ドミノ・ピザ

Booksの最近のブログ記事

April 11, 2018

「亡命」の音楽文化誌 (エティエンヌ・バリリエ著、西久美子訳/アルテスパブリッシング)

●今年のラ・フォル・ジュルネTOKYOの日仏共通オフィシャルブック「『亡命』の音楽文化誌」(エティエンヌ・バリリエ著/アルテスパブリッシング)を読んだ。とてもおもしろい。昨年の「ダンスと音楽 躍動のヨーロッパ音楽文化誌」や一昨年の「ナチュール 自然と音楽」と同様に、今回も音楽祭のテーマと連動したテーマで書かれた読み応えのある音楽書。音楽祭の実用的なガイドブックでもなければ初心者向けの入門書でもなく、「亡命」を切り口にした音楽史の本であって、音楽祭が終わった後もまったく価値が減じることのない一冊。でも、これをあらかじめ読んでおけば、LFJをいっそう深く楽しめることはたしか。過去2年の公式本と比べても、今回の本がいちばんリーダビリティが高く、ページをめくる指が止まらない。
●リュリやスカルラッティといったバロック期の「幸せな故郷喪失者」たちから、ショパンやワーグナー、さらに20世紀の数多くの作曲家たちを巡る亡命をキーワードにした作曲家論で、ざっくりとした大枠でいえば、祖国を去った作曲家たちの運命は案外悲劇的なものばかりでもないし、亡命が作風に与える影響というのも不確かなことが多いというあたりが印象的。でもそれ以上に個別の作曲家のエピソードが興味深い。ハリウッドでのシェーンベルクのスピーチにある「私が祖国を追われたのは、神の恩寵です。私は楽園へと追放されたのです!」の一言はなかなか味わい深い。スペインに渡ったスカルラッティが、法的な文書に「ドミンゴ・スカルラッティ」と署名していたこと、アメリカに渡ったクルト・ヴァイルがもう英語でしか話さないと決意し、やがて「英語でしか夢を見なくなった」と誇らしげに述べたこと、シェーンベルクがMGMからパール・バックの映画「大地」の作曲を依頼された際に、あえて5万ドルの報酬をふっかけて断念させたこと(そのくせ映画のためのテーマをいくつか下書きしていたというのがおかしい)等々。アメリカに渡ったラフマニノフがピアニストとして経済的に成功し、多くの同胞たちを助けていたことは知られているが(グラズノフとか)、そのなかにナボコフの名前もあったとは。
●プロコフィエフのストーリーはほかで読んだことのある方もいると思うけど、ソ連に帰国後に外国人である最初の妻が強制労働収容所に送られることになった経緯や、いったんは祖国を離れながら最悪とも思えるタイミングで帰国してしまった事情などを読むにつけ、この人の創作者としてのエゴイストぶりと政治に対する危険なほどの軽視が伝わってくる。彼が「自伝」で描いた自画像と重ね合わせると吉。
●アメリカ楽壇からの無反応ぶりにシェーンベルクがコープランドをスターリン呼ばわりして非難していたというのも相当におかしい。

March 1, 2018

「ウィーン・フィル コンサートマスターの楽屋から」(ウェルナー・ヒンク)

