●先日のショパン・コンクールの優勝者ユリアンナ・アヴデーエワが急遽12月8日(水)に来日リサイタルを行なうことになった。もともと12月4日と5日のN響定期に登場することは発表されていたのだが(コンクール前から優勝者がショパンの協奏曲を弾くとされていた)、それに加えてソロのリサイタルが開かれるんである。曲目はピアノ・ソナタ第2番他、オール・ショパン・プログラム(じゃなかったらびっくりだ)。詳細は主催KAJIMOTOのこちらへ。
●今回のショパン・コンクールは真にインターネット時代のコンクールだったという印象が残ったっすよね。最初の段階からずっとネットで映像付きで生中継されてて、終わった後も公式サイトにアーカイブとして演奏が公開され、しかも審査のスコアも公表されている。今回はファイナルの結果を意外とする声をたくさん耳にした印象があるんだが、これは誰もがコンクールの中継にアクセスできたからこその盛り上がりだったともいえる。見れる(ら抜き)聴けるってのもそうだし、話題がわーっとTwitter等を通して広がった。前回5年前にそこまでの環境はなかった。
●ネット上のプレゼンスという点では今回のショパン・コンクールはホントにがんばったなという気がする。というか、逆にそこまでやらないと終わった後にようやくニュースで結果が流れるだけなわけで、もうこれは後戻りできない感がすさまじい。
●ここまでなんでも見せちゃう聴かせちゃいます状態で、かつてのポゴレリチの事件みたいなのが起きたら全世界的にお祭りになってどれだけワクワクするかと思うんだが、でもまあないか。
●ユリアンナ・アヴデーエワはアルゲリッチ以来45年ぶりの女性優勝者なんすね。Avdeeva という苗字が難しいなーと思ってたんだけど、公演主催者表記が「アヴデーエワ」ということで、今後みんなあまりこだわらずに(笑)これで定着してほしいと祈る。
News: 2010年11月アーカイブ
ショパン・コンクール優勝者ユリアンナ・アヴデーエワの来日リサイタル決定
読売日響記者会見、2011/12シーズンプログラム発表
●11月22日に読売日響記者会見へ。2011/12シーズンプログラムが発表された(東京芸術劇場・コンチェルト カフェ)。常任指揮者シルヴァン・カンブルラン(写真左)と正指揮者下野竜也両氏が同席。新シーズンプログラムはこちらからダウンロードできる(PDF)。
●カンブルランは多彩な演目を指揮するが、目立つのは「ロメオとジュリエット」シリーズ。プロコフィエフのバレエ(抜粋)、チャイコフスキーの幻想序曲、ベルリオーズの劇的交響曲それぞれの「ロメオとジュリエット」を別々のプログラムで取り上げる。ベルリオーズについては「この作曲家のもっとも優れた作品」と語る。読響を指揮することについては「フランスやドイツ、イギリスのオーケストラを指揮するのと何の変わりもない。目の前にある楽譜は同じだし、世界中どこでも技術は同じ、オーケストラを指揮する方法論もどの国でも同じ。ただ東京の聴衆については、非常にポジティブな印象がある。落ち着いていて、集中している。音楽を聴きに来ているんだなという感じがする。ちなみに世界で一番聴衆が音楽に集中していないのはパリ(笑)」と語っていた。
●下野氏のプログラムでは10月のジョン・アダムズ「ドクター・アトミック・シンフォニー」(日本初演)と團伊玖磨の交響曲第6番「広島」という組み合わせが目をひく。両作品について「前もって言葉を並べるよりも、まず作品を聴いてほしい。一つの出来事を米国と日本の視点からどう見たか。考える機会を作りたい」と述べていた。あと、7月の「下野プロデュース・ヒンデミット・プログラムVI」ではヒンデミットの管弦楽のための協奏曲(日本初演)と「下手くそな宮廷楽団が朝7時に湯治場で初見をした『さまよえるオランダ人』序曲」が演奏される(+ブルックナーの第4番)。「湯治場オランダ人」はある意味有名な怪作ギャグ曲なんだけど、これって弦楽四重奏用なんすよね。それをあえて弦楽合奏版にしてオーケストラの演奏会で取り上げるという快挙(?)。本来の趣旨からいえば確かにオケでやるべきなんだろう(笑)。
