●昨晩はクリスティアン・テツラフのリサイタルへ(トッパンホール)。シマノフスキ「神話」、イザイの無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第1番ト短調、パガニーニ「24の奇想曲」より、クルターク「サイン、ゲーム、メッセージ」より、エネスコのヴァイオリン・ソナタ第2番ヘ短調という聴きごたえのあるプログラム。一曲一曲に息苦しいくらい緊迫感があって、冒頭のシマノフスキからすさまじい求心的な演奏で聴衆をひきつけていた。極北のヴァイオリン演奏。エネスコ、カッコいい。この曲の土臭さと洗練の並存が楽しい。テツラフは前日、前々日とヘンゲルブロック指揮ハンブルク北ドイツ放送響のソリストとしてモーツァルト、メンデルスゾーンの協奏曲を弾いていて、どうしてこんなに崖っぷちに立つみたいなモーツァルト、メンデルスゾーンなんだろうととまどいを感じたけど、この日のプログラムを聴いて少し霧が晴れたような気分に。
●テツラフの使用楽器はドイツのペーター・グライトナー氏という楽器製作者によるコンテンポラリーなんすね。氏のサイトのArtists & Recordings の項を見ると、テツラフをはじめ結構な名前が並んでいる。心強いかぎり(?)。
News: 2012年5月アーカイブ
クリスティアン・テツラフのリサイタル
ヘンゲルブロック&ハンブルク北ドイツ放送響
●昨晩は東京文化会館でのヘンゲルブロック&ハンブルク北ドイツ放送響へ。ハイドンの交響曲第70番、モーツァルトのヴァイオリン協奏曲第3番(クリスティアン・テツラフ)、ベートーヴェン「英雄」という古典派プロ。前評判のスゴく高いコンビだったのでとても期待していた一方、ヘンゲルブロックというと録音でフライブルク・バロック・オーケストラ等のピリオド団体との演奏を聴いたのがほとんどで、北ドイツ放送響みたいな伝統のあるオケとコンビを組んだらどうなるのか正直よくわからんということもあり(SONYのCDは出てるけど、苦手なシューマン4番初稿)、ビックリ箱を開ける気分もあり。
●前半と後半はずいぶん印象が違っていて、別のオケを聴いた気分。前半はナチュラル・ホルン&トランペットを用いてピリオド成分高めの演奏で、ハイドンの第70番(不思議な曲だなあ)など斬新で愉快。後半は金管もモダン楽器で堂々たる「エロイカ」。テンポ設定などはおおむね伝統的、でもノン・ヴィブラート、対向配置で独特の響きの質感を作りながら、俊敏ムキムキのアスリートみたいなベートーヴェン。この日は都民劇場の定期公演だったので、ヘンゲルブロック目当てで足を運んだ人ばかりではなかったと思うけど、お客さんからは歓迎された模様。アンコールの「フィガロの結婚」序曲は本日の公演曲。今晩、サントリーホールでブラームスの第1番他。
●深夜に久々に関東に地震、寝入り端にグラグラっと揺れて飛び起きた。震源は千葉県北西部だけど80kmとやや深かったので、ほとんど直下みたいなもの。最大震度4が一部都内でも。来日中のアーティストたちは「やっぱり東京は怖い」と感じただろうか。そういえば日曜にW杯最終予選を戦うオマーン代表もすでに来日中なんだっけ。
クリスティアン・ベザイデンホウト
●26日(土)はトッパンホールでフォルテピアノのクリスティアン・ベザイデンホウト(ベズイデンホウト)のリサイタルへ。ハイドンとモーツァルトのソナタ2曲ずつというプログラムで、前半にハイドンのソナタ第32番ト短調+モーツァルトのソナタ第14番ハ短調K457、後半にソナタ第58番ハ長調+モーツァルトのソナタ第13番変ロ長調K333という二部構成。なかなかリサイタルとして成立させるのが難しそうな簡潔な演目なんだけど、聴きごたえは猛烈に大。特にモーツァルト。多彩というか饒舌というか、意外なくらい身振りの大きな音楽なんだけど、天衣無縫、自然体の音楽。ぜんぜんアグレッシブではない。
