●1月30日はプーランク没後50周年となる命日。まさにジャストこの日に開催されたのが鈴村真貴子さんのピアノ・リサイタルで、なんと、オール・プーランク・プロ(銀座王子ホール)。曲は「3つの常動曲」「15の即興曲」、休憩をはさんで「冗談」「メランコリー」「ナゼルの夜会」。大曲というものがないので、必然的にどれも小曲の集合体が続くが、くるくると万華鏡のように容貌を変転させる音楽を一瞬も飽きることなく満喫。機知、諧謔、饒舌、倦怠、憂愁、悪戯のオンパレード。ピアノは情感豊かでみずみずしく、過剰に陥らない。安定感も抜群。鈴村さんは東京芸大とパリ・エコール・ノルマルに学び、芸大ではプーランクで博士号を取得した若手奏者。まずは記念すべきプーランク・イヤーの大収穫。
●告知。「東京・春・音楽祭」ウェブサイトでコラム「ワーグナー vs ヴェルディ」を連載中。第3回を更新。どぞ。
●もう一つ告知。大阪・いずみホールの広報誌 Jupiter にて、現在配布中の号より新連載「ネットで遊ぶクラシック」がスタート。これまであまりインターネットの活用になじみのなかった音楽ファンの方々にも役立つ記事を心がけたい。
News: 2013年1月アーカイブ
鈴村真貴子ピアノ・リサイタル~オール・プーランク・プロ
大井浩明POC#14「ジョン・ケージ/南のエテュード」
●26日(土)、古賀政男音楽博物館のけやきホールで、大井浩明さんのピアノによるPOC (Portraits of Composers) #14「ジョン・ケージ/南のエテュード」全4集全32曲通奏日本初演へ。天球の南半分の星図を易経で五線譜に変換したという大作。演奏の都合を斟酌しない非人間的メソッドから生まれた怪物的難曲で、左手と右手それぞれに弾くべき音が音域を無視して指定されているようで異常に両手の交差が(しばしば超高速で)求められることになる。各曲ごとに特定の鍵盤に異物を挟むなどの方法でダンパーを開放し、ハーモニクス(倍音)から生まれる残響が曲の背景にテクスチャーを描き出す。とはいえ、ハーモニクスの効果は前半の印象では予想よりもずっと控えめで、曲のダイナミクス(強弱の指定はなく奏者がランダムに決定)も抑制的だったこともあり、意匠はあっても文脈のないストイックな時間が流れることに。しかし後半、進むにつれてよりハーモニクスの効果が豊かに発揮された作品が雄弁に演奏され、次第に音楽は高潮してクライマックスを作り出した。白熱する偶然性。別に素材が星図だろうがなんだろうが偶然性によるものならなんだって質的な違いはないはずなんだけど、ここはあえて南天の夜空に広がる星のきらめきを想起したい。演奏は超難曲を難曲と感じさせないもの。4時間以上の滝行を覚悟して臨んだが、実際には奏者も驚く2時間半ほどで終了。
●アンコールとして、1952年初演時のオリジナル手稿譜を復刻したという「4分33秒」原典版(って。笑)が演奏された。楽譜にドンとtacetって書かれているわけではなく、全8ページある模様。もちろん沈黙が続くのみなんだけど。
●終わった後、開演が「4分33秒押し」だったって知ったんだけど、まったく気づかず。あれ、少し遅れてるかな?とは思った。
METライブビューイング「トロイヤの人々」
●METライブビューイング、今週はベルリオーズの大作「トロイヤの人々」を上映中。上映時間5時間17分という長大さも強烈だが、それ以上に中身も無茶苦茶な放蕩っぷりで異形のスペクタクル大作。こんなに長いのに合唱ほとんど出ずっぱり、これでもかというくらいバレエシーンがふんだんに盛り込まれ、歌手の聴かせどころも多すぎてインフレ状態、経済性とか上演可能性とかそういうものを一切合財無視して、ねじのはずれた天才がやりたい放題に書いたとんでもないオペラ。台本もベルリオーズ。生前全曲上演がかなわなかったのも当然だろうし、今だって国内で実演に触れる機会はなさそう。フランチェスカ・ザンベッロ演出、ファビオ・ルイージ指揮。
