●先日の「殊能将之 読書日記 2000-2009 The Reading Diary of Mercy Snow」を読み終えて充足しつつ、やはりこれが読書日記である以上、ここで触れられているなにかを続いて読まなければおもしろくない。が、ポール・アルテにはどうしても食指が動かず、ひとまず未読だったジーン・ウルフの中短篇集「デス博士の島その他の物語」(国書刊行会「未来の文学」)を手に取る。傑作であることは承知していても、そう簡単には読む気になれないのがジーン・ウルフ。華麗とされる原文体や巧緻を極めた物語構造といった評判に身構えつつも、今さらながら。
●表題作「デス博士の島その他の物語」がすばらしい。主人公の少年は離婚した母親とともに暮らしている。少年は「デス博士の島」という、どうやらH.G.ウェルズの「モロー博士の島」をモデルにしたような冒険小説を読んでいる。少年の空想は小説内の登場人物たちを次々と現実世界に呼び寄せる(それが見えるのは少年だけ)。少年の空想を通してだんだん現実世界の様子が読者にも伝わってくるが、母親はドラッグ中毒のようだ。少年は目の前に起きていることと「デス博士の島」の物語世界を行ったり来たりしながら、現実を認識する。
●悪役であるデス博士に魅了されている少年は、最後に本を放り出そうとする。少年はデス博士に向かって、最後はもうデス博士が死ぬとわかっているから読みたくないという。デス博士は少年にやさしく微笑む。「だけど、また本を最初から読みはじめれば、みんな帰ってくるんだよ」「きみだってそうなんだ。まだ小さいから理解できないかもしれないが、きみだって同じなんだよ」。デス博士のあいまいな一言で物語は終わる。どうとでもとれるが、ひとまずは物語内物語の存在であるデス博士が、少年に向かって、少年自身も物語内存在であることを指摘するというメタフィクション的な仕掛けになっている。本を読み終えるのが惜しいという読書体験の普遍的な喜びを、そのまま物語内世界に組み込んだものともいえる。
●一種の言葉遊びみたいなものだが、この本には表題作「デス博士の島その他の物語」のほかに、「アイランド博士の死」「死の島の博士」という短篇が収録されている(それぞれ直接的なつながりはない)。さらに念入りにも、前書きのなかで「島の博士の死」という前書き内ショートストーリーまで登場する。とすると、この本を読んだ後に聴くべき音楽といったら、ラフマニノフの交響詩「死の島」しかないだろう。これでラフマニノフが「ドクター」の称号を持っていれば、「博士の死の島」となって完璧なのだが……。
Books: 2015年8月アーカイブ
「デス博士の島その他の物語」(ジーン・ウルフ著)
「ソーラー」(イアン・マキューアン著/新潮社)
●ぜんぜん新刊ではなくて、2011年の夏に刊行された本なのだが、今ごろ読んで身震いした。イアン・マキューアン著の「ソーラー」。世の中には気持ちが悪いほどタイムリーに世に出る本があるのだなあ。2011年は3月11日以来しばらくの間まったくフィクションを読む気になれなかったので、この本もスルーしてしまっていたのだが、もしあの年に読んでいたら、とてつもない破壊力があった。
●「ソーラー」とは太陽光発電のことを指している。主人公は若い頃にノーベル賞を受賞した物理学者ビアード。この物理学者がモラルのかけらもないような人物で、とことん打算的で、欲深く、好色で見境がない。ひたすら欲望に忠実に生き、かつてノーベル賞を受賞したという栄誉に自己満足を抱きつつ、名声を巧みに利用して世の中を渡り歩く。そんなビアードが、ひょんなことから同僚から新方式の太陽光発電についてのアイディアを盗み、大儲けを狙う……。この人物像が実に魅力的で、インテリの世界の描かれ方も秀逸。表層のストーリーだけでも抜群におもしろい。
●が、マキューアンのこと、それだけにはとどまらない。この本で冴えまくっているのは「ポストモダンな連中」に対するイジワルな視線。マキューアンだって現代の創作者であるので、これまでの作品に「書くことについて書く」といったようなポストモダン的視点を盛りこんできたわけだが、本書では主人公を物理学者に設定して、人文系の一部の困った人たちへのとまどいを語らせる。
ビアードは、一般教養課程では奇妙な考えが幅をきかせているという噂を聞いていた。人文科学科の学生たちは、科学は単にもうひとつの信念の体系にほかならず、宗教や占星術以上にあるいは以下に真実であるわけではない、と常日頃から教えられているというのだが、これは文科系の同僚に対する誹謗中傷にすぎない、と彼はずっと考えていた。結果を見れば、何が真実なのかはあきらかなのだから。だれが司祭が考え出したワクチンを接種しようとするだろう?
