Disc: 2006年3月アーカイブ

March 14, 2006

モートン・フェルドマン:ピアノと弦楽四重奏

モートン・フェルドマン:ピアノと弦楽四重奏●レコード屋でモートン・フェルドマンの「弦楽四重奏曲」(1979)のCDを見かけ、これを猛然と聴きたくなり、右手でCDケースをグワシッとつかむその直前、脳内エスケープ・ボタンが押下され、ワタシは逡巡し、そして思い直した。「ウチにあるモートン・フェルドマンのディスクと、このモートン・フェルドマンはなにか違うのか」。そもそも似たような曲があったような気がする、そして帰宅してからワタシは何年ぶりかでこの曲をかけた。似たようなものと思ったけど、違っていて、これは「ピアノと弦楽四重奏」(1985)だった(クロノス・クァルテット、高橋アキ/Nonesuch)。
●フェルドマンの極端に音の数が少なく空間に音符をポツポツと点描するかのごとく音楽が、延々と1トラック80分間続く。フェルドマンを聴くときはワタシは漫然と聴く、というか漫然とすら聴いていないというか。意識の裏側遠くでなにかが同期して、ああ、なんて静謐な音楽なんだろう、この悦びに1時間でも2時間でも浸っていたい、そう思いながらいつの間にか音楽を聴いていることすら忘れて風呂に入ってメシ食ってフェルドマンは忘却の彼方、繊細な箱庭宇宙は日常に収斂してゆく。
モートン・フェルドマン●もしなにも予備知識なしで、音楽のみからモートン・フェルドマンの人物像を描くとしたら? ワタシは武満徹みたいな風貌の人を想像すると思う。だが、実際には全然違う。人物写真を載せたいがために、冒頭で述べた「弦楽四重奏曲」のジャケット写真を掲げる。フェルドマンは大柄で饒舌、人なつっこい男であり、騒々しいユーモアのセンスの持ち主だったという。そんな男がこんな曲を。「ピアノと弦楽四重奏」の解説にマーク・スウェドが書いていたフェルドマンの言葉を一つ引用。

われわれニューヨーカーは、モダニティに対してなんの感情も抱かない第一級のモダニストである。
March 9, 2006

フランク:交響曲ニ短調、最強ロマン伝説

フランク 交響曲●たまたまネットラジオから聞こえてきて何年ぶりかで聴いて、その濃厚なロマンティシズムにうっかり卒倒しそうになってしまったのだ、フランクの交響曲ニ短調。ワタシは確信した、完璧な古典派交響曲がベートーヴェンの第5番であるとするならば、完璧なロマン派交響曲はフランクをおいてほかにない。曲全体を支配する冒頭主題は、旋律というよりはただの動機で、それ自体単純で一見冴えないヤツであり、しかも鬱屈しており粘着質で、反復される。ロマンティシズムは粘着質でなければならない。第2楽章はイングリッシュ・ホルンの旋律が気だるく、憂いを帯びている。ロマンティシズムには憂いが必須である。ドヴォルザークの「新世界」に先んじてイングリッシュ・ホルンを使っている点でも高ポイントゲット。続く楽章は終楽章であり、スケルツォはない。ロマンティシズムに諧謔は不要である。コラール風の主題をトランペットが輝かしく奏するとき、納得するのだ、ロマンティシズムは壮麗なものでなければならない。ビバ、ロマン。ラブ、循環形式。ワタシは深く感動し、震える肉体全身ロマン体となりながら、なぜフランクは交響曲をたったこれ一曲しか書いてくれなかったのかを呪った。セザール、あんただけだぜ、こんなにラヴリーで粘着質なロマンティック・シンフォニーを書けたのは。ベートーヴェンみたいに9曲、いやせめてブラームス並に4曲くらい書いてくれたっていいじゃないか。
●しかし史実を確認して気づく、フランクの交響曲作家としての遅咲きぶりはブラームスをもはるかに超越し、初めての交響曲ニ短調は66歳での完成であり、超最晩年、還暦どころじゃねえ、ワタシを震撼させたのは緑寿ロマンティシズム、すなわち齢重ねても達者にロマンってことである、あっ緑寿ってのはデパート用語か、でも66歳キリがいい、もしちょうど666歳なら獣寿かなっ!とくだらないことを思いつきながら、お気に入りの一枚をCD棚から探し出して、もう一度聴こうとするフランク、ロリン・マゼール指揮ベルリン放送交響楽団で。

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