●あとはスクロヴァチェフスキ(ブルックナー3番他)、上岡敏之(マーラー4番他)、ヴァンスカ(アホの日本初演曲多数。あ、アホは作曲家の名前っすよ、念のため)、初登場マーツァル他。定期演奏会以外では特別演奏会で山田和樹初登場(「未完成」と「運命」と「新世界より」というスゴいプロ)。
●これまでに芸術劇場で開かれていたシリーズは改修工事に伴い、オペラシティに移動するそうです。
ヤンソンス指揮ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団のマーラー
●ヤンソンス指揮ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団をミューザ川崎で。曲はマーラーの交響曲第3番。世界最強レベルのオーケストラによる超美麗なマーラー。なんという輝かしさ、まばゆさ。
●ヤンソンスは先日の記者会見でマーラーの作品にはあらゆる人にとって人生に対する問いかけがあるといったことを語っていた。生の喜び、愛、死への欲動、浄化、自然賛歌。第3楽章の夢想するかのようなポストホルン、第4楽章のアルトが歌う夜の音楽、第5楽章の無邪気すぎてグロテスクな少年合唱(ビンバン怖い)、第6楽章の天上の音楽。表現の振幅があまりに巨大であるがゆえに聖性といかがわしさを並存させてしまうところにこの作曲家の魅力を感じていたのだが、ほとんどエレガントとも言ってもいいくらいに磨き抜かれたマーラーを前にして絶句。こんなに美しいマーラーがあるなんて。
●客席は熱狂。ヤンソンスの一般参賀あり。
●マーラーはときどき「恥ずかしい」(ベートーヴェンやシューベルトも割りと恥ずかしい)。交響曲第3番は頭とお尻、つまり第1楽章冒頭の深い森を連想させるようなホルン主題、第6楽章のティンパニに合わせてドシンドシンと巨神が行進してみるみたいなコーダが、すごく気恥ずかしい。でもヤンソンスとコンセルトヘボウのマーラーだと、ぜんぜん恥ずかしくない。恥ずかしくならずにむしろ崇高になる。これは「超イケメンだとどんなにヲタっぽい服装をしてもおシャレでカッコよく見える理論」に通じる。
METライブビューイング「ボリス・ゴドゥノフ」
●METライブビューイング、シーズン開幕の「ラインの黄金」は見逃したが、第2作ムソルグスキー「ボリス・ゴドゥノフ」は見た。ルネ・パーペ圧巻の表題役。歌もすごいが顔芸もすごい。周りがほぼ全員ロシア人歌手、もちろんロシア語歌唱のなかでドイツ人一人が主役を歌っているのに、微塵のアウェイ感も感じさせず、誰がどう見てもボリスであり、ツァーリであった。指揮はゲルギエフ。
●で、このオペラなんすけど。長い。非常に寝不足状態だったので、プロローグ~第1幕~第2幕からなる前半で何度か落ちた(オペラとはいえ映画なので館内は真っ暗)。いや、もしワタシがこの作品を初演しようという劇場主だとしたら、不遜にも作曲家にいくつか注文を付けたくなっただろう。セリフを刈り込め。簡潔に。前半はもっと短く、と。第3幕も少々説明的と感じたかもしれない。しかし第4幕を見たらそんなことは全部吹っ飛んだ。
