●季刊「AUDIO BASIC」vol.62で別冊付録「はじめてのインターネットラジオ」。ネットラジオについて1ページのコラムを書いた。この別冊はその名の通りまったくの初心者の方にネットラジオなるものを紹介するという企画。こういう企画がオーディオ誌で成立しているということが興味深い。
●日頃オーディオ誌には縁がないが、見本をいただいたので、せっかくなので本誌のほうも眺めてみた。なぜか付録CDとして、小倉貴久子さんのフォルテピアノ独奏、桐山建志さん、花崎淳生さん、藤村政芳さん、花崎薫さんのメンバーでモーツァルトのピアノ協奏曲第11番、第12番、第13番の室内楽編成版というCDが付いている。日本モーツァルト協会例会として昨秋行なわれたライブ録音の模様。
●オーディオの記事はワタシのような門外漢にはなかなか難解。ただ、すでに「PCオーディオ」という言葉が定着しているようで、PC側の話になるとある程度わかる。個人的な感触では、PCの世界でのデジタル・データに対する前提と、コンシューマー向けオーディオの世界におけるデジタル・データの扱いについて、基本的なところで齟齬が生じないのかなあ、とか気にならんでもない。
●84万円のプリアンプとかスゴいすよね。あとD/Aコンバーターで23万円とか(もっと上があるとか教えてくれなくていいっす)。パソコンにくっついてる光学ディスクドライブもCDを再生できるんだからなんらかのD/Aコンバーターが入ってるわけだろうけど、そういうのはいくらくらいのものなんすかね。500円くらい?(笑)
News: 2012年3月アーカイブ
「AUDIO BASIC」で別冊付録「はじめてのインターネットラジオ」
ミューザ川崎「フェスタサマーミューザKAWASAKI 2012」他、記者発表
●28日午後、ミューザ川崎シンフォニーホールの市民交流室にて「フェスタサマーミューザKAWASAKI 2012」他の記者発表会へ。写真左より秋山和慶同ホールチーフアドバイザー、阿部孝夫川崎市長、大野順二東京交響楽団楽団長。
●まず今年の「フェスタサマーミューザKAWASAKI 2012」について概要が発表された。首都圏のオーケストラ9つが参加するこの音楽祭、昨年は震災被害でミューザ川崎が使用できず、川崎市内の各ホールで代替されたわけだが、今年も同じ方式で開催される。会場は昭和音楽大学テアトロ・ジーリオ・ショウワ、川崎市教育文化会館、洗足学園前田ホール、川崎市多摩市民館。あくまでも川崎市内の会場で開く。
●演目的には各オケともかなり親しみやすい曲目をそろえてきたという印象。フレッシュなところでは昨年ブザンソン優勝の垣内悠希指揮都響。垣内氏は川崎のご出身とか。ベートーヴェンの2番と「皇帝」(清水和音独奏)。
●それと、現在復旧工事中のミューザ川崎シンフォニーホールについて。リニューアルオープンはすでに発表されている通り、2013年の4月1日。1日に東京交響楽団およびホールアドバイザー松居直美パイプオルガンによるコンサートを開催、同月7日にスダーン指揮東京交響楽団によるリニューアル公演が開かれる。リニューアルに際しては、安全性を確保しながら、これまで同等以上の音響を持ったホールを目指す。復旧工事自体は、パイプオルガンを除いて12/25に完了する。「ホールの音響はさまざまな条件で変化する。設計上は同じでも素材が違えば変わることもあるし、塗料の渇きなどでも違ってくる。以前のホールもオープン後に少しずつ音響は変化していた。12/25の完成後もリニューアルオープンまでに演奏を通して調整していく」(秋山氏)、「東京交響楽団も復旧工事の会議には参加している。オーケストラ全体で施工会社、設計会社と協力しながら設計段階からかかわっており、今まで以上の音響を持ったホールを目指している」(大野氏)。
●リニューアル後に複数の海外の名門オーケストラの公演を予定しており、現在調整中とのこと。
「新訳 フィガロの結婚 付『フィガロ三部作』について」(ボーマルシェ/鈴木康司)
●「新訳 フィガロの結婚 付『フィガロ三部作』について」(ボーマルシェ/鈴木康司訳・解説/大修館書店)読書中。おもしろい。
