●ありえないようなプログラムだったのでNHKホールへ(アシュケナージ指揮NHK交響楽団。本日もう一公演あり)。曲はスクリャービンの交響曲第1番と交響曲第5番「プロメテウス」。後者はあの「色光ピアノ」を本当に再現しちゃおうというトンデモ系快挙。これまでにも同様の試みは行われているが、キーボードからMIDIデータをPCに取り込み、ステージ上のLEDスクリーンにCG(?)を上映、これに会場の照明が加わって、スクリャービンの求めた神秘体験を追体験できるかもしれないという、画期的な本格オカルト企画である(余談。神秘学というのはオカルティズムの訳語だ。でも神秘学とか神智学という用語はオッケーでも、オカルトはNGっていうことになってる気がする)。
●この交響曲第5番「プロメテウス」に限らず、スクリャービンの管弦楽作品が描いていることはいつも同じで、魂と肉体、物質と精神を揚棄して、至高なる存在(神)との合一に至るというもので、いずれもが究極的にはインドに大寺院を建ててそこで観客参加型の儀式的舞台作品である未完の自作「神秘劇」を上演するという終着点へとまっすぐに向かっていたように思える。神秘体験のためには聴覚だけでなく同時に視覚にも訴えかけなければいけない。共感覚の持ち主だったと言われるスクリャービンでなくてもそう考えるのは自然だ。
●そこで色光ピアノである。色光ピアノによる光や映像を舞台上にどう再現するかというのは作曲者によって具体的に指定されているものではないので、実際の上演には解釈が必要になってくる。今回の照明は成瀬一裕氏。で、具体的に舞台上でどんな映像が繰り広げられたか。パンフレットに「CG」なんて書いてあるからうっかりするとミスリードされるのだが、そこにあったのはわれわれがハリウッド映画などで知るCGではない。原色の光、抽象的な模様を重ねたもので、たとえばキューブリックの映画「2001年宇宙の旅」終盤に出てくるサイケデリックで啓示的な場面のようであり、あるいはWindowsのために無数に作られている幾何パターンによる一昔前のスクリーンセーバーのようなものでもある。つまり、何も知らずに見れば「ちょっとショボい」。でもスクリャービンの意図を忠実に汲み取ろうとしたらそうなるのは必然だろう。20世紀初頭のロシア人が想像した視覚効果なんだから。
●今、ワタシたちは想像しうるものならどんなものでも映像体験できると知っている。それを思い知ったのが、先日のピーター・ジャクソン監督による「キングコング」。ここでは人類が誰一人見たことのないもの、ブロントザウルスの群れが暴走して将棋倒しになるなどというシーンが描かれていた。並みの人間では「そんな場面があるかもしれない」と想像することすら不可能な場面だろう。ワタシたちはもっとも豊かな想像力を持った人間が創造した映像を、チケット一枚で自分の体験であるかのごとく簡単に楽しむことができる。
●一方、スクリャービンが期待した神秘主義的映像では、おそらく何ひとつ具象は想像されていなかったと思う。なぜなら最終目的は神との合一なんである。ハリウッドではあるものを描くことによって目的が成されるが、神との合一はなにかを描かないことによってしかその到達を示唆することができない。神秘体験のためにはなにが必要だろうと考える。それは壮大なものだから、大編成のオーケストラが必要だろうな、ピアノもあったほうがいいだろう、合唱も置いておこうかな、色光ピアノを使おう、インドに寺院を建てよう……そうやってありとあらゆる必要と思われるものを用意しても、絶対に再現することのできないものが神秘体験であるはずで、神との合一に十分条件があってはならない。自然科学では再現性が必要だけど、神秘体験に再現性があったらそれはインチキである。あれも必要、これも必要、それを全部そろえた、でも到達しない、それは神との合一にはなにかがまだ欠けているから。といったロジックが必要であり、色光ピアノがサイケデリックな抽象映像を表現することで、まだ描けてない何かを示唆するのは正しいはずだ。
●かつてオウム真理教団がサリンを撒く前、まだ危険なカルト集団ではなく珍奇な新興宗教とみなされていた頃、ワタシはそれと知らずにオウム真理教経営の定食屋さんに通っていた。安くておいしく、繁盛していた。だが、メニューをはじめあちこちに教団色が滲み出ていて、ワタシはこれがオウムの店であることを知った(それでも食べてたけど)。たとえば、「アストラル・ドリンク」みたいなのがメニューに載っている。既存のオカルティズムからの借り物の概念をホイと300円くらいで提供してしまうところが、新興宗教だなと思った。これを飲んでアストラル界を体験しよう、というのならうさん臭い。これを飲んであれを食べてあんな修行をして、それでもやっぱり神との合一は遠いよ、といわれたら本格オカルト(どっちにしろインチキだろう、なんていう視点はこの際忘れる)。
