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Books: 2023年11月アーカイブ

November 28, 2023

「ミセス・マーチの果てしない猜疑心」(ヴァージニア・フェイト著/青木千鶴訳/ハヤカワ・ミステリ文庫)

●これは怪作。ヴァージニア・フェイト著の「ミセス・マーチの果てしない猜疑心」(ハヤカワ・ミステリ文庫)。なんの予備知識もなく読みはじめたのだが、とても展開がイジワル。主人公はベストセラー作家の妻ミセス・マーチ。時代は1960年代か70年代くらいだろうか。著名な夫を持ち裕福な暮らしを送るミセス・マーチだが、あるとき、夫の新作小説の主人公である醜い娼婦は自分がモデルなのではないかと疑う。一度心のなかに芽生えた猜疑心はどんどんふくらみ、近隣の人々が自分を馬鹿にしているのではないかとか、家の中にイヤな虫がいるのではないかと疑い出し、しまいには世間を賑わす殺人犯の正体は夫であると確信する。
●著者の力量が並外れていると思うのは、ほとんど狂人の思考を描いているにもかかわらず、読者の共感を誘うところ。ミセス・マーチほどの妄想でなくとも、人は猜疑心に苦しむことは多々あるし、些細なことが理不尽に気になったりすることは珍しくない。笑えるようでいて笑えないというか、人の心の危うい部分をチクチクと突くところがあって、このバッドテイストがなんともいえない。根底にあるのは虚栄心なのだが、現実認識とは事実と妄想に簡単に二分できるものではないので、この小説が成り立つのだと思う。
●で、イヤな話だなと思いつつ、読みだしたら止まらなくなったのだが、中盤で「あっ、この話の結末が見えた!」と思った。最後にびっくりさせる展開があって、こんなふうに終わるんだろうなと、わりと自信を持って予想したのだが、まったく違う結末だった。マジっすかー。映画化されるそうです。

November 14, 2023

「運動しても痩せないのはなぜか 代謝の最新科学が示す『それでも運動すべき理由』」(ハーマン・ポンツァー著/小巻靖子訳/草思社)

●近年読んだサイエンス・ノンフィクションで出色だと思ったのが、「運動しても痩せないのはなぜか 代謝の最新科学が示す『それでも運動すべき理由』」(ハーマン・ポンツァー著/小巻靖子訳/草思社)。キャッチーな訳題が見事すぎるのだが、これは書店に山ほどある怪しいダイエット本とはちがい、本物の人類学者が本物のフィールドワークを通じて発見したヒトの「代謝」について本。「運動しても痩せないけど、ヒトの体は運動を必要とするようにできている」(→だからぜったいに運動しようぜ!)っていう主張なので、あくまで運動を推奨する本なのだ。読み物として抜群におもしろく、そして読後には日々の暮らしを反省し、もっと運動しなければいけないという気持ちになる……はず。
●著者はタンザニアの狩猟採集民ハッザ族と暮らしをともにする。ハッザ族は農耕もしないし家畜も飼わず、電気も機械も使わない。一日の多くの時間を自然から食料を調達するために費やしている。野生の芋を掘り出したり、ベリー類を集めたり、はちみつを採集したり、狩りをしたり、水を汲んだり、薪を集めたり……。そして延々と歩く。当然、都会の住民とは比較にならないくらい一日の活動量が多い。では、彼らの一日のエネルギー消費量は何キロカロリーになるのか。それを測定したところ、なんと、都会の住民と変わらなかったというのだ。
●そんなバカな、と思うじゃないすか。これはワタシたちが、一日のエネルギー消費量=その人の基礎代謝量+その日の活動量と思い込んでいるからなんだけど、著者の研究によると人間のカロリーの使い方はもっと動的で、身体活動が活発になるとヒトは体内で使うカロリーを減らして一日の消費量を一定に保とうとするようにできている。
●となれば疑問がわく。ハッザ族と都会の人間のエネルギー消費量が同じなのであれば、われわれの「運動に使われなかったカロリー」は、なにに使われているのか。そこがいちばん気になるところなんだけど、著者が挙げるのは3つの要素。炎症、ストレス、生殖。炎症は免疫のために、ストレスは非常時に反応するために本来必須のものであるが、エネルギーコストが高く、余裕のあるときにしか使えないぜいたく品でもある。しかし現代の都市生活者はそこにふんだんにカロリーを使えるようになっており、余剰のカロリーが必要以上に炎症やストレスを生み出しているというのだ。生殖が多くのカロリーを消費するのは自明だと思うが、事実、妊娠出産のサイクルはアメリカ人のほうがハッザ族より短いのだとか。
●で、すごいと思ったのは、人間の一日のエネルギー消費量をどうやって測定するか、という話。これが正確にできなければ話は始まらない。著者たちが行っているのは二重標識水法という手法。少し原理は難しいのだが、代謝に伴う体内の化学反応に着目したもので、重水素と酸素18の安定同位体で標識された水を飲んでもらい、尿サンプルに含まれる水素と酸素の同位体比率の変化を測定することで、体内の二酸化炭素の産生量を算出し、エネルギー消費量を知るという方法。この手法はかなり以前から知られていたが、人体で測定するには重水素と酸素18があまりに高価なため困難だったのが、低コスト化が進んで研究に使えるようになったという。
●そこそこ厚い本だけど、まったく飽きさせないのは著者の筆力の高さゆえ。ダイエットや健康法という枠を超えた読書の楽しみがある。