●ウィーン・フィルのコンサートマスターとして長年活躍したウェルナー・ヒンクの語り下ろし本「ウィーン・フィル コンサートマスターの楽屋から」(小宮正安構成・訳/アルテスパブリッシング)を読んだ。往年の名指揮者たちとのエピソード(クライバー、ショルティ、ベーム、カラヤン、バーンスタイン等々)、ウィーン国立歌劇場とウィーン・フィルでの多忙の日々、ウィーン弦楽四重奏団をはじめとする室内楽活動の喜び、自らの生い立ちなど、さすがにこれだけのキャリアを誇る人だけあって逐一おもしろい。ヒンクの語り口は古き良き時代を振り返るといった趣きで、暖かく、決して攻撃的にならない。センセーショナルな要素には乏しいのだが、心地よく読書の楽しみにふけることができる。有名なエピソードもあれば、ここで初めて知ったことも。クライバーやバーンスタインとは対照的にショルティがレコーディング・セッションで才能を最大に発揮する指揮者だったという話などは、よくいわれることかもしれないが、コンサートマスターという当事者だからこその説得力がある。まったく別の本で、ショルティが「ウィーンでいちばん好きな場所は(帰るときの)空港だった」と語っていたことを思い出すと、一段と味わい深い。
●印象的なエピソードはたくさんあるのだが、ニューイヤー・コンサートの舞台裏についての話を読んで納得。ニューイヤー・コンサートって、中継だとよくバレエが入るがじゃないすか。あれって、バレエは生じゃないっぽい(と、見てるとわかる)。でも演奏はぴたりとバレエに合っている。どうやってるのかなーと思ってたんだけど、演奏はあらかじめ早い段階で録音しておいて、それに合わせてダンサーが踊った別録をテレビで流しているんだとか。つまり、バレエが入る曲では、常にテレビの視聴者は会場での実際の演奏を聴くことができないんである。会場では別の演奏が流れている……。すると疑問がわく。そんなことはめったにないだろうけど、もしも指揮者が本番で事前の録音とぜんぜん違うテンポで指揮したら、曲が終わるタイミングが映像と合わないのでは? まさにそんなアクシデントが起きたのが2008年のジョルジュ・プレートル。事前収録よりもずっと遅いテンポで指揮をしてしまい、実際の演奏のほうが1分以上長くなってしまったんだとか。ということはテレビ中継では、バレエが終わった後もカメラが会場に「戻る」ことができなかったわけだ(まだ演奏が続いているんだから)。あれはどう処理したんだろうか。
●1982年にマゼールがウィーン国立歌劇場の総監督に就任して「ブロックシステム」を導入したことについての話もおもしろかった。従来はレパートリー公演をリハーサルなしのぶっつけ本番でやっていたのを、マゼールは数週間のスパンで3~5演目を固定化して日替わりに舞台にかける方式を採用した(今もそうなっていると思う)。これをヒンクは大変ありがたかったと回想している。なにせこれなら練習時間も取れるし、ぶっつけ本番のリスクもなくなるし、コンサートマスターならずともオーケストラの楽員にとっては負担が軽くなるに決まっているわけだが、ワタシのうっすらとした記憶では当時この「ブロックシステム」に対しては批判の声が大きくて、マゼールが強引に主張を通したかのような印象すら受けた。あれはなにをもめていたんだろうか。
●短い記述だけど、存命中のショスタコーヴィチに会った話も興味深い。自身がソ連を訪れたときの聴衆の冷たく異様な無反応ぶりから、ショスタコーヴィチの面従腹背ぶりをただちに理解して、ウィーン弦楽四重奏団の主要レパートリーにショスタコーヴィチ作品を加えたという。伝えられるべき時代の証言のひとつ。

February 27, 2018

続・「巡り逢う才能 音楽家たちの1853年」(ヒュー・マクドナルド著/春秋社)

先日当欄でご紹介した、ヒュー・マクドナルド著「巡り逢う才能 音楽家たちの1853年」を読んで印象的だったことをもう一つ。この本は1853年というわずか一年に焦点を当てて、リストやワーグナー、ベルリオーズ、ブラームス、シューマンといった音楽家の伝記を「水平的に」描いているのだが、たびたびクローズアップされるのが「書き言葉」が担う役割の大きさだ。たとえばワーグナー。チューリッヒ滞在中のワーグナーは、「途切れなく創作活動をしていたが、楽曲はほとんど書いていない」。つまり論文などは書いているし、オペラの台本も作っているが、曲は書いていない。それだけではない。ワーグナーは「さまよえるオランダ人」「タンホイザー」「ローエングリン」の三作の台本朗読会を行なっている。「ワーグナーの生き生きとした劇的な朗読スタイル」は人気を呼び、回を追うごとに参加者は増えたという。オペラへの手引きとして、作曲者自身による朗読会を開くというのは秀逸なアイディアではないだろうか。もちろん、これは台本もワーグナーの「作品」だからこそ。
●ベルリオーズの新しい音楽が不評を買っていたという話は前回にも紹介したが、一方で彼がパリで文筆家として人気を呼んでいたというのも興味深い。原稿料がほとんど唯一の収入源となっており、パリではベルリオーズの音楽を聴きたいという人より、ベルリオーズの文章を読みたい人のほうが多かったのではないかというくらいの堂々たる文筆家ぶり。
●そして、なによりおもしろいのは「手紙」を読んだり書いたりすることに、ワーグナーやリストが一日のうちのかなりの時間を割いていると思われるところ。

