Booksの最近のブログ記事

June 11, 2018

「村上さんのところ」 (村上春樹著/新潮文庫)

●しばらく前にネット上で大反響を呼んだ村上春樹のなんでも相談室(?)「村上さんのところ」(新潮文庫)、文庫になったのを機に読む。世界中から集まった質問相談約3万7千通のなかから、サイトで回答されたのは約3700通で、この一冊に収められたのは473通。さすがに厳選されているだけあって、世の中にはいろんな質問があるというか、いろんな人がいるものだと感心するばかり。もちろん、回答はそれぞれに興味深い。基本、真摯な姿勢があり、ユーモアがある。企画趣旨からいって当然なんだけど、これって「ファンの集い」みたいな感じの本なんすよね。だからファンじゃなかったらぜんぜん共感できないノリだってあるわけなんだけど、でもいくつかすごく印象的な回答があって、何か所もページの片隅を折ってしまった。
●たとえば、なんだけど。なかなか思いが伝わらないという広報のお仕事の方から、メッセージを伝える極意を問われて、「親切心です。それ以外にありません。親切心をフルに使ってください。それが文章を書く極意です」。あと講演のコツについて「原稿をそっくり暗記する」とあったのも、すごく印象に残る。「だから手間もかかるし、すごく疲れます」。やっぱり話すのって書くのよりもずっと準備に時間がかかるものなのだと得心。
●こういうのって、しばしば質問者側のほうが、回答者が見たことも聞いたこともない世界を生きているわけなんだけど、どんな深い悩みにも決して薄っぺらな答えが帰ってこない。

May 30, 2018

「ゴールデンゴールド」(堀尾省太著/講談社)

●Kindleというかamazonのレコメンド機能がスゴいと思うのは、普段、リアル書店であれば絶対に出会わないようなタイプでありながら、きっちり好みの本を見つけ出してくるところ。自分の場合は、長年書店のコミック売り場に近づきもしなかったのに、しつこくamazonで勧められて読んでしまったのがこの「ゴールデンゴールド」(堀尾省太著/講談社)。おもしろい。コミカルなタッチで描かれた一種のホラー。瀬戸内の島で暮らす少女が、あるとき「福の神」のような置物を拾う。これに願いをかけたことから、異形の「福の神」は命と意思を持って動き出す。この「福の神」が視覚的に不気味で怖いんだけど、こいつがなにをするかというと、人の願いをかなえるんすよ。さびれていた町が、好景気に沸き、住人たちが儲かる。そこがじわじわと怖い。願望を満たす恐怖というのが秀逸だと思った。
●最近、やっと第4巻が出たところ。約半年ごとに1冊のペースなので、続きが待ち遠しい。

May 23, 2018

「生か、死か」(マイケル・ロボサム著/早川書房)

刑務所
●先日、衝撃的な事件があった。今治市の松山刑務所大井造船作業場から受刑者が脱走したという、あの事件。脱走した囚人が逃げ回っているうちは、遠方でもありそれほど気にしていなかったが、捕まった後に明らかになった脱走理由に戦慄した。「刑務所での人間関係がイヤになった」。刑務所でも人間関係に悩まされる。これほど、悪事を働いてはいけないと固く心に誓わせる一言もない。あと半年で出所できたのに、尾道市の向島から泳いで本州に渡るという逃走劇。あれ、これって似たようなミステリがなかったっけ?
●それはずばり、マイケル・ロボサム著の「生か、死か」(早川書房)。十年の刑に服し、刑務所でも酷い目にあったらしい主人公が、あと一日で出所というところで脱獄する。泳いで逃げる場面も出てくる。うーむ、似てる。もっとも、主人公の人間像は松山刑務所の事件とはだいぶ違っていて(たぶん)、なにせ主人公はタフでクールで賢い信念の人であり、深い思慮のもとに出所日前日に脱獄を敢行したんである。少しカッコよすぎるかなとは思うが、人物描写も秀逸。スティーヴン・キング絶賛。といってもこの惹句には悪い予感しかしないって人もいるか。
●しかし脱獄モノの名作をひとつ挙げるとするならば、そのスティーヴン・キングの中篇「刑務所のリタ・ヘイワース」を迷わず選ぶ(「ゴールデンボーイ―恐怖の四季 春夏編」収録)。この小説は後に映画「ショーシャンクの空に」になった。あの映画も悪くないのだが(特に「フィガロの結婚」からの一曲を囚人たちに聞かせる場面がいい)、惜しいのは結末が大幅に甘口になってしまっているところ。原作には忘れがたい余韻がある。

