●すまぬ、昨日に続いてもう一回だけボルヘスのことを。許せ。
●この「ボルヘスとわたし ― 自撰短篇集」(ちくま文庫)に収められた自伝風エッセイにはおもしろいエピソードがいくらでも含まれている(彼の短篇そのものと同じくらいに)。
●「名声を期待したこともなければ、追求したこともない」というボルヘスならではなのだが、物書きをやったり編集者をしたりしているうちに、彼も生活のために定職に就かなければならないことに気づいた。で、友人の紹介で物淋しい郊外の小さな図書館の「一等補佐員」とかいう地位を得る。「一等」というからには下に「二等」や「三等」があるのだが、それでもしょせん「補佐員」、上を見れば「一等」「二等」「三等図書館員」がいる! 月給は米ドルにして70~80。人は山のようにいるが、仕事らしい仕事はないという職場で、職員たちはサッカーの話題や猥談に興じてばかり。そんな場所でボルヘスは「濃厚な不幸の九年」を耐えた。
●と聞けば、なるほどボルヘスの下積み時代かと思うでしょ。ところが、この時点で彼はもう(図書館以外では)かなり有名な作家になっていたというのである。同僚の一人が百科事典の中に「ホルヘ・ルイス・ボルヘス」という名を見つけ、しかも生年月日まで「一等補佐員」のボルヘスと同じだというので不思議がっていたという。可笑しすぎる。
●この短篇集の中でワタシが特に気に入ったのは、「入り口の男」、「じゃま者」「二人の王様と二つの迷宮」。「めぐり合い」も傑作、これは「短刀に魂宿る」という古典的テーマを扱った名品で、「ブロディーの報告書」(白水Uブックス)にも所収されているのを、ずっと前に当欄でご紹介したことがある。
Books: 2004年3月アーカイブ
「ボルヘスとわたし ― 自撰短篇集」 その2
「ボルヘスとわたし―自撰短篇集」
「死ぬためには、ただ生きてさえいればいいのね」と女の声が言うと、また別の女が同じく思いに沈んだ調子で言った、「あれほど尊大な男だって、もう蠅を集めることきりできやしないんだわ」
(「バラ色の街角の男」~「ボルヘスとわたし」所収)
●ガルシア・マルケスと並びラテン・アメリカ文学の代名詞ともいえるホルヘ・ルイス・ボルヘスの自選短篇集「ボルヘスとわたし」(ちくま文庫)。短篇なので読書の谷間に少しずつ読んで行こうと思っていたら、読み終えるのに一年以上かかってしまった。しかしこの自選短篇集は「自選」ならではのおもしろさに満ちている。何しろ作品のためのページは半分ほどで、残り半分は自伝風エッセイと作者による作品解説なんだから、ボルヘスがどういう人物だったか、これほどよく伝わる短篇集はない。
●ボルヘスって、とにかく饒舌な人なんすね。作品が短いせいもあって、時には作品解説が作品自体と同じくらい長くなってしまいかねない(笑)。この饒舌さはアイザック・アシモフさえも超越している。「言わなくてもいいのに」っていうくらい説明しちゃうのだが、もともとここにある短篇の多くでは、作者のイマジネーションが生んだ物語と「昔、ブエノスアイレスでこんなことがあってなあ」という伝承とが境界レスであるため、短篇を読んでいてもエッセイを読んでいても、抱く印象は驚くほど似ている。自作に対して饒舌な人物というと、それだけで「ダメな人」の烙印が押されてもしょうがなさそうなものであるが、この自伝風エッセイを読めば、誰もがボルヘスに深い敬意を抱くことになるにちがいない。
●白人社会のアルゼンチンに生まれ、第一次大戦前後をヨーロッパで過ごしたボルヘスは、ヨーロッパ文学を敬愛し、少年の頃から虚弱で図書館にこもる本の虫だったが、作品にしばしば表れるアルゼンチンの「ガウチョ」は、ナイフと豪胆さで己の価値を示す荒くれ者である。マチスモ(南米的な「男らしさ」)はボルヘス作品のキーワードであると同時に、ボルヘスという人物の実像とはきわめて縁遠いものであったようだ。(つづく)
「その晩から兄弟はフリアナを共有することになった。コスタ・ブラーバの人々の、それほど厳格とも思えない貞操感さえ蹂躙した、この奇妙な関係の詳細は誰にもわからないだろう」(中略)
「気性の荒い場末では、男は決して他人に対し - いや自分自身に対しても - 女が肉欲と所有の対象以上のものでありうることを認めてはならなかった。ところが二人は恋に落ちてしまったのだ。だから二人は心に恥じるところがあった」