●全5幕3部構成になってるんだけど、作品は事実上二つのオペラが合体している。第1部(第1、2幕)は「トロイの木馬」編。予言者カッサンドラ(デボラ・ヴォイト)が策略を予感して訴えるが、トロイ人たちは嬉々としてギリシャ軍が残した木馬を城内に運び入れてしまう。で、最後は敵に辱めを受けるくらいならと、カッサンドラが先導して女子たちが集団自決という凄惨さ。一方でベルリオーズのオーケストレーションは壮麗。
●第2部(第3、4幕)からは舞台はカルタゴに移って次の物語へ。一転してお花畑全開、バレエもりだくさん。女王ディドー(スーザン・グラハム)のもとにトロイアの武将アエネアス(ブライアン・イーメル)に率いられた一団が流れ着く。ディドーとアエネアスはラブラブに。二人で抱き合ってキャハキャハ笑いながら原っぱをゴロゴロ転がりそうな勢いで(そんなシーンないけど)、ひたすら優雅で贅沢な美の世界に浸ることができる。「王の狩りと嵐」も聴ける。
●が、アエネアスはローマへと旅立つ運命、神のお告げに従って、泣く泣くディドーに別れを告げる。第5幕は捨てられて半狂乱となったディドーの独壇場。これが怖い怖い。ローマへ旅立ったアエネアスを末代まで祟ろうと、冥界の王へ生贄を与えよと命じ、将来のハンニバルによるローマへの復讐を予言する。アエネアスからの贈り物をすべて山積みにし、そこで自害して呪いをかける。女の恐ろしさを描くときのベルリオーズの冴えっぷりは異常。怨念がこもっている。男子必見の修羅場で幕。
●アエネアス役は当初マルチェッロ・ジョルダーニだったのが降板してブライアン・イーメルになったとか。とても代役とは思えない見事さ。声も風貌もよっぽど武将らしい。
●第1幕、カッサンドラをデボラ・ヴォイトが演じたこともあって、ブリュンヒルデを連想する(ここでも火が焚かれているし)。自らの台本による壮大な叙事詩、神と人間の対話、世界の崩壊を描くという点でもワーグナーを思わせる。その射程の大きさににおいて19世紀オペラの双璧。
ラザレフ&日フィルのラフマニノフ・シリーズ、セゲルスタム&読響の「ヒッグス粒子」&シベリウス
●25日(金)はラザレフ指揮日本フィルのラフマニノフ・プロへ(サントリーホール)。前半にピアノ協奏曲第2番(ハオチェン・チャン独奏)、後半に交響曲第3番。全席完売の人気ぶり。ハオチェン・チャンは2009年のヴァン・クライバーン国際ピアノ・コンクールで辻井伸行と同時優勝を果たした若い奏者。テクニックは鮮烈、華奢な外見に反して大きな音楽を作ろうとしているのが冒頭から伝わってきた。後ろからのエネルギッシュな響きの奔流に飲み込まれそうになりつつも爽快に弾き切って場内は盛大なブラボー。交響曲第3番は期待にたがわぬ鍛えられた快演。ていねいで、なおかつ熱い。ラザレフのカリスマは健在。例によって指揮しながら客席側に向いて「お客さん、どうですかぁ~!!」的に見得を切りながら(?)そのまま一回転してオケに向き直るという「回転ドヤ」技も披露。
●ラフマニノフの交響曲第3番、最近一年間でノセダ&N響、ブラビンス&名古屋フィル(これは出張)に続いて3回も聴くことができた。しかもどれもいい演奏ばかり。たまたまラフ3イヤー。
●26日(土)午後、芸劇でセゲルスタム(セーゲルスタム)&読売日本交響楽団。R.シュトラウスの交響詩「死と変容」、セゲルスタム自作の交響曲第252番「ヒッグス粒子に乗って惑星ケプラー22bへ」(世界初演)、シベリウスの交響曲第2番。得意のシベリウスも先日のマーラー同様濃厚ですばらしかったが、目を引くのは自作自演。交響曲第252番というハイドンも尻尾を巻く量産力に加えて、「ヒッグス粒子に乗って惑星ケプラー22bへ」っすよ! つい最近「ヒッグス粒子の発見」が大ニュースになったけど、これってそのひとつ前のタイミングで書かれてるんすよね。2011年12月に「どうやらヒッグス粒子が発見できそうかも!」ってCERNが記者会見開いたことがあったはず。で、たまたまその直前にNASAが生命居住が可能かもしれない系外惑星として「ケプラー22b」を確認したっていうニュースが流れた。両者になんの関係もないけど、物理学上の大きなトピックスが続いたので、「おっしゃー、次はこれだ!」と作曲家が触発されたのだろうと推測。
