●27日、東京オペラシティの近江楽堂でチパンゴ・コンソートの「コレッリシリーズvol.3 安らぎの歌」へ。コレッリのソナタを中心に、モンテヴェルディ、ジョヴァンニ・バッティスタ・ヴィターリ、ロニョーニらの作品。前回に続いて杉田せつ子さんのヴァイオリン、懸田貴嗣さんのチェロに、今回はアーチリュート高本一郎さんが加わり、さらにソプラノ阿部早希子さんが招かれて、いっそう多彩なプログラムになっていった。コレッリらの晴朗な音楽がもたらす満ち足りた愉悦と、狭い近江楽堂にあふれる静かな熱気を味わうあっという間の2時間。随所にバランスよくトークも挟まれて、親密な雰囲気が醸しだされていたのも吉。次回「コレッリシリーズ Vol.4 〜La folia フォリア!〜」は12/20(木)に西山まりえさんを招いて開かれるそう。
●懸田貴嗣さんは新譜「ランゼッティ チェロ・ソナタ集」がコジマ録音からリリースされたばかり。え、ランゼッティ……って誰?と思うわけだが、1710年頃ナポリ生まれの最初期のチェロのヴィルトゥオーゾなんだとか。今回収録された「12のソナタ」作品1からの6曲中4曲は世界初録音とされている。それぞれ変化に富んだ表情豊かな作品で、特におしまいの第6番が楽しい。愛らしさ、茶目っ気、熱狂、メランコリーが一体となった名作。
News: 2012年9月アーカイブ
チパンゴ・コンソートのコレッリシリーズvol.3
プレヴィン&N響のモーツァルト&ハイドン
●26日、プレヴィン指揮N響へ(サントリーホール)。前半にモーツァルトの交響曲第1番と交響曲第41番「ジュピター」、後半にハイドンの交響曲第102番。思い切った小編成で、最初の第1番は6型(6-6-4-3-2だったかな?)。「ジュピター」以降は少し大きくなって、でもそれでも8-8-6-4-3。コンパクトではあるけど、豊かで重厚なモーツァルト&ハイドンだった。特に第102番の終楽章は、遅めのテンポで堂々たるハイドン。
●この選曲だとクラリネットが要らないんすね。ハイドンの「ザロモン・セット」ではクラリネット使用率はどれくらいなんだっけ? えーと、1791年から92年にかけての最初のロンドン訪問で書かれた第93~98番までは使用されていないっぽい。しかし二回目のロンドン訪問のために書かれた94年から95年までの作品、第99番~第104番ではクラリネットも使ってOKとなったらしく、この第102番以外の曲では全部使用されている。なるほど、クラリネットなしで後期ザロモンから選曲するなら第102番一択なのか。「ジュピター」がフルート1本だから(1番の管はオーボエとホルンのみ)、ハイドンのほうもフルート1本ならさらにスリム化が可能になるわけだが(笑)、あいにく102番は2本必要。しかしもし第95番ハ短調をメインに置けば、フルート1本、クラリネットなしでプログラムを組める。人手不足のオーケストラを編成するときのために覚えておくと役に立つかもしれない。
●プログラム解説によると、第102番初演時のザロモンのオーケストラは「60人を数える」と書いてあるから結構大きい。この日のN響のように弦が8-8-6-4-3だと木管6、金管4、ティンパニで計40名。この1.5倍だ。仮に弦が14-12-10-8-6だとすると61名で、大体そんなものか。ザロモンはなかなか羽振りがよい。
●ちなみにモーツァルトがウィーンに出てきた1781年、ケルントナートーア劇場で92名の大オーケストラがモーツァルトの交響曲(第31番「パリ」K297または第34番ハ長調K338)を演奏したという話が残っている。20型、倍管くらい? ベートーヴェンの倍管仕様は最近ノリントンがN響でもやってたけど、ここまで巨大編成のモーツァルトというのはなかなか聴く機会がなさそう。
スクロヴァチェフスキ&読響のデ・フリーヘル編「トリスタンとイゾルデ」
●24日はスクロヴァチェフスキ指揮読響へ(サントリーホール)。ウェーバーの「魔弾の射手」序曲、リチャード・ストルツマン(もう70歳って)のソロでスクロヴァチェフスキ作曲クラリネット協奏曲(日本初演)、ワーグナー~デ・フリーヘル編「トリスタンとイゾルデ」。この後半のワーグナーが圧巻だった。こんなにスゴい音が出てくるの?と思うほどオケが雄弁、しかも精妙。そして「トリスタンとイゾルデ」がデ・フリーヘルの編曲で完全に一曲の交響詩として鳴り響いていたのがすばらしい。