(「じゃま者」~「ボルヘスとわたし」所収)
化けものの出る前の音楽
●よく指摘されるが、20世紀の「現代音楽」というのはホラー映画などで使われることが多い。ホラーに限らなくても、映画で恐怖、緊張、不安などを表現する場面となると、リゲティやペンデレツキ、バルトークなんかが流れてくるわけだ。音楽ファンとしてはどうかとも思うんだが、確かに今にもなにか出てきそうな恐ろしげな音楽も多いわけで、無理もないかなとは思う。
●で、いきなり古い本で恐縮だが、森茉莉の「私の美の世界」(新潮文庫)のなかに武満徹と会ったときの話が載っていておもしろい(60年代に書かれたものだが、森茉莉自身は当時の現代音楽に特に明るいわけではない)。
この武満徹という、長曾禰虎徹(ながそねこてつ)とか、飛騨匠(ひだのたくみ)、なぞの如きニュアンスのある名を持つ一人の音楽家の創造した音楽が、何を現わしたものであるかについて、かねて私は脳細胞をなやましていた。或る日彼の音楽の中の一つを聴いた時、私は想った。<これは何かの化けものの出る前の音楽である>と。そうして更に聴いていると、化けものも、又別の何ものも、出て来なくて、とうとう終いまで、化けものの出る前のもやもやだけだったのである。
(中略)
氏は「それで別に間違いではありません。そういうもやもやしたものを表わしたのですから」と言い、私を安心させた。(「私の美の世界」森茉莉/新潮文庫)
●やっぱり「これは何かの化けものの出る前の音楽である」と思われちゃったわけだ(笑)、武満徹ですら。微笑ましくもあり、同時になんらかの本質を突いているようにも思える。
●ところで森茉莉は対談のために武満徹と会ったらしいのだが、その対談自体はどこかに載ってるんでしょうか。調べてみたら、森茉莉は武満と会った直後に、「音楽の友」のために三宅榛名と対談しているらしい(「アイヴスを聴いてごらんよ」、68年9月号、未確認)。武満との対談は別媒体向けなのかなあ?
ジョナサン・カラー「1冊でわかる 文学理論」
●「われわれは作曲家のしもべにすぎません。彼らが楽譜に残したことを忠実に再現するのがわれわれの使命なのです」。あまり耳にしたくない演奏家や指揮者の言葉である。作品の「意味」とはなにか。
「何が意味を決定するのだろうか。われわれは、まるで話し手の意図が意味を決めるかのように、発話の意味はそのひとが意図する意味だと言ったりすることがある。(中略) またときには、コンテクストが意味を決定する。つまり、特定のある発話が何を意味しているのかを知るためには、それが現れる状況や歴史のコンテクストを見なければならないと言ったりもする。批評家の中には、テクストの意味とは読者の経験するもののことだと主張する人もいる。意図、テクスト、コンテクスト、読者--どれが意味を決定するのだろうか」(「言語、意味、解釈」~ 「1冊でわかる 文学理論」 ジョナサン・カラー/岩波書店)
生前のラフマニノフの見事な演奏を聴いたとしても、ラフマニノフ弾きはそのコピーを身につけるために演奏家人生を費やしたりはしない。常に再解釈と再創造が繰り返され、「意味」はコンテクストによって変容し、「意図」に束縛されることはない。しかしなぜ音楽の人々は「意図」から離れることをさも罪であるかのごとく語るのか。と思っていたら、これは音楽ばかりの話ではなく、ジョナサン・カラーがこの入門書でちゃんと読み手を勇気づけてくれている。
「意図が意味を決定するという考え方を弁護する批評家は、もしこれを否定してしまうと、読者を作者の上に置くことになり、解釈においては『何でも通る』という御達示を出すことになるのではないかと恐れているようだ。しかし、ある解釈を見つけても、その妥当性を他の人々に説得しなければならず、それができないのなら、その解釈は捨てられることになる。『何でも通る』とは誰も主張しない。作者にしても、作品の元来の意味だと思われるもののゆえにではなく、果てしない思考を鼓舞し、さまざまの読みを生じさせる創造の力をとらえてたたえられる方がよくはないだろうか」(同上)