●で、曲は弦楽器群の両側にそれぞれピアノを置いて下手側をセゲルスタムが演奏、木管楽器はピッコロからコントラファゴットまで各一本ずつの変則編成、これに金管楽器とハンマーやらミュージカルソーやらサンダーシートやらおもちゃ箱状態の多彩な打楽器群が加わる。指揮者は置かず。曲名から、格闘ゲーでジャイアントスウィングとかスクリューパイルドライバーとか大技しか狙ってない山っ気ファイターみたいな先入観を抱きがちであるが(なんじゃその形容は)、思ったほど色物ではなくて、混沌とした響きの雲海をたゆたいつつ、ソロや即興が彩りを加えて変容してゆくという豊潤な作品。ハンマーがなんども打ち込む鋭い楔は強烈。曲名には概念として並列させようのないもの2つが挙がってるけど、片や微視的な発見、片や巨視的な発見ということで、そのスケールの対比を強調している、とでも。
●セゲルスタム作品リスト。現在交響曲第261番まで進行中。70番代のネーミングが好き。第70番が"Before 80..."、71番が"After 70..."、73番は"1 after 72..."、74番が"2nd after 72..."、75番が"3rd after 72..."、76番が"4th after 72..."って。80番は"Before Ninety..."だし、81番は"After Eighty..."だ。第103番の"102 to 104..."も寡黙で味わい深い。かと思えば、第228番は饒舌で "Cooling my beard too (2) on "Sval"bard, "Spit"sbergen farewelling (on the "seal"ed waters) the blinding "spittingly" ice- (& eyes) cracking Sun (setstart on 22.8...!) with my Son (J. S.) remembering nostalgically "lace"- (spets-) coverings of (e.g.) Venusmountains as well as all those got... (lays...) - It is very windy on the tops, "the picked peaks for peeking into the ∞s...", "spets"-listening too... 2... 8!" というタイトルになっている。どう訳すんだろう。
●最終的には交響曲第512番「そして伝説へ……」くらいまで行きそうな気がする。
マーラーの交響曲第5番、インバル&都響→セゲルスタム&読響
●昨年、MTT&SFOのマーラー交響曲第5番を聴いたときに、「もうこれで10年はマーラー5番は聴かなくていいんじゃないかな」と思った、あまりにも満足したので。が、なんということであろうか、年が明けたと思ったらもう聴いているんである、この曲を、しかも二日連続で。
●20日は東京芸術劇場でインバル&都響。前半がモーツァルトのフルート協奏曲第2番(上野由恵)、後半にマーラー5番。さすがこのコンビというか、ともにマーラーを得意とする指揮者とオーケストラだけに圧倒的な完成度。細部まで彫琢されて、解像度も十分、響きの美しさを保ちながらも推進力にあふれた熱演に。演奏中から予感されたように曲が終わると大ブラボー、一般参賀コースへ。インバルが一度呼ばれただけでは拍手が収まらず、続いて首席トランペット奏者、さらにコンサートマスターまで呼ばれてインバルとともに3人で一般参賀というロイヤルファミリー状態。
●そして21日はサントリーホールでセゲルスタム(セーゲルスタム)&読響。こちらは前半にモーツァルトのピアノ協奏曲第23番(菊池洋子)、後半にマーラー5番と、プログラム構成まで前日と似ていたんだけど、結果的にはまったく違う音楽を聴くことに。セゲルスタムのマーラーはおもしろすぎ! 伸縮自在のテンポ、ひなびた節回し、豪快な鳴りっぷり、ときには推進力を犠牲にしてでもねっとりと歌いこむ強烈に土臭いマーラー。前日と同じ曲を聴いたとはにわかに信じがたい。めったに見られない大技が鮮やかに決まったみたいな満足感あり。これぞライブの醍醐味って気がする。