●ワタシはリストとラフマニノフの全作品あわせたよりもモーツァルトのソナタ1曲のほうが好きというくらいにはモーツァルト好きなんだけど、彼のソナタのなかでどれがいちばん好きかといわれたら、たぶん第13番変ロ長調って答えるかも。オペラにおける「フィガロの結婚」、交響曲における「プラハ」と同じ雰囲気を持つソナタがこの曲。ベザイデンホウトの演奏にはオペラ的な雄弁さと節度が絶妙のバランスを保っていた。至福のひととき。
●ところで、舞台上のベザイデンホウトは痩身だった。少しナヨッとした感じに痩せてて、とってもオシャレさんに見える。でもHarmonia MundiのCDのモーツァルト・ソナタ・シリーズ第1弾のジャケットはこんな風貌だった。
●そして同レーベルのシリーズ第2弾はこんな感じ。温和ににこやかなオッチャン然としている(1979年生まれなのでホントは若いんだけど)。
●それが第3弾では一気に痩身化して男前になっている。さわやかさんだし、若々しい。今回のリサイタルではこの写真よりさらに痩せて、カッコよくなってた。クラシック音楽界の岡田斗司夫なのか。いったいどんなダイエットをしたらこんなにステキになれるんだろう。そして、ソナタ全集を完結する頃には、彼はどこまで細くなっているのだろうか。
軽井沢国際音楽祭2012記者発表会
●22日(火)、日本記者クラブで軽井沢国際音楽祭2012の記者発表会が開かれた。横川晴児音楽監督(写真中央)他が登壇。今年の開催概要について発表された。8月16日から26日まで軽井沢大賀ホールや軽井沢ユニオンチャーチを会場にフェスティバル・オーケストラや室内楽等の公演が開かれるほか、講習会や町内各所での無料公演も開催される。
●出演アーティストはなぜか現時点で公式サイトに掲載されていないのだが、会見で配布した資料にはジェラール・プーレ、小林美恵他、多彩な顔ぶれが並んでいる。音楽祭は今年で11年目を迎える。横川晴児音楽監督は「(当時在籍していた)N響の夏のイベントが欲しいなと思っていたところにFM軽井沢から声をかけていただきスタートした。最初はN響のアンサンブルで参加したが、徐々にN響の枠を外して、特に国内で活動する外国人のすばらしい演奏家を招くように努めた。自分がフランスにいた頃、外国人であるがために音楽祭などに呼んでもらえないといったことがあったので、日本在住の外国人を招くようにしている。音楽祭の規模は次第に大きくなってきたが、何億や何十億もかけてスターを呼ぶのではなく、世界中からやってきた演奏家が家族のように過ごせる場にしたい」と語った。ということで、日本人演奏家に加えて、クラリネットのエマニュエル・ヌヴー、チェロのルドヴィート・カンタ、ファゴットのチェ・ヨンジンといった日本のオケで活動するプレーヤーも参加する。
EUフィルムデーズ2012、メランコリア
●今年も開催される「EUフィルムデーズ2012」。5/25~6/16(東京)、6/13~6/19(福岡)。東京は国立近代美術館フィルムセンターで開催されて、期間中日替わりで各日2または3本の作品が上映される。料金は一般で500円/本なので往復交通費より安いくらい。どうせ行くなら、1日で2本観れて(ら抜き)なおかつその2本がぜひ観たい作品だといいなと思うのだが、そんなことを思っているうちに昨年は結局一度も足を運べなかった。今年こそは一本くらい観たい。ワタシにとってはどれもぜんぜん知らない作品ばかりなんだけど、チラシを眺めた感じでは「アイルランドの事件簿」(ジョン・マイケル・マクドノー)とか「空飛ぶツィプリアンの伝説」(マリアナ・チェンゲル=ソルチャンスカ)、「食料品屋の息子」(エリック・ギラド)あたりが気になる。