 ワーグナーには遠く離れた友もおり、彼らとの間に膨大な量の手紙を交換しあった。朝一番の郵便が届くのは11時ごろで、ワーグナーは毎朝それをじりじりと待った。

 前回書いたように日に何度も手紙が届くとなると、これはもう現代のPCによるメールと感覚的にそう変わらない。11時は朝イチのメールチェックといったところか。一方、リストのほうにはこんな記述がある。

 夜行列車の長旅の後でもリストは、家で短い睡眠をとるとすぐ、留守のあいだに届いた手紙に目を通し始めた。ベルリオーズが、ロンドンでの『ベンヴェヌート・チェッリーニ』の悲惨な結果について報告した長い手紙も、その中に含まれていた。カロリーネから届いていた三通の手紙を読み通すには「数時間が」かかったという。カロリーネの多弁はワーグナーをも上回り、愛や家族についての思いや、とりわけ神についての思いを、何枚もの紙にとどまることなく書き連ねた。彼女の関心は永遠性にあり、日常の出来事についてはいっさい筆を割かなかった。いっぽうのリストはカロリーネへの返信にいつも、彼女への愛の言葉のほかに、出会った人々や訪れた場所についての詳細を記した。

 20世紀になって電話時代に入ると、こうした手紙のやり取りは激減したはずだが、一方でメール時代になると、デスクワークをする人々はふたたび仕事時間の多くをメールの読み書きに割くようになった(さらにSNSに)。そういう意味では19世紀の手紙ライフは現代人にも割とイメージしやすいコミュニケーション形態だともいえる。ただ、彼らの手紙は半ば保存され公開されるべくあったのに対し、メールのほうは電子の藻屑となって消えてしまう運命ではあるが。

February 20, 2018

「巡り逢う才能 音楽家たちの1853年」(ヒュー・マクドナルド著/春秋社)

●「巡り逢う才能 音楽家たちの1853年」(ヒュー・マクドナルド著/春秋社)を読んでいる。装画はおなじみIKEさん。これは1853年という一年間に起きた音楽史上の出来事を描いた一冊で、当時の音楽家たちの交流の軌跡を追った「水平的な伝記」(うまい表現だ)。1853年というと、シューマンに見出されたブラームスが作曲家としてデビューし、ワーグナーは「ニーベルングの指環」の作曲に着手したという年。ブラームス19歳、ヨアヒム21歳、シューマン42歳、ワーグナー39歳、リスト41歳、ベルリオーズ49歳。これら作曲家の生涯を年代を追って垂直的に描くのではなく、水平的に一年間を切り取るというのは実に秀逸なアイディア。そして一年間の密度の濃さにもくらくらする。これは以前にも何度か書いていることだけど、変化の緩やかな現代と違って19世紀は(音楽史的な見方でいえば)ギュンギュンと世の中が猛スピードで動いていた。
●巻頭の「はじめに」で指摘されているのは、当時の芸術家たちの活発で密度の濃い交流を可能にしたのは郵便と鉄道という二大技術の発達だということ。1853年には欧州の郵便システムは成熟しており、速く確実に郵便が届くようになったばかりか、大都市では一日に3回以上も配達が行われたという。「午前中に郵便を送れば、午後に返事が返ってくることもあった」。すげえ。ヨドバシカメラのエクストリームサービス便もびっくりの速さである。いまの東京じゃ、郵便なんて一日に1回しか配達してくれないっすよ? ていうか、一日3便なんてもうメール感覚じゃないすか。現代とは桁違いにトラフィックが小さかったからこそ可能だったのだろうけど、こういった19世紀のスピード感をワタシらは見くびりがちだと思い知る。
●ベルリオーズがかわいそうなんすよ。彼がフランスでは認められず、もっぱら外国で評価されていたという話はよく目にするが、この年、ロンドンでオペラ「ベンヴェヌート・チェッリーニ」が上演されることになった。かつてパリの初演では散々だったオペラをロンドンで上演して巻き返そう。そんな好機が到来したにもかかわらず、客席では組織的らしき妨害行為が行われて、またしても無残な結果に終わってしまう。もう49歳にもなってて、まだこんな目に合わなければならないとは。このとき臨席していたヴィクトリア女王の言葉が強烈なので引用する。