●これ、物語の凄み、厚みという点で並大抵のオペラじゃないんすよね、ボリス・ゴドゥノフは、史実からして。一言でいえばみんな狂人ばかり。本当はただの下級貴族出身のボリス・ゴドゥノフは幼い皇位継承者ドミトリーを殺害して皇帝となったと疑われる。ボリスは、統治者として人民の安寧を願っているにもかかわらず、民衆からも貴族からも子供殺しの簒奪者とウワサされ猜疑心に苛まれる。権力を手にしても幸福になれない男。ワタシはボリスを「本当はドミトリーを殺していないのに狂気に飲み込まれてしまいに殺したと信じてしまった男」だと解して見た。
●そして「実はドミトリーは死んでいない、われこそはドミトリーであり正当な皇帝だ」と僭称する偽ドミトリーが出てくる。正体はただの修道士だ。彼は反ボリス勢力を味方につけて、ボリスの死に乗じて僭王となる。民衆は身勝手なもので、パンがなければそれは為政者一人のせいだと断じ、ボリスを憎み、偽ドミトリーを称える。貴族たちだって偽ドミトリーが本当はドミトリーじゃないことなど百も承知で、都合よく神輿を担ぐ。ただ、偽ドミトリーはおそらく僭称しているうちに、やはり狂気に飲み込まれて自分を本物のドミトリーと信じるようになったのではないか。
●最初から明らかに狂っている登場人物は「聖なる愚者」だ。周りがおかしいと、しばしば狂人だけがまともに見えてくることがある。
●第4幕、偽ドミトリーが登場するシーンの暴力性は衝撃的だった。といっても、スティーヴン・ワズワースの演出は生々しい直接表現ではぜんぜんない。貴族を血に飢えた民衆たちが取り囲む。貴族の喉にナイフを当てて切り裂く。群衆の中に一人、正気を保った平民の女がいた。女は人々の暴力を止めに入った。すると、人々はその女をも殺すのだ。それだけでは飽き足らない。一人の貴族の自由を奪った上で、もう一人の貴族に「コイツを殺さなければお前の喉を切り裂く」と脅す。それを見て男たちも女たちも楽しんでいる。つまり民衆もみな狂人なのだ。このオペラにでてくるのはキチガイばかり。オペラ的な作法の範疇にある演技で、こんなショッキングなシーンを描けるのか……。
●ボリスの息子、フョードルの役にはメゾ・ソプラノではなくボーイ・ソプラノが起用されている。リアル。
●長いオペラだったが、実をいえばこのオペラのさらに先にある史実がまたおもしろいんすよね。この先、どうなったかといえば、ボリスの息子の少年フョードルは偽ドミトリーの命令で殺される。で、娘のほうは偽ドミトリーの妾にされてしまう。偽ドミトリーはマリーナと結婚するが、正教会に改宗せずカトリックのままだったので反発を買う。民衆はクレムリンを襲い、偽ドミトリーは殺される。そしてシュイスキー公が即位して、ヴァシーリー4世となる。おかしいのはその先で、偽ドミトリーは実は死んでいなかったとして偽ドミトリー2号があらわれる! 偽者の偽者だ(笑)。彼もポーランドの支援を得て勢力を保ったが、モスクワを支配するまでには至らず、結局仲間に殺される。……で、さらにさらに偽ドミトリー3号まで登場して、これも殺されたというのだが、もう大変な時代である。
●ムソルグスキーは「ボリス・ゴドゥノフ」は3部作くらいにしてロマノフ朝の誕生まで描いてもよかったかもしれない。BGエピソード1、BGエピソード2、BGエピソード3みたいにして。
「アンドレア・シェニエ」@新国立劇場
●一昨日、新国でジョルダーノのオペラ「アンドレア・シェニエ」。このオペラはたぶん十代の頃にNHK教育でドミンゴかだれかの映像を見て圧倒されて(スゴい音楽、でもスゴい不条理ストーリー)、たぶんそれ以来ン十年ぶり。終幕のカタルシスが強烈なんだけど、一方でそれに至るまでの悲劇がハリボテ的という印象を事前に持っていたのであるが、今見るとわかることもたくさんある。
