●春じゃないけど「春の祭典の祭典」ということで、二日連続でストラヴィンスキーの「春の祭典」を聴く、2台ピアノ版とオーケストラ版で。
●24日はアリス=紗良・オット&フランチェスコ・トリスターノのピアノ・デュオ・リサイタル(すみだトリフォニーホール)。ラヴェルの「ボレロ」(トリスターノ編)と「ラ・ヴァルス」、トリスターノ自作、ストラヴィンスキー「春の祭典」他のプログラム。公演ポスターや二人の新譜「スキャンダル」のジャケ写を見ても伝わるように、この二人、猛烈にカッコいい。なので会場内のお客さんにもイケてる感じの若者たちが大勢。実際、カッコいいんすよ、二人とも。ステージでのふるまいも通常のクラシックとは一味違うカジュアルさがあって、そうだよな、われわれが普段聴く公演はセレモニーで過剰に埋め尽くされているのかもしれないよなと痛感。生のステージなんだから、アーティストのスター性を目にしたいと思うもの。逐一カーテンコールを繰り返さないのも吉。
●「ボレロ」はトリスターノがいきなり内部の弦をはじいてリズムを刻みだして意表をつかれる。えっ、それずっと一人がやってるのはもったいなくない?と思うが、さすがにそんなことはなく。トリスターノの自作は「ア・ソフト・シェル・グルーヴ」組曲。今日的「ラデツキー行進曲」と呼びたい観客参加系。2台ピアノの「春の祭典」は、五管編成の原曲から厚塗りの色彩と極大のダイナミズムをはぎ取ったワイヤーフレームの「ハルサイ」。意匠を凝らすというよりは、直線的な推進力で一気呵成に弾き切る、眩しく勢いのある「春の祭典」で、会場はわきあがった。アンコールに連弾でモーツァルトの4手のためのピアノ・ソナタ ニ長調の第2楽章。ちなみに二人ともずっと譜面を自分でめくっていて、ところどころ非常にスリリングな早業でめくることになるんだけど、これもステージの一部なんだよなと感じる。譜面は置くけど、譜めくりは置かない、というのが大吉、広く一般に。
●その翌日、25日はヤクブ・フルシャ指揮東京都交響楽団(東京芸術劇場)。オネゲルの「パシフィック231」、バルトークのピアノ協奏曲第3番(ピョートル・アンデルシェフスキ)、ストラヴィンスキーの「春の祭典」という魅力的なプログラム。前半のアンデルシェフスキがすばらしすぎる。綿密にうたわれた清冽なバルトークだけでも充足できたが、アンコールにバルトークとバッハの2曲を演奏して、あたかもリサイタルのような雰囲気に。フルシャもオーケストラの中で座ってじっと聴き入っていた。やはり現在活動するピアニストのなかでもこの人は特別な存在なんだなと感じる。後半「春の祭典」は都響の機能性が最高度に発揮された緻密な演奏で、オーケストラの巧さに圧倒される。洗練されたサウンドだけど、コントラストの強い鮮烈な表現で、この作品を聴く喜びを存分に満喫。一公演で二公演分、楽しんだような気分。
News: 2014年6月アーカイブ
春の祭典の祭典。アリス=紗良・オット&フランチェスコ・トリスターノ、フルシャ指揮都響
ワールドカップと併行してオーケストラ・ウィーク
●すっかりサッカー漬けになっているようでいて、それでも演奏会には足を運んでいるのであった。この一週間に聴いた公演から。
●まず、ジョナサン・ノット&東響の2公演。14日はサントリーホールでブーレーズの「ノタシオン」1~4(管弦楽版)、ベルリオーズの歌曲集「夏の夜」(メゾ・ソプラノ:サーシャ・クック)、シューベルトの「ザ・グレイト」というプログラム。プログラム構成からしてノット色全開。「ザ・グレイト」もさることならがら、前半の充実度がきわめて高かった。多種多様なパーカッションを含め、楽器群の響きのバランスが美しく制御された「ノタシオン」と、独唱とオーケストラが溶けあって絶妙な色調を作り出す「夏の夜」が、一本線でつながる。メゾ・ソプラノのサーシャ・クックは、ジェニファー・ラーモアの代役だったんだけど、よくこんな人をつかまえられたなと思うすばらしさ。情感豊かで、声量もあるけど無理がない。空席が多かったことだけが惜しい。