●前半のアンコールで菊池さんがセゲルスタムの小品を独奏。Seven Questions to Infinityという、彼の量産中の交響曲群と同じように思わせぶりなタイトルが付けられてるんだけど……。週末にセゲルスタムの交響曲第252番「ヒッグス粒子に乗って惑星ケプラー22bへ」という、もう曲名だけでジャイアントスウィング級の大技になっている作品を聴く予定なので、覚悟はできた(?)。けれん上等。
●ちなみに両日とも全席完売。マーラー5番なら無問題、なのか。
小澤征爾「贈賞にあたって」
●昨年末のニュースなんだけど、第11回齋藤秀雄メモリアル基金賞の受賞者が山田和樹(指揮)、石坂団十郎(チェロ)の両氏に決定した。で、そのときの小澤征爾永久選考委員から山田和樹さんへの「贈賞にあたって」の言葉がとても印象深かったので、以下に引用。
ここで、既にとても忙しくなった山田君へ、私からの忠告を申し上げたいと思います。忠告と言っても、実はこれは私の先生であるカラヤン先生、そして、私の一生のマネージャーであるウィルフォードさんが、駆け出し頃の私にしてくれた忠告なのですが、
一、 常に、自分が勉強できる時間を確保すること。
一、 来た仕事の中で、一番自分に相応しい仕事を選ぶこと。
これをいつも頭の中に置いておいてもらいたい。
そして、これは本当に私自身からの忠告、
一、 いつも、素晴らしい音楽家と仕事をすること。(これが一番大事)
一、 可能なら、持続的にじっくり腰を据えてオーケストラと生きる音楽の生活をすること。つまり、音楽監督の仕事をやること。
とても難しいことですが、この2つを両立させることが大きな秘訣だと、私は信じています。
●指揮者の仕事に限らなくても、含蓄のあるアドバイスでは? 「駆け出し頃に○○さんからもらった忠告なんだけどね」っていう話法は好きかも。
●ついでに最近話題の映像。「懐かしの毎日ニュース:1月15日 小澤征爾 N響騒動から涙の公演 1963年」。井上靖、三島由紀夫らの呼びかけで開かれた「小澤征爾の音楽を聴く会」について伝えるニュース。いろいろな点で圧倒される映像なんだけど、ここで少し聞こえるシューベルト「未完成」が雄弁に時代を伝えている。これってもう半世紀前の話なわけで、もはや歴史。
LFJのクラウドファンディング
●「ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン2013」がクラウドファンディングによる個人協賛制度を始めている。クラウドファンディング、すなわちインターネット経由での不特定多数による支援活動。個人による寄付はこれまでも日本のオーケストラなどが継続して募ってるけど、改めてクラウドファンディングと銘打たれると、ずいぶん目新しい雰囲気になる。
●自前のサイトではなく、motion galleryという既存のプラットフォームを活用。目標金額がいくらで、今コレクターが何人で、期限まで何日というのがババーンと掲げられる。コレクターは人によっては名前や顔写真を見せ、メッセージもサイト上に残せる。今風のソーシャルなノリなんすよね。
●金額は一口いくら、という言い方ではなく、最小で1000円のチケット、最大で30万円のチケットが用意されている。人気は5000円~3万円のゾーン。それぞれに「名前の掲載」やコンサートのチケット、ルネ・マルタンのソムリエ・サロンへの招待などの特典が用意される。
●LFJはもちろんチケットの大半は売り切れるし、協賛企業の数も多いんだけど、それでも赤字分を主催者である株式会社東京国際フォーラムが補填する形で成立している。チケットの売上収入は音楽祭経費の半分程度。METライブビューイングなんかを観ていても、上映中に必ず司会のスター歌手が「METのチケットセールスは経費の半分以下を賄うにすぎません。寄付をいただける方は以下の電話番号またはMETのウェブサイトへ」みたいな呼びかけを堂々とする。個人協賛といえば地元の名士の方々がプログラムに名前を載せるみたいなスタイルが思い浮かぶが、ソーシャル時代には(特に東京のような大都市圏では)クラウドファンディングがふさわしいのかも。