●映画関連でもう一つ。早稲田松竹(いわゆる名画座映画館)で6月2日から6月8日までラース・フォン・トリアー監督の「メランコリア」が上映される。ワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」が鳴り響くということで話題になった作品で、見逃していた方にはチャンス。併映は「ダンサー・イン・ザ・ダーク」。
オペラドキュメンタリー「プッチーニに挑む」
●この週末、5月19日(土)からオペラドキュメンタリー「プッチーニに挑む」が東劇で公開される。主役は岡村喬生(もう80歳!)。ドキュメンタリーの基本的な筋はこうだ。プッチーニの「蝶々夫人」で描かれている日本はしばしば珍妙なものであり、本当の日本に対する無理解であふれている。かねてよりこれを問題視してきた岡村喬生が、実際の日本に即した「蝶々夫人」をイタリアで上演しようと、「蝶々夫人」台本改訂シンポジウムを開いたり、資金を集めたり、キャストをオーディションで選んだりと東奔西走して、ついにプッチーニの故地トッレ・デル・ラーゴの野外劇場で岡村版「蝶々夫人」上演にこぎつける。ところがそこでプッチーニの孫から台本に手を入れることを拒否されたり、契約等運営面の段取りに不備があり日本から連れてきた歌手が歌えなくなったりと、さまざまな障害にぶつかる。しかし岡村喬生は決して諦めない……。
●このあらすじを読んで「そうだ!『蝶々夫人』に出てくる日本はおかしい!どうにかしなければ」と共感した方は、この映画を見るが吉。ぜひ。
●オペラの観方というのは本当に様々なものなんすね。ワタシはプッチーニが描いた「蝶々夫人」に出てくる「日本」が、おかしいとはまったく思わないし、本当に日本らしい正しい演出が必要だとも感じない。むしろ正反対で、あれは架空の国「日本」であることが作品の不滅の価値を担保しているのだと思っている。「トゥーランドット」の「中国」は本当の中国からかけ離れていていいし、「西部の娘」のアメリカがどれだけ当時の正しいアメリカを描いているかなど気にならない。舞台設定が日本であれ中国であれアメリカであれ、ある時代のどこかの場所だから成立するのではなく、いつの時代でもないしどこの国でもないところであっても伝わる作品だけが古典として普遍性を獲得するはず。そもそも現実の19世紀末の長崎なんて、私たちが時代劇などで知る姿とは相当かけ離れていそうなもので、本当にオーセンティックに描いたら現代の日本人からはずいぶん奇妙に見えるものになるんじゃないだろうか。そして正しくムーア人な「オテロ」、正しく16世紀ドイツな「マイスタージンガー」、正しく18世紀ウィーンな「ばらの騎士」だって、正しく19世紀末長崎な「蝶々夫人」と同じくらい存在しないものであって、「蝶々夫人」の立ち位置というのは他の名作オペラと比べて特に例外的ではないんじゃないか……。
●そういえばチャン・イーモウ演出で本物の紫禁城を舞台にした「トゥーランドット」があったっけ。あれはどこか色物っぽく感じた。そしてゼッフィレッリのニセモノの中国は、本物の「トゥーランドット」っぽい。
シューマン、ライマン、ゾンビ、オネゲル
●15日(火)はサントリーホールで下野竜也指揮読響。ライマンの「管弦楽のための7つの断章 ロベルト・シューマンを追悼して」日本初演、シューマンのヴァイオリン協奏曲(三浦文彰独奏)、シューマンの交響曲第2番というシューマン尽くし。後半の第2番は快演。こんなにすっきりさわやかさんなシュマ2がありえるなんて、目から鱗。まるでメンデルスゾーンでも聴いているかのよう。混濁した響きの中に狂気がうごめいてます的な類型的な期待をバッサリ切り捨ててくれてた。
