●一日遅れでドラマ「のだめ」第7回。今回は黒木くんの回。モーツァルトのオーボエ協奏曲で登場。ドラマ的にはリアル「おなら体操」を見ることができて感動。最終話まであと何回だから次週はあれがこうなってその次でこれが起きるはずだとつい逆算してしまうのが悲しい。いつ最終回かわからなきゃいいのに。
●もうほんの少し先だけど、のだめが「ペトルーシュカ」弾いてて、「今日の料理」が出ちゃう場面が楽しみ。荒唐無稽ってすばらしい。
●昨日からモーツァルトのオーボエ協奏曲が巷でヒットしているはずだと思って、amazonのクラシックのトップセラーリストを見ると、ちゃんとトップ10に一枚入っているではないか。オーボエ協奏曲のCDなんていっぱいあるから分散されちゃうだろうに、それでも入るのかー。いいなあ。テレビの影響力がスゴいのか市場が小さすぎるのかわかんないけど、この世界で共有可能なたあいない話題って貴重だ。
●モーツァルトの書いたオーボエ曲、好きな曲トップ3。もちろんオーボエ協奏曲、それからオーボエ四重奏曲、あとはコンサート・アリア「神よ、あなたにお伝えできれば」K418でどうだろ、オーボエ曲じゃないけど前半に出てくるソロがステキすぎるので。
News: 2006年11月アーカイブ
ピンクのモーツァルト
あーあー、ただいまマイクのテスト中、本日は曇天なり
●あと一週間になったのでラストご案内。11/27の18:30~、六本木にてカルチャーセミナー「知識ゼロから聴くクラシック」。ワタシがしゃべります。入門者を意識したこのテーマなのに、世間一般基準でクラヲタ度の濃い当サイトでご案内して効果があるのか?と思わないでもないのだが、マジメで営業熱心なワタシは案内せずにいられない。エクリチュール的には饒舌であっても、パロール的にはとても寡黙な人間なので、日々滑舌を良くすべくトレーニング中。なに喋っても「モゴモゴ」とか「ブツブツ」に聞こえちゃうんだよなー。アー、アー、モゴモゴモゴ、アー、アー、ブツブツブツ。
●週末のJリーグ。リーグ全体としては盛り上がっているようだが、マリノス的には苦難の日々が続く。岡田監督から水沼新監督に変わった時点で、この展開は覚悟してはいたが。優勝も降格も無関係なので、せめて若手を育ててほしいものである。かつて低迷してた時期にユース上がりの石川(現FC東京)とか田中隼磨に経験を積ませたように。
新国立劇場が愛称を募集
●日本で唯一のオペラ・バレエ専用劇場に「ステキな愛称」を付けていただけませんか! ということなのである。祝、新国立劇場開場10周年。
●しかしな……愛称募集といわれても。メトロポリタン・オペラは「MET(メト)」、ミラノ・スカラ座は「スカラ」と上記ページに例示されているが、それと同様の愛称がすでに新国立劇場にはあるではないか→新国(シンコク)。あっちがメトやスカラなら、こっちはシンコク。他になんと呼べと? ひょっとして二国?
●でもせっかくなんだからちゃんと考えよう。「新国」じゃダメなら「SHINKOKU」でどうだろう。SHINJOとかKONISHIKIみたいに。無意味にシャレるために「SHIN'KOKU」とかもいいかもしれない。ん、「SHIN♪KOKU」とか「SHIN★KOKU」とか。
●初台の劇場だから「ハツゲキ」、あるいは住所は渋谷区だから「シブゲキ」ってのはどうか。それとも柿落としにちなんで「TAKERUハウス」とか(笑)。東京オペラ、東京座、さくら座、ニッポン座、フジヤマ劇場、ヤマト座、大江戸座……。英語名から考える手もあるな。NEW NATIONAL THEATRE,TOKYO だから、略するとNNTT。N2T2、NT^2、T.N.N.T、N.T、うーん、顔文字にはならんか。もうわからん、「オペラ大好きっ子劇場」でいいだろ。それじゃ客が来ないか。あ、「ウィーソ国立歌劇場」ってのはどう? ダメすぎ。やっぱ難しいな、「新国」の愛称は。
●ギルバート&サリヴァンの「ミカド」の舞台が日本の首都Titipuだから、ティティプ座でどう?
