●30日、「東京・春・音楽祭」の秋の特別公演としてリッカルド・ムーティ登場。秋の春祭。オケは矢部達哉コンサートマスターを筆頭に、在京オケ首席奏者クラスを中心に活躍中のプレーヤーたちが集った東京春祭特別オーケストラ(メンバー表)、合唱は東京オペラシンガーズ。2日間開催される1日目へ(すみだトリフォニーホール)。
●同じ音楽祭でムーティを招いてオルフ「カルミナ・ブラーナ」を演奏したのは3年前かな? 今回のヴェルディでも同じことを感じた。ムーティの全身から発散されるオーラの強さ、エネルギッシュな若々しさ。オーケストラから普段は耳にしないような、輪郭のくっきりした鮮烈なサウンドが引きだされる。情感豊かで、金管もまろやか。最初の「シチリア島の夕べの祈り」序曲から客席は沸いていた。続いて「シチリア島の夕べの祈り」のバレエ「四季」。ムーティがこの曲を日本で指揮するのは何度目? 以前スカラ・フィルでも聴いたっけ。後半もオペラからの聴きどころが並び、「ナブッコ」の「行け、わが想いよ、黄金の翼にのって」(合唱が秀逸!)と「ナブッコ」序曲で終わる。
●「カルミナ・ブラーナ」のときと違うのはこのプログラム構成かな。最後は「ナブッコ」序曲でこれだけ大きな表現ができるのかと圧倒される一方で、なにか充足するには「あと一つ」が続くべきような気がして、モゾモゾする。アンコールが続くのかと思ったところで、ムーティは客席から花束を受け取って、おしまい。うむむ、そなの? 今日、もう一公演あるので、そこでアンコールがあるのかどうかは気になるなあ。
●ほぼ日本人プレーヤーのオケのなかで、ティンパニはステファン・ペレグリが招かれていた。サイトウ・キネン・オーケストラにも招かれていて、リヨン国立管弦楽団の奏者みたい。「カルミナ・ブラーナ」のときはベルリン・フィルのゼーガースを呼んでいた。キモ、なのか。
News: 2013年10月アーカイブ
東京・春・音楽祭 特別公演「ムーティ conducts ヴェルディ」
さらにノリントン&N響のベートーヴェン
●先週26日、ノリントン&N響へ(NHKホール)。この日はオール・ベートーヴェン・プロ。「レオノーレ」序曲第3番、ラルス・フォークトのソロでピアノ協奏曲第3番、交響曲第5番「運命」。協奏曲はこれまでと同様、独特の配置。舞台中央にピアニストが客席に背中を向けて座り、その奥の左手にノリントンが立つ(いや、椅子があるから座る、か)。オケのなかに指揮者がいて、客席側に斜めに顔を見せる。ピアノの左右に第1ヴァイオリンと第2ヴァイオリンがともに斜め45度くらいの角度をつけて舞台奥を向いて座る。放射状配置とでも名付ければいいのか。
●フォークトは精妙なタッチで、モダンピアノの機能性を最大限に発揮した豊かで繊細な響きの芸術を披露してくれた。ピュアトーン仕様のノリントン・スタイルとの異種格闘技なんだけど、ピアノとオケとの対話性は抜群にあって楽しい。アンコールにショパンのノクターン第20番嬰ハ短調。
●後半の「運命」は倍管編成で視覚的にも壮観。第1楽章が終わったところで、ノリントンは客席に向いて「あれ?拍手はしないの?」とばかりに手を叩いてみせる。ピリオド聴法推奨(笑)。そして、あちこちに仕掛け満載ですべてがびっくりシンフォニーになるノリントン節炸裂。真摯な芸術表現には笑いが必要なのだなあ。客席は盛大に沸いた。執拗なブーが推定一名、しかしブラボーの声が圧勝。近くの席から「ブラボーとは叫べないんだけど、どうにかして感動を伝えたい」という感極まったオジサンの「ウヒョ~~~」みたいな繊細な呻き声が聞こえてきたが、気持ちはよくわかる。ノリントンはまた両手を広げてドヤ・ポーズ。
NMLに参集するレーベルたち
●ちょうど一か月前、ナクソス・ミュージック・ライブラリーに Harmonia Mundi が加わった。どんどんと登録アルバムが増えて、今日の時点でちょうど(?)512枚ものアルバムが聴けるようになっている。さすがHarmonia Mundiというお宝ラインナップで、恐るべきインパクト。こんなにあっても聴けないっていうくらい。
