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Books: 2020年8月アーカイブ

August 17, 2020

「八月の光」(ウィリアム・フォークナー著/光文社古典新訳文庫)

●本日、浜松で国内最高の41.1度を記録。35度超の猛暑になると「体温を超えそう」などと話題になるが、これはもはやお風呂の温度に匹敵する。日本の8月はどこまで暑くなるのか。
●さて、夏は名作を読む季節、読書感想文の季節。8月でもあるしと手にとったウィリアム・フォークナーの「八月の光」(黒原敏行訳/光文社古典新訳文庫)。さすが20世紀アメリカ文学の大傑作というべきか、なんと翻訳が6種類もある。しかも近年の「新訳」に限っても、岩波文庫版の諏訪部浩一訳があって、この光文社古典新訳文庫版の黒原敏行訳がある。名作オペラが新時代の演出により新たな角度から光を当てられるのと同じように、小説もこのように今の日本語による新訳で作品が生まれ変わってゆく。スゴくないすか、日本人は6種類もの「八月の光」を読めるんすよ。アメリカ人は一種類しか読めないのに!
●描かれるのはアメリカ南部に生きる疎外された人々、過去に呪われた人々。とても重厚で骨太の群像劇なのだが、意外にも読みやすく、エンタテインメント性に富んでいる。映画になってもおかしくないくらい、だけど今のアメリカではデリケートすぎて到底描けそうもないほど深く人種問題の暗部に踏みこんでいる。主要な登場人物は3人。見た目は白人ながら黒人の血が混じっており「本当は自分は黒人である」という苦悩を抱える孤児院育ちの男ジョー・クリスマス(イエス・キリストと同じイニシャルを持つ)、未婚のまま身ごもり、自分を捨てた恋人をどこまでも追いかける異常に楽天的な若い女性リーナ(オペラにたとえると「カルメン」のミカエラに似て、かわいいようでいて心底邪悪な存在)、狂信的な元牧師であり今は世捨て人として生きる奇人ハイタワー。その他の登場人物も含めて、ほとんどがある種の崖っぷちで生きている。人種問題や奴隷制、南北戦争、キリスト教などといった根幹のテーマを共有していない現代日本のわたしたちが読んでも、十分に共感できる。いちばんぐっとくる人物はハイタワー。あの歪んだ宗教的情熱とその裏にある現実に向き合う勇気の欠如、そして身なりに無頓着な不潔さなどには見覚えがある。
●細かいことなんだけど、「濡れたリノリウムと洗剤の匂いがした」という一文があって、反射的にスティーヴン・キングを思い起こす。キングの小説にはやたらとリノリウムが出てくる。キングの「グリーン・マイル」は、刑務所で死刑囚が電気椅子に向かって歩く通路の床が緑のリノリウムであることにちなんでいるが、この「グリーン・マイル」で冤罪により死刑が下される黒人男性の名がジョン・コーフィ。「八月の光」のジョー・クリスマスと同様、イエス・キリストと同じイニシャルを持っている。
●印象に残ったシーンを引用。日が落ちて夜になるだけの描写なのだが、この色彩感、そして視覚と聴覚に訴えかけてくる空気感と来たら。

そこで簡易ベッドに横になって、煙草を吸いながら、陽が沈むのを待った。開いたドアから見ていると、陽が傾き、大きくなり、赤銅色になった。それから赤銅色が薄れて藤色になり、その藤色が暗みを増してとっぷり暮れた。蛙の声が聞こえてきて、蛍の光が開いた戸口の枠の中をすいすい横切りはじめ、夕闇が濃くなるにつれてその光が明るさを増した。
August 7, 2020

「ウィトゲンシュタインの愛人」(デイヴィッド・マークソン著/国書刊行会)

