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Books: 2022年4月アーカイブ

April 18, 2022

ヴォルテールの「カンディード」

●バーンスタインの「キャンディード」を初めて観たとき、正直なところ、これはわかりづらい話だなと思った記憶がある。「ウエスト・サイド・ストーリー」とは別世界。風刺であることはわかるんだけど、なにを(というか、どこまでを)風刺しているのかがよくわからなかった。最後にやってくる「僕らの畑を耕そう」はマジなの?それともここもギャグ?みたいな戸惑い。原作であるヴォルテールの「カンディード」を読めばすっきりするんだけど、先に舞台を観ると、風刺対象となっているパングロスの度を越した最善説(オプティミズム)がピンと来ない。そんな説、今の世の中でなんの力も持っていないので。
●パングロスは「この世はすべて最善となるように整えられている」と主張する。一見どんな悲惨に思えるようなことが起きていても、神が創造したこの世界においてはそこに必然的な理由があるのであって、最終的には最善に落ち着くようになっているというのだ。この物語では登場人物たちが戦乱に巻き込まれたり、大地震に遭ったり、火あぶりにされたり、首をくくられたり、凌辱されたり、次々と悲惨な目にあうのに、それでもパングロスは最善説を唱え続ける。
ヴォルテールの「カンディード」(斉藤悦則著/光文社古典新訳文庫)を読むと、話の順序や細かいところの出来事は微妙にバーンスタインの「キャンディード」とは違っている。でも大筋は同じで、死んだはずの登場人物がろくな説明もなく生き返ったりする。カンディードはヒロインのクネゴンデと再会するために世界中を旅をして、最後にとうとう巡り合うんだけど、美しかったはずのクネゴンデはすっかり醜くなっている。クネゴンデに結婚しろと迫られて「心の底では、クネゴンデと結婚したいなどとは少しも思っていなかった」のに、しょうがなくプロポーズする。クネゴンデは「日ごとにますます醜くなり、いつもガミガミうるさく、耐えがたいほどなった」。そのうえで、カンディードは「自分の畑を耕そう」と言って物語を終えるわけだ。
●第25章で出てくるヴェネツィアの貴族、ポコクランテとカンディードたちとの対話シーンが抱腹絶倒。このへそ曲がりな金持ちはどんなすばらしいものに対しても批判せずにはいられない。カンディードが屋敷の使用人の若い美女たちをほめたたえると、「ええ、まあまあの娘たちです。ときどきベッドに入れて夜の相手をさせます。でもこのごろはひどく退屈な存在になりかけてますけどね」と答える。飾られているラファエロの絵をほめると、「ずいぶん高い値段でしたが見栄で買いました。イタリアでいちばんと評判ですが、まったくつまらない。色は暗すぎるし、人物は立体感にかけ、迫力もない」と批評する。ホメロスの豪華本をほめると「死ぬほど退屈な本」とけなし、ミルトンの本について尋ねると「古代ギリシャ人の下手くそな模倣者」と切り捨てる。神学の本の蔵書に感心すれば「こんな分厚い本、開けてみたこともない。だれだってそうでしょう」と答え、庭を美しいと賞賛すれば「これほど悪趣味なものはない」と言う。なんとも腹立たしい野郎なのだ。が、音楽について述べた場面にはドキッとする。カンディードが食事前に奏でられた合奏協奏曲をすてきだというと、こんな返事が返ってくるのだ。

「聴いているひとは、口にこそ出しませんが、みんながうんざりしてしまいます。このごろの音楽は、難しい演奏の技術を披露してみせるものにすぎません。しかし、難しいだけのものはけっして長くは楽しめないものです。また、オペラもつまらない。いまでは、私の胸をムカムカさせるような奇怪なものにわざわざ変えられている。そんな改造がなされなかったならば、私は現代の音楽よりもオペラのほうがまだしも好きになれたでしょう。ただ女優ののどを聞かせるために、どの場面にも筋に関係なくナンセンスな歌が二つ三つ挿入される。(中略)私は、そんなくだらないものとは、ずっと以前に縁を切った。ところが、そんなくだらないものが今日ではイタリアの栄誉とされていますし、そんなものに各国の君主たちは大金を払っているのです」
April 5, 2022