あるセミナーで社会人類学出身のフェミニストの女性科学者に対して、ビアードはまるで本人はそうと意識せずに失言して、彼女を激高させる。するとビアードの耳元で量子重力理論の専門家がささやく。
「まずいことになりましたな。彼女はポストモダンなんですよ、空っぽの酷評者、強烈な社会構成主義者です。連中はみんなそうですがね」
別の場面、機関投資家向けの温暖化対策の会議では、レセプションみたいなシーンで都市研究と民俗学の専門家がビアードに話しかける。
「じつは、気候科学によって産み出される物語のかたちに興味をもっているんです。これは、もちろん百万人の作者による、一種の叙事詩ですからね」
ビアードは警戒心を抱いた。(中略)物語性を云々する連中は、現実について歪んだ見方をしており、しかもすべての見方が等価値だと信じている。しかし、ビアードは「それはなかなか興味深いですね」と言う必要さえなかった。みんなが一斉にカップとソーサーを置いて、あわてて自分の席を探しはじめたからだ。
爆笑。これを書いているのが自然科学の人ではなく、小説家だというアクロバティックな構図がキモ。どうしてマキューアンはこんな視点で話を書けるんだろう。
●貪欲さがそのまま人間になったような主人公像が、際限なく消費するわたしたちの社会の比喩となっているのはたしかだろう。でもマキューアンなので、それをたしなめるような話にはなっておらず、むしろ底なしの欲望こそが真に問題解決に近づけるという、どちらかといえば市場主義の効用のほうを描いている。そして、おしまいまで読むと、本当に最後の最後の段階で仰天するのだが、どこから見てもそんな話のようには見えなかったのに、この話は「愛の物語」に着地している。この巧みさには舌を巻くしか。
「殊能将之 読書日記 2000-2009 The Reading Diary of Mercy Snow」(講談社)
●ようやく読んでいる、「殊能将之 読書日記 2000-2009 The Reading Diary of Mercy Snow」(殊能将之著/講談社)。中身は殊能将之のMercy Snow Official Homepage(もう今はない)にあった読書日記をまとめたもので、すでにほとんどはリアルタイムで読んでいたものだが、こうして本になったものを手にすると、改めてその鋭才に驚嘆する。ミステリ作家殊能将之は2013年に急逝した。いまだにそのことを信じ切れていないのだが……。
●殊能将之、というか学生時代から彼を知る者にとってはTさんであるわけだが(ワタシの一学年上だった)、Mercy Snowでの文体や、さらに後にTwitterでの話しぶり、口ぶりは学生時代の頃のそれとほとんど変わっていない。映画とか音楽の話だとか、料理の話なんかは、当時のしゃべっている口調や表情を今でも明確に思い出すことができる。最後の長篇となった「子どもの王様」を発表する前、「次の長篇の参考資料としたいからワーグナーの『パルジファル』でおすすめのCDがあったら教えてほしい」というようなメールをTさんからもらったことがある。「すごいよ、これは。パルジファル仮面が出てくるんだぜー」というのだが、そうだなー、でも「パルジファル」って殊能将之読者のいったい何パーセントに通じるネタなんだろうかと心配になったような記憶が。出版された本では「パルジファル仮面」じゃなくて、「神聖騎士パルジファル」になってたかな、テレビ番組のヒーローとして。Tさんは博覧強記の人なので音楽についても詳しかったが、クラシックでいえばロマン派のレパートリーには一切興味を示さず、バルトークやクセナキスといった20世紀音楽の一部を好んでいたと思う。もう彼が「殊能将之」として世に出た後だったと思うけど、なにかの機会に東京で会ったときにヤナーチェクの「グラゴル・ミサ」がカッコいいというような話をしたことがあったっけ。基本、クラシックの人ではないんだけど。
●で、この「殊能将之 読書日記」はささっと読むということがどうにもできず、まだ序盤を読んでいるにすぎないのだが、今、延々とフランスのミステリ作家ポール・アルテのあらすじを読まされていて、さすがに「もうアルテはいいんじゃないのか」という気になっている(笑)。ごめん、アルテ、一冊も読んでない。それにしてもこれは氏の恐るべきところの一例に過ぎないんだけど、ささいな用事があってフランス語の文法書と辞書を買ったというところから始まって(そのなにげなさがポーズであったとしても)、フランス語の原書でアルテの未訳長篇を次々と読破して、その梗概をウェブで公開してくれているわけだ。信じられない。その後、アルテはいくつも邦訳が出ていて、今ならこれらの多くを日本語で読めるのだろうが……。ディクスン・カーすら読んでいない自分のような者には、いくつも奇抜なあらすじを読んで「この人ってフランスの島田荘司みたいな人かな」ととりあえず思ったわけだが、どうしよう……。一冊くらいは読んでみるべき?
●Tさんが殊能将之として「ハサミ男」でデビューしたときは、心底びっくりしたっけ。書店で手に取って、献辞のところ(別の知人のペンネームが書いてある)を見て、くらっと来た。恐ろしいほどの才能を持った人だったので、学生の頃からいずれ世に名前が出るはずの人と認識していたけど、それはたぶん批評か編集か翻訳の分野だと思い込んでいたので、よもや創作、しかもミステリ畑に行くとは思いもしなかったもの。