●ピンと来るものがあったので読んだ、「ウィトゲンシュタインの愛人」(デイヴィッド・マークソン著/木原善彦訳/国書刊行会)。柴田元幸、若島正両氏の推薦で「アメリカ実験小説の最高到達点」と銘打たれた一冊。登場人物はたったひとりだけ。というか、世界の最後のひとりとして生き残ったのが主人公。しかし世界の終末を描いたものではなく、ひたすら主人公の独白が続くだけの小説だ。彼女は世界中を旅しながら、あちこちで美術館等を訪ね歩いているのだが、すべては主観として語られているのみ。そして、その語り口は端的に言って狂っている。もちろん、世界でただひとりという孤独な状況に陥ればだれもが狂う。漂流するような焦点の定まらない思考が延々と書き留められており、そこで大きな比重を占めるのが美術を巡るトリビアというか、オタトークみたいなもの。美術、さらには文学、そして音楽にもしばしば話題が流れ、特にたまたまそこにあったブラームスの伝記本に異様な執着ぶりを示す。記憶が混濁し、錯誤を含んでいる上に、なんども繰り返しているような話題が結局のところどうでもいいような話だったりする。中心は美術なのだが、ブラームスについて述べた部分をいくつか引用してみる。それぞれぜんぜん違った場所で突然出てきたりする。

ここへ戻る途中、ふと、ブラームスが聞こえた気がした。『アルト・ラプソディ』と言いたいところだが、『アルト・ラプソディ』をちゃんと記憶している自信はない。
『アルト・ラプソディ』を歌っていたのはキャスリーン・フェリアだ。
昨日、キルステン・フラグスタートが『アルト・ラプソディ』を歌うのを耳にしたとき、厳密には私は何を聞いていたのか。
イグニションキーを回したら、ブラームスの『四つの厳粛な歌』が聞こえてきた。ひょっとすると私の頭にあるのは、リヒャルト・シュトラウスの『四つの最後の歌』かもしれない。
残念ながらもう一軒の家には、これに関してもっと詳しく調べられるブラームスの伝記がない。ベートーベンの伝記はおそらく何の役にも立たなかっただろう。ちなみに、もう一軒の家にあったベートーベンの伝記のタイトルは『ベートーベン』だ。私が以前見たブラームスの伝記のタイトルは確か、『ブラームスの一生』だった。これは簡単に確かめられる。
ところで、以前から、ブラームスはあまり好きな作曲家ではない。確かにブラームスの名は、ここに何度も登場しているけれども。でも実は、ブラームスが登場した回数はそれほど多くない。言及した回数が多いのはブラームスの伝記だ。タイトルはおそらく、『ブラームスの一生』か、『ブラームスの生涯』か、ひょっとすると『ブラームス』。
ただしもっと具体的には、私が解きたい謎は、例えば、ベルリオーズ作曲の『トロイアの人々』のことを考えているのに、あるいは『アルト・ラプソディ』のことを考えているのにどうしてヴィヴァルディの『四季』が聞こえてくるのかという問題だ。
それを聞くたびにいつも、聞こえているのは『アルト・ラプソディ』だと考えていたけれども。だから明らかに、私がこれまで『アルト・ラプソディ』と言ったときはいつも、『ブラジル風バッハ』と言うべきだったということだ。

●えっ、「アルト・ラプソディ」の話をなんどもしてたのに、それがヴィラ=ロボスの「ブラジル風バッハ」のかんちがいだったっていうの? でもキャスリーン・フェリアが歌ってたのは「アルト・ラプソディ」でしょうが。ブラームスの伝記の書名も混乱してるし……。と、いった調子で、全体にわたってなにが確かでなにが記憶違いで、どこから正気でどこから狂っているのか、まったく客観性のない自意識の移ろいだけで綴られていくのだが、そもそも世界にただひとりしかいないのなら、客観という概念に意味があるだろうか。世界は事実の総体であって、事物の総体ではない。
●意外にもこの小説はとても読みやすい。そして、まちがいなくユーモアがあって、なんどもワタシは大笑いして読んだ。作者はこの原稿を出版社に持ち込んだところ、合計54社もから刊行を断られたという。もし自分が出版社の編集者だったら? うーん、やっぱり断ったにちがいない。

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