●ヨーゼフ・メンゲレといえば、アウシュヴィッツの収容所で大勢のユダヤ人たちを死に至らしめ、残虐かつ非人道的な人体実験を行った「死の天使」と呼ばれるナチスの医師。映画「ブラジルから来た少年」に出てくる狂信的医学者や、映画「マラソンマン」の拷問歯科医のモデルにもなっている。アウシュヴィッツ解放後、メンゲレは身分を偽って南米に潜伏する。最初はアルゼンチンへ。そしてパラグアイ、ブラジルへ。すぐそこまで追手が迫っていたにもかかわらず、メンゲレは30年に渡って逃亡生活を続け、最終的に捕まることなく自然死を遂げた。いったいどうやって逃げ続け、なにをやっていたのか。
●そんなメンゲレの逃亡生活を丹念に描いたのが、ノンフィクション小説なる触れ込みの「ヨーゼフ・メンゲレの逃亡」(オリヴィエ・ゲーズ著/東京創元社)。これがめっぽうおもしろい。最初の章は、仲介人に金を払って、船旅でアルゼンチンに渡ったものの、約束していたはずの迎えの者は何時間待っても来ず、港でひとり取り残されて途方に暮れるシーンから始まる。逃亡モノというのはなんであれ主人公に共感してワクワクしてしまうものだが、では主人公が史上まれに見る凶悪な人物だった場合ははたしてどうなのか。しかもこの主人公はクラシック音楽の愛好家だったりもする。
●メンゲレが最後まで逃げ切ることができたのは、ツキも大きいわけだが、大前提として資力があってこそというのはまちがいない。実家が裕福。アルゼンチンに渡った後、いったんはもう安全だろうと見計らって実名のパスポートを回復していたりもする。逃亡生活といいつつ暮らしぶりはリッチ。ところが、ナチス残党狩りが激しくなると、ふたたび別人になりすまし、ブラジルの片田舎のハンガリー人農夫の家族と同居する。この奇妙な依存関係が興味深い。農夫一家にメンゲレの正体はばれてしまうのだが、メンゲレは一家に対して横柄にふるまい支配し、一方で一家はメンゲレを金づるとして利用し、貢がせる。どちらも互いを心底嫌いながら、必要とする状況が続く。そこから年月が次第に変化を生み出し、最後には両者の依存関係のバランスも崩れてしまうのだが、はたして最晩年の姿をどう形容したらいいものやら。
Books: 2019年1月アーカイブ
January 16, 2019
「ヨーゼフ・メンゲレの逃亡」(オリヴィエ・ゲーズ著/東京創元社)
January 4, 2019
「カササギ殺人事件」(アンソニー・ホロヴィッツ著/創元推理文庫)
●昨年、「このミス」をはじめとする年末ミステリランキングで4冠を達成したという「カササギ殺人事件」(アンソニー・ホロヴィッツ著/創元推理文庫)を読む。抜群におもしろい。主人公は女性編集者で、担当する売れっ子ミステリ小説が書いた最新作のタイトルが「カササギ殺人事件」。つまり「カササギ殺人事件」というのは小説内小説のタイトルでもあって、これがアガサ・クリスティばりの古典的なミステリ小説になっている。この小説内小説だけでも十分にひとつの作品として成立しているのだが、その外側にある主人公の世界でも事件が起きる。相似形の入れ子構造になった二重のミステリ。そのどちら側でも鮮やかな謎解きがあり、しかも登場人物たちが実に味わい深い。
●いまどきクラシックなスタイルの「物語」を綴ろうと思ったら、ただまっすぐに書くことができないのは小説も音楽も同じ。物語をそのまま差し出すという恥ずかしさにだれも耐えられないので、物語についての物語にするといったメタフィクション化が必要になる。そこで、あまりにクラシックなスタイルのミステリを小説内小説に落とし込んでいるわけだが、その外側もやはりクラシックなミステリになっている。加えて、これは「書くという行為について書く」小説でもある。登場人物の売れっ子ミステリ作家の人物像がいかにも「こじらせてしまった売れっ子」で、その歪みっぷりが痛々しくも生々しい。作家と編集者の関係は、そのまま創る人とファンの関係でもある。編集者が作品のファンだけど作家のことは嫌っているという設定がすごく効いている。