November 7, 2023

「古楽夜話 古楽を楽しむための60のエピソード」(那須田務著/音楽之友社)

●先頃休刊した月刊誌「レコード芸術」の連載を書籍化したのが「古楽夜話 古楽を楽しむための60のエピソード」(那須田務著/音楽之友社)。古くは12世紀のヒルデガルト・フォン・ビンゲンから、新しくは18世紀末のボッケリーニまで、作曲家たちと作品にまつわる60のエピソードが集められた古楽ガイドブック。ひとつのエピソードが3ページ構成で、長すぎず短すぎず、絶妙のバランス。読み物としても実用的なガイドとしてもよい。毎話、冒頭に史実をもとに創作した短い空想シーンが入っていて、これが導入として効いている。
●連載を書籍化するにあたって、各話が時系列に並べられており、最初はヒルデガルトで始まるわけだが、こういう本は前から読むより、読みたい場所から読み進めるのが吉。特に中世・ルネサンスにはなじみが薄いというクラシック音楽ファンの場合は、バロック期のどこかあたりからスタートするとか、なんなら本のおしまいから遡って読み進めるのもありだと思う。つまみ食いするように、気になるところを拾い読むのも楽しい。
●で、もとが「レコ芸」なので、各エピソードに必ずオススメCD欄が付くわけだが、一昔前であれば、これを見て聴きたくなった盤をCDショップを巡って探すのも、この種の本の楽しみの内だった。でも、もうそんな時代ではない。今だったら本を読んで「聴きたいな」と思った音源は、即座にその場で聴けるのが自然だろう。さすがにそのあたりは意識されていて、音楽之友社出版部が「古楽夜話」で紹介した全CDプレイリストを作って公開してくれている。だよねえ。ストリーミング配信時代はプレイリスト時代でもあるのだ。以下にそのリンクを張っておこう。10話ずつ、6つのプレイリストに分かれている。このプレイリスト自体がひとつのコンテンツっていう気がする。

古楽夜話 #1(第1夜~第10夜)
古楽夜話 #2(第11夜~第20夜)
古楽夜話 #3(第21夜~第30夜)
古楽夜話 #4(第31夜~第40夜)
古楽夜話 #5(第41夜~第50夜)
古楽夜話 #6(第51夜~第60夜)

●でもこのプレイリストって、書籍そのものにはぜんぜん案内されていないんすよね。ONTOMOの記事で知った次第。このへんが書籍の難しいところで、一般に本の寿命はIT系サービスの寿命より長いので、たとえば本にQRコードとかを載せても、3年もしたらリンクが切れてるかもしれないし、それどころか1年もしないうちに配信サービス自体がどこかに吸収されたり、終了しているかもしれないわけで、ダイナミックすぎて書籍との相性はよくない。雑誌とか広報誌なら迷いなく載せられるとは思うんだけど。
●ひとつだけプレイリストをここにも載せておこう。古楽夜話 #6(第51夜~第60夜)。

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