●なんらかの理由で「ワーグナーのオペラをどうやったらオペラ抜きで(≒コンサートで)聴けるか」という矛盾した欲求を抱えている人は少なくないと思うんだけど、これは結構難しい、と思っていた。デ・フリーヘルの編曲も95年のデ・ワールト盤をリリースされてすぐに聴いているはずなんだが、そのときの印象は芳しくなくて存在自体を忘れていたようなもの。でもこの日のスクロヴァチェフスキ&読響で聴くと、まるでR・シュトラウスの「英雄の生涯」や「アルプス交響曲」のように、ストーリー性は確かに持っているんだけどそれを知らなくても音だけで起承転結が成立する作品として「トリスタンとイゾルデ」が再創造されていた。物語はばっさり切り落として聴きたいところだけを聴ける「トリイゾ」。編曲というか編集のセンス。交響詩「トリスタンとイゾルデ」の最適解に出会えたという喜びを実感した。めったに聴けない水準の名演。
●あのイングリッシュ・ホルンの長大なソロ。ピットの中からでも十分異質な空気は生まれてくるけど、コンサートホールの舞台で聴くと本当に面妖怪異。一人が延々とソロを吹く間、客席のみならず舞台上の大勢がじっとして耳を傾ける異空間。手に汗握りながら聴きほれる。最強に強まっていた。
二期会「パルジファル」クラウス・グート演出
●17日(月)は東京文化会館で二期会のワーグナー「パルジファル」。クラウス・グート演出。話題の公演を最終日にようやく。
●ピットには飯守泰次郎指揮読響。期待以上のすばらしさで、深々としたワーグナーの響きに浸り切る5時間。起伏に富み、情感豊か。このままのコンビで新国のピットに入ってみては。
●で、クラウス・グート演出。上下2階建ての回り舞台を最大限に活用して、あらゆる場面をこの舞台上で表現していて、時折映像を投射してこれを補う。「パルジファル」なんて劇中のストーリーなんてないも同然だし(話の半分以上は幕が開ける前史で済んでる)、舞台なんて添え物みたいなものと思いきや、盛りだくさんの意匠が込められていて一回じゃ消化しきれないくらいの密度の濃さ。演出家の言葉にあるように、物語の始まりは1914年に設定される。なにも知らずに見れば最後は唖然とするのでは。なにしろパルジファルが軍服を着て独裁的権力を手にして終わるのだから。
●しかし演出家ノートは脇に置いて、見たものを見ねば、オペラは。この「パルジファル」って簒奪者の物語だったんすよね。素朴な若者が、知恵を付け聖杯と権力を王から奪う。軍服を着たパルジファルを支配者にすすんで戴くあの騎士たちと来たら。「善行を積む」とか「聖戦をする」とか声高に言ってる人々がろくな行いをするわけはないのであって、イノセンスに重きを置いた閉鎖社会の行方はああなるしかない。この演出じゃなくたって、「パルジファル」に出てくるモンサルヴァート城の連中ってみんな狂信者たちじゃないすか、ひとたび中世を離れて20世紀以降の視点で見れば。だからこれは納得の結末。
●あんな息苦しいところにいて、ひとりで責務ばかり負わされていたら、どんな薬草があっても傷なんて治るわけない。クリングゾル側のほうがどう見ても風通しがよさそう。花の乙女たちが盆踊りしてくれそうだし(あの赤いのってちょうちん?笑)。
マーラー1→9
●15日(土)の東京はコンサート・ラッシュ。プレヴィン&N響、シナイスキー&東響、アルミンク&新日本フィル、デ・ラ・パーラ&東フィル、さらには二期会「パルジファル」も。東京は平時がお祭の街。それにしても週末への集中度合いがすさまじい。
●で、14時から池袋の東京芸術劇場リニューアル記念、インバル&都響の新マーラー・ツィクルスIへ。ベートーヴェンのピアノ協奏曲第2番(上原彩子)とマーラー:交響曲第1番「巨人」。芸劇は内覧会レポートでも書いたように、従来よりぐっと快適度の高いホールに生まれ変わった。もともと駅からも近いし交通の便もいいし、建物の中に座って一休みできるフリースペースがたくさんあるのも大吉。で、最初のベートーヴェンが鳴った瞬間から「あれ?このホールってこんなに残響があったっけ」と軽い驚き。改修前の音響についての記憶がどれほど確かかというとぜんぜん当てにならない気もするのだが、軽くお風呂状態と感じた1階右サイド。響きすぎかなとは思ったんだが、ホールの響きは場所によって変わるし、慣れで脳内補正されてゆく度合いもかなり大きいと思うので、次に足を運んだらどう感じるかわからない。あと、ここは残響可変装置もあったかと。