●21日、ふたたびジョナサン・ノット&東響を聴きに東京オペラ・シティへ。こちらは盛況。バッハ~ウェーベルンの「6声のリチェルカーレ」、藤倉大の「5人のソリストとオーケストラのためのMina」、ハイドンの交響曲第44番ホ短調「悲しみ」、ブラームスの交響曲第4番ホ短調。やはりノットならではのプログラムで、選曲を目にしただけでワクワクする。藤倉作品のソリストはフルート、オーボエ、クラリネット、ファゴット、ハンマーダルシマーの5人。Minaとはなにかと思ったら、作曲当時生まれたばかりの藤倉さんの娘さんの名前だそうで、新しい生命の誕生にインスピレーションを受けて作られた作品。ソリストたちは赤ちゃん、オーケストラはそれを見守る両親といった見立てがされている。赤ちゃん特有の気まぐれさというか、なにか大人からはわかり難いロジックで複数の異なる感情やプレ思考的なものがそれぞれ併行して進んでいる様を、5人ものソリスト群から想起する。ハイドン、ブラームスは、前週のシューベルトと同じように、前任者スダーンのスタイルとはかなり異なって、輪郭のくっきりした明快な音楽。弾力に富んだリズムと推進力が吉。
●20日はサントリーホールで円光寺雅彦指揮の読響。ヴァレリー・アファナシエフのソロでモーツァルトのピアノ協奏曲第9番「ジュノム」と同じく第27番、交響曲第31番「パリ」他。アファナシエフはフォースのダークサイド全開、異様に引きつける力の強い戦慄のモーツァルト。モーツァルトにしてはかなり強いタッチがベースになっていて、強弱の幅をたっぷりととったなかで変幻自在の音色を聴かせる。モーツァルトを超越したなにかの芸術。特に「ジュノム」が印象的。禍々しさを祓うかのように最後に置かれた「パリ」で、一転して豊麗で健やかなモーツァルトを堪能できたのもよかった。
●18日はサントリーホールでアシュケナージ指揮N響。シベリウスの組曲「恋人」(ラカスタヴァ)、グリーグのピアノ協奏曲(中野翔太)、エルガーの交響曲第1番。エルガーにひたすら圧倒される。エルガー特有の高貴さ、高揚感、輝かしさ。大変な熱演だった。ゲスト・ヴィオラ首席奏者に元ベルリン・フィル首席のシュトレーレ。
エンリコ・オノフリ&オーケストラ・アンサンブル金沢定期公演
●12日は石川県立音楽堂でエンリコ・オノフリ指揮オーケストラ・アンサンブル金沢定期公演。羽田から小松空港へ飛んだが、北陸新幹線が開通すれば電車のほうが実質的には速くなるので、この空路はもう使わなくなるはず。なにしろ県立音楽堂は金沢駅の目と鼻の先。
●オノフリがOEKに登場するのは今回が2回目。前回はヴァイオリンを常に弾きながらアンサンブルをリードする形だったが、今回は前半はヴァイオリンを持ってヴィヴァルディ、後半は指揮台に上ってモーツァルト&ハイドンの2部構成。森麻季さんがヴィヴァルディ「グリゼルダ」の「2つの風にかき乱されて」他を歌ってくれた。前半のヴィヴァルディも精彩に富んでいたが、後半のハイドン「軍隊」が圧巻。やりたいことを存分にやったかのようなピリオドなスタイルで、この作品が作曲当時の文脈で持っていたであろうキャッチーな派手派手しさがよく伝わってくる。アグレッシブで躍動感にあふれたハイドン。作曲者がザロモンのオーケストラでついに手にしたフル装備の2管編成+軍楽隊ギミックが、いかに巨大なものだったことか。もっと指揮者としてのオノフリも聴きたくなる。客席の反応も非常によく、まれにみる大成功だったのでは。LFJに初登場したときのディヴィーノ・ソスピロとのモーツァルトを思い出した。
