amazon

Books: 2024年4月アーカイブ

April 17, 2024

「街と犬たち」(バルガス・ジョサ/寺尾隆吉訳/光文社古典新訳文庫) その3

●(承前 その1 / その2)しつこくもう一回だけ、バルガス・ジョサの「街と犬たち」について。「街と犬たち」(旧訳は「都会と犬ども」)は軍人学校の生徒たちを描いた物語なので、若いうちは当然のごとく生徒たちの視点で読む。生徒たちは子どもで、士官たちは大人。そんなふうに見える。でも、年を重ねて読むと、違った景色が見えてくる。士官だって若いのだ。とくに士官たちで唯一、内面が描かれているガンボア中尉は、夫人が初産だというのだからおそらくかなり若い。まだ自分の職業人生が将来どうなるかまったくわからない段階の若者なのだ。
●生徒たちから見ればガンボア中尉はもっとも厳格な教官であり、この学校で唯一、畏れられている。どんな悪ガキも彼の前では背筋を伸ばす。軍規を丸暗記するほど規律を重んじる人物で、生まれながらの軍人だ。だから、生徒たちはガンボア中尉のことだけは信頼しており、アルベルトは彼にジャガーの殺人を告発する。学校全体としては、あれは偶発的な事故だったと穏便に済ませようとしているのに、ガンボア中尉は規律にのっとって殺人の疑いがあると報告書を提出する。この展開が巧妙だと思うのは、ここで多くの読者はガンボア中尉に共感してしまうと思うんすよね。生徒目線で読んでいるので、こいつだけは一本筋が通っているから、腐敗した軍人たちの世界で正義を貫いてくれるだろう、と。でも、一方で大人目線だとこんな見方もできる。ガンボア中尉みたいな杓子定規な人物は、たいてい他人を幸福にしない。現実と折り合いをつけなければならないのに、状況を無視してルールを振りかざす人物になにが達成できるだろうか。こういう部下を持ったら苦労は多い。上司のガリド大尉はガンボア中尉を諭す。

軍人たるもの、何よりもまず、状況に応じて現実的な選択をせねばならない。無理に現実を法に合わせるのではなく、逆に、法を現実に合わせるべきなんだ。

 それでもガンボア中尉は自分の考えを曲げない。そして、妻からの手紙を手にして思う。「男の子だったら軍人にはするまい」。実家にいる妻は体調不良と出産への不安、夫が不在であることの寂しさを手紙で訴えている。
●ガンボア中尉は上官からの忠告に従わずに筋を通した結果、とんでもない僻地に左遷されることになる。これで軍人としての未来は閉ざされた。それと同時に女児が誕生したという電報を受け取る。まるで正義を貫いたことに対する祝福であるかのように。母子ともに健康だ。おそらくガンボア中尉が首都リマに戻ることはないだろうが、その先に希望が待っていることを予感させる。バルガス・ジョサはこれを27歳で書いた。

April 16, 2024

「交響曲 名盤鑑定百科」(吉井亜彦著/亜紀書房)

●実物を手に取って一瞬、虚を突かれたが、よく考えてみるとこういったディスクガイドは今だから意味があるのかもしれないと思ったのが、「交響曲 名盤鑑定百科」(吉井亜彦著/亜紀書房)。先月発売ばかりの本だが、これは1997年に春秋社から刊行された「名盤鑑定百科 交響曲篇」を出発点に、その後なんどか改訂された後、版元を変えて復刊されたもの。交響曲100曲について著者が計6000枚もの膨大な数のディスクを聴き、それぞれに短い一言レビューを寄せている。さらにディスクには推薦や準推薦といった評価が添えられる。著者の名前を「レコード芸術」誌の音楽評論で目にしていた人は多いと思うが、いろんな点でかつての「レコ芸」文化を受け継いだ一冊。同曲異演のなかから推薦盤を選ぶという発想そのものが「レコ芸」の文化だろう。
●世の中からCDショップが次々と減り、従来名盤とされたディスクも品切になり、中古でしか手に入らない音源ばかりになって、どうなるのかなと思っていたら、SpotifyやApple Musicが勢力を増し、本格的なストリーム配信時代が訪れた。すると、過去から現在までの膨大な数の音源が廉価ですべて聴けるようになり(聴けない音源もあるけど、それはともかく)、今のリスナーはサービス契約初月から一生かけても聴ききれないコレクションを等しく手にすることになった。となると、あまりに音源が膨大すぎるがゆえに、なにを選ぶか、ガイドが必要になる。それがプレイリストだったりするわけだけど、交響曲みたいな大曲だとまだまだ本のガイドは有用だろう。以前は限られたお金をうまく使うためにガイドに頼ったけど、今は時間をうまく使うためのガイドが必要なんだろうなと感じる。

April 5, 2024

「コンサートホール×オーケストラ 理想の響きをもとめて 音響設計家・豊田泰久との対話」(豊田泰久、林田直樹、潮博恵著/アルテスパブリッシング)