「敬愛なるベートーヴェン」(アニエスカ・ホランド監督)
●街に出れば世の中すでに年賀状だのクリスマスだの気が早いなと思うわけだが、来月は12月、大々的にモーツァルト・イヤーである本年においてもやってくる、ベートーヴェン「第九」強化月間。
●で、その12月に公開される映画「敬愛なるベートーヴェン」(アニエスカ・ホランド監督)の試写を見てきた。これは映画館で予告編を見かけたときから気にはなっていたんである。ベートーヴェン役はエド・ハリス。すばらしくベートーヴェンになっている。「第九」を指揮したり、ちらりとピアノやヴァイオリンを弾いたりするのだが、千秋先輩どころではなく、竹中ミルヒー直人をも超える。ていうか、それ以上に外見がスゴい、ベトベンすぎて。恐るべし。そして相手役となる作曲家志望の若い女性コピスト(写譜師)役にダイアン・クルーガー。
●「ちょっと待ったぁ!」とここで声がかかるかもしれない。なんだ、その作曲家志望の若い女性コピストってのは、と。予告編でもわかるけど、「第九」の初演時に、彼女が耳の聞こえなくなったベートーヴェンのアシスタントをしてくれるのだ。史実にはそんな女性は登場しないし、「第九」初演時にベートーヴェンに代わって指揮をしたのはウムラウフだ。だから「なんか、ヘンなロマンスが入ってくるとヤだな、まさかこの人が不滅の恋人じゃないだろねえ」と不安に思われるかもしれないが、大丈夫、そんなアドベンチャーな映画じゃないから。
●むしろ女性コピストという架空の登場人物を導入したこと以外は、意外とオーソドックスな作りになっていて、伝記映画って言ってもいいくらいである。もしかしたら並の伝記よりも抑制されたタッチでベートーヴェンを描いている。ベートーヴェンに新たな人物像を付与しようなんていう企みは一切なくて、古典的な人物像で映画化しようっていう意欲を感じた。こうなると「女性コピストって設定は要らないんじゃないか」と一瞬思わなくもないが、この人が物語上何者であるかというはの自分なりに納得したので無問題。
●「第九」前後の話なので、出てくる音楽のほとんどが後期作品っていうのが吉。映画の冒頭だって、いきなり「大フーガ」なんすよ。弦楽四重奏曲第14番とか第15番とかソナタ32番とか。映画の中での演奏シーンは実際に演奏しているようだが、音声はほぼ既存のメジャー音源を重ねている。「第九」のサウンドトラックはハイティンク指揮コンセルトヘボウ管。
「わが悲しき娼婦たちの思い出」(ガルシア・マルケス)その2
●(承前)。「わが悲しき娼婦たちの思い出」の主人公は新聞の音楽時評にも寄稿している。小説の舞台はコロンビアなのであるが、有名演奏家が来演したときなどには演奏会に足を運ぶ。
美術会館のホールで催されたジャク・チボーとアルフレッド・コルトーのコンサートに特別招待客として招かれたが、そこではセザール・フランクのバイオリンとピアノのためのソナタのすばらしい演奏が行われて、休憩時間に信じられないような賛辞を耳にした。われわれの偉大な音楽家で巨匠のペドロ・ビアバが引きずるようにして私を楽屋まで引っ張っていき、演奏家たちに私を紹介した。私はひどくうろたえて、彼らが演奏してもいないシューマンのソナタはすばらしかったですねと褒めたのだが、誰かが人前であからさまに私の間違いを訂正した。音楽を知らないせいで二つのソナタを取り違えたといううわさが広まった。次の日曜日、自分が担当している音楽時評であのコンサートを取り上げて、うわさを打ち消そうとしたが、説明がまずかったのか事態はいっそう深刻になった。
人を殺したいと思ったのは、長い人生でも初めてのことだった。
