●今年もラ・フォル・ジュルネの日仏共通オフィシャルブックが刊行された。「旅する作曲家たち」(コリンヌ・シュネデール著/西久美子訳/アルテスパブリッシング)。これは毎回、音楽祭のテーマに応じてフランスの音楽学者が書き下ろしている本で、「音楽祭の聴きどころを紹介する実用ガイドブック」ではない。ルネ・マルタンの掲げるテーマを音楽史的な観点から敷衍して、聴衆の好奇心を刺激してくれる一冊。旅から生まれた音楽がどれほど多様性に富んでいるか、そして旅がどれだけ作曲家のインスピレーションを刺激してきたかがよくわかる。登場する曲や作曲家のなかにはまったく(あるいはほとんど)知らいないものも少なくなく、ためになる。あと、フランス人視点なので、北アフリカ方面への手厚さが特徴として出ている。そのあたりは、今回の音楽祭のプログラムにも反映されている。
●で、特におもしろいと思ったのは、19世紀欧州における旅の交通手段について。よく曲目解説でだれがどこに旅をして曲を書いたっていう話は見かけるけど、その旅がどういう手段を用いてどれだけ時間をかけた旅なのかはあまり書かれないもの。ローマ賞を受賞したフランスの作曲家が、ローマに行くまでにどれくらいかけているのか。グノーは1839年12月5日にパリを出発して、翌年1月17日にメディチ荘に到着している。交通手段は馬車だ。大変な苦労である。ところが後年、グノーはこの長旅をとてもすばらしい体験だったと述懐し、それに対して今どきの若者は機関車で高速移動させられてかわいそうに、みたいにぼやくんである。なんというか、今も昔も年長者のボヤキは変わっていない。かと思えば、ヴィヴァルディはヴェネツィアの街を一度も徒歩で移動したことがなく、つねに四輪馬車かゴンドラで移動してたのだとか。今で言えばすぐそこに買い物に行くにもハイヤーを頼む、みたいな感じ?
●抱腹絶倒なのはベルリオーズのロシア旅行。ロシアまでは汽車で行けたが、その後は橇(そり)に4日間ひたすら乗り続けたというのだ。ベルリオーズは言う。フランス人たちは橇といったら雪の上をすいすいと走る乗り物だと思っているが、現実はとてもそんなものじゃない。荒れた道をガツンゴツンと激しく揺さぶられながら轟音とともに進むのであり、夜なんて一瞬も居眠りしてはいけない。おまけに凍死しそうなくらい寒いわ、揺れで橇酔いするわでもう大変だ……なんていう調子なのだが、自慢げに武勇伝を語るベルリオーズの姿が想像できて、なんともおかしい。
Books: 2019年4月アーカイブ
「旅する作曲家たち」(コリンヌ・シュネデール著/アルテスパブリッシング)
「緋色の研究」新訳版 シャーロック・ホームズ
●先日の「シャーロック・ホームズの冒険」に続いて、そのままシャーロック・ホームズ・シリーズを新訳で読んでいる。もともとはアンソニー・ホロヴィッツが書いた続編「シャーロック・ホームズ 絹の家」に感心したことがきっかけなのだが、コナン・ドイルの原典を読んでみると、これが物語として古びていないことに驚かされるばかり。19世紀末に書かれた話を、21世紀の日本語訳で読んで違和感がない。もちろん、それは翻訳がいいからでもある。そして、19世紀末のロンドンになにがあって、なにがなかったのかがわかる。移動手段は短距離なら馬車、長距離なら鉄道。馬車はほとんどタクシーの感覚。急ぎの要件は電報で伝えるのが一般的。他人を訪ねるときは、まず電報で何時に行くと伝えてから出向く。人を使う「メッセンジャー」を利用する場合もある。これはバイク便感覚か。ピストルはある。コカインもアヘンもある。ホームズはコカインの愛用者だ。そしてホームズはヴァイオリンを弾く。楽器はストラディヴァリウス。当時の価格はどれくらいだったのだろう。
●さて、新訳にもずいぶんたくさんの種類が出ているのだが、角川文庫の駒月雅子/石田文子訳と光文社文庫の日暮雅通訳の両方から気の向くままに選んで読み進めている。どちらも訳はなめらか。角川文庫は表紙のイラストも魅力。今風で、デザインも良好。光文社文庫は訳者の注釈が秀逸で、多くを学べる。Kindleで読むと本文と訳注の往復が苦にならないのが紙にはない利点。惜しいのは表紙デザインでKindle Paperwhiteのサムネイルだと題名が読みづらい。
●長篇「緋色の研究」を読んで特にそう思ったが、コナン・ドイルってトリックだとかミステリーの仕掛けのおもしろさ以上に、冒険譚の語り口が抜群にうまい。同じ事件を前半はホームズとワトソンの物語として、後半は犯人側の物語として書いているのだが、後半のほうが生き生きとしている。この「緋色の研究」にはホームズとワトソンが初めて対面する場面が出てくるのだが、その部分を2種類の訳で比べてみよう。
「初めまして」ホームズは誠意のこもった口調で言い、外見に似合わぬ強い力で私の手を握りしめた。「アフガニスタンに行っていましたね」
「えっ、どうしてそれを?」私は唖然とした。
「たいしたことじゃありません」ホームズはくすくす笑いながら言った。「それよりもヘモグロビンだ。この発見がいかに重大かは説明するまでもないでしょう?」
「初めまして」ホームズは温かくわたしの手を握ったが、思いがけない力の強さだった。「あなた、アフガニスタンに行っていましたね?」
「えっ、どうしてそれが?」わたしはぎょっとした。
「いや、なんでもありません」ホームズはひとりでくすくす笑っている。「それより、大事なのはヘモグロビンの問題です。この発見がとても重要なことはもちろんおわかりですよね?」
●大事なシーンだと思って選んでみたけど、どちらもホームズは「くすくす笑って」いた。