●ライマン作品は今後日生劇場開場50周年記念公演で読響がオペラ「メデア」「リア」を演奏するということで、その予告編的選曲でもあり、またシューマンのヴァイオリン協奏曲第2楽章の「天使の旋律」が引用されているオマージュ作品でもあり。これ、1988年の作品なんすね……。「メデア」「リア」に関しては音だけならNMLでOehmsの録音を聴けるので、この小曲だけじゃ物足りない方はとりあえずそっちで聴くのが手っ取り早いかも。
●12日(土)は18時からNHKホールで尾高忠明指揮N響定期が開かれたのであるが、それに先立つ13時〜15時、代々木公園でゾンビウォーキング開催との情報をゲット。惜しい、もう少しでゾンビとN響が重なったのに! いやむしろ先にゾンビウォークしてその後にN響定期に来たいお客さんには好都合というべきか。何しろメイン・プロはデュリュフレのレクイエム。死者のためのミサ曲を生ける死者が聴くという完璧な構図が完成する。
●原宿に足を運んでみると、もうゾンビはどこにも見当たらず、むしろNHKホール前のタイ・フェスティバルが超絶大盛況。原宿駅からして入場規制されており、混雑のあまり前に進めず、歩行速度はゾンビ並みに。
●オネゲル「夏の牧歌」、ショパンのピアノ協奏曲第2番(ギャリック・オールソンが流麗なソロを聴かせてくれた)、デュリュフレのレクイエムとひたすら美しい音楽に浸った。合唱は新国立劇場合唱団も見事。オネゲルのホルン・ソロは元・日フィルの福川氏(現N響契約団員)。陶然と聴き惚れてしまう上手さ。たとえるならルーニーがエヴァートンからマンチェスター・ユナイテッドに移籍したときみたいな気分に。
ラ・フォル・ジュルネ2012復習 公演編その2 スージー・テンプルトンの「ピーターと狼」
●LFJ2日目朝のプロコフィエフ「ピーター狼」。これがどうすばらしかったを、書き記しておかねば。「ピーター狼」はおもしろい物語だろうか? そうは思わないという人が多いのでは。たぶんそれは、語り手のオトナたちもよくわからないまま、あいまいに話を動物愛護に落とし込んでしまっていたからじゃないだろうか。結末も空漠としているし。
●ホールAには左右のスクリーンに加えて舞台上にもさらに1枚スクリーンが設置され、スージー・テンプルトンの「ピーターと狼」が上映された。舞台上はリス指揮ウラル・フィル。しかし音楽はいきなりはじまらない。最初の一小節の前に長い映像によるプロローグがある(ちなみにこの映像は言葉なしで作られている。言語の壁はない)。人形アニメによる映像のクォリティの高さは一目瞭然。暗い目をしたピーター。暮らしに疲れた大人たち。そうだよなあ。ここは危険な狼がその辺をうろついているような寒村なのだ、ピーターが元気いっぱいの朗らかな少年であるほうがおかしい。
●ピーターが町を歩いていると、ばったり狼に出会って慄く。だがこれはショーウィンドウに飾られた剥製にすぎなかった。驚いたピーターは鉄砲を持った猟師にぶつかる(猟師というかミリタリーマニアにすぎないようだが)。猟師はピーターをにらみつけ、胸倉をつかんで締め上げる。そのまま狭い路地に連れ込み、ゴミ箱にピーターを突き落とし、銃口を向ける。恐怖するピーターをせせら笑って猟師は去る。ああ、田舎町、DQNの王国。
●おじいさんは厳重にいくつもの南京錠をかけて家の戸締りをする。ピーターが外に出ないように。もちろん、狼に襲われないためにそうするのだが、ピーター少年はなんと外界から隔絶した狭い世界に生きているのだろう。ピーターはしかし少年であるから、鍵をこじ開けて外界へと出る。つまり、これはこの世でもっとも普遍的な物語、少年が外に出て大人になるという話なのだ(子供のための音楽物語でそれ以外のテーマがあるだろうか?)。ピーターはおじいさんの目を盗んで外に出て、狼と対決する。