コパチンスカヤ週間
●10日はトッパンホールでパトリツィア・コパチンスカヤのヴァイオリン。同ホールの前回公演では無伴奏プロだったが、今回はピアノにコンスタンチン・リフシッツ。前半にC.P.E.バッハの幻想曲嬰ヘ短調Wq80、シマノフスキの「神話―3つの詩」Op.30、シェーンベルクの幻想曲Op.47という「ファンタジー」プロ、後半にプロコフィエフのヴァイオリン・ソナタ第1番。スリリングかつ獰猛なリリシズムを満喫。憑依妖精コパチンスカヤ。闊達で開放的なリフシッツのピアノはかなりキャラクターが違うが、プロコフィエフではうまく相互作用して大きな音楽が生み出された。この曲、ほかのプロコフィエフの戦後作品と同様にいまひとつ苦手だったんだけど、はじめて心底すばらしいと思えたかも。前半シェーンベルクもあたかもコパチンスカヤのための作品のよう。アンコールはなし。
●8日はNHKホールでN響定期。指揮はアシュケナージ、ソリストにコパチンスカヤのロシア・プロ。グラズノフの交響詩「ステンカ・ラージン」で始まり、続いてプロコフィエフのヴァイオリン協奏曲第2番。一瞬にして客席を引きつけるコパチンスカヤの強烈なパーソナリティが、3600席の巨大なNHKホールでも伝わることを確認。冒頭のソロからコパチンスカヤ劇場開始で、鋭利で濃密なプロコフィエフに。この日も裸足で演奏。アンコールにはホルヘ・サンチェス=チョンの「クリン」を弾いてくれた。発声しながら(ときには奇声をあげながら)ヴァイオリンを弾く短い作品なんだけど、演奏中もなんどもどっと笑いがこぼれて、客席からめったにないくらい生き生きとした反応が返ってきた。これは前回のトッパンホール公演でも弾いた曲だけど、トッパンのお客さんはこういう作品にも慣れているのか、演奏中はじっと静かに聴いて、終わったところではじめてドッと笑ったのを思い出す。後半はがらりと世界が変わって、チャイコフスキーの「くるみ割り人形」第2幕。組曲で聴く有名曲の大半が入っていて、おまけにそれ以外にも親しみやすい曲がいくつもあって、無尽蔵のメロディメーカーぶりを感じさせる。ひきしまった演奏で、組曲版では味わえない充足感があった。
ラザレフ&日本フィル記者会見「ラザレフが刻むロシアの魂 Season3 ショスタコーヴィチ」
●遅ればせながら、3日の日本フィル記者会見について(ANAインターコンチネンタルホテル東京)。首席指揮者アレクサンドル・ラザレフ、平井俊邦専務理事他が登壇して、9月から始まる新シーズン「ラザレフが刻むロシアの魂 Season3 ショスタコーヴィチ」について抱負を語った。ラザレフと日本フィルはすでに3月にショスタコーヴィチの交響曲第7番「レニングラード」を演奏しているが、これに続くショスタコーヴィチ・シリーズとして、10月には交響曲第4番、来年3月にピアノ協奏曲第2番(イワン・ルージン)と交響曲第11番「1905年」、来年6月に交響曲第8番が演奏される。「交響曲第15番までの交響曲がすべて詰めこまれている」という先見的な交響曲第4番、「プロパガンダの音楽ではなく他の傑作同様、深い音楽である」という交響曲第11番「1905年」、前作第7番とは異なり「オプチミズムも勝利もない」交響曲第8番という3作の選択が興味深い。