●被虐に耐え忍ぶ下層階級が闘争によって権力を手にしたとき、まず最初に彼らは加虐の悦びに目覚めるのであって、決して階級や派閥にかかわらずに相互の敬意と愛と自己犠牲を礎に社会を再構築しようとはしない。という歴史的真実がジェラールという役柄に託して描かれている。そういう意味では現代的なテーマが込められているのかもしれない。1幕でジェラールが父もオレも召使だ、こんな制服を着せるために父はオレを生んだのだと嘆くとき、ワタシは制服といわれてマクドナルドを思い浮かべたし、第3幕で老女が自分の最後の孫を兵士として、革命の犠牲者として差し出す場面では、革命軍は狂信的なテロリスト集団にしか見えない。
●そう考えると、マッダレーナは偉い。苦境に陥っても貴族としての矜持を決して失わず、最後は愛のために命を差し出す。もっといえばマッダレーナに仕えたベルシはもっと偉い。革命が起きて制度上はマッダレーナはもはや貴人でもなんでもない貧しい女に成り下がっているのに、ベルシは自分の美貌を売ってまでしてマッダレーナに仕え続けた。ベルシにとっては、マッダレーナとの関係性というのは社会制度とも報酬とも無関係なんである。ただマッダレーナという人と自分だけの間に結ばれる主従の関係だ。
●な、貴族もその従者も立派じゃないか、人として。やっぱり血筋がものをいうのだな、それにひきかえ革命だのやらかすならず者の精神的困窮といったらなんだ。人間性を回復するためにもう一回革命以前に戻そうぜ、ビバ王権神授説! あれ? これってそんなオペラだっけ。
●演出はフィリップ・アルロー。回り舞台と色彩豊かな照明を駆使して舞台装置の寂しさを補ってくれている、かもしれない。最後の場面の大人は全員倒れて子供だけが立っているみたいな趣向に微妙なオジサン臭を感じる。ミハイル・アガフォノフ(シェニエ)、ノルマ・ファンティーニ(マッダレーナ)、アルベルト・ガザーレ(ジェラール)。フレデリック・シャスラン指揮東フィル。これは気のせいじゃないと思うんだけど、新国の平日昼公演はなんとなく緩い雰囲気になることが多いと思う、劇場内全体に。客席の圧倒的な人生のベテラン度の高さも影響しているのかもしれない。少々のことでは泣いたり喜んだりしない落ち着きがあって。拍手もすうっと密度が下がり、カーテンコールを待たずに帰りたい人々も多く、熱しにくい。いや卵が先か鶏が先か、客席が先かピットが先か、ミルクが先か紅茶が先か、そのへんは謎であるが。
●幕間の緞帳に映されたギロチンのアニメって、前に別の出し物で見た気がするんだけど、なんだっけなー。
●最後にワタシがいちばん喜んだシーンについて。終幕、監獄にマッダレーナが別の女囚の身代わりになって入っている。彼女一人でいるところに「ジャーン!」と突然シェニエが登場して感動の再会を果たす。そのあまりの唐突感に思わず吹き出しそうになったワタシは血も涙もない男決定。でもそういうのが本気で楽しいんすよ、ワタシは。本物の感動は笑いと裏表の関係だと信じてるので。
マリス・ヤンソンス記者会見
●マリス・ヤンソンス指揮ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団が来日して記者会見(帝国ホテル)。それにしても11月の東京はスゴい、アーノンクールだ、ポリーニだ、ウィーン・フィルだ、コンセルトヘボウだ……。これだけ次々来日公演があって、一方で東京のオケ(いくつあるんだ)やオペラも並行して活動してて、ちゃんとお客さんは入っているわけで、超ウルトラ特大胃袋と呼ぶしかない……。