●ピーターは自らの力で狼を生け捕りにする。おじいさんとピーターは生け捕った狼を町に運び、どこに売ろうかと思案する。猟師は身動きのできない狼に銃口を向ける。この男は子供とか生け捕りになった狼とか、自分より弱い相手に向かって虚勢を張るだけの人間なのだ。原作ではここでピーターは狼を動物園に連れて行こうと提案するが、そんなちぐはぐな話で終わっていいはずがない。スージー・テンプルトンのピーターは(おそらく猟師への怒りをこめながら)毅然として、ここで狼を解放して、正面から狼と向き合う。ピーターと狼がともに並んで歩く姿は、動物愛護的結末とはぜんぜんちがう。ピーターは敵を助けたんである。人間社会では敵対する存在や考えの異なる者に対しても救いの手を差し伸べる者が敬意を払われリーダーと見なされるというルールを、ピーターは察知し、実践してみせた。自由を得た狼はピーターも猟師も襲うことなく、月夜の中を去る。狼には狼の尊厳がある。スージー・テンプルトンは子供向けの物語を通して、これを見る大人たちに問うている。そこにいるのはピーターなのか、それとも猟師なのか。
●目の前で映像と生のオーケストラがシンクロしているというのは、単に映画を見るのとはまるで違う。作りこまれた映像を「ライブ」として体験できるとは、なんというぜいたくなのだろう。
イーヴォ・ポゴレリッチ・リサイタル
●9日はイーヴォ・ポゴレリッチのリサイタルへ(サントリーホール)。プログラムはショパンの葬送ソナタ、リストのメフィスト・ワルツ第1番、ショパンのノクターン ハ短調op48-1、リストのピアノ・ソナタ ロ短調。死と祈りの気配が色濃く立ち込めるプログラムだが、そうでなくてもポゴレリッチを聴くということは儀式への参加に近い。そしてあらゆるギミックが待ち構えている。開演前にピアノを静かに鳴らす男性がいるから調律師かと思えば着替える前のポゴレリッチ本人だったとか(すよね?ニット帽みたいなのをかぶっていた)、舞台と客席の照明をぐっと落として典礼の雰囲気が生み出されるとか、楽譜を持参して悠然と袖から登場するピアニストと影のように寄り添う譜めくりのお兄さんであるとか。
●きっとテンポは極端に遅く、強弱のコントラストが両極に寄った演奏になるのだろうと覚悟していた。一曲目のショパンは思ったほどではなかったが、リストのソナタは何分あっただろうか。50分くらい? 曲の骨格を見失い迷子になりつつも、文脈よりも拡大鏡を通した瞬間瞬間に耳を傾ける。アクセルとブレーキを同時に目一杯踏み込みながら、ジリジリと前に進むようなテンションの高さ。こちらの緊張の糸はとても最後まではもたない。神聖な儀式を執り行う祭司のようでもあり、反則スレスレ技を次々と繰り出す悪役レスラーのようでもあり。センセーショナルだった。
●本日11日はなぜか青森の六ヶ所村で公演がある。レポート、待ってます!(←誰に?)
ラ・フォル・ジュルネ2012復習 公演編その1
●記憶の風化スピードは早い、常に予測を上回って。出力せよ、外部記憶装置に。
●LFJでは毎回、驚きをもたらすアーティストたちが登場する。LFJブログチーム内で「今年、いちばんのサプライズをもたらしたアーティストは誰だったか?」が話題になった。議論の結果、3位がモスクワ大司教座をはじめとする三大合唱団、2位が渋さ知らズ、1位が最終日の展示ホール無料公演に出演したマーブル(マトリョミン・アンサンブル)ということで落ち着いた。いや、それワタシゃぜんぶ聴き逃したんだが……。恐るべし、マトリョミン。
●渋さ知らズは前夜祭コンサートが終わった後、地上広場の「熱狂のプレナイト」で少しだけ。5月2日はホールAでの前夜祭コンサートの前に、生中継でNHK総合の番組「首都圏ネットワーク」で、LFJが紹介されるということで、少しだけ出演させていただいた。好田タクトさんとご一緒。事前にほとんどだれにも話さずにいたのだが、意外なところから反響があったりして、NHK総合のリーチの広さを実感。前夜祭コンサートは司会付き休憩なしで、都響、パリ室内管、ピアノのビジャーク姉妹らが出演する音楽祭プレビュー的コンサート。スヴェンセン&パリ室内管が予想以上にていねいで美しい響きを聴かせてくれた。