●「交響曲第4番は(演奏が)難しい作品。難しいというか、超難しい。しかし日本フィルはリハーサルが大好きなのです。私がもう今日はこのくらいにしたいといっても、楽員たちはお願いだからもっとリハーサルをしてくださいと懇願するのです」と語って笑いを取るラザレフ。ラザレフは一分もムダにしない精力的なリハーサルで知られている。
●質疑応答のなかで披露されたラザレフの昔話がおもしろかった。「モスクワ音楽院の学生だった頃、ショスタコーヴィチは音楽院の近くに住んでいた。学生たちはだれもがショスタコーヴィチを深く尊敬していたけれど、ベートーヴェンのような遠い存在ではなく、いつもそこにいる身近な存在だった。音楽院のホールでは前から6列目にショスタコーヴィチの指定席があった。5列目と6列目の間の通路は広かったので、大柄なショスタコーヴィチも足を伸ばして座ることができた」
●「60年代に、カラヤンとベルリン・フィルがモスクワにやってきて、ショスタコーヴィチの交響曲第10番を演奏した。チケットの入手はきわめて困難。チケット売り場に長蛇の列ができていたが、先頭に割り込んで、無理やりお金を渡してチケットを奪った。後ろからものすごい力で引っ張られて、振り返ると大柄な女性だった。君はすごい力持ちだねと称えつつも、チケットは手放さなかった」
●「ゲネプロを見学していると、ショスタコーヴィチ本人があらわれた。ベルリン・フィルの団員たちはリハーサルそっちのけで、ショスタコーヴィチと写真を撮り始めた。ラザレフにとってはいつも見かける姿なので、なぜそんなに撮影するのか不思議に思った。ベルリン・フィルはすばらしかった。オーケストラの演奏の質は高い。しかし、カラヤンのドラマトゥルギーは細切れであまりよくなかった。演奏会は拍手喝采で終わった。全員が立ち上がってショスタコーヴィチに向かって拍手をすると、カラヤンはショスタコーヴィチをステージに上げた。客席の反応はすさまじく、今までに見た一番の成功だったが、演奏はムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィルのほうがおもしろかった。そこが音楽の興味深いところだ」
エンリコ・オノフリ・ヴァイオリン・リサイタル
●7日はエンリコ・オノフリのヴァイオリン・リサイタルへ(石橋メモリアルホール)。共演は杉田せつ子(ヴァイオリン)、桒形亜樹子(チェンバロ、オルガン)。「趣味の混淆」の題が添えられ、ヴィヴァルディ、コレッリ、テレマン、バッハ、ルクレール、ビーバー、生誕300周年を迎えたC.P.E.バッハと、バラエティに富んだ曲目。クープランの「趣味の混淆または新しいコンセール集」第14番第1曲を幕開けの音楽として、切れ目なくヴィヴァルディの「ラ・フォリア」へ。共演者との丁々発止の応酬によるスリリングな変奏曲。続く曲目でも、鮮やかな技巧、雄弁で歌にあふれたヴァイオリンを満喫。テレマンの2つのヴァイオリンのための「ガリヴァー組曲」は以前にも同コンビで聴いたユーモラスというか、コミカルな曲で実に楽しんだけど、今回はプログラムの最後に置かれたC.P.E.バッハのトリオ・ソナタ「陽気と憂鬱」もかなりおかしい。2台ヴァイオリンにそれぞれ対照的な「役柄」を与えるという点ではテレマンの終曲にも通じていて、「陽気」を奏でる第一ヴァイオリンと「憂鬱」を奏でる第二ヴァイオリンの芝居がかった対話?が愉快。ニールセンの交響曲第2番「四大気質」とか、ヒンデミットのピアノと弦楽オーケストラのための「4つの気質」とか、四大気質を題材にした作品があるじゃないすか。古代ギリシア時代の人間の気質の分類である、多血質、胆汁質、憂鬱質、粘液質の4つの気質。C.P.E.バッハは、そのなかの多血質(陽気)と憂鬱質(憂鬱)の2つを選んでトリオ・ソナタ「陽気と憂鬱」としたわけだ。広義の「四大気質」名曲の一曲として覚えておこう(笑。ほかにも何かあったっけ?)。
