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Books: 2017年12月アーカイブ

December 27, 2017

「ブレードランナー2049」で「ピーターと狼」と「青白い炎」

●先日の映画「ブレードランナー2049」の話の続き。この映画とナボコフの「青白い炎」との結びつきが話題になっている。主人公のレプリカントは任務を終えて帰還するたびにメンタルテストを受けて、そこでよくわからないキーワードのようなものを連呼するシーンがあるのだが、あれがナボコフの「青白い炎」からの引用なんだとか。この「青白い炎」というのが一筋縄ではいかない怪作で、架空の詩人による長篇詩に架空の学者による膨大かつ詳細な注釈が添えられたという構成を持つメタフィクション。本編である長篇詩より注釈のほうがはるかに長い。
●ワタシは未読なんだけど、仮に「青白い炎」を読んでいたとしても、映画を見て引用に気づくなんてことは不可能だったと思う。映画での字幕と訳文は異なるが、おそらくこの部分だと思われるところを、岩波文庫の「青白い炎」(ナボコフ著/富士川義之訳)から引用しておこう。

一個の主要細胞内で連結した細胞同士を
さらに連結した細胞内でさらにそれらを連結した
細胞組織を。そして暗黒を背景に
恐ろしいほど鮮明に、高く白く噴水が戯れていた。

●ちなみにこの長篇詩、ここだけ見るとなんとも小難しそうだが、たとえば「地方紙『スター』からの珍しい切り抜き。レッド・ソックス、5対4でヤンキースをくだす/チャップマンのホーマーで」なんていう、妙にローカルな一節も出てくる。
●さて、「ブレードランナー2049」にはクラシックの名曲が一曲登場する。主人公が携帯する情報端末から、ときおり聞こえる通知音が、プロコフィエフの「ピーターと狼」の冒頭主題なんである。これは主人公の恋人であるAIのジョイの起動音みたいなもので、全編を通じてなんども聞こえてくる。この映画にはナボコフだったり、タルコフスキーへのオマージュだったり、プロコフィエフだったりと、ロシア的な題材がちらちらと見え隠れするのだが、それにしてもどうして「ピーターと狼」なんだろう。「ピーターと狼」のあまりに簡潔なストーリーに重要な意味があるとは思えないので、ひとつにはこれが動物の音楽だから、ということがあるのだろう。先日も書いたが、おおもとの原作であるディックの「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」で描かれるように、この世界では動物はほぼ絶滅しており、超貴重品。だから羊だったり馬だったりといろんな動物モチーフが意味ありげに登場する。ロシアの動物の曲といえばこの曲。主人公ピーターが小鳥やアヒル、猫、狼たちに囲まれているという図式は、非人間だらけのこの映画と重なるところがある。
●もうひとつは、この組曲では各楽器がキャラクターを担っていて、フルートは小鳥、オーボエがアヒルで、クラリネットが猫、ホルンが狼を意味する。この情報端末が鳴らすのは冒頭主題、つまり弦楽器によるピーターの主題。だからこの情報端末という楽器 instrument にジョイという人物の役割をあてがっている、とも解釈できる。

December 21, 2017

「機巧のイヴ」(乾緑郎著/新潮文庫)