●3日の本公演開幕はあいにくの雨。この音楽祭がこんなふうに悪天候ではじまった記憶はない。お客さんの出足にも影響したのでは。LFJ公式ブログの取材のため、まずはジャン=ジャック・カントロフ指揮シンフォニア・ヴァルソヴィアによる「0歳からのコンサート」へ。チェブラーシカの人気の高さに圧倒される。侮れない、巨大猿。OTTAVAのブースにも出演。あのブースの裏側の控えエリアに入るとなぜかお菓子を食べたくなる。そしてたいていお菓子がある。mgmg。メジューエワのロスラヴェッツ&メトネル、ペレスのラフマニノフ(凛々しい)、ベレゾフスキーによるチャイコフスキーのピアノ協奏曲第2番を聴けた。チャイコ2番は録音でしか聴いていなかった曲。ヴァイオリンとチェロのソロが出てくる第2楽章では、チェロが椅子をコンサートマスターのそばに移動して演奏。第3楽章ではまたもとに椅子を戻した。なるほど、こうするのか。ベレゾフスキーは同曲をナントでも弾いていてその評判はもう一つと聞いていたんだけど、東京での演奏は準備万端絶好調。初日深夜なのでホールAはガラガラだが、お客さんの多くがブラボー&スタオベでまさに「熱狂の日」。こういう圧倒的な盛り上がりを目の当たりにすると「名曲」ってなんだろう?と改めて思う。キャッチーな冒頭を持たないこと以外に、この曲が第1番より演奏頻度が極端に低い理由がわからなくなる。
METライブビューイング~マスネ「マノン」
●METライブビューイング、今シーズン最後から2番目となるマスネ「マノン」。ネトレプコが題名役を歌う。デ・グリューはピョートル・ベチャワ、ギヨーにクリストフ・モルターニュ、指揮はファビオ・ルイージ。
●「マノン」といえば、同じ題材でプッチーニ作曲の名作「マノン・レスコー」がある。一般的にはプッチーニのほうがより知られているはず。順番としてはマスネが先で、後からプッチーニが書いた。この二作、確かに同じ話なんだけど、受ける印象はぜんぜん違う。
●前に不条理ドラマ「マノン・レスコー」で書いたけど、プッチーニのほうは登場人物の言動があまりに突飛だ。マノンは水面に映った骨をくわえた己の姿を見てワンと吠えた犬並みの愚かさだし、デ・グリューは努力の方向を間違いすぎててムダ死にするし、マノンのお兄さんのやることは一から十まで動機不明で銀河最大の謎だし、もうオペラ的不条理ドラマの代表選手みたいな謎作品。でもマスネのほうは違う。
●マスネの「マノン」はちゃんと物語の筋道が通っている。15歳の田舎から出てきたDQN少女マノンがどうしてマノンになったのか、デ・グリューはマノンに何を見て、何を裏切られたのか、デ・グリューの父は息子に何を期待していたのか(この人は「椿姫」のジェルモンを連想させる)、全部オペラに描かれている。オペラとしては例外的なほど脚本がきちんと書かれているんである。プッチーニの脚本は幕が一回閉じるとどこまで話がすっ飛んでしまうのか予測のつかないジェットコースター脚本だが、マスネではそんなことはない。
●しかも大枠だけじゃなくて、ディテールもよくでてるんすよね。デ・グリューを捨てて田舎少女から、成金のオバちゃんみたいになったマノンが(ていうかネトレプコがそう見えるんだけど)、群がる男どもに向かって言い放つ一言。「私は寛大だから、みなさんに私の美しさを讃えることを許しましょう」。くー、たまんないね、人生に一度はそんなことを言ってみたいねっ! そう男子でも錯誤してしまうほど強烈である。ネトレプコ、なんだか嬉しそうだよ、高飛車演技で生き生き!