●話題の本、「コンサートホール×オーケストラ 理想の響きをもとめて 音響設計家・豊田泰久との対話」(豊田泰久、林田直樹、潮博恵著/アルテスパブリッシング)を読む。豊田泰久氏といえば、サントリーホールやフィルハーモニー・ド・パリ、ハンブルクのエルプフィルハーモニーなど、現代を代表するコンサートホールの数々を手がけてきた音響設計家。コンサートゴアーにとっては神様みたいな人だが、世界的音楽家からも絶大な信頼を寄せられている。そんな豊田さんと林田直樹さんによるオーケストラのサウンドを巡る対談集。ふたりの対談に加えて、合間に潮博恵さんによる俯瞰的な視点からのコラムが収められている。
●とくにおもしろいと思った点を挙げると、「お客さんの側の音響とステージ上の音響とどちらを優先するのか」問題。この問いに対する答えを、豊田さんですら長い間持っていなかったというのだけど、最近は自分なりの答えが見えたって言うんすよ。どちらをとるかとなったら、「ステージ上の音響が重要だ」と。その答えにたどり着くまでのロジックが、すごく興味深いと思った(第2章)。
●あと、第7章のミューザ川崎の話。ワタシは知らなかったんだけど、当初は税金を投入する公共のホールだから、プロオーケストラのためだけに作るんじゃ説明が難しいのでアマチュアにとって最高の音響を作ってほしいという要望があったのだとか。いかにもって感じだけど、それに対して豊田さんは、そんなものはありえない、いいホールを作っていいオーケストラをどんどん呼んでほしいとリクエストしたそう。結果的にこれが大成功したのはまちがいなく、ラトルもヤンソンスもあちこちでミューザ川崎がすばらしいって絶賛してくれたし、それを目にした聴衆も川崎に世界最高水準のホールがあることをあらためて実感できた。川崎という街の印象すら変わるほどのインパクトがあったと思う。川崎にウィーン・フィルやベルリン・フィルを継続的に呼ぶ背景にはそんな戦略性があったのかと腑に落ちた。
●音響についての工学的な話は意外と少なくて、音響よりも音楽寄りの話題が中心。音響設計そのものはサイエンスとテクノロジーの世界だと思うけど、その先のアートの部分、おもにオーケストラと指揮者による音楽作りに焦点が当たっている。

April 2, 2024

「街と犬たち」(バルガス・ジョサ/寺尾隆吉訳/光文社古典新訳文庫) その2

●(承前)後にノーベル文学賞を受賞することになるバルガス・ジョサ(バルガス・リョサ)だが、「街と犬たち」(旧訳では「都会と犬ども」)を書いたのは27歳の年で、これが長篇デビュー作。とてもそうは思えない成熟度。軍人学校が舞台となっているのだが、「犬」というのは下級生のことを指している。人間より下、というニュアンスなのか、上級生の虐めの対象になっている。本物の犬も出てくる。犬の名前は「マルパペアーダ」(旧訳では「ヤセッポチ」)。この犬は生徒のひとりにすっかりなついているのだが、ときには虐められたり、その生徒の欲望のはけ口になったりする(ほかには鶏も同じ目にあっている)。一方、生徒たちのヒエラルキーの頂点に立っているのはジャガー(という愛称の少年。こうしてみるとこの小説は動物成分が高い)。ジャガーは喧嘩上手で、下級生の頃から決して上級生に屈することがなかった。ジャガーの周りには取り巻きができる。ところが終盤、ある事件をきっかけに密告者ではないかと疑われ、ほかの生徒たちから孤立する。動物のジャガーも群れを作らないそうなので、ジャガーはジャガーらしく生きることになったともいえる。
●物語のなかで生徒たちにひとり犠牲者が出る。演習中に銃弾に当たり、当初は不幸な事故として処理されるのだが、ある生徒からこれはジャガーによる殺人だという証言が出てくる。ジャガーは疑いを否定し、身の潔白を主張する。結局、これは事故だったということで片付くのだが、後になってジャガーは士官に対して、本当は自分が殺したのだと罪を告白する。で、ここで問題になるのは小説の読み方で、ジャガーは罪を犯したと素直に解釈しても話は成立するが、実はジャガーは殺してはおらず、あえて罪を被ったのだという読み筋もおそらく成立する。前回、訳者解説にとてもおもしろいエピソードが紹介されていたと書いたのはその点で、作者のバルガス・ジョサはあきらかにジャガーが殺したという前提で話を書いていたようなのだ。バルガス・ジョサがあのロジェ・カイヨワと会ったとき、カイヨワは「街と犬たち」を大絶賛した。彼はとりわけジャガーの「英雄」らしいふるまいに感銘を受けたというのだ。しかしバルガス・ジョサは意味がわからず、「英雄? どういうことですか、人を殺した悪者ですよ」と尋ねたところ、カイヨワはこう言ったという。

「君は自分の小説のことがまったくわかっていない。ジャガーは犯してもいない殺人の罪を被ってクラスメートを守った英雄じゃないか」

自信満々のカイヨワに対して、バルガス・ジョサはジャガーが殺人を犯したのかどうか、わからなくなってしまったというのだ。
●すごくいい話だと思ったし、本来、作品とはそういうものだと思う。ジャガーは殺したのか、殺していないのか。その正解は作者が決めることではない。ひとつの作品の読み方はいくつもあり、読み方は時とともに変化したりもする。AとBの解釈があるとして、「Bは説得力がない」という主張は成立しても、「作者がAだと言っているからBはまちがい」という主張は成立しない。音楽作品の解釈も同じだと思っている。(→つづく

このアーカイブについて

このページには、2024年4月以降に書かれたブログ記事のうちBooksカテゴリに属しているものが含まれています。

前のアーカイブはBooks: 2024年3月です。

最新のコンテンツはインデックスページへ。過去に書かれた記事はアーカイブのページへ。