●オノフリのトレードマークとなりつつある自身の編曲によるバッハ「トッカータとフーガ」ヴァイオリン独奏版を今回も披露。演奏中に「パン!」と大きな音を立てて、弦が切れた。これにまったく動じることなく、客席に事情を説明してから袖に入って、5分ほどで再登場。この日は、別会場の公演でシギスヴァルト・クイケンの弦も切れたとか。延々と雨が降り続く梅雨の東京。ガット弦には厳しい季節なのか。
●オノフリはこの後、金沢へ。12日(木)のオーケストラ・アンサンブル金沢定期公演に出演する。前半はヴィヴァルディ、後半はハイドン「軍隊」他のバロック&古典派の2本立て。モダン・オケ相手のハイドンでどういう指揮をするのか楽しみなところ。お近くの方はぜひ。
ネゼ=セガン&フィラデルフィア管弦楽団のモーツァルト&マーラー
●最初に名前を聞いたときは「なんて覚えにくい名前なの」と絶句したヤニック・ネゼ=セガン。でも近年の八面六臂の活躍ぶりでもうすっかり名前を覚えた。すらすらと口から出てくる。どうしても覚えられない方は心のなかでネゼッチっと呼ぶが吉。
●3日はサントリーホールでヤニック・ネゼ=セガン指揮フィラデルフィア管弦楽団へ。モーツァルトの交響曲第41番「ジュピター」とマーラーの交響曲第1番「巨人」。ようやく実演に接して、これまでベルリン・フィルDCHやCDで漠然と感じていたネゼ=セガンのキャラクターがくっきりと像を結んだという感じ。特にモーツァルトが特徴的で、次から次へといろんなアイディアを繰り出して、まるで即興的に生み出されたかのような音楽を作り出す。反面、一貫性がなくて落ち着かないという気も。才気煥発としていることはたしか。
●楽しかったのは後半の「巨人」。輝かしくて若々しいマーラー。精緻というよりは、勢いがあってのびやか、オケの音色も明るい。小柄なネゼ=セガンのアクションがどんどん大きくなって、最後はブレーキが利かないまま猛進してゴールに突入したかのよう。大喝采の客席にこたえて、アンコールにバッハ~ストコフスキの「小フーガ」。フィラデルフィア管弦楽団の財産とでもいうべきレパートリーで、これはさすが。録音ではそんなに聴きたい曲ではないんだけど、実演だと各奏者の腕自慢的な要素もあって胸がすく。
●すぐれた指揮者には意外と小柄な人が多い。筆頭はレナード・バーンスタイン。実演で目にしたとき、なによりもその背の低さが衝撃だった。あんなに出てくる音楽は大きいのに。
ベルリン・フィルの自主レーベル「ベルリン・フィル・レコーディングス」記者会見
●3日午前はザ・キャピトルホテル東急で「ベルリン・フィル・レコーディングス」の記者会見へ。すでに当ブログではお伝えしているが(該当記事)、ベルリン・フィルもついに自主レーベルをスタートさせることになった。第1弾はラトル指揮による「シューマン/交響曲全集」。音楽CDに加えて、ブルーレイディスクによる映像とハイレゾ音源、さらに高スペック(192kHz/24bit)のハイレゾ音源ダウンロード用コードなどがぜんぶセットになった豪華仕様である。しかも布張りハードカバー。日本国内ではキングインターナショナルが発売することになった。国内仕様のパッケージには9000円(税抜)の価格が添えられている。