ジンマン&N響のブゾーニ、シェーンベルク、ブラームス
●16日はサントリーホールでジンマン&N響。前半にブゾーニの「悲しき子守歌~母の棺に寄せる男の子守歌」op42、シェーンベルクの「浄められた夜」、後半にエレーヌ・グリモーの独奏でベートーヴェンのピアノ協奏曲第2番。ブゾーニは初めて聴いたけど、これはおもしろい。鈍色のくすんだ響きの雲海から綿々と紡ぎだされるエレジー。フルート3、オーボエ1、クラリネット2、バス・クラリネット1、ホルン4、ゴング、チェレスタ、ハープ、弦という独特の編成を用いた抑制的なオーケストレーションが効果的で、録音で聴いた印象よりもずっと玄妙で味わい深い。シェーンベルクと並べられたのでブゾーニ版「浄夜」という気もしなくはない。初演は1911年のマーラー指揮ニューヨーク・フィルで、マーラーの最後の公演だったとか。続くシェーンベルクの「浄められた夜」は雄弁さよりも澄明さ、透明感が前面に出され、2曲合わせてひめやかな典礼風の雰囲気を醸し出していた。
●後半はグリモー無双。フォトジェニックな風貌に反して荒々しい。崖っぷちのブラームス、猛然と。
●都内の雪はかなり融けてきたが、道はところどころ滑りやすい。大雪が降ったといっても、雪国のように翌日、翌々日に畳みかけるようにさらに降り積もったりはしないのが救い。そして、グアルディオラが来季からバイエルン・ミュンヘンの監督に就任するというニュースが。うーん、どうかな。
METライブビューイング「仮面舞踏会」
●今月は怒涛の勢いで次々と上映されているMETライブビューイング、今週はヴェルディ「仮面舞踏会」へ。ファビオ・ルイージ指揮、デイヴィッド・アルデン演出、歌手陣はマルセロ・アルヴァレス(グスタヴ)、ディミトリ・ホヴォロストフスキー(レナート)、ソンドラ・ラドヴァノフスキー(アメーリア)、キャスリーン・キム(オスカル)、ステファニー・ブライズ(ウルリカ)。「仮面舞踏会」はなんといってもヴェルディの音楽が最強。こんなにも次から次へといろいろな楽想がよくわいてくるなというくらい充実していて、改めて作曲者の才能の偉大さを痛感する。初めて聴くヴェルディとしてもふさわしいのでは? 長さもほどよいし、物語も明快だし。
●で、「仮面舞踏会」のなにがいいかといえば、盛り合わせ定食になっているところ。一作のオペラのなかに、喜劇もあれば悲劇もある。コミカルでユーモラスで、抒情的でドラマティック。基本、前半はコミカルに進む。でも2幕、夜の墓場でアメーリアがレナートに素顔を見せてしまったところに、王の暗殺者たちが集まって合唱が歌う。「悲劇は喜劇に変わる……」。ところが逆に、ここから作品は喜劇から悲劇へと変貌する。おもしろい。本来、普通のドラマであれば、「忠実な親友の妻への愛から破滅する王」の話に、コミカルな小姓(オスカル)なんて役柄が出てくるはずはないんだけど、そこを承知で全部盛ってみたのが「仮面舞踏会」。音楽がこれだけすばらしければ、なんだってアリ、大歓迎。
●実話に基づくスウェーデン国王暗殺という脚本では検閲を通らないため、ヴェルディは舞台設定をボストンへと変更した。このプロダクションでは本来のスウェーデンに舞台を戻して上演している……といっても、服装からして時代設定は20世紀前半。グスタヴやレナートもスーツを着たビジネスマンのようにも見えて、どうとでもとれる。歌手陣も含め音楽的には大満足だが、このアルデンの演出だけはピンとこない。国王の失墜のメタファーとしてなのか、イカロスをモチーフに舞台を飾り、オスカルに翼を装着させたりしてるんだけど、えー、それは演出ってのとは違うんじゃないかな~、と。「なるほど!」って腑に落ちないもの。腑に落ちないというか、オチがない前フリというか。でも歌手陣と指揮者には歌いやすい/演奏しやすいと好評の模様。