●あと、感心したのがバレエの場面。フランス・オペラのお約束としてオペラのエンタテインメント度を高めるべくバレエ・シーンが盛り込まれるわけであるが、話の流れをぶった切って突然ダンサーたちが出てきて踊りだすというのが並みのオペラ。が、マスネの「マノン」では、バレエをバレエとして登場させる。つまり、物語に組み込む。贅沢三昧モードのマノンが「あたし、オペラ座を呼んでほしいの~」と困ったちゃんな要求をするが、男はこれを断る。そこで「じゃあここらで一丁オレの実力を思い知らせてやる」とばかりに金持ちのギヨーがその場でオペラ座を呼んでバレエを踊らせるんである。これは鮮やか。「ギヨーは破産するぞ」と言われてしまうほどだから、当時オペラ座を呼ぶというのがどれほどの蕩尽だったことか。そこまでやってもギヨーはマノン振られてしまうのだから可笑しい。
●そう、笑えるのもマスネの特徴。ギヨーという役はコミカルな設定だし、音楽もそれを強調している。プッチーニは笑えない。
●で、このロラン・ペリー演出だが、演出が前に出ることはなく、むしろ「6つの衣装で登場!ネトレプ子のコスプレショー」を楽しむべきプロダクション。スゴいすよ、15歳の田舎少女のネトレプコ。80年代ぶりっ子風味のかわいさ全開。この演技力は普通のオペラ歌手にはない。成金オバチャンになったネトレプコの高飛車ぶりもいい。最後のみすぼらしいネトレプコも意外とかわいい(むしろ着飾るとかわいくない)。ダイエットもがんばった(当社比)。ひとつ演出でよくわかんなかったのは、神父になったデ・グリューの場面で、教会にベッドが置いてあるんだけど、それってあるもの? あと、賭場でギヨーがデ・グリューとマノンをイカサマ容疑で告発する場面も一工夫足りなくてわかりにくい気がする。オラオラ~、ドサ健呼んで来い!
●というわけで、評点を付けるなら、マスネvsプッチーニは9対1くらいでマスネがリードしている。とはいえ、この戦いはどちらが勝ったかは即断できない。マスネはボール支配率70%でシュート20本打ったくらい優位に立っている。でもゴールの数が多いのはプッチーニかもしれない。脚本ボロボロでも、聴く人の全身に鳥肌を立てるような音楽を書いているのはプッチーニだから。高品質なマスネの「マノン」を堪能しつつ、プッチーニの異才っぷりに改めて思いを馳せるのが、この映画。たぶん今週金曜日まで。オススメ。
ラ・フォル・ジュルネ2012復習 来年の展望と記者会見編
●LFJ2012閉幕。今年も朝早くから夜遅くまで会場につめて右往左往し、見たこと聴いたこと起きたことを消化する間もなく、突風とともに3日間が過ぎ去った(いや、実質もっと前から始まっているが)。記憶が薄れないうちに、書き留めておく。
●今年は最終日の17:30という遅い時間帯に記者懇親会が開かれた。なので会見後ではOTTAVAの中継に間に合わなかったのが惜しい。会見では今年の開催結果速報(PDF)と来年の展望が話された。来年のテーマは「フランスとスペインの音楽~ビゼーからブーレーズまで」として構想中。「19世紀末から20世紀初頭にかけてのパリにはスペインからアルベニス、グラナドス、ファリャらがやってきて、ドビュッシーやラヴェルと交流していた」ということで、この時代のフランス人およびスペイン人作曲家を中心として、シャブリエ、ショーソン、プーランク、ミヨー、オーリック、ルーセル、カプレ、メシアン……等々を取り上げたいとルネ・マルタンさんが語ってくれた。ちなみにブーレーズ作品は「プリ・スロン・プリ」と「シュル・アンシーズ」の名が挙がっていた。また、今年大旋風を巻き起こした「渋さ知らズ」については、来年も招きたい、と。