●続いて18時から、NHKホールでプレヴィン指揮N響へ。曲はマーラーの交響曲第9番のみ。マーラー1→マーラー9へとハシゴしてミニミニ・マーラーチクルスのつもり。インバルのハイテンション、ハイカロリーな1番とうってかわって、淡々とした9番。この曲に求めがちな壮絶なドラマなど一切ない清流のようなマーラーで、控え目な棒のもとほとんどオケの自発性だけで音楽が生まれてくる印象。まるで対照的なマーラーを一日で聴いたけど、どちらも客席は盛大に沸いていた。
●プレヴィンは9番の最後、終わるやいなやさっと棒を下ろして、スコアをぱたんと閉じた。はい、おしまい、みたいに。余韻をたっぷり味わおうと思っていたお客さんは意表をつかれたのでは。いいかも。
ベルリン・フィルDCHの2011/12シーズン・メモ
●演奏会が少なくなる時期にまとめて見ようと、夏の初めにベルリン・フィルのデジタル・コンサート・ホールをしばらくぶりに契約したものの、思ったほどには見られず。映像があると気軽というわけにもいかず、それにオケの公演は大曲がずらっと並ぶということもあり。
●とりあえず、見たものについて、自分用メモ。ブロムシュテット指揮のベートーヴェン「ミサ・ソレムニス」。爺成分ゼロ、若々しく清新な音楽、菜食主義のおかげ? ブロムシュテットは毎年ベルリン・フィル定期に招かれる数少ない指揮者の一人。そして毎回のように一般参賀あり、今回も。
●名前が覚えられない指揮者ナンバーワン、ヤニク・ネゼ=セガン。坊主頭になっていた。チャイコフスキー「ロメオとジュリエット」とラヴェル「ダフニスとクロエ」全曲。これらに先立ち、クラリネットのヴァルター・ザイファルトが一人舞台にあらわれてベリオのセクエンツァIXaを演奏した。昨シーズンはベリオがテーマ作曲家になっていたので、いくつかの公演で、オケの奏者がセクエンツァを独奏している。さすがベルリン・フィルというか。オケの演奏会だからといって、オーケストラ曲だけしかやっていけない道理はない。ベルリン・フィルではしばしば指揮者よりもオケの企画性が前面に出る。ネゼ=セガンの一般参賀あり。しかしこれは合唱団員の退場で拍手が長引いたせいもあるのでは。
●ルイゾッティ。この人も若くしてどんどんと偉くなって、ベルリン・フィル定期に再度登場。オケの定期なのにパユのソロが2曲もあって、ドビュッシーの「シランクス」とベリオ「セクエンツァ」。パユ、すごすぎ。ルイゾッティ、熱血のプーランク「グローリア」。メインはプロコフィエフの交響曲第5番。ルイゾッティは文字通りの意味でも音楽的にも表情豊か。コンマスにブラウンシュタイン、トップサイドにスタブラヴァ。終演後、オケに向かってこんなにパチパチと手を叩く指揮者はいない。
●ソヒエフ指揮、ベレゾフスキー独奏。ルーセル「バッカスとアリアドネ」に続いて、リストのピアノ協奏曲第1番。緊張して真剣に鍵盤に向き合うベレゾフスキー! 切れ味鋭く、剛腕ぶりもさすが。オケへの気遣いも感じさせて、らしからぬおとなしさ、LFJとは別人のよう……。アンコールにしっとりとアルベニス「二調のタンゴ」。ヴィオラ首席のアミハイ・グロシュがベリオのセクエンツァVI。強烈。メインはラフマニノフのシンフォニック・ダンス。以前ラトルの指揮でも映像を見た曲でもあるが、ソヒエフはとても明るい響きを引き出して、楽しく聴かせてくれた。この曲、見直したかも。しかしスーパー・オケでないとおもしろく聴ける自信なし。
●ビシュコフはベリオ「レンダリング」。シューベルトとベリオの接ぎ木のような曲なのに、もはや確固としたマスターピース然として響く。セクエンツァVIIをマイヤーの独奏で。最後はなぜかウォルトン。
●ティーレマンは二公演。一つはメシアン、ドビュッシー、チャイコフスキー「悲愴」という、らしくないプロ。どじょうすくいスタイルの棒が合わせにくそうだし、合っていないと思うが、巨大な音楽を作り出して盛大な一般参賀。むむ。もう一公演はマイヤーのソロでR・シュトラウスのオーボエ協奏曲、ブルックナー「ロマンティック」の得意のプロ。マイヤー見事。ティーレマンの顔芸怖い。指揮姿はヘンすぎるけど、「ロマンティック」は真に感動的な音楽。なんとブルックナーの音楽はすばらしいのかと圧倒される。一般参賀あり。