「コレラの時代の愛」(ガルシア・マルケス著/新潮社)

●ウイルス禍に読む本としてカミュの「ペスト」あるいはトーマス・マンの「ベニスに死す」は正統派だと思うのだが、たまたま「ガルシア・マルケスひとつ話」(書肆マコンド)をぱらぱらと眺めていたら、そうだ、ガルシア・マルケスの「コレラの時代の愛」があったじゃないの!と思いついた。未読だったが、今読まずしていつ読むのか。
●で、「コレラの時代の愛」(ガルシア・マルケス著/新潮社)を、ゆっくり少しずつ読み進めた。実のところコレラとはあまり関係のない話であって、残念ながら「コロナの時代の愛」という読み替えは無効なのだが、なにせガルシア・マルケスなのでめっぽうおもしろい。「百年の孤独」のような魔術的リアリズムではなく、古典的なリアリズムの書法による奇妙な愛の物語。19世紀末から20世紀初頭にかけてのコレラと内戦の時代、若き日の主人公は裕福な家の娘にひとめぼれをする。ふたりは恋に落ち、想いを手紙に綴るが、娘の父はふたりの仲を引き裂き、娘を欧州帰りのエリート医師ウルビーノ博士と結婚させる。で、(ここからが尋常ではないのだが)主人公はいつまでも彼女を待ち続けると誓う一方、ドン・ジョヴァンニも真っ青なくらいの猟色家として人生を謳歌する。そして51年後、彼女の80代の夫が亡くなってから、改めて愛を告白する。初恋の人ももう70代。これは老人小説でもあるのだ。
●と、あらすじを紹介するとなんだかパッとしない話に見えてしまうのだが、幹の部分以上に枝葉のほうに魅力がびっしり詰まっている。序盤は老境に入ったウルビーノ博士と妻の暮らしが事細かに描写されていて、たとえばバスルームに石鹸が置いてなかったことから長年にわたる夫婦関係が危機を迎えるエピソードとか、挨拶された若者がだれだったか思い出せなくて激しく狼狽するも、奇跡的に記憶がよみがえって老いに打ち勝ったと気を良くするエピソードとか、ものすごくよく出来ている。で、ウルビーノ博士は地元の名士として、劇場の復興にも尽力する。フランスからオペラ座を招くと、市民たちは期待以上にオペラに夢中になる。

オペラ熱が市民の中の、通常では考えられないような層にまで広がり、ある世代の子供たちにイソルダやオテロー、アイーダ、ジークフリードといった名前がつけられたのだ。ウルビーノ博士はひそかにイタリアびいきとワグナー派が幕間にステッキを振り回してにらみ合うところまで行けば面白いと考えていたが、そこまでは行かなかった。

オペラにまつわる対立の構図(?)は時も地域も超えて変わらないのか。
●ハードカバー500ページにわたる長い物語のなかで、最大のハイライトは序盤に訪れる若き日のヒロインが主人公に失望する場面。ひとめ惚れが手紙の往復を通して命がけの恋にまで発展するが、旅の経験を通して一段階成長したヒロインは、ばったりと会った主人公に対して一瞬で「底知れない失望」を感じる。

その瞬間、自分がとんでもない思い違いをしていたことに気づき、どうしてこんなにも長い間激しい思いを込めて心の中で恋という怪物を養い育ててきたのだろうと考えて、ぞっとした。

このくだりは秀逸。そこから51年後、ふたりはようやく静かに再会するというクレイジーな展開になるのだが、最後まで読んだ後でこの場面をもう一度読んで、少しいじわるな気持ちに浸りたくなる。

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