●実をいえば、英語版のNaxos Music Libraryでは、さらに強烈なことになっていて、なんと、先月からSony Classicalが参加している。やはり、こうなったのね……。ついに英語版ではメジャー・レーベルのなかで唯一ユニバーサル・ミュージックだけが参加していないという状況になった。Naxosが廉価盤専門レーベルとして日本に上陸した頃のことを思い出せば、まったく隔世の感がある。
●かつてのレコード・ファンは「最初の一枚」から出発して、それが二枚になり、三枚になり、十枚になり、百枚になり、千枚になり……とライブラリを構築していったわけだけど、定額制音楽配信時代では、まず最初の一歩が「数万枚」になるわけだ。そこから、自分の好きな音楽を探し出す旅に出る。たとえば作曲家の時代やレーベルで大ざっぱな好みを見つけて数千枚に絞り、そこからあれこれ聴いてどうやらこのあたりがおもしろいという数百枚を選び、猛烈に好きな数十枚を発見し、そして一生付きあいたい数枚に出会う、という逆のプロセスをたどることになるのかもしれない。
METライブビューイング2013-14「エフゲニー・オネーギン」
●11月2日よりMETライブビューイングの2013-14シーズンが開幕。「映画館で観るオペラ」という新たなエンタテインメントがすっかり定着した感がある。開幕に先立ってオープニングのチャイコフスキー「エフゲニー・オネーギン」の試写へ。
●ネトレプコのタチヤーナ、クヴィエチェンのオネーギン、ベチャワのレンスキーとMETの看板スターがずらりとそろった豪華な陣容、指揮はゲルギエフ。このオペラの抒情性がよく伝わってきた。ネトレプコ、大きくなったなあ……(?)。1幕の田舎娘タチヤーナと3幕の公爵夫人となったタチヤーナを演じ分けるという点では見事。デボラ・ワーナーの演出はかなり穏健。1幕の舞台は田舎の裕福なお屋敷という雰囲気がよく出ていた。ロシアでもあんな感じなんすかね、どことなく日本の田舎も連想させる。タチヤーナの少女時代ってすばらしく恵まれていると思う。
●で、このオペラ、ついネトレプコに目が行くが、題名役はクヴィエチェンのオネーギンのほうだ。「エフゲニー・オネーギン」ってダメ男オペラなんすよね。オネーギンとレンスキーの二人は、対照的な方向に極端なダメ男。オネーギンはなにもしないで財産だけ手にして、ぷらぷらと遊び呆けて一丁前の男を気どっているが、気がつけば仕事もしなけりゃ家族もいないし生きる目標もない、ただ無為な人生を送って年を重ねてしまっている。レンスキーは満たされた少年時代を送り、親からあてがわれた幼なじみと愛しあっているようなフォースの暗黒面を知らない温室育ちで、それゆえに未熟でつまらない嫉妬で決闘を申し込んで尊い命を失う大バカ者。このオペラの秀逸なところは、二人の男はこんなにも違うのに、両者に対して痛々しいほどの共感を抱けるところだろう(男性なら)。
●3幕で描かれるオネーギンの惨めさほど、悪意に満ちた表現がオペラにあるだろうか。作者にとっての苛めてやりたいキャラ、ナンバーワン。とにかくこの場面を描きたかったんだな、って思うもの。ほれほれ、こうしてやる、こうしてやる、この辱めを受けなさいっ!ヒヒヒヒヒ、みたいな。
オーケストラ・ワールド・シリーズ ~ ボストン交響楽団vsセントルイス交響楽団
●今年のメジャーリーグのワールドシリーズはボストン・レッドソックスvsセントルイス・ カージナルスの古豪対決。で、こんな動画が上がっていた。Orchestral World Series ボストン交響楽団vsセントルイス交響楽団。なんと、BSOのほうにはレッドソックス親善大使のわれらが小澤征爾がサプライズ出演! 34番のユニで登場だ。
●いや、ワタシは野球はぜんぜん見ないんすけど、今年はレッドソックスの上原浩治の大活躍があって少し気になっている。どうして球速がないのに、あんなに完璧なクローザーが務まるのか。
●サッカー・ファンから見ても、このボストン響とセントルイス響のノリは少しうらやましい。楽団員の野球ファンっぷりがなんだかサマになっている(ように見える)。なにより小澤征爾がレッドソックス・ファンでスタジアムに通ってたってのはみんな納得できるもの。ホントはスタジアムになんか縁がないのにたまたまそこの音楽監督やってた人が出てきました、みたいなのとはぜんぜん違う。