●「フィガロ三部作」といえば、ロッシーニがオペラにした「セビリアの理髪師」があって、次にモーツァルトの「フィガロの結婚」があって、そしてあまり知られていない「罪ある母」が続く。「罪ある母」というのは、アルマヴィーヴァ伯爵夫妻の息子が実は伯爵夫人とケルビーノの不倫で生まれた子であったりとか、かなりトンデモ度の高い話で、ワタシも読んだり見たりしたことはない(ミヨーがオペラ化しているというが未見)。初演当時も酷評されたそうなんだが、どうしてボーマルシェはそんな話を書いたのか、本書の解説を読むとその背景を知ることができる。
●この「新訳 フィガロの結婚」はモーツァルトのオペラのダ・ポンテ台本の訳ではなく、原作であるボーマルシェの戯曲の訳。当然のことかもしれないが、セリフの分量がオペラのそれよりずっと多い。オペラ化にあたってずいぶんバッサリ刈り込まれているわけだが、むしろダ・ポンテの手際のよさを感じる。
●ケルビーノ役について、ボーマルシェは「この役柄は、実際の上演でそうだったように、若くて非常に美しい女性でないと演じられない。わが国の演劇界にはこの役の繊細さをしっかりと感じ取れるほどよくできた若い男優はいない」と書いている。この段階から、ズボン役だったんすね。
●「フィガロの結婚」の正式名称は、「ラ・フォル・ジュルネ(狂った一日)あるいはフィガロの結婚」。ルネ・マルタンは音楽祭の名称をここから引っ張ってきた。クラシック音楽の民主化という趣向に、この「フィガロの結婚」の物語がふさわしいと考えたわけだ。この「ラ・フォル・ジュルネ」の訳語に、日本の音楽祭は「熱狂の日」という言葉をあてた。
●一方、この「新訳 フィガロの結婚」は「ラ・フォル・ジュルネ」を「てんやわんやの一日」と訳している。てんやわんや! なんという趣のある日本語だろう。「てんやわんや音楽祭」とか、楽しそう。
「東京・春・音楽祭」広瀬悦子ピアノ・リサイタル
●昨晩は開催中の「東京・春・音楽祭」から、広瀬悦子ピアノ・リサイタルへ(上野学園石橋メモリアルホール)。ショパン、アルカン、リストとヴィルトゥオジティ満載のプログラム。この日の楽しみはアルカンの「鉄道」と「風」。「鉄道」は爆走する機関車を描いた曲ということで、その疾走感や機械主義的イメージの鮮烈さでオネゲル「パシフィック231」にも劣らない快作だが、ライブで聴いたのは初めて。期待以上のおもしろさ。ニュアンスに富んだ演奏で、技巧と意匠だけの音楽ではないと実感。他にショパンのバラード第1番、リスト「巡礼の年 第2年イタリア」から「物思いに沈む人」「ヴェネツィアとナポリ」他、強靭豊麗。
●アルカンの「風」が吹いて、「鉄道」で風を切って、ロッシーニ~リスト編「ウィリアム・テル」序曲は第2部で嵐が吹くし、アンコールではショパン「木枯らし」も吹いて、風度の高いプログラム。東京春祭だから春一番、なのか?
映画「魔弾の射手」
●そういえば、すでに東京では公開しているのであった、映画「魔弾の射手」。現在ヒューマントラストシネマ有楽町で公開中。3/24より大阪シネ・リーブル梅田、近日名古屋の名古屋シネマテークで公開予定。イェンス・ノイベルト監督、ダニエル・ハーディング指揮ロンドン交響楽団(おおっ)。
●昔からオペラの映画化というと二つの流儀がある。劇場で上演しているものをそのまま収録するスタイルと、あくまで映画としてセットを組んで作りこむタイプと。前者はMETライブビューイングという成功事例ですっかり定着した感があるが、後者にも時々力の入ったものが出てくる。この映画「魔弾の射手」はそちらのタイプ。完全に映画。指揮者もオケもまったく映らない。
●でも、どうして今ウェーバーの「魔弾の射手」なんすかね。と思わなくもないが、名作でなおかつ映画の尺に収められるものというと限られているのかもしれない。この映画では、時代設定が作曲当時に置き換えられているものの、ほぼオーソドックスな演出。そして、意外にも映画として作っているにもかかわらず、歌手陣はルックス重視ではない。なにしろマックス役のミヒャエル・ケーニヒはどう見ても逃亡犯みたいな悪人面のオッサンで、これから花婿になろうっていう若い猟師には見えないし(その銃で何人やっちゃったんですか!的な)、アガーテ役のユリアーネ・バンゼも若い恋人にしては労苦が表情に刻まれすぎているような気がする。領主はフランツ・グルントヘーバーで、富農キリアンがオラフ・ベーアで、カスパールがミヒャエル・フォッレで、隠者がルネ・パーペで……と重厚なキャストをそろえて、堂々たる歌唱を聴かせてくれる。つまり、これはオペラだ。オペラ的人選で、ぜんぜん映画的人選じゃないのが潔い。