●会見に出席したのは、ベルリン・フィルのソロ・チェロ奏者でありメディア代表のオラフ・マニンガー(写真中央)とベルリン・フィル・メディア取締役のローベルト・ツィンマーマン(右)、そしてキングインターナショナルの竹中善郎代表取締役社長の各氏。ベルリン以外でこのような会見を行うのは日本だけ、しかも彼らはこの会見のためだけに来日している。というのも「日本とドイツだけがCDやDVDをお店で買うという伝統的な買い物スタイルが健在だから」(ツィンマーマン氏)。「日本人もドイツ人と同じように、製品を物として楽しみたい、所有する喜びを大切にしている。だから、持つことが楽しくなる商品を作った。単なるCDではなく、ブルーレイディスクの映像とハイレゾ音源を用意し、さらにデザインにも非常にこだわった。カバーデザインはオリジナルの創作磁器花瓶でシューマンをモチーフとしている。決して今回が最初のリリースだからこのような特別な作りになっているわけではない」(マニンガー氏)。なお、8月にはLPバージョンもリリースするとか。
●気になる今後のリリース予定だが、8月にセラーズ演出、ラトル指揮のバッハ「ヨハネ受難曲」と「マタイ受難曲」(新デザイン)のブルーレイビデオ/DVD、10月にアーノンクール指揮のシューベルト交響曲全集のCD+ブルーレイ・オーディオ+ダウンロードが発売される。
●サイモン・ラトルはビデオメッセージで登場。「レコード業界は変わりました。今後、どのように発展するのか、見通しがつきません。メジャーレーベルの社員の顔は毎週のように変わります。レコーディング・ビジネスの今後はとても不透明です。ニューヨークに行けば、タワーレコードがなくなったことに気づくでしょう。根本的な変化が起きています。そんな状況でなにをすべきか。わたしたちは自分自身で舵を取らなければいけません。つまり、自ら録音をリリースする。われわれは自分たちで責任を担うことに決めたのです」「今後音楽はデジタル・コンサートホールに見られるように、どんどんネット経由になるでしょう。映画をオンデマンドで見るのが普通になったように」
●かつてのレコード会社の会見などでは、あたかもインターネットがこの世に存在しないかのようにふるまわれることもなくはなかったが、ラトルのビデオメッセージからも伝わるように、ベルリン・フィルはきわめて現実的かつ未来志向だなということを強く感じさせる会見だった。CD、ブルーレイからハイレゾ・ダウンロード、果てはLPまで全部提供する。もちろん、それ以前に彼らの「デジタル・コンサート・ホール」があるわけで、単に聴きたい/見たい人は、もう何年も前から格安でデジタル・コンサート・ホールを楽しんでいるわけだ。パッケージ商品は単に聴きたい/見たい人以外のためのものになりつつある。たとえば超高品質であるとか、コレクターズアイテムとか、他人へのプレゼントとか、コンサートの記念品だとかといったように。
サントリーホールで古代祝祭劇「太陽の記憶 卑弥呼」制作発表記者会見
●2日はANAインターコンチネンタルホテル東京で、サントリーホールの古代祝祭劇「太陽の記憶 卑弥呼」制作発表記者会見。札幌コンサートホール、福岡シンフォニーホール、サントリーホールによる共同制作で、11月にこれら3つのホールで上演される。作曲・指揮・台本は菅野由弘さん。菅野さんと歌舞伎の中村福助さん(演出を担当)、ヴァイオリンの大谷康子さん、三味線の常磐津文字兵衛さんの出会いから生まれた企画で、洋楽から邦楽、舞踊など異ジャンルで活躍する人々のコラボレーション。