「現代のピアニスト30 アリアと変奏」 (青澤隆明著/ちくま新書)
●「現代のピアニスト30 アリアと変奏」 (青澤隆明著/ちくま新書)をむさぼるように読んでいる。最近、こんなに読みごたえのある演奏家論を手にした記憶がない。取りあげられているピアニストは30人。グールドは例外だが、あとは現役のピアニストたちだ。ポリーニ、アルゲリッチから、ユジャ・ワン、ポール・ルイス、エマール、シュタイアーまで。しかし、これはよくある「ガイド本」でも「入門書」でもないんすよ。そうではなく、真正面から著者が挑んだ評論集。こんな企画が今の新書で成立するなんて。そのピアニストを聴いたことがない人へのガイド機能なんて、潔く放棄されている。30人の内、大半は自分も多少なりとも関心を寄せるピアニストなので、実に興味深い(特に最近の人)。ああ、この人の音楽はこんな風に聴くことができるんだ!と発見に次ぐ発見がある。触発される。
●これまでに著者がこれらのピアニストに対して行ってきたインタビューや会話などの取材体験も大いに生かされているのだが(取材力の高さがはっきり伝わってくる)、しかし演奏家の肉声は必要に応じて適切に散りばめられているにとどまっていて、このあたりのバランスは絶妙。つまり、肉声は貴重だけど、でも普通のインタビュー集だったら本としてはぜんぜんおもしろくないわけで。で、最大の魅力は著者の文体。評論の価値の少なくとも半分は文体にあるとワタシは固く信じているので、心地よい修辞に彩られた青澤さんならではの文体を存分に味わっている。
●ちなみにワタシが著者の青澤さんと初めて話をしたのは、ナントの「ラ・フォル・ジュルネ」を訪れたとき。その際の取材経験も本書のブルーノ・リグットの項で生かされている。で、そこで知ったんだけど、氏の名前は「隆明」と書いて「たかあきら」って読むっていうんすよ!(聞いてないのに、なぜか本人がカミングアウトしてくれた)。ゴメン、ずっと「たかあき」だと思ってた。
ラザレフ&日フィルのスク3→ノリントン&N響のブリテンとベートーヴェン
●19日は思い切ってダブルヘッダーを敢行。14時からラザレフ&日本フィルへ(サントリーホール)。お目当てはスクリャービンの交響曲第3番「神聖なる詩」だったのだが、前半の曲目がチャイコフスキーのバレエ組曲「眠れる森の美女」と武満徹の「ウォーター・ドリーミング」。となれば、これは「夢」プログラムなのでは。スクリャービン作品の闘争→快楽→神聖な遊戯という標題に明示的に「夢」は登場しないが、作品全体を司る冒頭主題が作者の壮大な夢想への誘いとして聞こえてくる。夢想っていうか妄想だけど。「眠れる森の美女」の冒頭からいきなりラザレフ流の熱風が吹き込む前のめりチャイコ。怪作スク3は難物だとも思わされたが、作品のキモカッコよさは存分に伝わってきた。ステキすぎる。
●ラザレフほど指揮しながら客席とコミュニケーションをとる指揮者はいない。指揮しながら、客席を向いて「ここ、聴きどころだから!すばらしいでしょ?」みたいに教えてくれる。で、曲が終わるとクルッと客席を向いてドヤ顔というのが得意技。
●18時からはNHKホールでノリントン&N響。休日の原宿はいつにも増して大勢の若者たちで賑わっていた。ドトールコーヒーに行列ができてしまう戦慄の街飽和状態。ノリントンのプログラムは前半にベートーヴェン「エグモント」、ブリテンの「夜想曲」(ジェームズ・ギルクリストのテノール)、「ピーター・グライムズ」から「4つの海の間奏曲」、後半にベートーヴェンの交響曲第8番。前半が圧倒的に長い。で、どちらかといえば、主役はブリテンだったと思う。ギルクリストの澄んだ声と来たら。ニュアンス豊か。「夜想曲」、伴奏のオケは一管編成なんすね。「4つの海の間奏曲」もノリントン節炸裂で、これも(新しい曲なのに)ノン・ヴィブラート。聴きなれた演奏とは違うが、また違った美しさがあり。