それでもなお「意図」を頂点に置くと明言する人々が絶えないのは、受け手の批評能力への不信の表れなのだろうか。これは微妙で、どちらとも言いがたい。「意図」の再現を解釈と述べる人々も実際にはコンテクストから逃れられるわけではなく、言動は一致しないことが多い。少なくとも一つ確かなことがある。意味はコンテクストに縛られるが、コンテクストは無限である。だから、10年前の作品も300年前の古典も、再現されるたびに等しく現代のわれわれの音楽となる。聴衆は博物館の埃まみれの展示品を楽しんでいるわけではない。
「恐怖」 筒井康隆
●しばらく前にN響アワーのゲストとして筒井康隆が呼ばれていた。画面のなかに池辺晋一郎さんと筒井康隆が収まっている構図がなんだかスゴくて、絵柄の全然違う漫画家が描いた二大人気キャラクターを共演させた企画みたいに見えたんである。風貌云々じゃなくて、天才二人は一画面に要らないっつうか、会話ぎこちないつうか。
●で、文庫新刊の「恐怖」(筒井康隆/文春文庫)。主人公の作家の住む姥坂市で連続殺人事件が起こる。どうやら犯人のターゲットは市内の文化人。次に殺されるのはオレなのか。メタミステリー的な遊びの要素もあるけど、恐怖におののく作家の妄想には何年か前の老人小説の傑作「敵」との共通項も多い。筋立てとはほとんど無関係な「薔薇の少女」が最後に登場し、ロマンスの可能性をかすかに示唆するのだが、これは「あったかもしれないしこれからあるかもしれない最大の恐怖」への入り口なんだろう。これはこれで十分に堪能したけど、未読ならまず「敵」を先にオススメ、強く。
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●と、書きつつもだな、今、新たなPC環境を構築するために悪戦苦闘中(時間が足りねえー)。しょうがないので、モニタやらメモリやら使えるものは引き続き再利用することにして、とにかくPC本体だけは激安ショップブランド品(ていうの? お店で組み立ててくれるヤツ)を急遽調達。またその話は後日にでも。
「エレンディラ」
●薄い短篇集なのだが、本屋でガルシア・マルケスの「エレンディラ」(ちくま文庫)を見かけた。なかなか表紙が美しい。ワタシはこれを昔、サンリオ文庫版で読んだ。ただし読んだのは10代の頃で、内容を忘れているどころか、いったい何をどう読んでいたのかもはなはだ怪しい。冒頭の短篇「大きな翼のある、ひどく年老いた男」には、その題にのみ覚えがある。
●「大きな翼のある、ひどく年老いた男」とは、地上に落ちてきた天使のことを指す。天使だが、ひどく年老いた男であり、みすぼらしく、何一つ威厳を感じさせない。ぬかるみでもがいているこの天使を引きずり出した男は、金網の小屋に牝鶏といっしょに閉じ込める。つまり、天使は身元不明の小汚い老人としてしか扱われない。
●地元の神父はローマと手紙をやり取りして、翼のある老人の本性についての決定を待つ。
「囚人にへそがあるかないか、そのことばはアラム語と関係があるかないか、針の穴を何度もくぐることが可能か否か、翼のあるノルウェー人にすぎないのではないか、といった程度の調査で時間は食われていった」
●ローマの決定を待つまでもなく、天使に会おうと物見高い人々は集まってくる。
「カリブ海じゅうの不幸な重病人たちが全快を願って訪れた。子供のときから心臓の動悸を数え続けて、今では数のほうが不足しはじめた哀れな女。星の動く音が苦になって眠れないジャマイカの男。夜中になると起きだして、目覚めているあいだに作ったものを壊してしまう夢遊病者」……
●なんつう豊かな想像力の奔流なのだ。「星の動く音が苦になって眠れない」んすよ。「魔術的リアリズム」なんて言いだすまでもないようなほんの一端だが、圧倒的であり、しかもこの短篇集の共通モチーフは「死と孤独」だったりする。
●「大きな翼のある、ひどく年老いた男」は牝鶏小屋の見世物として、捕まえた男の財布を潤わせる。が、しばらくして移動サーカスに混じってやってきた「父母に背いたために首から下を毒蜘蛛に変えられてしまった哀れな女」に人気を奪われ、人々から忘れ去られる。春になると(ラテン・アメリカ文学なので12月である)、天使は飛び立つ練習を始め、ついには飛び去る。日常の障害に過ぎなかった薄汚い老人の天使が、飛び去るときに「水平線の彼方の想像の一点」となり、その一瞬だけもしかすると畏敬のこもっているかもしれない眼差しで見つめてもらえる。日常のなかではたとえ奇蹟を行って見せても、見世物になる薄汚い老人でしかなかったのに!