●だから、このNHK交響楽団定期演奏会でも、たぶん聴衆はだれも神秘体験に至らなかったと思う。ワタシもダメだった。これは正当な結果である。神との合一がチケット一枚で実現してはいけない。あ、また須栗屋敏先生のコーナー作ろうかな♪
News: 2006年2月アーカイブ
君のチャクラは開いたか。スクリャービン/「プロメテウス」@アシュケナージ/N響
ラヴリー作曲家占い
●「ラヴリー作曲家占い」というものを作ってみた。設問はたった一つ。ぜひお試しを。超お手軽制作なのだが、どのヘンがお手軽かっていうのはナイショだ。
●ちなみにワタシが今やってみたら、「iioさんはメンデルスゾーンです!」と来て、「ワタシを見守る神様は上様」、運勢ランキングは第一位で「おならで月まで行けそう」ってことである。ラッキー♪
※ 占いに直接リンクを張るときは以下のURLにしてくれると吉。
http://www.classicajapan.com/wn/archives/001045.html
「コジ・ファン・トゥッテ」@新国立劇場~ビミョーにモーツァルトイヤーその2
●せっかくのモーツァルト・イヤーなんだからと先日の「魔笛」に続いて新国立劇場で「コジ・ファン・トゥッテ」。演出はコルネリア・レプシュレーガー、05年の再演。「魔笛」は起承転結のない非物語的でハチャメチャな筋だから、オペラであってもストーリーを追う気になれるんだけど、「コジ・ファン・トゥッテ」などダ・ポンテ三部作はちゃんとしたストーリーがあるからこそ物語的な関心は持ちにくい(音楽は最高だけど……ってヤツ)。
●が、舞台で見ちゃうとやっぱり筋を追ってしまう。「コジ・ファン・トゥッテ」っていうのは、(ダ・ポンテだってのを無視して)現代の視点から見ると、かなり冴えない話である。「女の貞節なんてこんなもんだ(=でも男は違うのさ)」っていう男の一方的で身勝手なジェンダー観が物語の骨子となっているのだが、じゃあテメエはどれほどの男であるかというと、老獪なジジイに手玉に取られちゃうあんまり賢くない軍人であって、これがまた変装するにあたって異国の貴族を選択してしまうあたりが、どうにもカッコ悪い。男なんてホントは一皮剥けばどいつもこいつもこんなようなものだとはしても、それにしても言動の一から十までがとことん冴えない男のそれ。よくいるでしょ、電車の中とかで、パッとしない男が己のこれまたパッとしない恋愛観や女性観を得意げに友達に披瀝してたりする光景。あれがフェッランドとグリエルモ。ダサダサなくせに傲慢。「電車男」の対極に位置している。
●で、彼らに負けずにヤな感じの女がいて、その名はデスピーナ。この女は自分の手は汚さないみたいなところがヤであって、人に放埓を勧めるのであればまずお前が思い切り良く遊べよといいたくなるわけで、ったく小人閑居して不善をなすってヤツである。小ずるいってヤだね、悪党より感じ悪いよ。
●この話で唯一感じがいいのはドン・アルフォンソ。さすが老哲学者である。カモになる若者を見つけると容赦しない。一日で大金を巻きあげる逆結婚詐欺ともいえる鮮やかな手口を披露、しかも若者に知らずにいれば幸せだったかもしれない世の条理をわざわざ教えてあげる。辛辣である。一本筋の通ったイジワルなジジイで、若い頃はブイブイ言わせてたんだろうなあって感じがする。こいつが真のモテ男だってことに、いつかフィオルディリージもドラベッラも気づいて欲しいもんである。
●そんなわけで(どんなわけだ)、「コジ・ファン・トゥッテ」は音楽が最高だから演出はまあ特に珍奇なものでもなけりゃそれで十分だろうと思って見ていたのだ、やっぱり音楽が主役なんだからさ、あんまり演出家ががんばりすぎてるオペラってどうかと思うよね、と。……が、聴衆ってのは無限にわがままなので、オーソドックスで親切な舞台を見ていると、だんだんとそんなにわかりきった長広舌をふるわんでもいいだろうってな気分になってきて、うっかり先日テレビで見たドリス・デリエ演出のベルリン国立歌劇場を思い出してしまう。あれ、可笑しかったよね、冒頭場面が空港でフェッランドとグリエルモがスーツを着たビジネスマンっていう設定になってて、剣の代わりに傘を持ってるのとかホントよくできてる、出征するんじゃなくて異国に赴任するんだろうけどある意味ビジネスも戦争だし、ビジネスマンから変装して60年代ヒッピーになるっていうアイディアも秀逸。あー、いかんいかん、隣の芝がすごく青く見えてるぞ。ペーター・コンヴィチュニー演出の「皇帝ティトの慈悲」@二期会、見ておくか?