May 10, 2018

「そしてミランダを殺す」(ピーター・スワンソン著/創元推理文庫)

●最近読んだミステリのなかでも、とりわけ感心したのが、ピーター・スワンソンの「そしてミランダを殺す」(創元推理文庫)。実に手際よく、鮮やかなページターナー。といっても、なにか驚くべきような大ネタがあるとか、重厚な読みごたえがあるというのではまったくない。むしろ逆。できのいい海外ドラマをカウチで寝そべって眺めているような気安さがあって、なにも身構えずに楽しめるのが吉。ぜんぜん話は似てないけど、たとえるなら「刑事コロンボ」の傑作回くらいの感じ。
●男が空港でたまたま会った美女と殺人計画を練るというのが事の発端で、男女4人の思惑が交錯して、女が浮気して、男も浮気を企んで……って、あれ、なんだか暗黒の「コジ・ファン・トゥッテ」みたいじゃないの。これってシンクロニシティ?
●話の閉じ方がうまい。絶妙。

April 25, 2018

「ハロー、アメリカ」(J.G.バラード著/東京創元社)

●J.G.バラード著の「ハロー、アメリカ」(東京創元社)を読了。かつて「22世紀のコロンブス」(1982年)の題で刊行されていた小説が、ネットフリックスで映像化決定ということで、原題そのままに「ハロー、アメリカ」として復活。これはかなりヘンなテイストの小説だと思う。前衛とコメディの融合とでもいうべきか。
●舞台設定はすこぶる魅力的だ。22世紀の未来、すでにアメリカ合衆国は資源の枯渇と気候変動で崩壊し、無人の砂漠の大陸となっている。一方、ヨーロッパには配給制で人々が静かに暮らす退屈な世界が残っている(いかにも少年時代を上海で過ごしたイギリス人バラードらしいヨーロッパ観)。しかし、そんなヨーロッパからアメリカを目指す若者がいた。イギリスを出港してアメリカを目指す探険隊に密航者として乗り込んだ若者が主人公。それぞれに思惑を持ってマンハッタン島に到着した探検隊のメンバーは、砂漠にアメリカン・ドリームを夢見て、西を目指す。
●夢と狂気は紙一重、滅んだアメリカを西へと旅する人々を描くタッチはバラードの真骨頂。「ハイ-ライズ」で描かれた高層マンションのリッチな住民たちが次第に狂って野蛮になってゆく姿と共通するものがある……と思っていたら、途中から予想外の展開を見せて、シニカルなコメディに変わってしまって唖然。でも、これは笑えるし、ある意味でバラードらしからぬ明るい話ともいえる。バラードの長篇としては70年代の「ハイ-ライズ」や「コンクリート・アイランド」より後、90年代の「楽園への疾走」や「コカイン・ナイト」よりも前。後に書かれる「洗練された終末感」を予告しながら、華やかなパーティを開いてみせたというか。廃墟となったアメリカへ向かう探検隊の船がアポロ号って名付けられているのとか、相当おかしい。

April 11, 2018

「亡命」の音楽文化誌 (エティエンヌ・バリリエ著、西久美子訳/アルテスパブリッシング)