●コンセルトヘボウ管弦楽団はもう15回目の来日なんだとか。ヤンソンスは去年バイエルン放送交響楽団と来日したばかり。「昨年は一人の子供を連れてきて、今年はもう一人の子を連れてきたように感じる」と比喩。「毎回記者会見で言うことですが、大切なことなのであえてまた言います。日本のモラルの高さ、働く姿勢、マジメさ。これらから私たちは多くを学びました。そして指揮者の立場から言えば、日本には最高のホールと聴衆がある。日本を訪れることは楽しみであると同時に、大きな責任も伴う。というのは、日本には最高レベルのオーケストラが次から次へとやってくる。そして私たちは定期的に来日しているので聴衆は私たちを熟知している。だから私たちは最高の音楽を聴いてもらうために十分に準備をしてくるし、常に新しいものを提供しなければならないのです」
●今回の来日公演ではマーラーの交響曲第3番が取り上げられる。「マーラーとこのオーケストラの特別な関係はあらためて説明するまでもないでしょう。マーラーの3番は大作ですが、ある意味でマーラーの交響曲はすべてが大作です。マーラーの演奏には大きな喜びを感じます。彼の作品には、あらゆる人にとっての人生に対する問いかけがある。特定のオーケストラがある作曲家と特別な関係があるからといって、他のオケがうまくその作曲家を演奏できないなんて理由はありません。でも神秘的な言い方になってしまいますが、コンセルトヘボウ管弦楽団とマーラーを演奏していると、これは彼らの音楽なのだなと感じます、彼らの体の中にマーラーの音楽があるのだな、と」
●コンセルトヘボウ管弦楽団は自前のRCO Liveを持っていることからも察せられるようにメディア戦略もしっかりしてて、今回のアジアツアー(先に韓国を訪れている)の様子なんかもサイトにアップロードしてますよーとURLを雛壇で告知するし、この会見にも自分たちでカメラを入れてるし、ウェブ、YouTube、Twitter、Facebook全部当然のごとくフル活用。2013年にはツアーで五大陸全部を回るんだとか。なにかと超優秀、オケとして、演奏も事務局も。
ウェルザー=メスト指揮ウィーン・フィル@サントリーホール
●もう一日、ウィーン・フィルへ。こちらはサロネンのブルックナーの6番が予定されていた公演だったんだけど、彼の突然のキャンセルのため、ちょうどこの後クリーヴランド管弦楽団との来日公演が予定されていたウェルザー=メストが指揮することになった。曲はブルックナーの9番に変更(「トリスタンとイゾルデ」の前奏曲と「愛の死」はそのまま)。たまたまウィーン国立歌劇場音楽監督がそこにいる11月の東京って。
●「刷り込み」って現象があるじゃないすか、クラヲタ的世界には。最初の頃に繰り返し聴いた演奏のインパクトがあまりにも強くて、その後もずっとそれが標準形として頭に残ってしまう。ワタシの場合、ブルックナーの交響曲第9番はFMで放送されたチェリビダッケのライヴで刷り込まれているっぽい。というのは、いつ聴いても第1楽章のコーダの決まった場所で「ヒッ!」とチェリビダッケがオケに喝を入れる声が空耳で聞こえてくるんである。すぐ目の前で、本物のウィーン・フィルが演奏しているにもかかわらず、脳内にはチェリビダッケの喝が入る。なんと恐ろしい……。(あ、チェリビダッケって人は昔の指揮者で、音楽が高潮してくるとオケに「ヒッ!ヒッ!」って大声で喝を入れる奇人だったんすよ。今時そんな指揮者いたら大ヒンシュクだろう、オケから「オレたち馬じゃねえぞ」とか言われそうで)
●そんな影響もあって、ワタシの脳内世界ではブルックナーの9番は銀河を飲み込むほど限りなく肥大化した音楽なのだが、ウェルザー=メストとウィーン・フィルはそんな救いのない行き過ぎた妄想にストップをかけてくれた。ブルックナーの9番は本当に抒情的で、気品のある音楽なのだ。ウィーン・フィルの唯一無二の美しい響きを堪能した。「神が見える!」(笑)的なブルックナー観とは違うのだ。もっとも「神は細部に宿る」ともいう。細部に不足があったともいえるかもしれない。それでもワタシは十分に幸せな気分になれた。ここ数年のサントリーホールでのウィーン・フィル演奏会に感じるんだけど、全曲が終わった後もお客さんは水を打ったような静けさで、余韻をじっくりと味わえる。吉である。