●昨日の「ソラリスとブレードランナー2049」の話の続きだが、そういえば「人間のようでいて人間ではない者」の話を最近読んだなと思い出したのが、乾緑郎著の「機巧のイヴ」(新潮文庫)。これは舞台設定が秀逸で、時代小説の枠組みを借りたアンドロイド小説とでもいえばいいのだろうか。江戸のようでいて江戸ではない世界を舞台に、機巧師と呼ばれる男と、精巧な機械でできているが人間とは見分けのつかない美女、伊武(イヴ)の物語が描かれている。スチームパンク的な「懐かしい未来」を和風でひとひねりした感じ。連作短篇集の形になっていて、とてもおもしろく、かつ読みやすい。
●この男女のキャラクターは、「ブレードランナー2049」の主人公とAIのカップルとはまるで違っているのだが(なにせ時代小説なので)、しかしどこかP.K.ディックを思わせるところもある。たとえば、闘蟋というコオロギを戦わせる競技が出てくるのだが、そこに機械でできた人造コオロギが紛れ込んでいるらしい……などといった筋立ては、「ブレードランナー」の原作「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」に一脈通じる。「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」の世界では人間以外の動物は超貴重品で、昆虫一匹に至るまで「本物」は保護されており、人々は本物の代わりに「電気羊」のような精巧なイミテーションに甘んじている(昆虫ですら「本物」の命は尊いのに、感情や知性を持ったレプリカントの命には微塵も価値が認められていない、という対照が原作にはある)。
●機械の女性に恋をするといった話は昔からいくつもあるだろうが、オペラならオッフェンバックの「ホフマン物語」だ。詩人ホフマンはオランピアが自動人形であると知らずに恋に落ちる。これも「機巧のイヴ」がそうである程度にはSF伝奇ロマンといってもいいような話(ちょうど2月に新国立劇場でフィリップ・アルロー演出の再演がある)。ここでのオランピアはいかにもゼンマイ仕掛けの「機械」なのだが、これを「ブレードランナー2049」のAIみたいに今風に進化させた演出がどこかにあってもおかしくない。

December 20, 2017

「ソラリス」と「ブレードランナー2049」

●今、NHK Eテレの「100分 de 名著」でスタニスワフ・レムの「ソラリス」がとりあげられている。全4回の第3回まで見たが、大変おもしろい。ゲストは「ソラリス」の訳者でロシア・東欧文学研究者の沼野充義氏。実のところ原作「ソラリス」を読んだのは大昔の旧訳なので内容はずいぶん忘れていたのだが、これをきっかけに新訳で再読したくなる。惑星ソラリスの探査に赴いた科学者たちは、そこですでに亡くなっている恋人など、そこにいるはずのない人物と出会い、自身の正気を疑う。どうやらそれらはソラリスの海が人間の深層意識から生み出した存在のようなのだが、人間にはソラリスの海とコミュニケーションをとる手段がない。絶対的に相互理解不能な他者を描いたのが「ソラリス」……と記憶していたのだが、番組を見ていて主人公と元恋人(しかし実体はソラリスの海が作り出した何か)との間の物語を思い出した。
●ここで登場する元恋人ハリーは、一昔前ならお化け屋敷にあらわれる幽霊あたりで済んだところだろう。死んだ者がよみがえる話は珍しくない。しかしハリーを異星の海が作り出した存在とすることで、レムはこの幽霊に葛藤させてみせた。最初は主人公がハリーとは何者かと畏れ、苦悩する。人間とそっくり同じ姿形をしていて、人間としての思考も感情も持っているハリー。主人公はやがてその存在を受け入れることにしてしまう。ところが、こんどはハリーが「自分とは何者か」と問いかける。自分は実体のない、ただの幽体なのか。自分の存在が恋人を苦しめてしまっていることに悩み、自己犠牲を決断する……。
●で、はっとしたのは先日映画館で見た「ブレードランナー2049」とのシンクロニシティ。「ブレードランナー」ももともと非人間=レプリカントの物語だった。原作のP.K.ディックとレムとの間にテーマの共通性があることは不思議でもなんでもないが、ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督による「ブレードランナー2049」では、主人公がレプリカント、その恋人が物理的実体を持たないAIとして描かれていた。このAIはクラウド上の存在で、ネットワークにつながっていればどこからでも呼び出せるわけだが、「ソラリス」で「海」として描かれていた知性が、昨今風のクラウド、つまり「雲」と比喩されるところにあるのがまずおもしろいところ。もうひとつは主人公レプリカントの最後の場面での決断だ。彼はもっとも人間らしい行為として、ある種の自己犠牲を果たす。自己犠牲こそが人間とそれ以外を分け隔てるものだ、というのである。ここに「ソラリス」でのハリーの姿が重なってくる。
●音楽ファンにとって自己犠牲といえば、まっさきに思い出すのはワーグナー「神々の黄昏」の「ブリュンヒルデの自己犠牲」。ブリュンヒルデの場合は半神半人か。ドキッ! 非人間だらけの自己犠牲大会。もっともブリュンヒルデは神性を失っているから、人間扱いとすべきだろうか。

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