●この日も弦は対向配置で、後ろに仮設の反響板を使用(編成の大きな「4つの海の間奏曲」でもそのまま使われた。そうするしかないんだろうけど)。これはかなり効果的なのでは。で、後半のベートーヴェン8番。これまでベートーヴェンには倍管編成を採用することが多いノリントンだけど、この曲は通常の編成だった(この曲の初演は倍管で……ってのはどうでもいいか)。小気味よく軽快、作品にあふれるユーモアを全面に押し出す。1楽章でも2楽章でも、終わるところで客席を向いて「ほら、これ、おかしいね」という表情を見せる。終楽章は猛速テンポで痛快。最後はクルッと客席に向いて決めポーズでドヤ顔フィニッシュ。ああ、それさっき日フィルのラザレフでも見た! なんと一日で二回も指揮者の「回転ドヤ」を見ることになろうとは。どうしよう(どうもしません)。
●ノリントンはカーテンコールの度に何度も「どうだー!」と両手を広げる決めポーズをとって、客席の笑いをとっていた。それじゃまるで「モンティパイソン」にでも登場しそうな指揮者ですよ……。サー・ロジャー、偉大すぎる。このポーズは、たぶん先日のBプロでロバート・レヴィンがやっていたのをノリントンが気に入って連発しているんじゃないかと思うんだけど、どうなんでしょ。
ジョナサン・ノット&東響、マレイ・ペライア
●台風が来たり、ベラルーシvsニッポン戦の録画がたまってたりするのだが、まずは13日から。サントリーホールでジョナサン・ノット指揮東京交響楽団へ。ノット新音楽監督就任発表後、最初の顔合わせでR・シュトラウス・プロ。「4つの最後の歌」(クリスティーネ・ブリューワー)と「アルプス交響曲」。ノットは日本でポストを持つことを新たな旅にたとえていたけど、旅路はアルプス登山から始まった。見たこともない絶景を見せてくれる一大スペクタクルというよりは、一歩一歩眺望を楽しみながら満喫する山歩き。壮麗で抒情的な「アルプス交響曲」で、東響の響きのパレットに新たな色彩が加わった感も。ただ、これはまだ第一章にすぎないはず。旅はこれから。来年4月は就任披露としてマーラーの9番他。
●15日はすみだトリフォニーホールでマレイ・ペライアのリサイタル。しかし台風が近づいている。予報によれば関東でのピークは深夜から明け方だろうから、帰宅する頃までは電車も問題なく動いているはずと見て、土砂降りのなかを出かける。ペライア、嵐を呼ぶ男っていう感じではないんだけど。前半にバッハのフランス組曲第4番とベートーヴェン「熱情」、後半にシューマンの「ウィーンの謝肉祭の道化」、ショパンの即興曲第2番、スケルツォ第2番。さすがに台風を避けた方も多いのか客席は空いていたが、その分、熱心なお客さんたちによって客席は沸いた。特に後半を堪能。詩情豊かではあるんだけど、意外にハイテンションでドラマティックで、やっぱり嵐を呼ぶ男なのかも。アンコールにショパン3曲。終演後は急いで帰宅、途中でどんどん風が強くなってきて、あと少し台風の速度が速かったら危なかったかも。と思っていたら、若いカップルが大はしゃぎしながら強風のなかを走っていた。台風、楽しそう。
●今ちょうどルプーも来日中なんすよね。ペライアとルプーがばったりホテルで出くわしたという話を聞いて、だったら二人でモーツァルトの2台ピアノのためのソナタを弾いてくれんかな、と軽く妄想する。→懐かしのジャケ、二人とも若い。
東フィルのヘンツェ、チパンゴ・コンソートのコレッリ、北村朋幹リサイタル、セルビアvsニッポン戦
●10日は沼尻竜典&東京フィルのヘンツェ・プロ(オペラシティ)。ピアノ協奏曲第1番(小菅優p)日本初演と交響曲第9番。半世紀近い時を隔てた2作品が演奏された。「第九」は合唱付きの大作で、ゼーガースの小説「第七の十字架」を題材とする。演奏のクォリティの高さもあってきわめて雄弁で激烈な音楽が出現していた。小説の筋立てにかなり沿った楽章構成を持つが、残念ながら作品を読んでいないのと(どんな小説かは知っている。おっと、「読んでいない本について堂々と語る方法」を思い出す)、反ファシズムというテーマに感じる距離感もあってか、切実な共感をもって作品に近づくところにまでには至らず。古典として音楽のみで伝えられる抽象化された劇的表現だけで聴き通すには新しすぎる、か?
