●読了、「カルロス・クライバー ある天才指揮者の伝記」下巻(アレクサンダー・ヴェルナー著/音楽之友社)。最後のページを閉じて、しみじみ。なんという生涯なんだろう、これは。これほど才能に恵まれ、これほど自分で自分に課したプレッシャーに耐えられなかった音楽家がほかにいるだろうか。そして、その後半生は(ページは厚いけど)あまりにも短い。上巻でクライバーはトップクラスの指揮者に仲間入りを果たそうとする。そして下巻ではミラノで、ロンドンで、ミュンヘンで、指揮者としての頂点に立つ……が、そこから半引退状態に至るまでがなんだかやたらと早く感じた。いや、実際早かったんだが。
●上巻と下巻、どっちもおもしろかったが、ワタシはより下巻のほうが楽しめた。知らないことがたくさん書いてあるのは上巻。でも下巻のほうが「あ、あれはそういうことだったのか……」とか生々しく感じられることが多くて、つい慌ててページをめくってしまう。少し前にデアゴスティーニから廉価再発売されたウィーンでの伝説的な「カルメン」、あれがテレビ収録されたのがどんなに幸運なことだったのか。「トリスタンとイゾルデ」のすばらしい録音が実現したのも奇跡だ。前奏曲を録音しただけでクライバーは「録音から降りたい」といって楽屋に閉じこもったというのだから(練習を欠席していたペーター・ダムが録音に現れたとき、クライバーがイジワルに追い払う場面もすごい)。
●でも実現しなかったほうも強烈だ。EMIによるベルクの「ヴォツェック」スタジオ録音。大変な手間と費用をかけて、父エーリヒが使用したパート譜を用意し、歌手と契約を済ませ、録音予定も確保していたのに、いざ録音しようというところでクライバーは説明なしに去った。ワタシがEMIの担当者だったら発狂する。ていうか、今だったら「ヴォツェック」のCDを録音するために、そんな膨大なリソースを投入してリスクを取るということがもはやありえないわけで、こういったエピソードはもう神話時代の物語に思えてくる。
●それからクライバー指揮ベルリン・フィル(!)のドヴォルザーク「新世界より」の演奏会およびその録音(EMI)と映像収録。これもクライバーのあらゆる要求を受け入れて実現直前までたどり着いたが、プローベの段階で楽譜の準備が不十分だったという理由で、クライバーは突然降板した。
●クライバー指揮ウィーン・フィルのR・シュトラウス「英雄の生涯」。あったねえ、そんな幻の録音が。ソニークラシカルからリリースされると発表までされていたのにお蔵入りになった。クライバーがOKといったのに、ヴァイオリン・ソロを弾いたキュッヒルがノーと言った。で、手直ししたものをキュッヒルがOKしたら、今度はクライバーがノーと言った……。ああ、ため息しか出ない。
●ほかにも当時リアルタイムで耳にしていたいろいろな話の詳細が載っている。お忍びで日本に旅行したときのこととか、日本から帰る飛行機の機内でばったりチェリビダッケと鉢合わせしたときの話とか、カナリア諸島での演奏会だとか……。懐かしいエピソード。
●著者アレクサンダー・ヴェルナーの取材力ははんぱじゃない。驚嘆。しかも抑えた筆致で書く。それでいて物語性豊かな評伝になっている。うますぎる。
Disc: 2010年10月アーカイブ
October 25, 2010