●「『超』音楽対談 オーケストラに未来はあるか」(浦久俊彦、山田和樹著/アルテスパブリッシング)を読んだ。文化芸術プロデューサーの浦久俊彦さんと指揮者の山田和樹さんの対談シリーズをまとめた一冊。副題にもなっている「オーケストラに未来はあるか?」という問いに対して山田和樹さんが「ない!」と即答する場面が帯に記されているのだが、そこから期待できる通り、とてもオープンで刺激的な対談本だった。一見、わりと分厚い本で「えっ、対談本なのにこんな学術書みたいな厚さになっちゃうの? 半分の長さに削ればいいじゃないの」と思ったのだが、読んでみるとわかる、これは対談ならではのライブ感を本の形に収めるために必要な厚さだったのだ、と。実際、中身はぜんぜんアカデミックではなく(むしろどちらかといえばアンチアカデミック)、自由奔放で、意気投合したふたりの前のめりの姿勢におもしろさがある。
●特に印象的だった場所を記しておくと、「オーケストラの感動率とヘタウマの微妙な関係?」で山田和樹さんが言う「自分がお客さんとして聴いたとき、感動する割合は、日本のオーケストラのほうが断然多い」という話。ベルリン・フィルやウィーン・フィルはもちろんすばらしいんだけど、感動するという点ではうまいかヘタかはあまり関係がなくて、むしろうまいとされるオーケストラのほうが感動率は下がる、と。そこから派生して「うまいオーケストラは最低点が高い」、でも発展途上のオーケストラのほうが「とんでもないホームランをかっ飛ばすことがある」。このあたりの感覚は東京の熱心な聴衆が抱いている実感とかなり合致しているんじゃないだろうか。あるいは、そのホームランに立ち会うためにホールに通っているお客さんと、ハイアベレージな一流海外オケを聴くお客さんとに分断している傾向もあるかもしれない。
●で、わりと思い切った話も出てくるので(書き原稿ではなかなか出ない、対談ならではの勢い)、文脈から引き離して一部だけ引用すると誤解を招きそうな場所がいっぱいあるんだけど、浦久さんがたびたび現状の音楽界について問題提起している部分、たとえば「クラシック音楽は、いつからエラくなったのか?」とか終章の「『文化としての芸術』とは?」のあたりが特に興味深い。後者のほうで、「アートとしての芸術」には公金を投入する必要ない、でも「文化としての芸術」には惜しみなく公金や投入しようという提言があって、読んでみると一瞬なるほど!と膝を打ったんだけど、よく考えてみるとその境界は自分にはわからない。でもそのあたりが本書の肝かも。
Books: 2021年9月アーカイブ
September 29, 2021
「『超』音楽対談 オーケストラに未来はあるか」(浦久俊彦、山田和樹著/アルテスパブリッシング)
September 24, 2021
「ヨルガオ殺人事件」(アンソニー・ホロヴィッツ著/創元推理文庫)
●アンソニー・ホロヴィッツの「ヨルガオ殺人事件」(創元推理文庫)読了。こんなにおもしろいミステリを読んでしまうと、次になにを読めばいいのか困ってしまう。前作「カササギ殺人事件」の続編という扱いで、今回も「小説内小説」の趣向がとられている。外枠の小説で事件が起きて、事件を解決する鍵がベストセラーとなったミステリ小説に隠されていることがわかる。主人公はそのミステリ小説の担当編集者だった人物で、これを再読しようと本を開くのだが、そこから読者であるワタシたちもその小説内小説を丸ごと読み始めることになる。入れ子構造が鮮やか。これだけでもかなりアクロバティックなのに、小説内小説のなかで探偵が過去の事件を長々と回想する場面があって、そこは小説内小説内小説みたいになっている。おいおい、「千一夜物語」かよっ!と全力でツッコミを入れたくなる。そんな凝った仕掛けがあるにもかかわらず、読みやすいんだな、これが。
●ミステリとしてはすこぶる古風なスタイルを持ち、小説としては今風のメタフィクション仕立てになっているという離れ業。すさまじい超絶技巧が駆使されているのに、タッチは軽やか。名前がホロヴィッツだけに。
●音楽ネタとしては、モーツァルトの「フィガロの結婚」についての言及がある。登場人物のひとりがスネイプ・モルティングスに「フィガロの結婚」を観にいったという記述があって(舞台はイギリス)、これがいくらか物語にかかわってくる。
●あと、前作と同様「編集者小説」である点も見逃せない。作家が書く編集者小説という時点ですでにひねりが効いているわけで。