●ジャーナリストの記憶違いを正すときは命懸けで。っていうか、それあるあるある、っすよ。ありえないまちがいがありえないタイミングで出てくる、これは人間なら絶対ある。主人公の年齢は90歳。90歳だから忘れっぽくなってるかもしれないが、たとえ20歳だってこういう誤りはありえる。そして20歳では想像もつかないことだろうけど、90歳ではじめて殺意を抱く人生もあるってことだ(笑)。
●あ、ここはクラシック音楽サイトだから音楽関係の記述を取り上げてるわけだけど、この小説全編としては、音楽小説でもミステリーでもないので念のため。前回の記事に書いたように、老人小説の傑作にして、魔術的純愛小説だから。川端康成の「眠れる美女」にインスパイアされた小説でもある。
ウワサのベト7(回しません) アーノンクール/ウィーン・フィル
●ふたたびアーノンクール指揮ウィーン・フィルへ(サントリーホール)。演目はシューマンの「ライン」とベートーヴェン交響曲第7番。偶然にもこのタイミングでベト7。ドキドキしたですよ。「お前ら、やるならここだろう!」って場所でクルクルと楽器回したり、高々と掲げたりしないかと(←するわけない)。コントラバスのブラームス似のオジサンが「いつもより多く回しております~」とか言ったりはしない。アーノンクールの顔が紅潮してくると、竹中直人シュトレーゼマンみたいに見えてくるし。
●で、「ライン」。先日のブルックナーのエントリでも書いたけど、ワタシは実演に接すると、仮にそれがすばらしい演奏であっても、はじまった瞬間からすでに終わった瞬間を待望する。「ライン」でもそうなった。前回のブルックナーみたいなのが例外。そもそもシューマンの音楽がタナトゥスに結びついてなんの不思議があるだろうか。
●が、ベト7がはじまったら、やっぱり演奏が終わって欲しくなくなった。ずっと続いてほしいベト7、そう、提示部が終わったらすぐ展開部に行かないで繰り返しをちゃんとやって、そして2度目もまた提示部を繰り返し、3度目もまた提示部を繰り返し……ってそれじゃあ終わんないよっ!
●自分のベト7原体験は80年のカール・ベーム/ウィーン・フィルの来日公演(の放送)にあって、これをカセットテープがワカメになるくらい聴いたものだが、冒頭の和音が鳴った瞬間にそれを思い起こした。たしかにアーノンクールではあるんだろうけど、古楽系指揮者が振ったモダン・オケではなく、巨匠指揮者が振ったウィーン・フィルを聴いた。アーノンクールって76歳か、もうありえんな、こんなパワフルで情熱的な76歳。素手でケンカしたらきっと負ける。顔面を真っ赤にしながらオーケストラを煽り立て、嵐のようなベト7が疾風のように駆け抜ける体感時間30分、涙あり笑いあり(リアルで)、これ以上のベト7を聴く機会はないだろうなと確信、その確信が裏切られることを願いつつ。
●比較的近くに皇太子殿下が臨席。ベト7にきっと熱狂。殿下はフラブラしたりしない。指揮マネもしない。飴玉の包み紙むいたりもしない。見習いたい。
●そんなわけで今は狸並にラブベト7だ。♪しょーっしょしょじょ寺の和尚が出てきて、ぽんぽこぽん!ぽんぽこぽん!……。
「わが悲しき娼婦たちの思い出」(ガルシア・マルケス)
満九十歳の誕生日に、うら若い処女を狂ったように愛して、自分の誕生祝いにしようと考えた。
●という一文で開始されるのが、「わが悲しき娼婦たちの思い出」(G・ガルシア・マルケス著/新潮社)。ガルシア・マルケス2004年の作品。新刊。主人公は90歳の老人。年金暮らしであるが、新聞にコラムを寄せる現役ジャーナリストでもあって、日曜版の記事は半世紀以上にわたって書いているものの、実入りはほとんどない。「わが国には著名な演奏家がよく来訪するが、そのときに書いている音楽と演劇関係のコラムにいたっては一文にもならない」というのであるから、老人小説にして、同時に世にも珍しい音楽ジャーナリスト小説でもあるかもしれない(笑)。そんな言葉があるとすればだけど。