レッツゴー!クラヲくん 2010 劇場編
●連続不条理ドラマ「レッツゴー!クラヲくん」第16回 劇場編
「うっ……前の席の人のアフロがデカすぎて舞台がぜんぜん見えない!」
ネルソンス指揮ウィーン・フィル@ミューザ川崎
●演奏会はなにが起きるかわからないものとはいえ、演奏前の段階でこれだけ紆余曲折があろうとは。もともと今回は小澤征爾指揮ウィーン・フィルの来日公演だったんである。それが代役サロネンが指揮することになった。曲はマーラーの9番。しかしサロネンも謎の事情でキャンセルして、結果的にウワサの若手ネルソンスが指揮台に登場。曲目は川口公演と同じプログラムに。モーツァルトの交響曲第33番、ハイドンの交響曲第103番「太鼓連打」、ドヴォルザークの「新世界より」。
●来日公演中にコントラバス奏者シュトラッカ氏の富士山での遭難死があった。痛ましいことである。でもとにかく公演は続く。で、モーツァルトの33番の第2楽章でグラグラとミューザ川崎が揺れ始めたんすよ! 地震だ。揺れはそんなに大きいものじゃなかったと思うが、長くしつこく揺れた(ように感じた)。普段ならすぐに震源はどこか、地震の規模はどれくらいかをあわてて確認するんだけど、演奏会ではそうもいかず。なんだかイヤーな予感がして、ワタシは恐怖していた。呪われた来日公演なのか……? いや、ウィーン・フィルは平然と弾き続けていたし、後で知ったところでは川崎は震度2しかなかったんすけどね。
●ネルソンス、意外とデカい。動きはダイナミック。そして指揮ぶりがヤンソンスそっくり。なんていうのかな、蟹股に構えて手先のほうで指揮棒をぴゅんぴゅん振る感じとか似てるなあ。でも音楽はやはりウィーン・フィルのもの、特にモーツァルトとハイドン。なんという美しい響き。ネルソンスは物怖じせずに果敢にオケに向き合っていて、「新世界」ではところどころに特徴的な歌いまわしやテンポの動かし方で自分の徴を刻印しながら、メリハリの利いた音楽を作っていた。曲が曲なのでマーラー9に期待されるような体験を求めるわけにはいかないが、多くの方がこれぞクラシック音楽の醍醐味として満喫したはず。「新世界」みたいな超有名曲こそ最高のオーケストラで聴きたいという気持ちだってある。楽員が全員舞台から去った後にもまだ拍手が鳴り止まず、ネルソンスのいわゆる「一般参賀」(ソロ・カーテンコールね)があった。これはスゴい。
●あちこちで「寝る損す」的なオヤジギャグが炸裂してたと予想。
新潟の土曜23時はFM PORT 79.0MHzで「クラシックホワイエ」
●新潟県在住の方、限定告知。FM PORT 79.0MHzにて、11月06日より新番組「クラシックホワイエ」がスタートします。ワタシがナビゲーターを務めます。毎週土曜日23時からの1時間、ラブリーなクラシック音楽をお楽しみください。インターネットでは聴けないので要電波ラジオ。
●ていうか民放FM局でクラシックはスゴくないですか。番組表見ると自分のところが思い切り浮いているのを感じるぞ(笑)。
●ワタシが選曲して、なおかつ一人だけでしゃべる方式の番組である。まずは自分が聴いて欲しいものを皆さまにお届けしようということで選曲するわけだが、そうなると自然と音源はウチにあるものから選ぶことになる。つまり、ウチに遊びに来たお客さんに「これ、聴いてみない?」って言って棚から好きなCDを取り出して聴かせるのと変わらない。当面、基本的にそういうノリで選曲してみたい。
●さっそく今週末から始まりますので、新潟の方はぜひ!