 およそこれまでに作曲されたオペラの中で、もっとも魅力がなく、もっともくだらない作品だと感じた。メロディーらしいものはかけらもなく、支離滅裂でこのうえなく混乱した音は、不安をかきたてる騒音にしか聞こえない。まったく、犬や猫のたてる騒音と比べるのがちょうどよいくらいの音楽だ!

どんな辛口批評家もここまでは書けない。っていうか、むしろある種の文才を感じる。
●じゃあ、ベルリオーズが支離滅裂だとすると、当時のロンドンで歓迎されていたのはだれかというと、シュポア。安心して聴けると評判だったシュポアの交響曲がどんなものかと、試しに本書で言及されているいくつかの曲を少し聴いてみたが、起伏に乏しくて聴き続けられない。展開力が足りないというか、いつになっても前に進まないというか……。

January 24, 2018

「いくさの底」(古処誠二著/KADOKAWA)

●「このミス」で上位に入っているのを見て年末年始に読んだ「いくさの底」(古処誠二著/KADOKAWA)なんだけど、なんとなく気になって、途中から拾い読みで再読してしまった。とてもよくできたミステリで、再読すると「あ、なるほど、だからここはこんなふうに書かれていたのね」ともう一度味わうことができる。舞台は第二次大戦中のビルマの小村。この山岳地帯の村に警備駐屯することになった日本軍に、通訳として主人公の民間人が同行している。隊の少尉が何者かによって殺され、いったいだれがなんのために、というところから話がスタートする。戦時下の特異な状況を背景にした謎解きが鮮やかで、戦争小説としてもおもしろい。血なまぐさい戦闘シーンは一切なく、むしろ戦闘が起きていないときの戦場の描き方として秀逸。
●特異な状況を設定して閉鎖的な人間集団を描くという点では先日の「屍人荘の殺人」と同じなんだけど、あちらがジャンル小説のパロディ的な装いをまとっているのに対して、こちらは真に迫ったタッチ。実質的な探偵役ともいえる「副官」が、ずっと物語の背景にいたまま真相に迫るという趣向も吉。

January 10, 2018

写真集 Moving Music / Die Berliner Philharmoniker & Sir Simon Rattle(モニカ・リッタースハウス/Alexander Verlag Berlin)

●うーむ、これは立派な写真集だ。ズシリと重い1650gの Moving Music / Die Berliner Philharmoniker & Sir Simon Rattle。つまりベルリン・フィルの写真集なんである。スゴくないすか。歌手の写真でもなく、指揮者の写真集でも(ほぼ)なく、オーケストラの写真集。写真家はモニカ・リッタースハウスという人で、昨年のラトル&ベルリン・フィル記者会見にも随行していて、壇上から紹介されていた。10年以上にわたって、本番からツアー、舞台裏に至るまで、さまざまな場面でベルリン・フィルのメンバーを撮影している。アジアも含めて世界各地を訪れるベルリン・フィルの姿がここに。もちろん、ラトルも撮影されているし、ほんの少しだけ客演指揮者も写っているが、主役はオーケストラ。ワタシの感覚としては、これはかなり作家性の感じられる写真集で、一枚一枚の写真がとても雄弁で、かつ美しくデザインされている。写真から漂うテーマは、プロフェッショナリズム、チームワーク、神秘性、ユーモア、スター性、孤独、そして喜びといったところだろうか。こんなによくできているんだから、表紙と背表紙に写真家の名前を入れてくれればよかったのに(扉には入っている)。
●今のベルリン・フィルを見ていると、歌手がスターの時代、ソリストがスターの時代、指揮者がスターの時代に続いて、オーケストラがスターの時代が来つつあるという気配をうっすらと感じる。その場合、個のプレーヤー(コンサートマスターや首席奏者)ではなく、オーケストラそのものがスターになるはずという確信を、この写真集は抱かせる。
●たとえば、今日からベルリン・フィルとウィーン・フィルのメンバーが全員総とっかえしたとして、昨日までベルリン・フィルのファンだった人はどっちのファンになるか。え、そんなのウィーン・フィルのファンになるに決まってるって? いやいやいや、そうとも限らないんでは。つまり、マリノスとFC東京の選手が全員総とっかえしたとしても、ワタシはマリノスのファンであり続けることは確実なんすよ。プレーヤーの継続性より、クラブのアイデンティティのほうが優先される領域なので。

