●例の早川書房の夏のKindle本セールでゲットした「レス」(アンドリュー・ショーン・グリア)を読了。一昨年刊行されたときに気になりつつもタイミングを逸していたのだが、これは傑作。軽いタッチと読後感のよさが吉。主人公は50歳を目前とする作家アーサー・レス。ゲイである。元恋人から結婚式の招待状が届き、どういう口実で断ろうかと思案する。そこで式の当日に国外にいられるように、海外から招かれた仕事を引き受けまくり、ニューヨーク、ベルリン、パリ、モロッコ、京都を巡る旅へと出発する。元恋人との思い出に引きずられながら。ダメ男小説でもありゲイ小説でもあるのだが、間口は広い。ピュリッツァー賞文学部門受賞作。
●このレスという名前の主人公、客観的に見ればなかなかの作家なのだが、その名の通り、どこに行こうがなにをやろうが、どこかしら自分の欠如を感じずにはいられない人物像で、「パッとしない」感じが共感を呼ぶ。それぞれの旅先で起きる出来事はやたら可笑しく、そしてしみじみとさせる。語り口の饒舌さは大きな魅力。旅のなかで主人公は行き詰っていた最新作の解決策を見出し、これを書きあげる。
●ひとつ仕掛けがあって、ふつうに三人称の小説だと思って読んでいると、途中で「私」が出てきてギクッとなる。えっ、この「私」ってだれよ? 「叙述トリック」というようなものではないが、最後まで読めば意味はわかる。このあたりも巧緻。
Books: 2021年6月アーカイブ
「レス」(アンドリュー・ショーン・グリア著/上岡伸雄訳/早川書房)
65年前に描かれたリモート会議
●古いSFミステリー小説だが、アイザック・アシモフの「はだかの太陽」(早川書房)を読んでみたら、舞台となる惑星が人間同士の直接的な接触を禁忌としており、人と人の面会は常に立体映像を通してリモートで行うという設定になっていた。ウイルス禍以来、ZOOMを常用するようになった身としては、妙になじみのある光景で、1956年に書かれた小説に今になってはじめてその先見性を実感できる。もっとも、その一点以外は相応に古びた小説ではあるのだが。
●今、早川書房の夏のKindle本セールで、電子書籍約1500点が50%OFFになっている(6/22まで)。これに思いっきりつられて、ことあるごとにポロポロと翻訳小説や翻訳ノンフィクションを買ってしまう。すでに紙で持っている本も多いのだが、半額だったら電子書籍で買い直しておくのもありかな、とか。あと、比較的新しいところでは、話題作「ザリガニの鳴くところ」(ディーリア・オーエンズ)とか、一作目までしか読んでいない「三体Ⅱ」(劉慈欣)などにも惹かれつつ、まずは「レス」(アンドリュー・ショーン・グリア)を読み始めた。
●藤倉大がオペラ化した(そしてタルコフスキーとソダーバーグが映画化した)スタニスワフ・レム「ソラリス」もある。これは20世紀の古典。古びていない(と思う)。
「RESPECT2 監督の挑戦と覚悟」(反町康治著/信濃毎日新聞社)
●前作「RESPECT 監督の仕事と視点」がおもしろかったので、続編となる「RESPECT2 監督の挑戦と覚悟」(反町康治著/信濃毎日新聞社)も読んでみた。前作以上の読みごたえ。反町康治元監督が松本山雅FC時代に地元新聞に寄稿していた連載がまとめられている。期間は2016年4月から2019年12月まで。この間に松本山雅はJ2優勝により2度目のJ1昇格を果たし、そしてJ1から降格して反町監督の退任に至っている。
●なにがびっくりかといえば、対戦相手の分析に膨大な時間と労力をかけていること。選手に見せる「5分の映像をつくるのに50時間ぐらいかかる」。監督とコーチ陣で対戦相手のセットプレイでの攻撃、セットプレイでの守備、オープンプレーでの攻撃と守備を分担して検証する。反町監督は相手の直近3試合を見て、去年の得点シーンを点検し、さらにダイジェスト版で今季の全試合を見る。コーチ二人が今季のセットプレー全場面と昨年以前のセットプレーを確認する。そうやって集めた映像から、どこを抽出するかを議論して、試合前に選手に見せる20分の映像を作り出す。PKの傾向も5年前まで遡って確認するし、外国人選手なら海外リーグの映像も探す。もちろん、自分たちのフィードバック用の映像も編集する。まさに映像時代のフットボール。
●あとは反町監督にとって決定的な体験となった、バルセロナへのコーチ留学の話がおもしろい。国際的には無名の監督志望者がいったいどうしてバルセロナになんか行けたんだろうと思うじゃないすか。これは元バルセロナ監督のカルロス・レシャックが横浜フリューゲルスの監督を務めたことがあって、その縁で指導者交流プログラムがあったのだとか。フリューゲルスでプレイ経験のある反町はそれに応募してバルセロナへ飛んだのだが、実際に行ってみると「そんな話は聞いてない」。ああ、いかにもありそう……。それでも粘り強く交渉を続けて、ついに毎日練習に通えるようになったという。1年4か月、蓄えを切り崩して生活費にあて、スペイン語の語学学校に通いながら、家族と離れてひとりでバルセロナに暮らす。選手を引退した後、これほどのエネルギーを注いでセカンドキャリアを切り拓ける人はまれだろう。
「カルメン」と「タマンゴ」
●ビゼーの超ウルトラ大傑作オペラの原作となったのが、メリメの「カルメン」(堀口大学訳/新潮文庫)。日本語訳は何種類か出ている。メリメの原作でしか味わえないおもしろもたしかにあるのだが、それ以上に感じるのはビゼーのオペラの巧みさ。オペラではドン・ホセをどこにでもいそうな生真面目な男として描くことで、観る人が容易に共感できるようになっている。原作でのドン・ホセは道を踏み外したアウトサイダーであって、どこか語り手の「私」から突き放されているようにも感じる。ONTOMO連載「耳たぶで冷やせ」に、「オペラ『カルメン』に登場する強烈キャラクターを原作から読み解く!」を書いた。ご笑覧ください。
●ところで、このメリメ「カルメン」では表題作と並んで「タマンゴ」という短篇が読ませる。題材は奴隷貿易。フランス人の船長はアフリカの港で奴隷たちを買い、植民地に売って荒稼ぎをしている。奴隷を調達してくるのは現地人のタマンゴ。腕っぷしが強く、情け容赦のない男だ。タマンゴは奴隷の売値について船長と交渉するが、ブランデーですっかり酔っていたこともあり、ささいなことで妻に腹を立て、勢い余って妻を奴隷として売り飛ばしてしまう。ひと眠りして酔いがさめた後、タマンゴは大変なことをしてしまったと動転し、船長を追いかけて妻を返してほしいと懇願する。そこで船長は思う。このタマンゴはさっき買った奴隷たちよりもよほどたくましく、高く売れそうではないか……。メリメの語り口が冴えている。
●「タマンゴ」はメリメ。「マタンゴ」は東宝特撮のキノコ怪人。