●見どころは、やっぱりルネ・パーペの隠者っすかね。もうこれがカッコいいんだ、最後においしいところを持っていく感、そしてあの重々しい顔芸。「あ、あなた様が、あの隠者殿で。ははーっ!」みたいな黄門様的快感。
●音楽的に不足はないし、映像的にもよくできているので、あとは映画館の音響が適切であることを祈るばかり。
ショスタコーヴィチというサカヲタ
●「驚くべきショスタコーヴィチ」(ソフィア・ヘーントワ/筑摩書房)を読むと、ショスタコーヴィチのサッカーへの熱狂が並大抵のものではなかったことがよくわかる。「作曲家なんだけど意外とサッカーも好きなんです」とか「趣味でサッカー見てました」とか、そういうレベルではない。どう見ても完全に「コアサポ」。作曲家という人生とは別にもうひとつサカヲタ生活を抱えていたようにしか見えない。
●30年代前半、「ムツェンスク郡のマクベス夫人」が成功したあたりから、ショスタコーヴィチのサッカー熱は高まっていったようだ。このときに審判員をやったりしているが、本筋はディナモ・レニングラードのサポ。1936年、あの「プラウダ」の「音楽ではなく荒唐無稽」があって、交響曲第4番を完成させるかたわら、ショスタコーヴィチは唯一人々と交わえる場所としてサッカー・スタジアムに通いつめた。ディナモの選手と積極的に近づいて、クラブについての情報を手に入れていたほど。交響曲第5番で公的な名誉を回復し、作曲家として多忙を極めるようになってからも、ディナモの試合は追いかけていた。
ショスタコーヴィチは、たとえどこにいようと、腹をすかそうが、疲れはてていようが、雨であろうが、風であろうが、スタジアムへ駆けつけていった。チケットがうまく手に入らないこともあった。そんな時、彼はスタジアムのまわりを、ダフ屋さながらに、「十ルーブル、十ルーブルでチケットはないか」といらいらした顔で聞いてまわるのだった。(「驚くべきショスタコーヴィチ」)
●唯一、普通のサポと違うのは観戦スタイル。音楽を聴くときのようにサッカーを観戦したという。叫ばず、黙って、感情を表に出さず、選手たちの動きを記憶に焼き付けながら集中して観戦していた。少しでも高く腰掛けるために、いつも古い書類カバンを持ち歩いていたという。
●ショスタコーヴィチはディナモのサポたちと日常的な交流を持っていたが、音楽関係の交友をサッカーには持ち込まないように配慮していたようだ。盟友ソレルチンスキーを含めて、音楽関係者に「コアサポとしての自分」をさらけ出すことは避け、その一方でサッカー仲間のジャーナリストとはともに連れ立ってスタジアムに通い、また大量の手紙(もちろんサッカーの試合についての)を交わしている。このサッカー書簡が残っているおかげで、彼がディナモの試合をどんなふうに見ていたのかがわかるのだが、その観戦記はまさに今のワタシらが熱心なサポのブログで読むようなスタイルのもの。とても親しみを持てる。
●このサッカー書簡の中で、いくつかショスタコーヴィチがそれぞれのチームのメンバー表を書いている。ディナモ・レニングラード、スパルタク・モスクワ、「赤い曙」(ってどこのこと?)など。たとえばディナモの選手をショスタコーヴィチはこう書く。
ラジコルスキー、スタンケーヴィチ
?、チェルヌィショフ、エリセーエフ
イリイン、デメンチエフ、ソロヴィヨーフ、ベフテネフ、トロフィーモフ
?は名前のわからない選手。他のチームも40年代前半まではおおむねこのような並びで書かれている。つまり、これは当時のソ連のチームは標準的に 2-3-5(Vフォーメーション) のフォーメーションを採用していたということだろう。2バックで守り、前線にワイドに5人の選手が並ぶ。歴史的フォーメーションだ。当時の西側サッカーもまだこの原始のフォーメーションを用いていただろうか?
