●「このミス」で上位に入っているのを見て年末年始に読んだ「いくさの底」(古処誠二著/KADOKAWA)なんだけど、なんとなく気になって、途中から拾い読みで再読してしまった。とてもよくできたミステリで、再読すると「あ、なるほど、だからここはこんなふうに書かれていたのね」ともう一度味わうことができる。舞台は第二次大戦中のビルマの小村。この山岳地帯の村に警備駐屯することになった日本軍に、通訳として主人公の民間人が同行している。隊の少尉が何者かによって殺され、いったいだれがなんのために、というところから話がスタートする。戦時下の特異な状況を背景にした謎解きが鮮やかで、戦争小説としてもおもしろい。血なまぐさい戦闘シーンは一切なく、むしろ戦闘が起きていないときの戦場の描き方として秀逸。
●特異な状況を設定して閉鎖的な人間集団を描くという点では先日の「屍人荘の殺人」と同じなんだけど、あちらがジャンル小説のパロディ的な装いをまとっているのに対して、こちらは真に迫ったタッチ。実質的な探偵役ともいえる「副官」が、ずっと物語の背景にいたまま真相に迫るという趣向も吉。
Books: 2018年1月アーカイブ
「いくさの底」(古処誠二著/KADOKAWA)
写真集 Moving Music / Die Berliner Philharmoniker & Sir Simon Rattle(モニカ・リッタースハウス/Alexander Verlag Berlin)
●うーむ、これは立派な写真集だ。ズシリと重い1650gの Moving Music / Die Berliner Philharmoniker & Sir Simon Rattle。つまりベルリン・フィルの写真集なんである。スゴくないすか。歌手の写真でもなく、指揮者の写真集でも(ほぼ)なく、オーケストラの写真集。写真家はモニカ・リッタースハウスという人で、昨年のラトル&ベルリン・フィル記者会見にも随行していて、壇上から紹介されていた。10年以上にわたって、本番からツアー、舞台裏に至るまで、さまざまな場面でベルリン・フィルのメンバーを撮影している。アジアも含めて世界各地を訪れるベルリン・フィルの姿がここに。もちろん、ラトルも撮影されているし、ほんの少しだけ客演指揮者も写っているが、主役はオーケストラ。ワタシの感覚としては、これはかなり作家性の感じられる写真集で、一枚一枚の写真がとても雄弁で、かつ美しくデザインされている。写真から漂うテーマは、プロフェッショナリズム、チームワーク、神秘性、ユーモア、スター性、孤独、そして喜びといったところだろうか。こんなによくできているんだから、表紙と背表紙に写真家の名前を入れてくれればよかったのに(扉には入っている)。
●今のベルリン・フィルを見ていると、歌手がスターの時代、ソリストがスターの時代、指揮者がスターの時代に続いて、オーケストラがスターの時代が来つつあるという気配をうっすらと感じる。その場合、個のプレーヤー(コンサートマスターや首席奏者)ではなく、オーケストラそのものがスターになるはずという確信を、この写真集は抱かせる。
●たとえば、今日からベルリン・フィルとウィーン・フィルのメンバーが全員総とっかえしたとして、昨日までベルリン・フィルのファンだった人はどっちのファンになるか。え、そんなのウィーン・フィルのファンになるに決まってるって? いやいやいや、そうとも限らないんでは。つまり、マリノスとFC東京の選手が全員総とっかえしたとしても、ワタシはマリノスのファンであり続けることは確実なんすよ。プレーヤーの継続性より、クラブのアイデンティティのほうが優先される領域なので。
ミステリ批評家ハロルド・ショーンバーグ
●ハロルド・C・ショーンバーグといえばニューヨーク・タイムズで長年活躍した高名な音楽評論家。日本でも「ピアノ音楽の巨匠たち」をはじめ著書が翻訳されているが、著書を読まずとも名前をどこかで目にしているクラシック音楽ファンは多いはず。が、この人が同時に覆面ミステリ批評家としても活動していたことを知っているだろうか。ワタシは偶然知ったのだが、ニューゲイト・キャレンダーの筆名で同じニューヨーク・タイムズのミステリ書評を担当していたというんである。
●どうやってそれを知ったかというと、 ドナルド・E・ウェストレイク著の「踊る黄金像」(木村仁良訳/早川書房)の訳者あとがきにそう書いてあるのを見つけたから。こんな記述だ。
ホセとエドワルドとペドロが飛行機に乗っているとき、「台詞にSの音がないのに、非難の歯擦音を出すのは人間にとって不可能だが、エドワルドはその不可能を実行」する。Sなしの歯擦音を出す(ヒス)は不可能だとしつこく主張しているのは、「ニューヨーク・タイムズ・ブック・レヴュー」のミステリ書評子ニューゲイト・キャレンダーである。キャレンダーはいちおう覆面書評子だが、その正体は音楽評論家のハロルド・シェンバーグなのだ。ミステリ小説の中で音楽や音楽家の話が出てくると、ミステリのことなどはそっちのけで、音楽関係の間違いをアラ捜しする……
(ええい、率直に言ってしまおう)キラワレ者である。
●と、こんな感じで書かれていて、ミステリ批評家としての芸風もなんとなく伝わってくる。Wikipedia英語版でのハロルド・シェンバーグの項によれば、20年以上もニューゲイト・キャレンダー名義でミステリ書評をしていたというのだから、この分野でも十分に実績豊富といっていい。ニューゲイト・キャレンダーという筆名もなんだかいわくありげ。チェス・プレイヤーとしても大した腕前だったというから、ずいぶんとなんでもできる人である。
「屍人荘の殺人」(今村昌弘著/東京創元社)
●デビュー作で「このミステリーがすごい!2018年版」第1位、「週刊文春」ミステリーベスト第1位、「2018本格ミステリ・ベスト10」第1位の三冠を達成してしまった「屍人荘の殺人」(今村昌弘著/東京創元社)。あまりの評判のよさにつられて読んだが、これはもう驚愕の一冊。大学ミステリ研の登場人物たちが、「雪山の山荘」ならぬ夏合宿のペンションで外界から閉ざされた環境に置かれ、そこで密室殺人が起きる。文体や人物描写もまったくジャンル小説的で、古典的な本格ミステリのパロディのように始まるのだが、途中で世界が一変してしまう。登場人物のひとりにまるでワタシ自身のような人が出てきて、これは自分のために書かれたミステリとしか思えなかった。
●で、うっかりamazonのカスタマーレビューを読むとぜんぶネタバレを書いている困った人がいるので、版元の紹介文を読んで買うと決めたらさっさと買うのが吉。自分は本格ミステリ・ファンではないので、トリックに関してはいくらよくできていても「んなことするヤツがいるかよ」と突っ込まずにはいられないのだが(エレベーターのあれとか)、それでもまったく問題なく楽しめた。ミステリ側からだけではなく、別のジャンルの側から眺めたときにもクラシカルなテイストがあって、読みたかったのはこれだ!と快哉を叫びたくなる。爽快。