January 9, 2018

ミステリ批評家ハロルド・ショーンバーグ

●ハロルド・C・ショーンバーグといえばニューヨーク・タイムズで長年活躍した高名な音楽評論家。日本でも「ピアノ音楽の巨匠たち」をはじめ著書が翻訳されているが、著書を読まずとも名前をどこかで目にしているクラシック音楽ファンは多いはず。が、この人が同時に覆面ミステリ批評家としても活動していたことを知っているだろうか。ワタシは偶然知ったのだが、ニューゲイト・キャレンダーの筆名で同じニューヨーク・タイムズのミステリ書評を担当していたというんである。
●どうやってそれを知ったかというと、 ドナルド・E・ウェストレイク著の「踊る黄金像」(木村仁良訳/早川書房)の訳者あとがきにそう書いてあるのを見つけたから。こんな記述だ。

ホセとエドワルドとペドロが飛行機に乗っているとき、「台詞にSの音がないのに、非難の歯擦音を出すのは人間にとって不可能だが、エドワルドはその不可能を実行」する。Sなしの歯擦音を出す(ヒス)は不可能だとしつこく主張しているのは、「ニューヨーク・タイムズ・ブック・レヴュー」のミステリ書評子ニューゲイト・キャレンダーである。キャレンダーはいちおう覆面書評子だが、その正体は音楽評論家のハロルド・シェンバーグなのだ。ミステリ小説の中で音楽や音楽家の話が出てくると、ミステリのことなどはそっちのけで、音楽関係の間違いをアラ捜しする……
(ええい、率直に言ってしまおう)キラワレ者である。

●と、こんな感じで書かれていて、ミステリ批評家としての芸風もなんとなく伝わってくる。Wikipedia英語版でのハロルド・シェンバーグの項によれば、20年以上もニューゲイト・キャレンダー名義でミステリ書評をしていたというのだから、この分野でも十分に実績豊富といっていい。ニューゲイト・キャレンダーという筆名もなんだかいわくありげ。チェス・プレイヤーとしても大した腕前だったというから、ずいぶんとなんでもできる人である。

January 4, 2018

「屍人荘の殺人」(今村昌弘著/東京創元社)

●デビュー作で「このミステリーがすごい!2018年版」第1位、「週刊文春」ミステリーベスト第1位、「2018本格ミステリ・ベスト10」第1位の三冠を達成してしまった「屍人荘の殺人」(今村昌弘著/東京創元社)。あまりの評判のよさにつられて読んだが、これはもう驚愕の一冊。大学ミステリ研の登場人物たちが、「雪山の山荘」ならぬ夏合宿のペンションで外界から閉ざされた環境に置かれ、そこで密室殺人が起きる。文体や人物描写もまったくジャンル小説的で、古典的な本格ミステリのパロディのように始まるのだが、途中で世界が一変してしまう。登場人物のひとりにまるでワタシ自身のような人が出てきて、これは自分のために書かれたミステリとしか思えなかった。
●で、うっかりamazonのカスタマーレビューを読むとぜんぶネタバレを書いている困った人がいるので、版元の紹介文を読んで買うと決めたらさっさと買うのが吉。自分は本格ミステリ・ファンではないので、トリックに関してはいくらよくできていても「んなことするヤツがいるかよ」と突っ込まずにはいられないのだが(エレベーターのあれとか)、それでもまったく問題なく楽しめた。ミステリ側からだけではなく、別のジャンルの側から眺めたときにもクラシカルなテイストがあって、読みたかったのはこれだ!と快哉を叫びたくなる。爽快。

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