●あ、でもいいなと思ったところがあったんだった。3幕でレナートの書斎に、グスタヴのデカい写真が飾ってあったんすよ。これは演出家の意図とはぜんぜん違う理解かもしれないけど、いくらボスの忠実なしもべであり親友だといっても、普通は部屋にデカい写真(てかポスター)なんか貼らない。つまり、これはこのオペラの「三角関係」の意味を再定義している。レナートとグスタヴの愛。レナートは妻をグスタヴに寝取られたという以上に、グスタヴを妻に奪われた。愛ゆえに憎しみが燃えあがり、凶行へと至る。これは納得じゃないすか。
●実はいちばんコミカルな場面は悲劇のクライマックスの直前だと思う。「オレに殺らせてくれ」「いや、オレが殺る!」「なんだと、殺るのはオレだ」「じゃ、くじ引きで決めようぜ」。くじ引き!!!! その場で作ってるし!!!!!!
サイモン・ラトルとベルリン・フィルの契約は2018年で終了
●サイモン・ラトルがベルリン・フィルとの2018年までの契約を延長しないと発表した。ベルリン・フィル公式サイトのリリースはこちら。2018年というと5年も先の話だが、それがもうビッグニュースになるのはさすがベルリン・フィルというべきか。昨日深夜からババッと勢いよくネット上で話題が広がった。
●ラトルらしく、As a Liverpool boy, it is impossible not to think of the Beatles’ question, ‘Will you still need me.., when I’m 64?’ というメッセージを発表しているが、いろんな憶測を呼ぶ話題ではある。ともあれ、16年の任期は十分長い。カラヤン時代みたいに同じ曲を何度もレコーディングする時代ではないので、レーベル(およびDCH)に一通りのレパートリーを残したら首席指揮者交代という感じで、どんどんリフレッシュしていけばいい気もする。ボスの任期は長ければ長いほど辞めてもらうのが大変になるし。
●これがサッカーの監督だったら、契約満了後に辞めるとわかった途端に選手たちが言うことを聞かなくなり内紛が起きて、結局退任が早まって暫定監督就任、みたいな話になりそうなものだけど、音楽界にそのノリはないか(笑)。
●で、後継者はだれなんでしょね。
OEKニューイヤー・コンサート、大野和士&読響、「アルプス交響曲」山脈
●9日は紀尾井ホールで、井上道義指揮オーケストラ・アンサンブル金沢のニューイヤー・コンサート。シュトラウス・ファミリーの音楽は最小限にして、前半をコルンゴルト中心で、後半はオペレッタの名曲を並べるという工夫された選曲が吉(中嶋彰子S、吉田浩之T)。特にコルンゴルトは、ツェムリンスキーがオーケストレーションを施した11歳の作品であるバレエ「雪だるま」序曲、ヴァイオリン協奏曲の第2楽章(この日のコンサートマスター、サイモン・ブレンディスが独奏)、オペラ「死の都」の「マリエッタの歌」、そして「シュトラウシアーナ」と演奏されて、まとめてコルンゴルトを聴ける上に、ちゃんと「ニューイヤー」の雰囲気も保たれているという絶妙の趣向。オペレッタ中心の後半は寸劇?やトークなどの演出がさしはさまれて、一部日本語歌詞も用いながら昭和ノスタルジア風味の別世界へとトリップ。
●今年最初の演奏会は8日の池袋・芸術劇場での大野和士&読響。前半にラフマニノフのピアノ協奏曲第3番(ピアノは小山実稚恵さん。冒頭、びっくりするくらいの弱音で入った)、後半にR・シュトラウスのアルプス交響曲。お正月に山で日の出を拝む気分で、芸劇のエスカレーターを上る。これが改修前だったら両側鋭く切り立った尾根を行く気分になっただろうが、今は壁に沿って安全登山。しかし基本、冬山は危険。絢爛たるスペクタクルを求めてはいけない。けれんみのないシュトラウス。
●昨秋、同じシュトラウス「家庭交響曲」が東響とN響で連続したけど、今年の東京は「アルプス交響曲」イヤー。この後、メッツマッハー&新日本フィルが今週の金土でとりあげる。さらに3月に上岡敏之&日本フィル、6月にフルシャ&都響、10月にノット&東響も演奏するというシュトラウス山脈が続く。健脚を誇る方は全部制覇してみては?