●ガルシア・マルケスは「族長の秋」で、愛の欠如を描いた。愛なき独裁者が統治するラテン・アメリカの架空の国を舞台にした物語。「わが悲しき娼婦たちの思い出」で描かれているテーマは、似てるけど少し違う。愛なき人生を送った90歳の男性が14歳の少女との出会いにより真の愛に目覚めるという話なのである。と書くと、まったくつまらなさそうに聞こえるが、そこはガルシア・マルケス、たとえばこの少女だってマジック・リアリズム的存在であって、横たわって眠っているだけで、主人公との直接的コミュニケーションは存在しないのだ。筒井康隆の傑作老人小説に「敵」があって、ワタシはそれを連想しながら読み進めていたのだが、そこまでに辛辣な話ではない。
●90歳の主人公は暑さに耐えながら、冒頭の誕生祝いのために娼館の女主人からの連絡を待つ。
四時に、ドン・パブロ・カザルスが編曲した決定版とも言えるヨハン・セバスティアン・バッハのチェロの独奏のための六つの組曲を聴いて、気持ちを落ち着かせようとした。あの曲はすべての音楽の中でもっとも学識豊かなものだと私は思っているが、いつものように気持ちが静まるどころか、逆にひどく気が滅入ってしまった。少しだるい感じのする曲目を聞いているうちにうとうとまどろんだが、夢の中でむせび泣くようなチェロの音と港を出て行く船の汽笛の音を混同してしまった。
チェロと汽笛の音をどうして混同するんだよっ!などと突っ込んではいけない。ガルシア・マルケス作品には音、音響に関する詩的な描写がいくつもある。たとえば「星の動く音が苦になって眠れないジャマイカの男」(短篇「大きな翼のある、ひどく年老いた男」)だとか、以前ここで触れた 騾馬の群れの悲鳴と谷底に落下するピアノのためのデュオ とか。これもその一つで、バッハの無伴奏チェロと船の汽笛は物理的音響としてはほど遠いが、意味的比喩的にはうっかりまちがえるほど似ているのだ。
●「再生の物語」とはよくいうが、これは90歳の老人の「誕生の物語」だと思う。もう一つ、音楽ファンには見逃せない一節がある。その話は明後日くらいに続く。
アーノンクール/ウィーン・フィル ブルックナー:交響曲第5番
●ウィーン・フィル来日公演へ。今日はブルックナー一曲だけと思っていたら、ヘルスベルク団長の挨拶に続いて、バッハ・コレギウム・ジャパンの声楽メンバーとの共演でモーツァルト「アヴェ・ヴェルム・コルプス」で開演。今年はモーツァルト、サントリーホールのアニヴァーサリーであり、同時に本日は佐治敬三氏の命日でもある、拍手なしでお願いしたい、と。
●で、ブルックナー。壮絶な演奏だった。鳥肌が立ったし、泣けた。同じ組合せでCDが出てて、それはリリースされた頃に耳にしてるはずなんだけど、なぜか印象が薄かった。謎。しかし今日は伝説。いかなる瑕疵の指摘も気にならない。帰ったらオレ的伝説日記帳に新たな1ページを書き加えよう。
●いつもコンサートがはじまった瞬間から、ワタシはすべての演目が終わる瞬間を待ち望んでいる。これはコンサートの中身の良し悪しはまったく無関係で、すばらしい音楽を聴いていてもそうなる。旅行に出れば帰宅する瞬間を、人と会えばさようならの挨拶をする瞬間を、レストランに入れば食後のコーヒーを飲み干した瞬間を、もっとも心地よい瞬間として待ち望む。どんな楽しみな曲だって、聴き終えた瞬間を待望しながら聴いているのだし、作曲家はそれを知っているから、曲のおしまいに力の入ったクライマックスを持ってきて、解放の瞬間の喜びを高めようとする。
●でもこの日のブルックナーは違った。第4楽章が始まった頃から、もうすぐ曲が終わってしまうことを残念に思い、できることならもう一度第1楽章の頭から聴きなおしたい、明日も明後日も明々後日も同じ演奏会を聴き続けるビューティフル・ドリーマーとなりたいと願い、どうしても終わってしまうのならもっと大切に聴けばよかったと悔やんだ。はっ、これはエロスがタナトゥスに優ったということなのか。