●11日は近江楽堂でチパンゴ・コンソート(杉田せつ子vn、懸田貴嗣vc、桒形亜樹子cemb)。平日14時開演で、コレッリの「ヴァイオリンと通奏低音のためののソナタ」作品5の前半。全12曲をこの日と12月16日の2回にわたって取りあげる(第2回は通常通りの夜公演)。曲によってトネッリによるリアリゼーション譜を用いたり、ヴァイオリンとチェロのみで演奏したりと、趣向に富んでいた。親密な空間で生気にあふれたコレッリをひたすら堪能。ぜいたくすぎる。ワーグナーとヴェルディだけではない、没後300周年のコレッリ・イヤーを記念して。
●12日はトッパンホールで北村朋幹リサイタル。今もっとも聴きたい若いピアニスト。1991年生まれ(ああ、90年代生まれって!)。考え抜かれたプログラム。シューマン「森の情景」、シューマンの諸作に触発されたホリガー「パルティータ」より「舟歌」、ベートーヴェンのソナタ第14番(幻想風ソナタ)op27-2「月光」、休憩をはさんで、ベートーヴェンのソナタ第13番(幻想風ソナタ)op27-1、バルトーク「野外にて」。テーマは森と幻想といったところか。前半はすべて切れ目なく演奏されたが(客席も幸い協力的?だった)、冒頭の「森の情景」の空気がシューマンを超えて、ホリガー作品に、さらにベートーヴェン、バルトークに染み出てゆく。最後のバルトーク「野外にて」は、第2曲「舟歌」でホリガーの「舟歌」を、第4曲「夜の歌」でベートーヴェン「月光」を、第5曲「狩」でシューマン「森の情景」を受ける、といったように伏線を回収する。豊かな詩情が全作品にあふれ、リサイタル全体で一つの作品を聴いたという手ごたえ。情感や節度、物語性の表出といった面で音楽は揺るぎなく完成されている。そして詩人はどこまでメカニックを求められるのか、という問いが頭をかすめる。
●12日夜になって、ようやく代表戦を録画観戦。アウェイで開催されたセルビアvsニッポン。セルビアの監督は一時期現実離れしたほどフリーキックのゴールを決めていたミハイロヴィッチ。この試合はセルビア側からするとスタンコヴィッチの引退試合でもあって、前半11分にスタンコヴィッチが退いて、両軍選手が花道を作るという代表戦では珍しい場面が見られた。ニッポンの陣容はGK:川島-DF:内田、吉田、今野、長友-MF:長谷部(→細貝)、遠藤-岡崎(→ハーフナー・マイク)、本田、香川(→乾)-FW:柿谷(→清武)。この先発組が今のザック・ジャパンのレギュラー選手。ザッケローニはいろいろな選手を試すけれども、ワントップ以外はすっかり固定された序列ができあがっている。
●試合結果はセルビア2-0ニッポンで完敗となったが、スコアほど悪い試合だったとも思えず。すでにW杯予選敗退となっているセルビアだが、選手の能力はきわめて高い。アウェイで戦えば相当ゲームを支配されるかと思えばそうでもなく、意外とニッポンの時間帯もあったなという印象。ただ、数少ない決定機をしっかり決められてしまった。2点目はアディショナルタイムで前がかりになったところのカウンターなので。
●乾、ハーフナーは出場時間が短すぎて、ほとんどなにもできず。しかし中盤の長谷部&遠藤体制がこんなにも長く固定化されるとは。ザッケローニにしてみれば、一度できあがったものをこんな段階で作り直すはずがない、ってことなんだろうけど。
●ガゼッタ・デッロ・スポルトにW杯後の次期イタリア代表監督最有力候補としてザッケローニの名が挙がっているとか。大いにありそう。
ノリントン&NHK交響楽団のベートーヴェン