●ドゥダメルは「マ・メール・ロワ」、コルンゴルトのヴァイオリン協奏曲(カヴァコス)、R・シュトラウス「ツァラトゥストラはかく」。熱いというか、暑苦しい「ツァラ」。一般参賀あり。ドゥダメルは以前も思ったけど、今ひとつこのDCHでは彼のオーラが伝わってこない気がして隔靴掻痒感も。
日本フィル「山田和樹コンチェルト シリーズVol.1」
●3日は日本フィル「山田和樹コンチェルト シリーズVol.1」(サントリーホール)。小山実稚恵を独奏者に招いた協奏曲を中心としたプログラム。前半にラヴェルの両手&左手のためのピアノ協奏曲、後半にサン=サーンスの交響詩「死の舞踏」とラフマニノフの「パガニーニの主題による狂詩曲」。一晩で3曲分の協奏曲という恐るべきコンチェルト密度。この企画はいいかも。普段の定期演奏会だと「協奏曲」枠って主役のような脇役のような微妙な中途半端さを感じることもあるので。
●それにしても前半でラヴェルの「両手」と「片手」が聴けてしまうなんて。小山実稚恵さんのピアノは磐石。最後のラフマニノフはすばらしい高揚感。アンコールにふたたび有名な第18変奏。アンコールはこういうのがいいすよね。
●開演前に指揮者の山田和樹さんによるプレトークあり。一人で登場して入退場のあるざわついた中でしゃべる「孤独な一人語り」方式で、開演15分前終了。途中から聞いた限りでは、今回のシリーズの企画意図や小山さんとの共演について、「死の舞踏」と「パガニーニ狂詩曲」の「怒りの日」つながりといった選曲意図について話されていた模様。
●「パガニーニ狂詩曲」の終わりのほうから、会場内に妙な持続音がずっと流れていたみたいで、アンコールを始めようとしても止まず、山田さんが会場に向いて「これ、なんでしょうね?」みたいな感じになって、ようやく止まった。鳥の鳴き声のアラーム音? ギルバート&ニューヨーク・フィルみたいにマーラー9番じゃなかったのは救い。
●Vol.2以降の内容はまだ発表されていないみたいだけど、また違ったアイディアがあるようで楽しみ。
モンポウ祭
●9月に入ってコンサート・シーズン開幕。1日は東京オペラシティで「フェデリコ・モンポウ/インプロペリア」へ。なんと、モンポウの音楽だけで3時間15分という大プログラム。こんな機会、二度となさそう。出演者陣もぜいたく。モンポウというとピアノ曲の作曲家というイメージだが、この日はギターからオケ&合唱まで、モンポウのさまざまな顔を見せてもらった。村治佳織さんのギター・ソロからはじまり、第1部、第2部、第3部と先に進むにしたがって編成が大きくなっていく趣向。最初は大ホールにモンポウのひそやかな音楽が淡々と紡ぎだされていたのが、どんどんと音楽的なジェスチャーが大きくなり、やがて「え、これがモンポウ?」という驚きへ。
●やはりオーケストラが入る第3部が圧巻。アントニ・ロス・マルバ指揮東京フィルで3曲演奏されたが、全部編曲者が異なる。1曲目「郊外」より「街道、ギター弾き、老いぼれ馬」はロザンタールの編曲。ロザンタールは以前この欄で彼の著書「ラヴェル その素顔と音楽論」を紹介したことがあったけど、華やかで効果的なオーケストレーションを施していて、モンポウの原曲とは相当遠い雰囲気の外向きの音楽になっていたのがおもしろい。2曲目は指揮のロス・マルバ編曲「夢のたたかい」(ソプラノ:幸田浩子)。モンポウへのリスペクトが感じられる節度のあるオーケストレーション。3曲目は、なんとマルケヴィッチ編曲のオラトリオ風作品「インプロペリア」日本初演(バリトン:与那城敬、新国立劇場合唱団)。この曲も知らなかったし、マルケヴィッチの名前がこんなところで出てくるのも驚きだが(今年生誕100年すよね、マルケヴィッチ)、モンポウにこんなに強靭峻烈な曲があったとは。この曲だけはもともとモンポウ自身がオーケストラ作品として書いたものであるが、作曲者了解のもとマルケヴィッチがオーケストレーションに手を入れたのだとか。20世紀の宗教音楽の名曲として、レパートリー化されてもおかしくないんじゃないか。