●今年のラ・フォル・ジュルネTOKYOの日仏共通オフィシャルブック「『亡命』の音楽文化誌」(エティエンヌ・バリリエ著/アルテスパブリッシング)を読んだ。とてもおもしろい。昨年の「ダンスと音楽 躍動のヨーロッパ音楽文化誌」や一昨年の「ナチュール 自然と音楽」と同様に、今回も音楽祭のテーマと連動したテーマで書かれた読み応えのある音楽書。音楽祭の実用的なガイドブックでもなければ初心者向けの入門書でもなく、「亡命」を切り口にした音楽史の本であって、音楽祭が終わった後もまったく価値が減じることのない一冊。でも、これをあらかじめ読んでおけば、LFJをいっそう深く楽しめることはたしか。過去2年の公式本と比べても、今回の本がいちばんリーダビリティが高く、ページをめくる指が止まらない。
●リュリやスカルラッティといったバロック期の「幸せな故郷喪失者」たちから、ショパンやワーグナー、さらに20世紀の数多くの作曲家たちを巡る亡命をキーワードにした作曲家論で、ざっくりとした大枠でいえば、祖国を去った作曲家たちの運命は案外悲劇的なものばかりでもないし、亡命が作風に与える影響というのも不確かなことが多いというあたりが印象的。でもそれ以上に個別の作曲家のエピソードが興味深い。ハリウッドでのシェーンベルクのスピーチにある「私が祖国を追われたのは、神の恩寵です。私は楽園へと追放されたのです!」の一言はなかなか味わい深い。スペインに渡ったスカルラッティが、法的な文書に「ドミンゴ・スカルラッティ」と署名していたこと、アメリカに渡ったクルト・ヴァイルがもう英語でしか話さないと決意し、やがて「英語でしか夢を見なくなった」と誇らしげに述べたこと、シェーンベルクがMGMからパール・バックの映画「大地」の作曲を依頼された際に、あえて5万ドルの報酬をふっかけて断念させたこと(そのくせ映画のためのテーマをいくつか下書きしていたというのがおかしい)等々。アメリカに渡ったラフマニノフがピアニストとして経済的に成功し、多くの同胞たちを助けていたことは知られているが(グラズノフとか)、そのなかにナボコフの名前もあったとは。
●プロコフィエフのストーリーはほかで読んだことのある方もいると思うけど、ソ連に帰国後に外国人である最初の妻が強制労働収容所に送られることになった経緯や、いったんは祖国を離れながら最悪とも思えるタイミングで帰国してしまった事情などを読むにつけ、この人の創作者としてのエゴイストぶりと政治に対する危険なほどの軽視が伝わってくる。彼が「自伝」で描いた自画像と重ね合わせると吉。
●アメリカ楽壇からの無反応ぶりにシェーンベルクがコープランドをスターリン呼ばわりして非難していたというのも相当におかしい。

March 1, 2018

「ウィーン・フィル コンサートマスターの楽屋から」(ウェルナー・ヒンク)

●ウィーン・フィルのコンサートマスターとして長年活躍したウェルナー・ヒンクの語り下ろし本「ウィーン・フィル コンサートマスターの楽屋から」(小宮正安構成・訳/アルテスパブリッシング)を読んだ。往年の名指揮者たちとのエピソード(クライバー、ショルティ、ベーム、カラヤン、バーンスタイン等々)、ウィーン国立歌劇場とウィーン・フィルでの多忙の日々、ウィーン弦楽四重奏団をはじめとする室内楽活動の喜び、自らの生い立ちなど、さすがにこれだけのキャリアを誇る人だけあって逐一おもしろい。ヒンクの語り口は古き良き時代を振り返るといった趣きで、暖かく、決して攻撃的にならない。センセーショナルな要素には乏しいのだが、心地よく読書の楽しみにふけることができる。有名なエピソードもあれば、ここで初めて知ったことも。クライバーやバーンスタインとは対照的にショルティがレコーディング・セッションで才能を最大に発揮する指揮者だったという話などは、よくいわれることかもしれないが、コンサートマスターという当事者だからこその説得力がある。まったく別の本で、ショルティが「ウィーンでいちばん好きな場所は(帰るときの)空港だった」と語っていたことを思い出すと、一段と味わい深い。
●印象的なエピソードはたくさんあるのだが、ニューイヤー・コンサートの舞台裏についての話を読んで納得。ニューイヤー・コンサートって、中継だとよくバレエが入るがじゃないすか。あれって、バレエは生じゃないっぽい(と、見てるとわかる)。でも演奏はぴたりとバレエに合っている。どうやってるのかなーと思ってたんだけど、演奏はあらかじめ早い段階で録音しておいて、それに合わせてダンサーが踊った別録をテレビで流しているんだとか。つまり、バレエが入る曲では、常にテレビの視聴者は会場での実際の演奏を聴くことができないんである。会場では別の演奏が流れている……。すると疑問がわく。そんなことはめったにないだろうけど、もしも指揮者が本番で事前の録音とぜんぜん違うテンポで指揮したら、曲が終わるタイミングが映像と合わないのでは? まさにそんなアクシデントが起きたのが2008年のジョルジュ・プレートル。事前収録よりもずっと遅いテンポで指揮をしてしまい、実際の演奏のほうが1分以上長くなってしまったんだとか。ということはテレビ中継では、バレエが終わった後もカメラが会場に「戻る」ことができなかったわけだ(まだ演奏が続いているんだから)。あれはどう処理したんだろうか。
●1982年にマゼールがウィーン国立歌劇場の総監督に就任して「ブロックシステム」を導入したことについての話もおもしろかった。従来はレパートリー公演をリハーサルなしのぶっつけ本番でやっていたのを、マゼールは数週間のスパンで3~5演目を固定化して日替わりに舞台にかける方式を採用した(今もそうなっていると思う)。これをヒンクは大変ありがたかったと回想している。なにせこれなら練習時間も取れるし、ぶっつけ本番のリスクもなくなるし、コンサートマスターならずともオーケストラの楽員にとっては負担が軽くなるに決まっているわけだが、ワタシのうっすらとした記憶では当時この「ブロックシステム」に対しては批判の声が大きくて、マゼールが強引に主張を通したかのような印象すら受けた。あれはなにをもめていたんだろうか。
●短い記述だけど、存命中のショスタコーヴィチに会った話も興味深い。自身がソ連を訪れたときの聴衆の冷たく異様な無反応ぶりから、ショスタコーヴィチの面従腹背ぶりをただちに理解して、ウィーン弦楽四重奏団の主要レパートリーにショスタコーヴィチ作品を加えたという。伝えられるべき時代の証言のひとつ。