メッツマッハー祭り
●来日中のウィーン・フィル団員、富士山で滑落死。コントラバスのゲオルク・シュトラッカ氏(41)。絶句。ご冥福をお祈りいたします。
●一昨日はインゴ・メッツマッハー指揮新日フィル(サントリーホール)。メッツマッハーだし、しかもカール・アマデウス・ハルトマンの交響曲第6番を演奏するということもあって注目していたのだが、これが圧倒的なすばらしさ。ブラームスの「悲劇的序曲」、ハルトマンの第6番、チャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」というプログラム。ハルトマンの曲は第1楽章冒頭がファゴットのソロで導入され、彼にとっての第6=悲愴ということで、これは悲劇三部作といったプログラムなんだろう。マーラーの交響曲第6番「悲劇的」を取り上げる別プロとも対応する選曲。
●メッツマッハーはどれも指揮棒を持たない上に、すごくわかりにくそうな指揮ぶり。でもオケに対する影響力は絶大で、最初のブラームスから深みのある美しい響きを引き出していた。ハルトマンは打楽器&鍵盤楽器パートが猛烈に大編成で、フーガ主題を変奏するトッカータの第2楽章は超アグレッシブ、すさまじい音響の洪水を作り出す。ここまでの前半が終わった時点で、客席は(空席も結構あったんだけど)大盛り上がり。カーテンコール、何回あったんだろう。後半の「悲愴」もスタイリッシュで端正な音楽作りなんだけど十分に情感豊か。カッコいい。第3楽章はかなりテンポ速めで危険水域に近づきかねない前のめりなマーチ。ここで最強に音楽が高潮すると、メッツマッハーが「イチ、ニ!イチ、ニ!」ってリアル行進するみたいなプリティすぎるポーズを見せてくれたんすよ! ああっ、なんというハッピーな眩暈。ラブリーだよ、オッサン。第3楽章終わって即座に第4楽章に入るのも効果的だったし、演奏終了後の客席の沈黙も完璧。
●Twitter上でも盛大にメッツマッハー祭りになってた(ワタシの読める範囲では)。同じように話題性のありそうな演奏会でも、お祭りになる演奏会とぜんぜんそうならないものがあるんすよね。謎。いや謎でもないか。
アーノンクールの青少年向け公開リハーサル
●オペラシティでアーノンクールの青少年向け公開リハーサル開催(Sony Music Foundation主催)。その様子を見せていただいたのだが、これはすばらしいっすね。大勢の子供たちが来場していた。曲目はモーツァルトのセレナード第9番「ポストホルン」(+行進曲K335-1)と、おそらくアンコール用の一曲(これは曲名は内緒にしておこう、本番前だし)。ただゲネプロを見せてくれるのかなーくらいに思っていたらそうではなく、なんとアーノンクールが客席に向かって曲の解説までしてくれたんである。「ポストホルン」というのは郵便馬車が使ってた楽器で、こんな音がするんですよーとか、これはモーツァルトが友人たちとの別れの曲として書いたんですよーとか。メヌエットのこのメロディは男性、このメロディは女性、コンチェルタンテは4人の登場人物がソロで会話をします、アンダンティーノは悲しい別れの音楽……。とても描写性の豊かな音楽としてとらえられている。
●そしてレクチャーを待つまでもなく、音楽そのものが圧倒的に雄弁。突然のテンポのゆらぎやどぎつい強弱の対比が、初めて聴くかのような鮮烈な音楽としてモーツァルトを甦らせる。「ポストホルン」ってこんなに大きな音楽だったんだ……。子供たちは楽しんだだろうか。たぶん楽しんだだろう。そして親御さんたちはもっと楽しんだにちがいない。