トッパンホール~河村尚子「師クライネフへのオマージュ」
●昨晩はトッパンホールで河村尚子のオール・プロコフィエフ・プロ。プロコプロ。「ロメオとジュリエット」からの10の小品抜粋、ピアノ・ソナタ第2番ニ短調、「束の間の幻影」抜粋、ピアノ・ソナタ第6番イ長調という、すばらしすぎるプログラム。ビバ、プロコ。そして、ソナタ2番と6番をこれだけの水準の演奏で聴けるなんて。ソナタ第6番の冒頭って楽しくて、しかもカッコいいすよね。峻烈かつバイタリティあふれる演奏に鋼のリリシズムが豊かに息づいていた。客席はびっしり。
●第2番も愉快な曲。「プロコフィエフ自伝/随想集」にあった若き日のプロコについて。学生時代のプロコフィエフはどんどん「ソナタ」を書いて、それに通し番号を付けていた。ピアノ・ソナタ「第6番」(←習作としての番号。現存する第6番ではない)を書いたプロコフィエフに対して、ミヤスコフスキーは「べつにソナタに番号を付ける必要もないだろう」と笑って言った。「そのうち全部番号を消して、ソナタ第1番と書き直すときが来るんだから」。実際にミヤスコフスキーの言った通りになった。習作時代のソナタは第2番は何ヶ所か変更してソナタ第1番作品1になり、第3番は改稿して第3番として残り、第4番と第6番は紛失、第5番は第4番作品29と結合された。なので、現在のソナタ第2番は習作時代を終えて一から新たに書いた最初のソナタとも言える。
METライブビューイング「神々の黄昏」
●METライブビューイングでワーグナー「神々の黄昏」。ついに「ニーベルングの指環」完結。うーん、楽しい。ジークフリートの葬送行進曲ってホントに鳥肌立つ。
●前作「ジークフリート」では「恐れを知らぬ英雄」としてあんなに威勢がよかったジークフリートなのに、結局この人も指環の呪いの魔力に屈してしまうんすよね。フィジカルは最強だけど、頭の中は子供のまま……。いや、ブリュンヒルデが神性を失ったように、ジークフリートもヴァージニティと引き換えに筋肉だけのあんぽんたんになってしまったんでしょうか。ラインの乙女たちとの会話から潔さまでなくしてしまったことが伝わってくる。己の偽誓がもとで背中から槍で刺されて死ぬ有様。しかし、そこから先の場面は泣ける……。
●神々の黄昏って言うくらいだから、神の時代は終わるんすよ。神の血を引いたみなさんは死ぬ。ジークフリートも死ぬし、ブリュンヒルデも死ぬ。でも神代の終焉というのは、同時に小人族の終焉でもあり巨人族の終焉でもある。ハーゲンはあんなに策を弄してジークフリートまで倒したのに、最後は指環に触れることもできやしない。なんてかわいそうな男なのか。そしてビバ、モータルな時代到来。
●ブリュンヒルデはさっきまでジークフリートのことを「愛してる!」って言ってたのに、裏切られたら「殺せ!」って言い、死んだら死んだで「アタシも一緒に燃やして!」って言う。乙女心、怖い。
●METの出演者陣は強力。ブリュンヒルデ役のデボラ・ヴォイト、そして前作で突如抜擢されたジークフリート役のジェイ・ハンター・モリス。彼は前作、ところどころ声がかすれ気味になるのが気になったけど、今回はそんなこともなく、甘い声の見事なジークフリート(劇場でどれくらい声が通ってるかはわからないけど)。さらに脇役がいい。グンター役のイアン・パターソン、情けないダメ男の表現として完璧。顔芸だけでグンター。グートルーネのウェンディ・ブリン・ハーマーは結構美人さんなので、まあジークフリートが忘れ薬でやられてなくてもこっちを選んで無理ないかなと勝手に納得。ハンス=ペーター・ケーニヒの無表情に歌うハーゲンに戦慄。
●ジェイ・ハンター・モリスは他の劇場をキャンセルしてこちらを歌ったとか。せっかくスターになったんだし、そりゃMETで歌うよなあ。
●演出ロベール・ルパージュのシーソー並べたみたいなムダに超ハイテクな舞台装置は、意外と効果的だった。とはいえテクノロジーの使い方として違和感が大きいし、歌手の演技もオペラ歌手的オートマティズムで流れていく感じで、かなり寂しい。でもいいのかも、METはこれで。実際「なんじゃありゃ」とかブーブー言いながら、楽しんでるわけだし(笑)。上映時間5時間半、正味4時間半の長丁場。オケはさすがにブラスはキツそうだったけど、でもうらやましい。
●ルイージの指揮もいいんだけど、今にして思うと「ワルキューレ」のときのレヴァインはスゴかったすよね。なんか憑いてた。