METライブビューイング「皇帝ティートの慈悲」
●METライブビューイング、この1月は4演目が怒涛の勢いで上映される。まず今週はモーツァルト生涯最後の年に作曲されたオペラ「皇帝ティートの慈悲」。指揮はハリー・ビケット(METで振っていたとは)。セスト役にエリーナ・ガランチャ、ティートはジュゼッペ・フィリアノーティ、ヴィッテリアにバルバラ・フリットリ。ポネルの演出。
●オペラって、音楽は古びないけど、物語はすぐに古びるじゃないすか。50年前に書かれた小説を読むと「古めかしいなあ」と思うのに、50年前に書かれた音楽なんてまだまだ古びてないどころか新しすぎて「現代音楽」とか言われちゃう(いったい何世紀生きるつもりだっ!)。だからオペラの命を保つためには、どうしたって演出家の工夫が必要になる。読み替えでも、登場人物像に新たな視点を与えるでも、新奇な舞台装置を導入するでも、なにかしないと、「今日は昨日の繰り返し」で作品は劇場から博物館へと向かってしまう。
●とすると、裏返すとオペラで最速で古びるのは演出ってことになるのかも。この壮麗な舞台。これぞローマ。ポネルの演出はいつのものなんだっけ。当時は燦然たる輝きを放っていたであろうものが、今は強く過去を想起させる。そしてオペラ的演技のオートマティズム。
●「皇帝ティートの慈悲」はモーツァルトのなかでも特にアンバランスな作品だと思う。しばしば「機械仕掛けの神」に頼るこの時代のオペラ、物語に筋が通っていないくらいは当たり前にしても、それにしてもマッツォラの台本は破綻している。エンディングひとつとっても、あれなんにも解決してないし。「めでたしめでたし」ってみんな喜んでるけど、どうするの、セストとヴィッテリアは。おまけに作品全体が「上目づかい」なんすよね。明白に権力者をヨイショ。市井の人々が慈悲深き皇帝の苦悩に共感できるだろうか。でも音楽はこの上もなく美しい瞬間にあふれている。クラリネット協奏曲やピアノ協奏曲第27番みたいな澄み切った抒情が横溢する。こんなに次々と聴きどころがあらわれていいのかっていうくらい。そして年齢的にはまだまだ若いのに、枯れていて、覇気がないともいえる。「イドメネオ」とか「後宮からの誘拐」の頃はあんなにはじけていたのに、すっかりおとなしくなってしまって……。
●今回のプロダクション、ハリー・ビケット指揮のオーケストラがいい。いつにもまして歯切れよく生気に富んでいる。ビケットはMETオケをリスペクトしているようで、自分のやり方で染め上げようとしているわけじゃないんだけど、それでも十分カラーは出ている。
●「皇帝ティートの慈悲」のセストって、あまりにも愚かで、もしかすると被虐の喜びに浸るタイプの人なのかなって気がする。だからヴィッテリアとの相性はばっちり。しかしセストごときに容易に火を放たれてしまうローマの警備体制はどうなのか。ティートは己の寛大さに酔うナルシストで、この手合いは暴君と紙一重でもおかしくない。あるところで慈愛プレイに飽きて、「全員、猛獣に食わしちゃいなさい!」と豹変するような邪悪さを内に秘めている……と想像しながら鑑賞すると、このオペラは少しスリリングになる。