February 27, 2018

続・「巡り逢う才能 音楽家たちの1853年」(ヒュー・マクドナルド著/春秋社)

先日当欄でご紹介した、ヒュー・マクドナルド著「巡り逢う才能 音楽家たちの1853年」を読んで印象的だったことをもう一つ。この本は1853年というわずか一年に焦点を当てて、リストやワーグナー、ベルリオーズ、ブラームス、シューマンといった音楽家の伝記を「水平的に」描いているのだが、たびたびクローズアップされるのが「書き言葉」が担う役割の大きさだ。たとえばワーグナー。チューリッヒ滞在中のワーグナーは、「途切れなく創作活動をしていたが、楽曲はほとんど書いていない」。つまり論文などは書いているし、オペラの台本も作っているが、曲は書いていない。それだけではない。ワーグナーは「さまよえるオランダ人」「タンホイザー」「ローエングリン」の三作の台本朗読会を行なっている。「ワーグナーの生き生きとした劇的な朗読スタイル」は人気を呼び、回を追うごとに参加者は増えたという。オペラへの手引きとして、作曲者自身による朗読会を開くというのは秀逸なアイディアではないだろうか。もちろん、これは台本もワーグナーの「作品」だからこそ。
●ベルリオーズの新しい音楽が不評を買っていたという話は前回にも紹介したが、一方で彼がパリで文筆家として人気を呼んでいたというのも興味深い。原稿料がほとんど唯一の収入源となっており、パリではベルリオーズの音楽を聴きたいという人より、ベルリオーズの文章を読みたい人のほうが多かったのではないかというくらいの堂々たる文筆家ぶり。
●そして、なによりおもしろいのは「手紙」を読んだり書いたりすることに、ワーグナーやリストが一日のうちのかなりの時間を割いていると思われるところ。

 ワーグナーには遠く離れた友もおり、彼らとの間に膨大な量の手紙を交換しあった。朝一番の郵便が届くのは11時ごろで、ワーグナーは毎朝それをじりじりと待った。

 前回書いたように日に何度も手紙が届くとなると、これはもう現代のPCによるメールと感覚的にそう変わらない。11時は朝イチのメールチェックといったところか。一方、リストのほうにはこんな記述がある。

 夜行列車の長旅の後でもリストは、家で短い睡眠をとるとすぐ、留守のあいだに届いた手紙に目を通し始めた。ベルリオーズが、ロンドンでの『ベンヴェヌート・チェッリーニ』の悲惨な結果について報告した長い手紙も、その中に含まれていた。カロリーネから届いていた三通の手紙を読み通すには「数時間が」かかったという。カロリーネの多弁はワーグナーをも上回り、愛や家族についての思いや、とりわけ神についての思いを、何枚もの紙にとどまることなく書き連ねた。彼女の関心は永遠性にあり、日常の出来事についてはいっさい筆を割かなかった。いっぽうのリストはカロリーネへの返信にいつも、彼女への愛の言葉のほかに、出会った人々や訪れた場所についての詳細を記した。

 20世紀になって電話時代に入ると、こうした手紙のやり取りは激減したはずだが、一方でメール時代になると、デスクワークをする人々はふたたび仕事時間の多くをメールの読み書きに割くようになった(さらにSNSに)。そういう意味では19世紀の手紙ライフは現代人にも割とイメージしやすいコミュニケーション形態だともいえる。ただ、彼らの手紙は半ば保存され公開されるべくあったのに対し、メールのほうは電子の藻屑となって消えてしまう運命ではあるが。

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