAIのカップルとはまるで違っているのだが(なにせ時代小説なので)、しかしどこかP.K.ディックを思わせるところもある。たとえば、闘蟋というコオロギを戦わせる競技が出てくるのだが、そこに機械でできた人造コオロギが紛れ込んでいるらしい……などといった筋立ては、「ブレードランナー」の原作「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」に一脈通じる。「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」の世界では人間以外の動物は超貴重品で、昆虫一匹に至るまで「本物」は保護されており、人々は本物の代わりに「電気羊」のような精巧なイミテーションに甘んじている(昆虫ですら「本物」の命は尊いのに、感情や知性を持ったレプリカントの命には微塵も価値が認められていない、という対照が原作にはある)。
●機械の女性に恋をするといった話は昔からいくつもあるだろうが、オペラならオッフェンバックの「ホフマン物語」だ。詩人ホフマンはオランピアが自動人形であると知らずに恋に落ちる。これも「機巧のイヴ」がそうである程度にはSF伝奇ロマンといってもいいような話(ちょうど2月に新国立劇場でフィリップ・アルロー演出の再演がある)。ここでのオランピアはいかにもゼンマイ仕掛けの「機械」なのだが、これを「ブレードランナー2049」のAIみたいに今風に進化させた演出がどこかにあってもおかしくない。

December 20, 2017

「ソラリス」と「ブレードランナー2049」

●今、NHK Eテレの「100分 de 名著」でスタニスワフ・レムの「ソラリス」がとりあげられている。全4回の第3回まで見たが、大変おもしろい。ゲストは「ソラリス」の訳者でロシア・東欧文学研究者の沼野充義氏。実のところ原作「ソラリス」を読んだのは大昔の旧訳なので内容はずいぶん忘れていたのだが、これをきっかけに新訳で再読したくなる。惑星ソラリスの探査に赴いた科学者たちは、そこですでに亡くなっている恋人など、そこにいるはずのない人物と出会い、自身の正気を疑う。どうやらそれらはソラリスの海が人間の深層意識から生み出した存在のようなのだが、人間にはソラリスの海とコミュニケーションをとる手段がない。絶対的に相互理解不能な他者を描いたのが「ソラリス」……と記憶していたのだが、番組を見ていて主人公と元恋人(しかし実体はソラリスの海が作り出した何か)との間の物語を思い出した。
●ここで登場する元恋人ハリーは、一昔前ならお化け屋敷にあらわれる幽霊あたりで済んだところだろう。死んだ者がよみがえる話は珍しくない。しかしハリーを異星の海が作り出した存在とすることで、レムはこの幽霊に葛藤させてみせた。最初は主人公がハリーとは何者かと畏れ、苦悩する。人間とそっくり同じ姿形をしていて、人間としての思考も感情も持っているハリー。主人公はやがてその存在を受け入れることにしてしまう。ところが、こんどはハリーが「自分とは何者か」と問いかける。自分は実体のない、ただの幽体なのか。自分の存在が恋人を苦しめてしまっていることに悩み、自己犠牲を決断する……。
●で、はっとしたのは先日映画館で見た「ブレードランナー2049」とのシンクロニシティ。「ブレードランナー」ももともと非人間=レプリカントの物語だった。原作のP.K.ディックとレムとの間にテーマの共通性があることは不思議でもなんでもないが、ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督による「ブレードランナー2049」では、主人公がレプリカント、その恋人が物理的実体を持たないAIとして描かれていた。このAIはクラウド上の存在で、ネットワークにつながっていればどこからでも呼び出せるわけだが、「ソラリス」で「海」として描かれていた知性が、昨今風のクラウド、つまり「雲」と比喩されるところにあるのがまずおもしろいところ。もうひとつは主人公レプリカントの最後の場面での決断だ。彼はもっとも人間らしい行為として、ある種の自己犠牲を果たす。自己犠牲こそが人間とそれ以外を分け隔てるものだ、というのである。ここに「ソラリス」でのハリーの姿が重なってくる。
●音楽ファンにとって自己犠牲といえば、まっさきに思い出すのはワーグナー「神々の黄昏」の「ブリュンヒルデの自己犠牲」。ブリュンヒルデの場合は半神半人か。ドキッ! 非人間だらけの自己犠牲大会。もっともブリュンヒルデは神性を失っているから、人間扱いとすべきだろうか。

このアーカイブについて

このページには、過去に書かれたブログ記事のうちBooksカテゴリに属しているものが含まれています。

次のカテゴリはDiscです。

最新のコンテンツはインデックスページへ。過去に書かれた記事はアーカイブのページへ。

2018年2月: 月別アーカイブ

ショップ