●9日はノリントン&N響定期へ(サントリーホール)。痛快すぎるベートーヴェンに笑いが止まらず、心のなかで。 グルック(ワーグナー編)の「アウリスのイフィゲニア」序曲で幕を開け、ロバート・レヴィンの独奏でベートーヴェンのピアノ協奏曲第2番。以前の協奏曲でもそうだったように、今回も配置が独特。ピアノはピアニストの顔が客席を真正面に向く方向で中央に置かれる。その周りを弦楽器奏者たちがぐるりと囲む(対向配置)。指揮者はピアニストのすぐ下手側に立ち(いや、座り)、アンサンブルの輪の中に入る。コントラバスは最後列中央に横並び。客席から見るとピアニストは正面を向いているし、指揮者は斜め45度くらいで客席側を向いているし、ヴァイオリニストたちは斜め45度くらいで舞台奥を向いていて、客席に半ばお尻を向けて座っている。
●レヴィンは風貌からしてもいかにも学者なんだけど、ステージ上では弾けまくる。第1楽章では見事な自作カデンツァを披露。で、第1楽章が終わったところで、ノリントンがレヴィンに向ってニコニコしながらパチパチと拍手した! 楽章間の拍手を率先して自ら実践する指揮者を始めて見た。続いて、客席からもパラパラと拍手が起きた。いや、もっと盛大に手を叩くべきなのかも。客席もピリオド聴法で応酬だっ!
●レヴィンはアンコールにベートーヴェン「7つのバガテル」op.33から第7番変イ長調。両手を大きく広げてドヤッ!とブラボーにこたえる姿が味わい深い。オッシャー!とか言ってそう。
●後半の交響曲第6番「田園」はさらに仕掛け満載のビックリ箱状態。今回も倍管仕様で大編成。ピュアトーンである以上に、あちこちに聴いたことのないような表情が飛び出してきて猛烈に楽しい。第2楽章はサイズ控えめで、各弦楽器たぶん1プルトずつ休ませて前後楽章の響きとコントラストを作る。鳥のさえずりシーンの生々しさといったらなかった。ノリントンの非凡なところは、こんなにヘンなのに音楽の流れに淀みがなく、精彩に富み喜びにあふれているところ。ユーモアの偉大さを感じる。第5楽章の輝かしさなんて、これまでどんな「田園」にも聴いたことのないもの。
●常にステージ上で見せてくれるノリントンの上機嫌さ。これには敬服するしか。
オペラシティ B→C 155 太田真紀
●8日夜は東京オペラシティのB→Cで太田真紀(ソプラノ)リサイタル。シェーンベルクで始まり、バッハのカンタータBWV199、ダッラピッコラ、酒井健治「私は他人である Ⅲ」初演、細川俊夫「声とアルト・サクソフォンのための3つの愛のうた」を経て、シェルシの「山羊座の歌」(1962-72)から、というプログラム。ピアノ新垣隆、アルト・サクソフォン大石将紀(スゴすぎる)、エレクトロニクス有馬純寿。シェーンベルクの古典性とバッハの犀利さが際立つB→Cならではのプログラムというか。声の持つ表現の多様性、色彩感に圧倒されながらも、最後はシェルシの怪作。首にかけたゴングを鳴らしてあらわれる歌手の姿は祭司のようにも道化のようにも見える。特殊唱法を駆使しながら言葉にならない言葉が歌われ、交話的な音楽であるはずなのに、そこから意味や文脈を汲み取ることは絶望的に困難。真摯さと笑いは常にコインの表裏をなしていることを改めて実感する。意味は剥奪されるけれども、表現はきわめて雄弁という、先駆的ポストモダン。
●ところでシェルシといえば、この作品でもコラボレートしているソプラノ歌手平山美智子さんの名前がまっさきに挙がる。たぶん20年くらい前に、平山美智子さんに「音楽の友」誌のためにインタビューをしたことがあったを思い出した。どういうきっかけだったかぜんぜん思い出せないんだけど、ごく小さなインタビュー記事を作ることになって、当時編集部員だったワタシはたまたま氏のCDを持っていたので自分で話を聞くことにしたような……。まだインターネットもなにもない時代だったから、自分を筆頭にみんなが暗闇のなかで手探りしているようなものだったなと、軽く思い返す。
東京交響楽団&ジョナサン・ノットの2014年度シーズンラインナップ記者会見