●で、会見はよくある予定調和に終わらず、林田直樹さんのブログでも伝えられているように、率直な意見交換が交わされた。片桐卓也さんから、「ピーターと狼」映像について事前の告知がうまく機能していなかったため、何十年に一度の傑作でありながらホールAが2000人程度しか埋まらなかったのは大きな問題であること、またナントの企画全般について日本に持ってくる際の情報共有や告知手段について強い危機感を覚える旨の発言があった(「ブルドーザー的」という比喩にドキッとした)。このスージー・テンプルトンの「ピーターと狼」はワタシも観た。事前にナント取材陣から「秀逸である」と聞いてはいたものの、どれほどのものかイメージできておらず、「なにか事後のレポートでも書くときに見ておかないとまずいから一応チェックしておくか」みたいな半ば職業的義務感で足を運んだら、映像作品として視覚的にも演出的にもあまりにもクォリティが高くて夢中になってしまった。登壇者側から「プロモーションとして映像クリップを使おうと試みたが権利関係でNGになってしまった」という説明もあった。もしせめて30秒でも予告編があれば、どれだけ「伝わった」ことかと悔やまれる。ちなみにナント取材班によれば向こうでは学校の団体鑑賞が大勢入っていたとか。
●やるせないのは、ビジネスとしてきちんと映像の使用許諾を取ろうとするとやたら大変そうなのに、個人ユーザーが検索すれば簡単にYouTubeで観れちゃうってことだ。実際、ここにあるし、peter and the wolf 2006 (part 1) 。スゴいでしょ、これ。これを生オケ付けてやったんだから。個人的な感触としては、コンテンツ業界全般にある「権利」のとらえ方と、今のソーシャルなネットワークを経由する情報の共有され方との齟齬が、ここでもあらわになっているように感じた。もちろん、映像クリップがあったとしても、作品の真価を伝えようという熱意は別途必要なので、それだけの問題じゃないんだけど。
●もうひとつ会見では別の方から、今回のLFJは演目がお客の先を進みすぎているから、客席が埋まらなかったのではないか、もっと親しみやすい名曲を増やしてはどうかといった意見が出た。「(公演企画は)お客の半歩先を行くのがちょうどいいが、今回は2歩、3歩先を行ってしまった」という指摘だったと記憶する。しかし、これに対してマルタンさんは「ホールAのチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番は空席だらけだった」と反論した。チャイコ1番で埋まらないのなら、選曲は関係ない。ワタシの実感としても、本当に先鋭なプログラムはチケットの販売率に影響しない小さな会場で行なわれており(100席とか200席の会場で開かれたウストヴォルスカヤやヴィシネグラツキーはそもそも完売していた上に、仮にこれらが一枚も売れなくても、ホールAの一公演5000席に比較すれば全体への影響はゼロといっていい)、チケット販売率はほとんどホールAだけで左右されるものと考えていいだろう。今回も小さな会場はすぐに売り切れていた。例年ホールAを埋めてきたお客さん(=今回来なかったお客さん)がどんな方々だったかを考察する必要がありそうだし、そこには一定の統計的数値の裏づけがほしいところ。最後は想像力が必要だとしても。
●質疑応答はこの2問だけで時間切れとなってしまったが、その後、東京国際フォーラムの方々やカジモトの梶本社長が片桐氏のテーブルに集まり、熱っぽい雰囲気でさらに意見交換が続いた。ワタシを含め同じテーブルにいた人間も自然に話に加わり、この際だからとあれこれ言いたいことを言う感じになった。ここの部分は公開の場での話ではないので内容には触れないが、意義はあったと思う。実のところ、音楽関係の記者会見では質疑応答になっても参加者にしらっとした無関心が漂っていることも多いわけで、LFJが本気で関心を持たれているからこその展開だったともいえる。もし会見で悪い数字が発表されてもそれに対して腫れ物に触るようにみんながスルーするようなら未来は暗い。
ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン2012本公演開幕へ
●いよいよ明日からLFJ本公演ということで、前夜は前夜祭コンサート&熱狂のプレナイトへ。真後ろからの写真なのでわけわからんすけど、これは熱狂のプレナイトで盛り上がっていた渋さ知らズのダンサーの方々。バンドは反対側に。お客さん多くて正面から撮れず。おおー、このノリが明日の夜のホールCに再現されるのか。LFJ規格外の公演になりそうな予感。
●そんなわけで「ロシアの祭典」。期間中は今年もLFJ公式レポートブログに携わりますので、そちらをご覧いただければ幸い。OTTAVAのブースにも何度かおじゃまします。
●今年はいきなり雨で始まる模様。厳寒のシベリアで吹き荒れる雪嵐と戦うつもりで雨に打ち勝ちたい。