●拙著「R40のクラシック」Kindle版(廣済堂新書)が発売されたので、お知らせを。書籍版の刊行の後、しばらくして電子書籍版の出版契約を結んでいたのだが、いつの間にかリリースされていた。30人の作曲家について、特に40歳前後の創作活動と作品をテーマにした入門書。肩肘張った作曲家論ではなく、作曲家についての連載コラム30回分のつもりで書いた。
●電子書籍っていう出版のあり方に対しては、決して諸手を挙げて歓迎できる状況にはなってないなと思ってるんだけど、ともあれ一読者として便利なものであることは確か。Android端末にKindleアプリを入れて利用している。これで長編小説の世界にどっぷり浸るにはもう一つ「雰囲気に欠ける」気がするのだが、ノンフィクションや新書、実用書などを読むには問題がない。外出時に本を持ち歩かなくていいのは大きな利点。
Books: 2014年8月アーカイブ
「R40のクラシック」(飯尾洋一著/廣済堂新書) Kindle版発売
「おわらない音楽 私の履歴書」(小澤征爾著/日本経済新聞出版社)
●日経新聞に掲載された小澤征爾の「私の履歴書」が加筆・修正の上、「おわらない音楽 私の履歴書」として書籍化された。さすがに本人が語る言葉だけあって、おもしろい。新聞連載ならではのツルンとした読みやすさもあって、一気に読んだ。小澤征爾本としては以前に「ボクの音楽武者修行」という名著もあって、昔のエピソードなどはこの本などで読んだものと重なるところも少なくないけど、もうそこから時間も経ってるわけで、現時点でのバージョンアップとして、また近年の話題も含めたものとして、貴重な一冊。
●やっぱり若い頃の話のほうがおもしろいのは、「私の履歴書」ならだれであれそうなるのかも。時代の大らかさ、周囲の人々の懐の深さを感じる。特に「N響のボイコット」や「日フィル分裂」の章のインパクトが強い。それにしても「僕には全然経験が足りなかった。ブラームスもチャイコフスキーも交響曲を指揮するのははじめて」という若い指揮者が、N響のツアーや定期演奏会の指揮台に立ってたわけだから、今にして思うと考えられないような時代(60年代前半)である。同時に小澤征爾はその時点でカラヤンの弟子でもありバーンスタインの副指揮者でもあったわけで、なんというか、違う遠近法で描かれた絵を見ているような気分になる。
●ブザンソン国際指揮者コンクールに優勝した直後の話も印象深い。「コンクールに優勝すれば仕事が次々来ると思っていたのに、ほとんどゼロ。人生で一番、不安な時期だった」。でもそこからタングルウッドに渡り、さらにヨーロッパでカラヤンの弟子になるまで約一年。どれだけ濃密な時間が流れていたのかと思う。
「失われた足跡」(カルペンティエル著/岩波文庫)
●夏休みは名作を読もうシリーズ(別に休んでないけど)。今年、岩波文庫から復活したアレホ・カルペンティエルの「失われた足跡」(牛島信明訳)。音楽家を主人公にした小説の西の横綱がカズオ・イシグロの「充たされざる者」だとすれば、東の横綱は本書にちがいない。
●主人公は大都会で生計を立てるために不本意ながら商業音楽を書く作曲家で(名前はどこにも出てこない)、すっかり日常に倦んでいる。ところがふとしたきっかけから、未開部族の原始楽器の探索を依頼されて、南米のジャングルの奥地へと旅立つことになる。当初は探索とは見せかけで、日常から解放されて優雅な休日を過ごそうと企んでいたのだが、主人公は同行していた愛人を捨てて、事の成行きから本当に未開の土地へと旅をする。あたかも時間を遡るかのような原始への旅は主人公の意識に様々な影響を及ぼし、目的の楽器を見つけても終わることなく続く。やがて、主人公は奥地の知られざる小集落にたどりつき、文明社会から隔絶された楽園が人間の本来的な力を目覚めさせる……。
●カルペンティエルといえば魔術的リアリズムだが、同じラテン・アメリカ文学でもガルシア・マルケスのように現実と魔術の境目がなくなるというような描き方ではなく、同じ時間軸に現代社会と過去の時間を生きる未開地の人々が併存していることから生まれる眩惑が物語のキモ。そして、カルペンティエルは音楽的な教養に恵まれた人だけに、容赦なくポンポンと専門用語が飛び出す。
わたしはブラヴーラ、コロラトゥラ、そしてフィオリトゥラなどのぎょうぎょうしい伝統を誇示しながら展開されるはずの、その夜のオペラの奇矯さを楽しむつもりでいた。しかし、すでにランメルモール城の庭の上に幕は開いていたのに、そのおかしな遠近法による古くさい背景、人々の駄弁、トリック装置などが、わたしの風刺心をかきたてることはなかった。
なんて描写をするっと書くんすよね、ドニゼッティのオペラを見ている場面として。訳書では細かく訳注が入るので、一応の説明はあるにせよ。
●主人公は当初、都会から連れ立ってきた若くて美しい愛人ムーシュと行動をともにするが、やがて現地民の女ロサリオをパートナーとする。この二人の描き方が実に味わい深いんだけど、特に占星術師のムーシュに対する辛辣さは痛快。気のきいたことをいうインテリを気取ってはいるんだけど、それはごく狭い世界でしか通用しない借り物の気取りであって、奥地への旅で圧倒的な情景を目の前にしても、まだ都会のサークルの人間関係を引きずったものの言い方しかできない。目の前にある対象物と自分との関係に向き合うのではなく、いつも自分と周囲の人々との関係性だけを眺めている若い女。ついに主人公はムーシュの鈍さ、薄っぺらさに辟易する。
しかしわたしの彼女に対する嫌悪感は、ある女にうんざりした男が、その女の賢明な発言に対してさえいらいらするといった、いわば、飽和点にまで達していたのである。
もっとも、作者はムーシュに対してだけではなく、主人公に対してさらに手厳しいのだが。
●「失われた足跡」の主人公が音楽家であるのには必然性があって、未開の地にたどりついた主人公は、死者を前にした祈祷師の声から、始原的な「音楽の誕生」とでもいうべき場面に遭遇する。この圧巻の場面をカルペンティエルは書きたくて、物語を逆算して組み立てたのではないだろうか。そして物質文明から遠く離れて、別の時間軸で生きるようになった主人公が、その結果として創作力を回復して真摯な作品「悲嘆の歌」を作曲するが、作品は生み出すことができるもののそこには紙がない。この示唆的かつアイロニカルな展開も巧み。広げられた風呂敷はあるべき形で閉じられ、川を遡り時間を遡った音楽家の旅は、苦く、奥行きのある余韻を残す。