●8日はミューザ川崎で東京交響楽団の記者会見へ。新音楽監督ジョナサン・ノット臨席のもと、2014年度のシーズンラインナップが発表された。ノットは4月、6月、12月、3月と4回来日。就任披露は4月の武満徹「セレモニアル 秋の歌」とマーラーの交響曲第9番だが、その前に、この週末、10月13日(日)にサントリーホールでR.シュトラウスの「4つの最後の歌」と「アルプス交響曲」が演奏される(同じプログラムで翌10月14日にりゅーとぴあで新潟定期あり)。期待大。
●ジョナサン・ノット「明日のリハーサルでこのミューザ川崎の音響を初めて体験できるのが楽しみ。このオーケストラと私の絆を深め、自発的で自然な音楽づくり、そしてメッセージの込められた音楽を作っていきたい。私が成し遂げたいことはシンプル。音作り(ソノリティ)と柔軟性(フレクシビリティ)。自分たちの生み出す音に常に注意して、音が一小節ずつ変化し、作品ごとに変化させられるように柔軟性を身に着けなければならない。自分たちの限界を探りながら、最初の一年を楽しみたい」
●シーズンラインナップを一瞥しても、ずいぶんスダーン時代とは変わるなという印象を受ける。ノットはマーラー、シューベルト、ブルックナー、ワーグナー、ブラームスの独墺系ロマン派~後期ロマン派作品を中心に、ベルク、武満、ブーレーズの新しめの作品も添える。売出し中の首席客演指揮者ウルバンスキ(まだ若いけどベルリン・フィル定期への出演も決まっている)は東欧の作曲家中心で、来年10月のキラール「クシェサニ」&ルトスワフスキ「管弦楽のための協奏曲」プロが異彩を放っている。
●以前の会見でも感じたけどノット氏は人を引きつける話し方をする人だと思う。セレモニー向けオートマティズムの枠でしゃべるのではなく、一言一言が自分の言葉、自分の表現になっている。
SONYのMusic Unlimited、その後
●以前にもチラッとご紹介したが、SONYの定額制音楽配信サービス Music Unlimited を利用すると、ユニバーサルやSONY、EMIなどメジャーレーベル音源もストリーミングで聴くことができる。しばらく継続利用してみて感じたことをいくつかメモ。
●まず、サービス開始時点では音声フォーマットがHE-AAC 48Kbpsの一択だったが、現在ではAAC 320kbpsの高音質モードが加わっている。HE-AAC 48Kbpsについてはいろいろな見方があると思うが、なんといっても48Kbpsという数字の小ささが引っかかった。この高音質モードができて、ようやく使う気になった。
●さらに価格も当初の1,480円/30日間から、980円/30日間に値下げ。CDを買うことに比べれば、タダみたいなものだ。もっともそんな発想は長年ディスクを購入してきた旧来の音楽ファンだけのものであって、今は有料サービスは無料サービスと比較しての優位が求められることになるのかも。YouTubeでタダで聴けるのに、どうしてお金を払うの?的な。
●で、このサービス、使いやすいかといえば、ぜんぜん使いやすくない。現在、PC上のブラウザから利用しているが、アプリケーションの起動が遅いし、もっさりとしたインターフェイスにはややストレスを感じる。プレイボタンやポーズボタンをクリックしても何秒も待たされる。再生中に突然落ちたり強制ログオフしたりしてアプリケーションが再起動することもある。検索機能も弱い。ベートーヴェン「運命」の第3楽章と第4楽章の間のように複数トラックがつながる場所では、盛大にギャップ(空白)が発生する。ギャップレス再生ができないのはナクソスも同じだが、Music Unlimitedのギャップはほとんど耐えがたく長い。マシンパワーが高ければもっとさくさく使えるのかもしれないが、どうだろうか。