●古代祝祭劇といわれてもイメージはなかなかわかないが、もちろん卑弥呼時代の音楽を再現しようとしたものではなく、興味をひくのは洋の東西や時代を超えた楽器群がアンサンブルを組んでどんな音が出てくるのか、という点。ヴァイオリン、チェロ、コントラバス、パイプオルガン、パーカッションの洋楽器勢と、三味線、笙、能管、尺八、琵琶、筝、十七絃らによる和楽器勢のアンサンブルを、作曲の菅野さんは「ありえたかもしれない日本のオーケストラ」と表現していたのがおもしろかった。つまり、西洋のオーケストラの楽器もそれぞれ起源をたどれば西洋の外から伝来したものなので、空想上の日本のオーケストラとして、こういった編成だってありえたというアイディア。さらに声明も加わる。卑弥呼役は中村児太郎さん。休憩を含む120分の作品で、現在作曲中。
●大谷さんの「菅野さんは〆切を守る人。むしろ〆切よりだいぶ早くなる方なので安心しています」という演奏家の立場からの一言がおかしかった。
ファニー・クラマジラン・リサイタル、ラザレフ&日フィルのスクリャービン&ラヴェル
●30日はヴァイオリンのファニー・クラマジランのリサイタルへ(トッパンホール)。クラマジランを最初に聴いたのは、たぶん2009年のLFJ金沢。そのときプレス向けのプチ会見にもピアニストと一緒に顔を出してくれて、初々しい雰囲気で受け答えをしてくれたのが記憶に残っている。で、今回はピアノをヴァニヤ・コーエンが務めるはずだったのだが、なんと、当日朝に急病により出演できなくなるという事態に。急遽代役として呼ばれたのが広瀬悦子さん。過去にもたびたびクラマジランとは共演していたとか。よくそんな人がつかまったと思う。
●しかも、プログラムも前半は曲目変更なしでプーランクのヴァイオリン・ソナタ、武満徹「妖精の距離」、ドビュッシーのヴァイオリン・ソナタが演奏された。後半のサン=サーンスのヴァイオリン・ソナタ第2番とブルーノ・マントヴァーニ「ハッピー・アワーズ」(これはソロの曲なんだけど)は、フォーレのヴァイオリン・ソナタ第1番に変更。緊急事態にもかかわらず、元のプログラムが可能な限り保存されたことに驚く。ジェットコースターに途中から飛び乗ったようなものだろうに、広瀬さんは切迫した状況を完璧に乗り切った。スゴすぎる。クラマジランの外見に反してたくましく力強いヴァイオリンとともに満喫。フォーレは両者ともに予定外の演目になったわけだけど、スリリングで気迫がこもっていた。
●31日はラザレフ指揮日フィル(サントリーホール)。スクリャービン・シリーズの一環で、リストの交響詩「プロメテウス」、スクリャービンの交響曲第5番「プロメテウス」(若林顕ピアノ)、ラヴェルの「ダフニスとクロエ」第1&第2組曲(晋友会合唱団)。スクリャービンの「プロメテウス」は本来「色光ピアノ」という音と色彩効果が連動する楽器を使用することになっている。実際にはそんな楽器は調達できないので、かつてアシュケナージ&N響やLFJでのリス指揮ウラル・フィルが演奏した際には独自の照明演出を加えることでスクリャービンのアイディアを生かそうとしていたが、今回はそういった趣向は一切なし。純器楽作品としての「プロメテウス」。こうして裸になった状態で聴いてみると「法悦の詩」の続編という印象。いかがわしさは大幅に後退する。
●むしろ後半のラヴェルがおもしろかった。驀進するラヴェルというか、土の香りがするようなワイルドなラヴェル。合唱が入る部分で「プロメテウス」との同質性が漂ってくる。フォースの力で曲を書いたラヴェルと、フォースのダークサイドで作品を生み出したスクリャービンというか。曲の終わりはラザレフが指揮台でくるりと回転して客席を向いて決めポーズをとる、おなじみのドヤフィニッシュ。さらにアンコールとしてボロディン「だったん人の踊り」が演奏され、これも「ダフニスとクロエ」の「全員の踊り」に照応する。前半のスクリャービンの暗黒世界とうってかわって、後半は爽快な音の饗宴に。