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Books: 2008年4月アーカイブ

April 14, 2008

「通訳」(ディエゴ・マラーニ著/東京創元社)

通訳●「思考が言語化する」のではなく、「言語が思考を作る」という考え方があるじゃないっすか、一般に。あの人、英語を話すときはガイジン化する、みたいなのが。フランス語を話してる日本人はフランス人っぽくなるとか。日本にいてもある、たとえばすっかり東京化した関西ネイティブの人。東京にいるときと関西に帰ったときでは、言語だけじゃなくて思考回路や人格まで変わっちゃう。
●じゃあ、「通訳」という職業はなんなのか。それもEUの公的機関で働く多言語の同時通訳者とは。23の言語が用いられるこの世界で、スペイン語が、ギリシャ語が、ルーマニア語が、リトアニア語が、チェコ語が、かわるがわる通訳の脳内をのっとるのであれば、なにが起きるか。「母語を離れることは別人の仮面をかぶることであり、没頭しすぎると戻るのが難しくなる」と語るのは、この奇想天外な小説の著者ディエゴ・マラーニだ。この人、小説家以前にリアル通訳なんすよ、EUの。
●小説「通訳」(東京創元社)の主人公は、EUの国際機関で通訳局長として働く管理職のスイス人。当人は通訳ではなく、「言語は歯ブラシと同様、各人が自分のものだけを口に入れるべき」などと考え、部下の多言語話者たちに対して漠然とした不信感を抱いている。
●あるとき、十五ヶ国語を操る部下の同時通訳に異変が起きる。業務中に意味不明な奇声や口笛を発するようになる。部下は言う。「これは無意味な音なんかじゃない。無意識のうちに謎の言語が成長しているのだ、いや、もしかしたらこれは人類が忘れた古代言語なのではないか!」。もちろん彼は狂人あつかいされ、クビになる。だが、この謎の言語が、あたかもウィルスに感染するのかのように、管理職である主人公の口にまで侵食する。私の口から勝手に出てくるこの奇声、叫び声、発作は何だ、言語障害なのか! まさか神の言語、そんなバカな!
●という物語。予想も付かない方向に話がすっ飛んでいくのでジャンル分け不能。言語小説(そんなコトバあるのか?)の傑作。結末ではワタシは大笑いしながら、ある愉快な小説を連想したんだけど、その題を言うとネタバレになるから言えない。

April 3, 2008

「贖罪」(イアン・マキューアン著)

贖罪●映画「つぐない」公開にあわせて原作が文庫化されていた、イアン・マキューアンの「贖罪」(新潮文庫)。猛烈に傑作。マキューアンは、現代作曲家を主人公にした「アムステルダム」とか、やはり映画化されている「愛の続き」もよかったけど、読んでていちばんおもしろいのはこれかも。
●この「贖罪」、冒頭にジェイン・オースティンの「ノーサンガー・アビー(アベイ)」の一節が引用されている。で、実際読み始めてみると、舞台は30年代イギリス、裕福な地方の旧家で、作家としての将来を夢見る13歳の少女が少しずつ自我に目覚め、子どもから大人へと育ちつつある自分を感じてる一方、そのお屋敷に住むお姉さんと勤勉な使用人の息子が、子どものころは幼なじみだったのに大きくなると微妙な関係が生まれちゃってドキドキみたいなのがあったりで、実に優雅な恋愛小説が綴られているのだ。こんなに古典的な小説でいいんでしょうかというくらいに。
●どれくらい優雅かっていうと、こんな風景描写があるくらいだ。

 日暮れ時には、西の空高い雲が薄く黄色を流したようになり、その色は時を追って濃さを増し、雲の層も次第に厚くなって、ついには雲のフィルターを通したオレンジ色の輝きが屋敷の巨木の梢に届いて、葉は木の実のような茶色を帯び、葉むらを透かして見える枝はねっとりした黒色、からからに乾いた草地は夕暮れの空の色に染まった。

 色彩の変化による風景の描写は、登場人物の心の色も変化することを示唆し、続く運命的な愛を予告する。
●が、そこはマキューアン。「アムステルダム」や「愛の続き」でも感じたことだけど、この人は天才的に底意地が悪い。若者たちの運命はさわやかな悪意によって翻弄される。どうしてそんな展開がそこに!とか。で、この堂々たる恋愛小説部分だけでも、この小説は十分成立してるんだけど、それだけにはとどまらない。主要登場人物に小説家志望の少女がいる以上、必須の展開であるが、彼女は成人すると小説を書く。いかに物語を書くか。彼女は自分の作品を批評する。とたんにオースティン調はすっ飛んで、小説は自己言及的になる。

 自分が作り上げたもののどこがブライオニーを興奮させたかといえば、それは作品のもつ純粋な幾何学美と本質的な不確定性であって、彼女の考えでは、そうしたものこそが現代的感性の反映なのだった。明快な解答の時代は終わったのだ。人物(キャラクター)と筋書(プロット)の時代も。日記にはキャラクター・スケッチもあったが、実のところブライオニーはもはやキャラクターを信じていなかった。それは十九世紀に属する古風な仕掛けだった。(中略)プロットというのも、さびついて歯車が動かなくなった機械のようなものだ。現代の小説家がキャラクターやプロットを書けないのは、現代の作曲家がモーツァルトの交響曲を書けないのと同じことだ。

 うお! この小説、さっきまでそのキャラクターとプロットで読ませてたのに。モーツァルトだと思ってたら、中の登場人物が12音技法を使ってた!
●だが実を言えば、登場人物が書かなければいけなかったのは「純粋な幾何学美と本質的な不確定性」などではなくモーツァルトだった、という物語でもある。ネタバレを避けるが、結末は現代の古典と呼ぶにふさわしい邪悪な美しさに満ちていた。だれもそのままのモーツァルトを書くことはできないけど、なんとかしてモーツァルトを書きたいし、みんなモーツァルトを聴きたい。じゃあどうするか、というのがこの「贖罪」。

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