●そんな次第で、現状ではナクソス・ミュージック・ライブラリーのほうがはるかに先を進んでいるし、使いやすい。ただ、それでもMusic Unlimitedに価値があるのは、メジャーレーベルの音源が入っているからに尽きる(検索は欧文で)。鑑賞するというよりは確認用というか調査用みたいな感じの使い方になりがちとはいえ、このサービスに助けられたことはすでに何度もある。激しく一長一短のあるサービスだが、もはや手放せないものになりつつある。
NHK音楽祭でオーギャン&N響「ワーグナー・ガラ・コンサート」
●2日はNHK音楽祭でフィリップ・オーギャン&N響による「ワーグナー・ガラ・コンサート」。当初ペーター・シュナイダーの指揮が予定されていたが、健康上の理由により来日できなくなりオーギャンに。ソプラノにエヴァ・ヨハンソン、テノールに日フィルのワーグナーでも大活躍したサイモン・オニールが登場。「ワーグナー・ガラ」といっても、前半に「パルジファル」からと「トリスタンとイゾルデ」の前奏曲と「愛の死」があって、後半にたっぷりと「神々の黄昏」ハイライトを置くという重量級プログラム。思わぬ形で「神々の黄昏」ハイライトをがっつりと楽しめて嬉しい。鳥肌が立つ。
●さすがにNHKホールの広大な空間とよく鳴るオーケストラと対抗する歌手陣は大変。ヨハンソンは声量はスゴいんだけど……。サイモン・オニールの美しい声をもっと聴きたかった気も。「神々の黄昏」は途中で死んじゃうしなあ。
●字幕はないので、どちらかといえば大交響曲「神々の黄昏」を聴いた気分なのであるが、しかし「神々の黄昏」の音楽の偉大さに対して、この物語のなかにおけるジークフリートのダメ男っぷりにあらためて思いを馳せる。すっかりハーゲンの策略にひっかかり、「忘れ薬」でブリュンヒルデを忘れグートルーネに求愛し、情けないことに隠れ頭巾でグンターになりすまし、ブリュンヒルデに偽装求婚する。あげくにあっさりハーゲンに殺される。便宜上、ワタシらはジークフリートを英雄を呼ぶわけだが、彼はノートゥングを鍛えたくらいであとはなにもしていない。代理プロポーズをさせられるドジッ子英雄。悲しい。先日の「レヴィ=ストロースと音楽」にあったように、「ジークムントは失敗した試みとして、ジークフリートを先取りしている」のであり、これはヴォータンの失敗とアルベリヒの成功が生み出した結末なのだ。
ハーゲン・クァルテットのベートーヴェン
●トッパンホールで開催中のハーゲン・クァルテットのベートーヴェン弦楽四重奏曲全曲シリーズ。2月の前編に続いて、今回は後編、その二日目へ。前回は聴き逃し、今回もこの一日だけ。表現の幅を拡大化して、崖っぷちを全力疾走するみたいなエクストリーム・ベートーヴェンに感嘆。前半の作品18の2曲、第2番ト長調と第4番ハ短調からすでに巨大な音楽になっていて、「ハイドンの影響下にある初期作品」という通り一遍の認識を改めさせられる。時代様式を意識して作品のスケールを原寸大にして相対的に楽想の大きさを描き出すという方法論とは正反対の、中期のドラマティックな様式を初期作品に外挿するかのような巨大さの表現。機能性の高さのうえにルーカス・ハーゲンが持ち込む過剰さ、饒舌さ。ピリオドでもモダンでもなく、これがポストモダン。とか、テキトーなことを言ってみる。後半は第14番嬰ハ短調。激越と幽玄のなかに倦厭も垣間見る。
●前半から皇太子殿下がご臨席。開演時はお客さんがほぼ入ってから静かに入場されたので前方の席からは気づかなかったかも。終演時、カーテンコールが続いた後に客電がつき、殿下が退場されるときに、いつものように客席から拍手が起きた。微妙にカーテンコールの拍手とつながってしまったので、舞台にはもう一度ハーゲン・クァルテットのみなさんが登場してくれた。混ざりあう殿下への拍手とハーゲン・クァルテットへの拍手。心のなかで呟く。真・一般参賀?